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「飛び立つ子供の羽を強めたい」

子供たちに無償で英語を教え続ける

 越川 茂子 さん

 「これまで、周囲の人たちに助けていただいた。自分にできるのは英語を教えさせてもらうことくらい」―。

 浦安市内で英語塾、さらに総合学習塾を経営した後、英語をもっと得意にしたいと願う子供の力になろうと、中学2年生を対象にした「お助け英語スペシャルクラブ」を無償で開き、5年目を迎えた。「『オレ、できるぜ』って英語で自信をつけて、ほかの教科、そして、生きる自信に結びつけてほしい」という思いが原動力。来年2月ごろからは、「世界をリードしていける、海外でバリバリ仕事ができる力を子供たちにもたせたい」と、中学生向けの英会話教室を無償で開く予定。

 思ったことを表現する力も欠かせない―と、子供たちに接するときには一人一人に言葉をかけ、思いを引き出そうとしている。時折口にする、関西出身者ならではの「アホやなー」の言葉の奥にも温かみがある。

 大学を卒業して30数年、懸命に生きてきたからこそ、「子供たちの可能性、飛び立っていく子供たちの羽を強めてやるのが、大人の役目」と胸に刻む。

 (2010年12月18日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 


「子供たちの能力を伸ばすため」

博報賞の受賞につながる美術鑑賞ソフトを開発

 橋本 時浩 さん

 聴覚支援学校の美術教員となって25年以上。初めは「コミュニケーションがとれずに戸惑った」。しかし、生徒との関係を手探りで続けるうちに、「聞こえない子たちの驚くべきやる気の高さ」を発見。「彼らの能力を伸ばすために、自分にできることもあるのでは」と教壇に立ち続ける51歳。

 赴任当初から「作品を鑑賞しながら説明したり、感想を言い合ったりできない」という課題を感じていたが、当時は生徒との意思疎通を図るのに手一杯。しかし、やりたいことは必ずやり遂げようとする生徒たちを見ているうちに、「自分に限界を設けるのはやめよう」と思うようになった。

 平成17年にこの課題を解消するソフトを開発。授業で使うと「子供たちが素直に喜んでくれた」。その反応に勇気付けられ、「もっと内容を濃くしよう」と、現在でも機能の拡充を図っている。

 「教え子が、美大生や美術の教員になるなど、できないと思われている壁を乗り越えてくれた時」が最もうれしい瞬間。「いつか教え子たちと一緒に展覧会でも開けたら」と、真っ白なキャンバスにほのかな夢を思い描く。

 (2010年12月11日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 


「着実な成長で『世界』を制す」

相撲の世界選手権で中量級優勝

 伊東 良 さん

 市川市出身の24歳。相撲の世界では「身長175㌢㍍、体重110㌔㌘と小柄」なため、「立ち会いからスピードで一気に攻める」押し相撲を得意とする。今大会でも、準決勝まで押し出し、突き出しが決まり手。「自分の得意な形に持っていけた」と勝因を挙げる。「世界選手権は最も重要と考えていたので本当にうれしい」と初出場で初優勝という快挙を喜ぶ。

 小学1年生のときに母親の勧めで市川市相撲クラブに入会。当初から「ほかのスポーツと比べて成績が良かった」ことから、相撲の魅力にのめり込み、中学、高校にも相撲の推薦で進学した。とはいえ「稽けいこ古が厳しくて、合宿所から逃げ出したい」と思ったこともしばしば。しかし、大学2年生で学生の全国大会を制すと、同3年生でアジア大会、大学院1年生で世界大会を制すなど、着実にステップアップしている自分を確認するたび、弱気な心が打ち消された。

 現在は日体大大学院で、相撲部の選手兼コーチとして進化を続けるが、卒業後は指導者への道を思い描く。その門下生から「横綱でも出れば夢のようですね」。新たな土俵で夢の続きを確かめる。

 (2010年12月4日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 


「日々、面白いことを見つける」

浦安を舞台にした小説『カルテット!』の作者

 鬼塚 忠 さん

 鹿児島生まれの45歳。「行動力は人一倍」で、22歳のとき「男だったらひと旗揚げたい。それには英語力が必要」と決意するやいなや、大学を休学して世界に飛び出した。悟りを開こうとインドに行くなど、6年間で約40か国を巡るヒッピー旅行。「海外に出たことで、日本が井の中の蛙かわずだと分かった」。その経験はいまでも財産だ。
 
 バブル期の日本を目にして「人生楽勝」と放浪を楽しんだはよいが、帰国時は就職氷河期。それまでに培った海外経験と英語力をもとに、海外書籍の翻訳版権を扱う企業に何とか就職を果たした。すると、作品プロデュース業で頭角を現し、平成13年に日本人作家のエージェント会社を起業。多くのヒット作を手がけた。成功の秘けつは「日々面白いことを見つけていくこと。真面目にやっていても成功するとは限らない」。遊び心と好奇心をモットーにしている。
 
 平成14年からは自らも筆を握る。『カルテット!』は5作目で、浦安を愛する自身にとって、念願の作品。浦安在住歴は5年。目下の夢に「入船の家をついのすみかにすること」を掲げる。

 (2010年11月20日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 関連記事


「難しいことをうまく伝えたい」

性感染症予防の啓発活動で日本医師会の最高賞を受賞

 秋山 龍男 さん

 父親が開業した産婦人科医院を継いで約50年。60歳を過ぎたころから分ぶんべん娩はやめたが、82歳のいまでも現役の医師として診療を続けている。「患者の顔を見て、触れ合って人間関係を育む」ことが開業医の魅力。現在、最も希望者が少ないといわれる産婦人科医。過去には思い出したくないような記憶もあるが、「辞めようと思ったことは一度もない」と振り返る。

 性感染症予防の啓発活動を始めたのは、日本人初のエイズ感染者が確認された後の平成5年ごろ。日本中がエイズにおびえる中、エイズの正しい知識を普及させようと、多い年では年間30~40回の講演を行ってきた。

 2年ほど前に、子宮頸けいがんワクチンの講演を聴きに行ったところ、「医師である自分でさえ難しくて分からなかった」。そこで「偉い研究者より、常に人と接している自分の方がうまく伝えられるのでは」と考え、子宮頸がんについても独自に学び始めた。

 「常に好奇心を持ち続けていたい」と成長はまだまだとどまらない。無償の啓発活動を今後も継続しながら、「できる限り医師を続けたい」とさらなる高みを目指す。

 (2010年11月20日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 


「人のきずなも強める防犯活動」

防犯活動が全国で高い評価を受けた猫実4 丁目自治会長

 大塚 義教 さん

 自治会独自の防犯活動が全国規模で評価され、警察庁長官名で、団体最高位の「防犯功労団体」表彰を受賞。晴れの舞台で名前を呼ばれて心くすぐられたが、「通過点。防犯活動が終わった訳ではない」と、すでに「生活の一部で当たり前」の活動に勤しみ続ける。
 
