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《94》
生誕100年・能村登四郎の句碑巡り

 市川を代表する俳人の能村登四郎氏は、明治44年1月5日、東京・台東区谷中清水町(現在の池之端)に生まれ、昭和13年、開校間もない旧制市川中学(現在の市川学園)に国語教師として赴任してから平成13年5月に90歳で亡くなるまでの63年間を、市川市八幡で暮らした。

 今年がちょうど生誕100年、没後10年となる。生涯に14冊の句集と6千余句の作品を発表し、あまたの賞を受賞した。

 年明けにふさわしく、その長寿にあやかり、登四郎氏が90歳の初春に詠んだ作品を紹介しよう。逝去後に刊行された最終句集『羽化』(平成13年)からの引用である。

〈見飽きたる筈の初空待つてをり
九十歳の春や如何にと胸はづむ
劇場の恵方飾りに触れてゆく
初芝居序の三番叟さはやかに
昨日見し枯野の景の未だ去らず〉

 歌舞伎好きだった登四郎氏の、華やいだ初春の様子がしのばれる。
 「枯野」については、次の代表句がある。

〈火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ〉

 昭和45年刊行の句集『枯野の沖』の書名にもなり、同じ年に自ら主宰創刊した結社「沖」の由来にもなった作品である。

昭和60年には「沖」15周年を記念して、市川市中国分のじゅん菜池緑地に句碑が建立されている。

 「枯野」は冬の季語で、この句については、「枯野・野たれ死への願望」(『沖』昭和52年2月号)という随筆が鑑賞の参考になる。

〈枯野というものの私のイメージはいろいろある。遠野の旅で通りすぎた早池峰の麓の延々とつづいた枯野。はるかに湖の紺青がのぞく近江・蒲生野の葭地帯。伊吹の山裾の冬枯れの景などの印象が頭の中に浮んでくる。

 しかし別に旅に出ないでも、私の住んでいる市川でも家から十五、六分歩けば、刈田を抱いた蕭条とした葛飾の枯野らしい風景を見ることができる。よく晴れた日にはその枯葎の中に尉鶲の金茶色の可憐な姿を見かけることがある。そうしたいくつかの枯野の景が私の脳裡に重なったものが、私の作品の中にしばしば出てくる枯野である。