 活動は、のぼりを立て、看板を取り付けた独特の軽トラックで行うパトロールと、屋形船型の山車で子供たちと一緒に行う自治会防犯デーのイベントで、ポイントは「見せる、聞かせる」パトロール。区域内30か所に設けた立て看板も「防犯意識が強いまち」を物語る。
 
 パトロールは最初から一年365日、一日3回だったわけではない。区域内のマンションで空き巣事件が発生。「肝いっちゃった」という〝まちを守る思い〟が沸騰し、活動を厚い布陣にした。
 
 「人のにおいがする、大好きな浦安・元町。先人、先輩が築き上げてきたものを受け継いで、守っていきたい」という65歳。活動中交わすあいさつ、親同士が世間話をする中で子供を紹介し合い、子供も知り合いになる関係。防犯活動が人と人を結びつける〝強いきずな作り〟の役割を果たしている。

 (2010年11月13日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 


「未来を見据え組織運営を改善」

60周年を迎えた市川市卓球連盟理事長

 大崎 忠彦 さん

 平成10年の理事長就任以来、署名活動を通じて国府台市民体育館の照明設置に貢献したほか、ホームページの立ち上げ、大会参加申し込みにかかる経費の節減などに取り組み、連盟の運営を大幅に改善。そのほかにも市内の卓球用品を扱うメーカーと協議して各社の冠大会を創設するなど、大いに手腕を発揮した。

 選手としても60年近いキャリアをもつ71歳。「どんな大会でも年齢などの細かいランク分けがあるため生涯楽しめる」と卓球の魅力を語る。昭和50年にレフェリーの資格を取ると、「選手のプレーが一番近くで見られる」という新たな魅力を発見。国際審判員の資格も有するいまでは、「一流選手のラケットをチェックできる」ことを陰ながら楽しんでいるという。

 創立当時、各学校から卓球台をかき集めて大会を開いていた同連盟が、いまでは歴史や規模でみても市内有数のスポーツ団体へと成長。しかし、「役員は高齢化している」と今後への不安も隠せない。「協力がなければやれなかった」といまの役員に感謝しながら、「若い人に次の世代を引っ張っていってほしい」と未来を見据える。

 (2010年11月6日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 


「市民の暮らしを良くするために」

市川市市政戦略会議初代会長

 栗林 隆 さん

 市のあらゆる施策に民間の意見を取り入れようと、1日に発足した同会議。前身ともいえる同市行財政改革審議会の会長を4年間務めた実績から、初代会長に抜擢された。本職は千葉商大商経学部の教授で、専門は財政学。「市民の暮らし向きを少しでも良くするために、ブルドーザーのような馬力で挑む」と鼻息は荒い。
 
 市民のためなら「基本的に行政がいくら大変になろうと関係ない」と言い切る。同審議会でも骨の折れる作業を行政に要請して担当課に嫌な顔をされることもあったが「お飾りで座っているわけではない」と意に介さなかった。
 
 きょうとあす行われる事業仕分けが事実上の初陣となるが、「税収が右肩下がりの中で、市民のニーズをいかにしてくみ取るか」が最大のテーマ。民意を代弁する委員たちには「恐れずにぜひ積極的な意見を」「何でも本音で話してほしい」と声をかけ、市民参加の主旨を貫く会議運営を目指す。
 
 行政への協力などで常に慌ただしい毎日を送るが、もちろん教育者としての本分も忘れない52歳。「70歳の定年まで現役で教きょうべん鞭をとること」が目下の目標。

 (2010年10月23日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 


「悩む当事者の数を減らしたい」

精神障害者地域当事者会「なんなの会」運営委員長

 武藤 光政 さん

 時に柔和な笑みを浮かべ、話す言葉に違和感もないが、そんな58歳も統合失調症という病を抱える当事者の一人。「精神障害はほかの病と同じで誰にでも起こりうる」と話す言葉には現実味がある。

 21歳の時に交通事故に遭い1年間入院。退院後は、高校卒業以来離れていた実家での生活を余儀なくされた。「体が動かないことと親との軋あつれき轢が大きなストレス」を生み、23歳のころから「幻聴と誰かに監視されているような感覚」に悩まされるようになった。そのため父の勧めで専門の病院に入院。以来入退院を繰り返し、延べ13年強を病院内で過ごしてきた。

 8年入院した市川市内の病院を退院後、平成元年に出合ったのが「なんなの会」。当事者などで構成するこの会には「包み隠さず何でも話せる」安心感が満ちていた。

 同会で活動した約20年間で、病状は投薬と月1回の通院で済むまでに回復。現在は会の運営に励む傍ら、講演会場に何度も足を運んで精神障害について学んでいる。会を通じて「一人で悩む当事者の数を減らしていく」とともに、「問題が根深くなる前に周りが気づける環境」の必要性も訴えていく。

 (2010年10月16日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 


「『超えたい』父に一歩近づく」

県のナシコンテストで農林水産大臣賞を受賞

 田中 総吉 さん

 約300年前に始まった農家でナシ生産に励む8代目。経営を引き継いでからは、屋号「与佐ヱ門」を使って宣伝販売に取り組むなど、活躍の幅を広げている。

 母が病で倒れたことを機に前職を離れ、11年前から本格的に経営を継いだ。初めは休みが不規則な上、会話のない労働に「心も体もストレスで大変だった」。そんな折に常連客から「味が落ちた」と指摘され、「どうにもできないほど落ち込んだ」と当時を振り返る。

 しかし、この言葉をきっかけに「父の真似だけではダメ」と積極的にナシについて学ぶようになった。あれから10年。育成方法を巡って父とぶつかった回数も数え切れないが、こうした努力が県内最高のナシにつながった。「本当にうれしい。忘れられないあの記憶を少し癒してくれた」と喜ぶ。

 かつて「梨屋と思われることが恥ずかしかった」少年は、「やっと本物の梨屋に近づけたかな」とほほ笑むまでになった。だが、このコンテストを3度制した父の背中はまだ遠い。「いつか越えたい」その背中との距離を確かめつつも、「賞より一人一人に納得してもらえるナシ作り」を追求する38歳。

 (2010年10月9日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 


「全国大会出場を当たり前に…」

市川サッカークラブを全国大会に導いた監督

 浮田 経也 さん

 通っていた小学校で盛んだったサッカーを自身も3年生で始めたが、当初は「あまり興味がなかった」。しかし、中学生の時にW杯の'82年大会を初めてテレビで見て、「自分もこんなプレーをしたい」と思うようになり、以来自主トレをしたり、サッカーの本を買い漁ったりと、積極的にサッカーに取り組むようになった。

 ポジションはフォワードで、根っからの点取り屋。いまでこそチャンピオンになる第一条件に〝謙虚さ〟を挙げ、「ゴールはチームのもの」と選手を諭すが、現役当時は「自分が点を取ることしか考えていなかった」と頭をかく。

 高校の時に先輩の勧めで同クラブに入り、以来約20年間選手としてプレー。クラブに入った当初からゴールを決める度に記録していた「ゴールノート」は1000ゴールを突破した。

 監督になってまだ数年だが、創立約50年の同クラブを、全国社会人サッカー選手権大会に初めて導いた。「こういう舞台が当たり前になるようにしたい」と、さらなる高みを見据える41歳。点取り屋が、今度はピッチの外からチームをゴールへと導く。

 (2010年10月2日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 


「子供の笑顔が素敵なんだもの」

子育てサークル「スマイルキッズ」を立ち上げて10年

 山中 裕子 さん

 「みんな私の自慢の子供たち」―。市川市大町で子育てサークル「スマイルキッズ」を開いて10年。

 昭和59年から市川市の保健推進員を22年間、保健推進協議会の会長も10年間にわたり務めた。サークルを立ち上げたのはその最中の平成12年。地域の子育て家庭を巡ってママと市のパイプ役を担う中、ママと子供の交流の場でもあった4か月児健診が廃止。ママたちの「もっと集まりたい」という願いにほだされた。子供たちのために―と大町会館を月に一度、快く貸し続けてくれている自治会長には感謝の気持ちでいっぱいだ。

 サークルではママたちの自主性が大事―と運営を任せているが、忙しい合間をぬって幼い子供たち向けの手作りおもちゃを用意。おもちゃ作りの講習にも出向く。「何てったって、子供たちの笑顔が素敵なんだもの」。

 発足時0歳だった子供もすでに10歳。成長した子供が道で声をかけてくれたり、遊びに来たり、引っ越して大町から離れた子供やママから「山中さん元気?」と連絡をもらったりもする。ママにとっても、子供にとっても、心のよりどころ。

 (2010年9月25日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 関連記事


「『経験の場作り』が大人の役目」

うらやすジュニアオーケストラ音楽監督

 本庄 篤子 さん

 「世界に届け私たちのハーモニー」。いま活躍している人の場も必要だが、子供たちこそ育てたい―と音楽監督に就任。第1期生の毎週の指導に時間を注いでいる。

 東京芸大大学院を卒業し、さまざまなオーケストラと共演後、ニューフィルハーモニーオーケストラ千葉のコンサートマスターを25年間務めているバイオリニスト。ソリストや室内楽奏者など活躍の場は幅広い。浦安に住んで25年。地域への思いは熱く、子供たちに本物の演奏を聞かせたい―と市内の小学校で演奏するほか、お年寄りに楽しんでもらおうと高齢者施設でも演奏を披露する。

 楽器の練習に励む子供は多いが個人でのこと。「幅のある年齢の中で刺激し合うことで協調性が身につき、音に迫力が出るようになる」と、互いに切磋琢磨できるオーケストラの重要性を説く。

 「肌で感じられる経験をたくさんして、いろいろなことを吸収してほしい。一つのことを積み重ねる充足感も欠かせない。その機会を作ることが大人の役目」―。演奏の技術だけではなく、人間的な成長にも思いをはせて、子供たちとともに歩む。
 (2010年9月18日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 


「日本文化の国際的な窓口に...」

第1回URAYASU FESTIVAL実行委員長

 浦田 一哉 さん

 先代からのゼネコン会社の社長を務める37歳。27歳で浦安青年会議所(浦安JC)に入ると昨年度は理事長を務め、市内の人口や福祉の問題などにも関心を広げた。

 「果たしてこの活動は街づくりに波及していくのか」。JCを介して地域活動に参加するうち、疑問が生じた。「もっと浦安を一つにできるような事業が必要ではないか」と考え、持ち前の行動力を発揮して、仲間とともに市民発の同フェスティバルを発案した。

 初開催とあって不安の声も上がるが、「見据えているのは海外。立地やインフラが好条件の浦安に日本文化を集約させ、国際的な窓口にしたい」と、すでに数年後のビジョンまで思い描いている。将来、子供たちが胸を張って「おらが町にはこれがある」と言えるよう、「やるなら日本一の祭を目指す」と19日の本番に臨む。

 ゴルフやギターなど趣味は多彩。いまは、ドッグショーにも出場する愛犬の世話に没頭している。いつも自分を見守ってくれている妻に感謝しつつ、「この先も、人から『ありがとう』と言われることに率先して取り組みたい」。
 (2010年9月11日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 関連記事


「愛好家のつながりを深めたい」

市川民謡舞踊連合会初代会長

 牧野 憬耀 さん

 「近隣市には民謡舞踊の連盟や協会が必ずあるのに、市川市にはない。市内に民謡舞踊の団体はたくさんあるから、各団体の横のつながりを深めたい」と、昨年から会の発足に向けて動き出した。今年6月に創立記念発表会を開いたところ、予想をはるかに上回る約800人が来場。民謡に対する市民の意識の高さを感じ、「市民に喜んでもらえる会にしていけたら」と、会のさらなる飛躍を描く70歳。

 高校生の時、旅先の猪苗代湖でどこからともなく聞こえてきた尺八の音色に心奪われた。その時感じた「いつか自分で尺八を吹きたい」という思いはその後も消えず、20代半ばで教室に通い始めるとたちまち没頭。その後家庭を持ち、2人の子供にも恵まれたが、仕事と稽け いこ古で「家庭のことはずっと妻に任せきりだった」と苦笑する。

 現在は約40人の弟子を抱える民謡の師で、日本郷土民謡協会の名誉教授も務める。「やればやるほど難しい」と、民謡に傾ける情熱はいまだに尽きないが、「ゆくゆくは家族とゆっくり旅行に行くなど、家族への恩返しもしていきたい」。
 (2010年9月4日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 


「子供たちの『できた』の声に感動」

子供に手作りの遊びを伝えるボランティア

 阿部 幸一 さん

 「子供たちの笑顔に感動。ゾクッときます」―。市川市のこども館のうち市川と中国分、大洲、曽谷で毎月、市立市川歴史博物館では夏休みに手作りのおもちゃで遊ぶ楽しさを子供たちに伝えている。市川こども館では先日、そうめん流し器も製作した。

 8年ほど前、同博物館から要請されて昔遊びイベントに協力。その後、市川こども館からも望まれて、月に一度の子供たちとの〝遊び〟を続けている。市川こども館以外には、「おもちゃ作りの興味が深まった。たくさんの子供に楽しんでほしい」と自ら提案した。

 小さな子供たちに囲まれるこども館の工作教室では「あたしもやりたい」「ねぇねぇ、できたよ!」という声があちこちから飛んでくる。「これ、ちょっとやってごらん」。電子ゲームをしている子供も、頭の体操やバランス感覚が必要な遊びにさりげなく引き込む。

 「子供の遊ぶ姿や、日常の何気ない現象からアイデアが浮かぶ」と、30種類ほどのおもちゃのレパートリーは増え続けている。市立市川考古博物館の火起こし指導ボランティアでもある72歳。休日は、江戸川でコイ釣りに興じる。
 (2010年8月28日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 


「舞台の上は毎回が“真剣勝負”」

全国でひとり語り公演を行う語り部

 熊澤 南水 さん

 幼少時代、津軽弁をばかにされた悔しさから「将来は言葉を使った仕事に就く」と決意。21歳で結婚し、夫が経営する洋食屋の女将の仕事や子育て、義母の世話に徹しながらも、夢を温め続けた。
 
 「思い立ったが吉日」と朗読の世界に飛び込んだのは、生活がひと段落した40歳のとき。女流作家・樋口一葉の作品に共感し、全作品を暗記。舞台朗読グループなどで話芸に磨きをかけながら、公共施設などで公演していた。
 
 転機が訪れたのは、活動10年目。「やるからには満席にする」と、銀座・博品館劇場で挑んだ連続公演の成功で活動の場が全国に広がった。「舞台の上は日本刀の上に乗っているのと同じ。気を抜けばザクっとくる」と毎回が真剣勝負。「ご縁を大事にしたい」と、来場客には必ず礼状を送り、毎年出す年賀状は9000枚を超える。
 
 スーツケース一つで全国を巡る姿から「〝女寅さん〟と呼ばれるの」と微笑む69歳。公演では「女性にとって子育ては大事だが、夢をあきらめないで。念ずれば花開く」とエールを送る。これからは、寺での公演「百寺語り巡礼」の満願達成を目標に、全国で語り続ける。
 (2010年8月21日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 


「原爆経験者が語らなければ...」

市川市民代表として初めて被爆地・長崎に派遣

 井上 勇 さん

 「押し付けたくはない。しかし、二度とあってはいけない原爆と戦争を、未来を背負う子供たちに伝えたい」―。65年前の8月9日、14歳の時に長崎で被爆。九死に一生を得て、防空壕や病院、親戚宅などを転々とし、農家を手伝って食べ物や衣類などを分けてもらいながら、兄弟姉妹と身を寄せ合ってその日その日をしのいだ。

 75年間は草木も生えないといわれていた新型爆弾。被爆したことを隠す人が多い中、一切隠すことなく就職、結婚したが、「つい押し付けがましくなる」と、家庭で戦争や原爆の話をしたことはない。しかし約15年前、市川被爆者の会に誘われて入会してからは、「原爆を経験した人が語らなければ後世に伝えられない」と、当時のせい惨な実体験を熱く語り続けている。学校などで話をすると、「本で戦争を勉強したけど、話を聞くと本とは違う」と子供たちが感じ、真剣に聞いてくれる。子供たちにもっと伝えたい―と願う。

 常任理事も務めた日本写真家連盟会員で、自ら描きたい―と水彩画も始めた。書道で鍛えた達筆さで、心に残り、伝えたい言葉を書き留めるメモ帳はいっぱいだ。
 (2010年8月7日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 


「自分の経験を社会に返したい」

市川市経済対策担当理事

 相模 賢一 さん

 リーマンショックに端を発した金融危機以来、いまだ立ち直れない市川市内の経済を活性化するため、今月1日に設置された同理事。15人の応募者の中から、市内産業再生へのかじ取り役を任された。
 
 大学卒業後は、山一証券に入社し、証券マンとして25年以上勤務。同社を退社後は、こうべ証券の社長に就任し、企業提携の斡旋(あっせん)、事業再生の支援などに努めた。
 
 同理事に応募したきっかけは、人材紹介業を営む知人の勧めだが、最初は「自分にはとても無理」と拒絶。しかし「自分が培ってきた経験を社会に返していくチャンス」と思い直し、応募に踏み切った。
 
 応募の際に提出した企画書では「中小企業の誘致や、ベンチャー企業の育成」を提案。そのほかにも、「アジアからの留学生を積極的に受け入れることで、市内の若者にも刺激を与えたい」とさまざまなアイデアを胸に秘める63歳。
 
 「正直自分にどれだけのことができるか分からない」と自じちょう嘲気味に話しながらも、「世界中の経済が大混乱を起こしている中でもビクともしない都市を作れたら」と大いなる夢を描く。
 (2010年7月17日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 


「市長経験生かし文化の醸成を」

市川市文化振興財団の新理事長

 千葉 光行 さん

 生まれも育ちも市川市。昭和62年に市川市議に当選して以来、22年間に渡って地方政治の道を歩んできたが、昨年突如、市川市長引退を宣言し、市民に衝撃を与えたことは記憶に新しい。「残された時間で人や社会のために役立つことをやり遂げたい」と第二の人生に舵をきったいま、67歳を迎える。現在は妻と二人暮らし。持病の腰痛が悪化したため「ここ数年は趣味のゴルフもご無沙汰」と笑う。

 新理事長に就任したのは、前理事長・井上ひさしさんが亡くなったおよそ2か月後。市長時代には、理事長職の要請のため、井上さん宅に何度も通った。「市民が身近な芸術に触れ、わが街に誇りを持てるように」と、街かどミュージアムや街回遊展など、市民が主役の文化施策にも尽力。こうした当事者目線は歯科医のころからで、「子供には子供の目線で治療すること」をスタッフに説いてきた。

 目下は「井上先生の信念を継承し、活動を広げること」を第一に掲げ、「社会の変化が早いいまこそ文化の良さを振り返るべき。財政状況は厳しいが、市民と一緒に工夫していきたい」と市政で培った手腕で、市民文化の醸成に挑む。
 (2010年7月10日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 


「球児の未来を全力でサポート」

市川市少年野球連盟第3代会長

 吉成 好 さん

  「子供たちには夢を大きくもってほしい」と、球児たちを応援し続けて30年以上。同連盟を発足時から支え、昨年までの約15年間はすべての実務を指揮する理事長を務めた。時に厳しい顔を見せることもあるが、それもすべて「支えてくれる人たちへの感謝の気持ちを忘れないでほしい」と子供の成長を願うため。子供と野球に情熱を注ぎ続ける69歳。
  
  自身の野球経験は高校まで。その後は就職し、野球とは無縁の生活を送っていたが、息子が少年野球を始めたことをきっかけに、試合の審判などを手伝うようになり、後に発足した同連盟でも当初は審判部員として運営を支えた。
  
  理事長就任以降は、既存の役割に奔走するだけでなく、底辺拡大に向け、大会の新設などに着手。県少年野球連盟でも長年、副理事長を務めており、ほとんど休みのない日々を数十年間続けている。
  
  継続の原動力は「何事もあきらめず、夢の実現に向け努力をやめないでほしい」という子供たちへの熱い思い。すべての子供たちが大きな夢をもてるよう、今後も全力で〝球児の未来〟をサポートする。
 (2010年7月3日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 


「議員の責任かみ締めてまい進」

第62代市川市議会議長

 笹浪 保 さん

  平成3年に市川市議に初当選して以来、5期連続当選。同15年から同17年までは副議長を務めた。そして今回、公明党員としては過去に1人しか務めていない議長に選出。「慣例などにとらわれず、こうした歴史を後輩たちにもつないでいければ」と意気込む。

 出身は九州。子供のころは、「山でおやつがわりのアケビを採ったり、森で小屋を作ったり」と、目いっぱい自然と戯れていた。上京して大学に進学したころは、ちょうど学生運動の最盛期。自身が騒乱にかかわることはなかったが、「授業が開けなかったので、毎日クラスメートと激論を交わしていた」と激動の時代を懐かしむ。

 大学卒業後は会社勤めをしており、当時はまだ「議員になるなんて考えてもいなかった」。しかし、前任の議員が亡くなったことで出馬の話が舞い込んだ時には、「弱者の力になれれば」と前を向いた。

 「議会は議員全員で運営していくもの」とし、議長の役割は「議会の潤滑油」と語る61歳。「いま地方議員に課せられる使命は大きい」と一議員としての責任をかみ締めながら、「一年間、市民のために議長としてまい進する」。
 (2010年6月26日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 


「子供たちに教えながら教わる」

子供に生け花を通じて日本の伝統文化を教える

 笹木 クニ子 さん

 個性や自由な発想を尊重する生け花の流派「草月流」の師範。中学生で生け花を始めて以来、約50年という歳月を花とともに過ごしてきた。主婦業の忙しさや、夫の転勤などの関係で、生け花から離れた期間はあったが、「花がない時間は一時もなかった」。市川に越してきた平成元年ごろからは本格的に生け花の勉強を再開するとともに、教室を開くなど、生け花の普及にも努めている。

 子供を対象とする教室は、文化庁の委託事業「伝統文化こども教室」の講座を平成15年に受け持ったことが始まり。この講座は昨年度で終了してしまったが、受講生からの継続を望む声を受け、今年度からは生け花教室「菖の会」として活動を再開させたほか、数年前からは近隣小学校での出張授業なども行っている。子供たちの「固定概念にとらわれない豊かな感性」に触れることで、「自分も教えながら教わっている」とほほ笑む。

 「花を愛すことで優しい心をもってほしい」と子供たちへの思いを語る65歳。「今後も生け花をのんびりやっていけたら」とほのかな夢を抱く。
 (2010年6月19日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 関連記事


「会派を超えて合気道の普及へ」

創立20 周年を迎える浦安市合気道連盟会長

 梅田 次男 さん

 甲斐・武田に源流をもち昭和初期に生まれた現代武術で、世界中に愛好者がいる合気道。心身の鍛錬、社会貢献する人材の育成、世界平和への貢献―を主な理念に掲げる。同連盟は、最大会派の合気会と、警視庁でも採用されている養神館の2会派が、世界で唯一手を携えて活動する。

 浦安では、幼稚園児から70歳代までの愛好者が「無理なくでき、体が丈夫になる」と日々鍛錬。技を磨きながら自分と対話することで自らを変える習慣が身につき、相手の動きを利用する武術のため、自分へのこだわりが減る。「『自分はできる』、物事をプラスに考える効果もあるんです」。

 両会派がともに参加する唯一の演武大会を開いており、全国や世界から愛好者が集い、互いに心身を磨き合う。会員は大幅に増え、連盟も成長。「当初は資金もなく忙しい毎日で苦労したが、大きく発展できた」と笑顔を見せる73歳。

 家業の忙しさから道着をまとう機会は減ったが、「連盟の特徴を生かして県や国レベルの大会をいずれ開き、愛好者が活躍し、選手を育てられる場をつくりたい」と願う。
 (2010年6月12日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 関連記事


「新しく心つながる喜び持てる」

ボランティアで作曲を指導

 古屋 國忠 さん

 「ボランティアは、新しく心がつながるきっかけになる。この喜びを持ち続けられるのに、それをやめるなんてもったいない」。

 7年ほど前、知人から頼まれて始めた作曲指導。以来、子供から高齢者まで多くの人に指導し、60曲以上をCDに収めてきた。

 「音楽は、聴く人と表現する人の心が解け合う潤滑油」と、音楽をこよなく愛する68歳。すでに小学6年生の夏休みには、ノート2冊にびっしりと作曲していた。中学時代には1回の放送を聴いて男声カルテットの譜面を作成。高校時代にはたびたび作曲を頼まれるなど、早くから才能を発揮した。

 大学卒業後は、音楽指導講師や大学の講師・教授として音楽家や音楽教育家を多数育成。作曲やミュージカルの企画・制作・運営も手がけ、「心で語り合える仲間や教え子が大勢できた」。

 ここ20年ほど度重なる病で通院生活が続くが、「大勢の人が温かく見守ってくれている」と感謝し、前向きに生きる。「心のやりとりが繰り返され、より深くなることほど幸せなことはない。これからもそうあり続けたい」。いま、心から実感している。
 (2010年6月5日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 関連記事


「演奏会一つ一つ大事にしたい」

NHK交響楽団と共演する高校生

 青木 尚佳 さん

 母の勧めでバイオリンを手にしたのは2歳10か月のとき。幼いころから数々の大舞台を経験し、現在も「平日は学校と練習、土日はコンサート」と多忙な日々を駆け抜ける。「でも、地元での買い物も友達とのおしゃべりも好きですよ」と大人びた雰囲気から一転、さわやかな笑顔をのぞかせる。
 
 昨年10月には、3度目の挑戦で日本音楽コンクールの1位を獲得。2度の落選を糧に、自分の音色を成長させた結果だ。喜びも大きい一方、「いままでは追う立場だったけど…年下で上手い子もたくさんいますから」と表情を引き締め、「中途半端な演奏はできない。一つ一つの演奏会を大事にしたい」と17歳の決意を見せる。
 
 人生の大半を共にしてきたバイオリンは「生活の一部。バイオリンを通じていろいろな人に出会えたし、楽しいことが多かった。ずっと続けたい」。
 
 30日のコンサートでは、憧れのN響とステージに立ち、早くも夢の一つが実現する。「将来は海外留学をして、オーケストラや室内楽などいろいろな面で活躍できる人になりたい」。経験をステップに、可能性に挑む。
 (2010年5月22日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 関連記事


「水上での安全確保に努めたい」

江戸川水上スポーツ協会の発起人代表

 斉藤 紀幸 さん

 江戸川で船舶免許の教習などを行うMGマリーンの2代目。創業者の父に連れられて幼いころから水に触れてきたが、父の無謀な挑戦で危険な目に度々あうなどしたため、「昔は水上スポーツが好きではなかった」。
 
 しかし、大学在学中の昭和50年代半ごろに父が体を壊したため、会社を継ぐことを決意。修行のため単身渡米し、そこで出合った水上オートバイから、水上スポーツの魅力を感じ取っていった。
 
 仕事の傍ら、約30年前に日本で初めて水上オートバイを輸入し、自身もプロ選手として活躍しながら水上スポーツの普及に貢献。「いつかは自分の船で日本を一周したい」と夢を語る53歳。
 
 社長就任以来、江戸川の水上スポーツ振興に努めてきたが、「競技の枠を超えたルールがない」と不安も抱えていた。昨年9月に恐れていた事故が起きると、すぐに関係者に協会発足を呼びかけ、水上での安全確保に動き出した。
 
 設立後も「すべてはここから」と息つく暇はない。「今後も協会をより大きなネットワークにしていく」と、長い航海への舵をいま切り始めた。
 (2010年5月15日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 関連記事


「〝勝つ喜び〟あるから続ける」

全国中学生空手道選抜大会男子1年組手の部で準V

 川手 青嵐 君

 男5人兄弟の三男として誕生。そのためか、幼いころから「やんちゃだった」。5歳の時、友達の勧めで空手を始め、半年後の浦安市民大会では早くも敢闘賞を受賞。当初からそのずば抜けた才能を発揮していた。

 小学4年生の終わりには、米・ラスベガスで行われたオープン大会に出場し、10~11歳の部門で見事、優勝。小学6年生の時には県代表の座を勝ち取り、初めて出場した全国大会で3位という好成績を収めた。

 普段の物静かで、大人びた印象とはかけ離れ、試合となると「絶対に勝ちたい」と闘志を燃やす。「勝つ喜びがあるから続けている」というほど勝利にこだわり、今年3月の全国大会決勝で敗れた際には、母親が「あんな姿を見たことがない」と驚くほど、人目もはばからず大粒の悔し涙をこぼした。

 練習では大人を相手にし、血を流したり、練習後に足元がふらついたりすることもあるという。それでも「辞めたいと思ったことは一度もない」。今大会の悔しさをバネに今後も成長を続け、さらなるステップを駆け上がる。
 (2010年5月1日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 関連記事


「人とハーモニーするのが喜び」


コーラスグループ「コール・マーマ」
を50年間指導

 大野 敏彦 さん

  出身は木更津。母親と同じ音楽教諭を目指して入った千葉大教育学部に在学中、船橋市のコーラスグループに入団。そこで出会った恩師の影響で「合唱は心のハーモニー」と心で歌う楽しさに目覚めた。「合唱は声が楽器。どこでも歌え、他人とハーモニーする喜びがある」と合唱を愛してやまない。
  
  マーマの指導を依頼されたのは、音楽教諭だった29歳のころ。当時、PTAコーラスはまだ珍しかったが、やるからには「PTA合唱の限界を極めたい」と一念発起。演奏会では新曲などに挑戦し、「やればできる」と激励しながら団員の潜在能力を引き出してきた。その志の高さゆえ、練習中には怒号も飛んだが、それは団員への〝愛のムチ〟。高みを目指してきた活動は、今年で50年を迎えた。
  
  現在は、市内外の3グループでも指導。これからは「若い人にも合唱に参加してほしい」と合唱人口の増加や若返りを願っている。
  
  趣味は食べ歩きで、合唱が縁で出会った妻と「料理のハーモニー」を味わうのが楽しみ。「私の人生には全て合唱がある。元気でいる限り、合唱を続けていきたい」。
  (2010年4月24日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 関連記事


「〝静の美〟表現できる東洋蘭」


発足25周年を迎えた
市川東洋蘭愛好会会長

 大塚 功一 さん

  生まれも育ちも市川市。実家が農家だったため、物心ついたころから「土いじりや自然と戯れることが大好きだった」。20代半ばで市消防局に入った後、局内の植物愛好家で構成する〝花と緑の愛好会〟に入会。厳しい仕事の合間にも植物との触れ合いを楽しんだ。

 50歳を迎えたころに市川東洋蘭愛好会が発足。立ち上げ時からの会員となったが、それまでサツキなどの華やかな花を楽しんでいたため、初めは「地味で魅力を感じなかった」。しかし、育て続けるうちに「派手さはないが、静の美が表現できる」と魅せられるようになり、以来「自分の生活を蘭の成長に合わせている」というほど、のめりこんでいる。

 発足から25年が過ぎたが、「花を咲かすのに3年から5年かかる春蘭を育てていればあっという間」。失敗すれば「1年、また1年と過ぎていき、追いかけると何年でも楽しめる」とほほ笑む。

 蘭に出合うまで「人と話すことは苦手だった」が、いまでは「会を通じての仲間作りが一番の楽しみ」。今後は「若い世代を増やして会の存続につなげたい」。蘭とともに会の成長を静かに見守る。
  (2010年4月17日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年


「一人一人が輝けるダンスを…」


指導するチアダンスチームが
全米を制覇

 信岡 美紀 さん

  高校時代に所属していたバトントワリング部で世界3位になったほどの実力の持ち主。卒業後は専門学校でスポーツの知識や指導法などを学び、平成16年から母親が顧問を務める昭和学院小バトン部の指導を手伝うようになった。

 その部員を中心にシャイニング☆プラネッツを結成。「一人一人が光り輝くように」との思いを込めた名前の通り、今年2月には本場アメリカの大会で優勝し世界一の輝きをみせた。国内でも先月行われた全国大会で2位という好成績。「まさかここまでになるとは」と子供たちの成長に舌を巻く。

 結成当初は会社に勤めていたため土日しか指導できず、「もっと時間をかけて教えてあげたい」とのジレンマを抱えていた。年々成長するチームを見て、2年前に一念発起。会社を辞め、ダンス講師として生きる道を選んだ。

 ダンスを通じて「子供たちの心も育みたい」と、指導は「あいさつや礼儀、感謝の気持ちなどを身に付けさせること」が基本。「教え子がコーチとしてチームに戻ってくること」を楽しみにしながら、今後も「子供たちが輝く元気なダンスを作り続けて行きたい」。
  (2010年4月10日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年


「子供たちのお礼の手紙に感激」


伝統楽器“琴”を
児童・生徒に伝える

 佐藤 歌音 さん

  「飽きっぽい性格」と自嘲しながらも、幼少期から「音楽だけは続けている」。実家では家族がさまざまな音楽を楽しんでいたため、物心ついた時から多くの楽器に囲まれて育ち、「いつか一つの楽器をものにしたい」と考えていた。

 20代前半に華道と茶道を習っていた場所で、隣の部屋から聴こえてきた琴の魅力的な音色に心を奪われた。その後すぐに結婚、出産、育児と、主婦業に追われ10年ほど経過したが、「琴を習いたい」という気持ちは冷めなかった。

 琴を習い始めたのは育児が一段落してから。その後師範となり、自身が主宰する琴教室に通っていた音楽教諭が地元の小学校に赴任したことがきっかけで、7年前から学校での出張授業をスタートした。初めは不安もあったが、子供たちから授業後に届くお礼の手紙に感激し、いまでは多くの学校に出張している。

 「純粋に感じる子供たちに興味をもたせたい」と、一日も休まず練習に励み、成長を続ける63歳。活動を支えるメンバーたちに感謝しながら「もっと多くのジャンルに挑戦し、今後は学校だけでなく出張する場を広げたい」。
  (2010年4月3日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年


「子供の笑顔が見られるから…」


バルーンアート通じて
子供たちに接する

 藤田 敬子 さん

  「娘二人が通った小学校の文化祭で、何かおもしろいことをしよう」と、バルーンアートを始めて約十年。「やり始めたらなんでも極めるまでやる」性格から、いまでは数え切れないほどのレパートリーをもっている。小学校のクラブの特別講師だけでなく、祭などでの実演や、各種イベントのステージの飾り付けなども「お願いされたら断らない」。その理由は「行けば必ず子供が喜ぶのだから」。

 バルーンアートに出合うまでは「ただの小うるさい教育ママだったかもしれない」と自嘲気味に話す五十七歳。それまでは「そんなに人付き合いもいい方ではなかった」という。しかし、バルーンアートを通じて会話が生まれ、また、さまざまな人との出会いにもつながった。近年は近隣の小学校で市のスクールサポートスタッフや学校評議員を務めていたが、これもバルーンアートで学校との付き合いが生まれたことがきっかけ。「バルーンをしていなかったら、全然違う人間だったかも」と神妙な面持ちで話す。

 「どこへ行っても必ず子供たちの喜ぶ顔が見られる」ことが継続の原動力。「まだまだ創作の段階には至らない」と自分の実力を戒めながら、「今後もいままで通り、流れに身を任せた上で、どんな出会いがあるのかが楽しみ」とほほ笑む。
  (2010年3月27日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年


「子供の“喜びの声”が原動力」


伝統行事「辻切り」を
子供たちに伝承

 成田 久江 さん

  市川に越して四十余年。その間、数々のボランティア団体を積極的に先導し、地域の発展に貢献してきた。現在も人権擁護委員や国際交流協会の副会長を務め、忙しい毎日を送っているが、「負担に感じたことは一度もない」と話す。
 
  出身は青森。終戦直後の幼少のころから「自分にできることは全部しよう」と、病院に花を届けたり、児童施設で乳児の世話をしたり、行き場を失くした人にモチを振る舞ったりするなど、さまざまなボランティア活動に携わってきた。
 
  活動の幅を広げていく中で出合ったのが伝統行事「辻切り」。しかし、当時は「地域の人でも知らない人が多かった」。そこで、「地域の伝統を地域の人に伝えよう」と、辻切り保存会の力を借り、市民まつりなどでの辻切りの実演や、市内の各小学校での体験授業などを始めた。
 
  市民まつりでの実演は数年間で終わってしまったが、体験授業は約三十年間、いまなお続けている。その原動力は「母親にほめられた」「いつも自分の机の上に飾っている」など、子供たちから届く喜びの声。時間を見つけては旅行やコンサート、歌舞伎などにも足を運ぶエネルギッシュな七十一歳は「子供たちが夢をもって幸せに生きられるよう、健康が続く限りボランティアを続けたい」。
  (2010年3月20日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年


「部員たちの姿勢に心打たれた」


コンクール全国1位
市川六中管弦楽部の顧問

 吉野 貞子 さん

 六中に赴任したのは二年前。同校の管弦楽部といえば、小学校で楽器の練習を積んできた子供が多く所属し、歴史と実績を持つ地域の期待の星でもある。ところが、自身には弦楽器の指導経験が無かったことから、顧問になるには荷が重い―と、当初は不安を抱えていたという。

 しかし、その気持ちを払しょくしたのは部員たちの態度。「練習も自分たちで行い、礼儀も正しい。何でも自分たちで解決し、顧問に迷惑をかけない」という姿勢に心を打たれた。「普通はサボりがち」な基礎練習にも自主的に取り組み、実力を養っていたので、「私は、『やりたいことをやるべき』と自主性を尊重し、指揮者として音のバランスを調節するなど、仕上げに努めた」という。その結果、昨年、今年と二年連続でTBSこども音楽コンクールで日本一に輝く快挙を成し遂げた。

 今月二十二日には、市川市文化会館で定期演奏会を開催。三年生にとっては最後の演奏会となるため、「悔いの無いように」と全力で練習に励んでいる。

 出身は熊本で、方言のイントネーションと八重歯が印象的。「生徒は私の力の源」と笑顔を見せる五十五歳は、これからも部員と一丸となって地域に愛される管弦楽部を目指す。
 (2010年3月13日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年


「氷彫刻の美しさに心奪われて」


国際氷彫刻大会
3位のシェフ

 根本 一夫 さん

 宴会やパーティーなどに華やかさを添える氷彫刻。しかし、その制作は重労働で、七〇㌔㌘もの氷を持ち上げたり、チェーンソーや専用のノミなどを使ったりして、冷凍庫の中で一気に作業する。「作品を見た人が喜んでくれるのが一番うれしい。シャッシャッという氷を切る音が何とも言えず、数時間で彫り上げることができるのも魅力」と目を細める。

 二十歳のころ、勤務していたレストランで氷彫刻に出合い、一目でその美しさに心奪われた。その後、日本の氷彫刻界の第一人者だった故・長谷川秀男さんの元で修業。平成二年からヒルトン東京ベイに勤務し、オードブル料理や食材の下処理などを担当する傍ら、最盛期には年間に千体以上の作品を手がけた。安定性とデザイン性を両立させるのも腕の見せ所で「宴会では、作品を(溶けて)落とさないのが一人前」。自身が手がけた作品は、一度も落ちたことがないという。

 高い技術を生かし、これまでに国内外の大会で好成績を記録。今年一月には中国で開かれた国際氷彫刻大会に出場し、仲間と作った作品で三位入賞を果たした。現在五十四歳。余暇は、「食べる楽しみがある」と海釣りでリフレッシュ。これからは、氷彫刻の芸術作品としての地位向上や、職人の育成にも力を注ぐ。
 (2010年3月6日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年


「周囲の期待と責任感を背に」


市川市小学生陸上大会
100m新記録

 上岡 健太 君

 柔和な性格と人当たりの良いキャラクターで、クラスメートのみならず他学年の児童からも気軽に声をかけられ、そのたび笑顔であいさつを交わす。学校ではクラスの代表委員を務めるなど、まとめ役としても活躍。教諭からも「礼儀正しく大人びていて、責任感が強い」と信頼を集める。

 新記録一二秒六一を出したのは、昨年十月の市小学校陸上競技大会。昭和六十二年から更新されていなかった記録を〇秒〇四上回った。「スタートがうまくいって、そのほかの部分も普段どおりの力が出せた」と自分の走りを振り返る。

 同大会では、昨年も五年生の部で優勝。しかし、今年は練習中にタイムが伸びず、「ダメなんだと思っていた」。それでも、周囲の期待は大きく、大会に向け特設した陸上部で部長を任された責任感もあり、部員約七十人の先頭に立って一日も休まず練習。その結果、新記録樹立と連覇という偉業を達成し、「信じられなかった。うれしさとプレッシャーから解放された気持ち」で充足感に包まれた。

 そんな〝市内最速小学生〟の夢は、陸上選手ではなく、実はプロ野球選手。地元チームでは投手だが、「打つ方が好きなので、将来はこの足を生かした打者になりたい」と夢は尽きない。
 (2010年2月27日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年


「バンクーバー五輪を集大成に」


ボブスレー2種目で
バンクーバー冬季五輪に出場

 鈴木 寛 さん

 出身は北海道。少年時代は陸上や野球といったスポーツに励み、〝氷上のF1〟と呼ばれるボブスレーとは無縁の生活を送った。転機は大学進学時、先輩の勧めで「ちょっとやってみようか」とボブスレー部に入部。たちまち「すぐに世界と戦える」魅力にのめりこんだ。

 その思惑通り、始めた年に日本代表になると、二十一歳でリレハンメル五輪に出場。その後も長野、ソルトレークと三大会連続の五輪出場を果たしたほか、全日本選手権では平成十四年から八連覇をするなど、国内無敵の選手となった。

 しかし、前回のトリノ五輪では、まさかの代表落ちを経験。「引退も考えた」という。だが、「(トリノの時は)不完全燃焼だったので、バンクーバーを自分の競技人生の集大成にしたい」とその後四年間、ハードなトレーニングを続け、自身四回目となる五輪の切符をつかんだ。

 市川市には、仕事場である都内から近い上、「トレーニング環境が整っている」と平成十二年から在住。「お世話になっている地域にいい成績を出すことで恩返ししたい」との思いを秘める。

 チーム最年長の三十六歳で臨む今度の五輪。「みんなを導いて高いパフォーマンスを引き出し、メダルを狙う」と静かに闘志を燃やす。
 (2010年2月20日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年


「家族の夢乗せメダルを目指す」


スノーボードで
バンクーバー冬季五輪に出場

 村上 大輔 さん

 中学一年で全日本ユース準優勝と、早くから才能を開花させてきたが、スノーボードにかける思いが爆発的に高まったのは九八年の長野五輪。知り合いの選手の活躍をテレビで見て「自分もこの舞台に立ちたい」と明確な目標を定めた。
 
 その目標は自分でも驚くほど早く実現した。高校三年でソルトレーク五輪に出場。しかし、「緊張しすぎてほとんど覚えていない」と当時を振り返る。そのため「力を出し切れなかった」悔しさが残り、次の五輪に向け地道な努力を続けた。
 
 しかし、前回のトリノ五輪ではまさかの代表落選。その後のシーズンも不振が続き、「正直やめたい」と思うこともあったという。しかし、バンクーバー五輪の最終選考となった先月のW杯で自身初の優勝を飾り、「最後に努力が報われた」。今度の五輪は、一昨年結婚した美津子夫人と、昨年生まれた長女・美凛ちゃんの家族三人の夢を乗せる大舞台。「結果を気にせず楽しんで滑り、笑顔で市川に帰ってきてほしい」との妻の言葉を胸に、同競技では日本人初のメダルを目指す。
 
 不振の時は「ダメで元々だから、楽しんできなよ」との妻のエールに何度も救われた。「遠征で家を空けることも多いから、いつか家族でゆっくりと過ごせる一軒家をもちたい」と夢を語る二十六歳。
 (2010年2月13日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年


「市川の“絆作り”引き継ぎたい」


市川の文化・芸術に
長年にわたり貢献

 山本 弥恵子 さん

 「市川が大好き」。マツが多く、町会や神輿(みこし)、祭など昔の日本的な下町風情と、都会的な上品さを併せもつ〝ミックスな街〟。それが、七十九歳の浅草生まれ、神田育ちの市川評。人のつながりが和やかで温かく、上品で、学校が多く、文化人も住む。都心にも、ナシ畑にも、海にも三十分。「そのバランスがいい」。

 民謡民舞の会の集まりICA(市川芸術協会)の三代目会長。市川市議会議長を務めた父、同協会初代会長の故弥三吉さんは、ふるさとの歌がないことを寂しく思い、郷土を愛する思いを込めてビクターに依頼し、当時のトップ歌手・市丸と曽根四朗が歌う「八幡音頭」を作り、多くの人に歌われるように―と葛飾八幡宮に奉納した。「ふるさとの大切さ、愛しさを感じられる歌を、父が取り組んできたことを引き継ぎたい。市川市の絆(きずな)作り、その隅っこでも果たしたい」。

 ICAはこれまでの二十五年間、市川市に寄付を毎年続けている。「会員は平均年齢六十代、舞台に立ったら三十代。そしてチャリティー精神がある。みんなが満杯のお客さんのいる大舞台で踊れるよう、品格を保ち続けられるように」。そんな場作りを目指し、ICAの運営と年二回の大会開催に駆け回る。
 (2010年2月6日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年


「二度と同じ物ができない魅力」


縄文土器作りに30年以上携わる

 西畑 健一 さん

 市川博物館友の会と市川市が共催している縄文土器作りに、第一回から欠かさず参加している。現在は最古参として土器作りの指導にあたるほか、子供や地域住民の縄文体験にも協力。昨年には市川市教育功労者の表彰を受けた。
 
 現在七十八歳。昭和四十七年に自宅裏に考古博物館がオープンしたことから友の会に入会。土器作りにはほかの会員とともに好奇心でチャレンジしたが「最初は失敗の連続だった」。くじける仲間もいるなか「縄文人が使っていた物と同じ『煮炊きできる土器』を作りたい」と研究を重ね、二十年かけてようやく大型の土器を焼き上げることに成功。「焼き上がるまで分からないうえ、二度と同じ物はできないのが魅力」と土器作りに没頭した。現在、自宅の玄関には夫婦で作った自慢の土器がずらり。「縄文人は素朴で、体を使って食料を採り、村で助け合っていた。ボタン一つで何でも分かる現代とは違う」。研究を通じて当時の生活を追体験し、縄文人に思いを巡らせている。
 
 縄文にかける思いは深く、縄文をテーマにした詩集をしたためる一面も持っている。「実用できる土器を作っているところは数少ない」。これからは後継者にその経験を伝授していく。
 (2010年1月23日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年


「“見るだけ”には感動がない」


プロマジックを通じて福祉活動

 田中 直基 さん

 プロマジシャン「すたーたなか」。元気会(市川失語症友の会)や都内の高齢者・障害者の施設、病院などで患者・利用者にマジックを体験してもらう。大切なのは「見る」ことではなく「体験する」こと。「見るだけでも驚きや楽しみはあるが、そこに感動はない」と、自ら取り組むことを重視する。不自由な片手で頑張って練習し、マジックができるようになっている患者・利用者を見ることも度々。「マジックを覚えることで前向きに、『自分もまだ頑張れる』という喜びを抱いてくれる」と活動を続ける。
 
 「いつまでプロとして楽しさや感動を伝え続けられるか」。約四年前の三十五歳の時、将来を考えた。失語症を患いながらも元気会会長を務める父親を、忙しさから手伝えていなかった。「自分にできることは何か」。新しい、自分らしい道として、ファイナンシャル・プランナーとして働きながら、マジックを通じた福祉活動に方向転換。職業として苦労の多いマジシャンと障害のある人「みんなが夢をもてるように」と、マジックを通じた社会福祉ビジネスも念頭に置く。
 
 愛すべき時間は愛犬とのジョギングや自然散策。「父親はいつも仲間に囲まれ実家には友人も多く来ていた」。みんなが集える場としての〝家〟が憧れ。
 (2010年1月16日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年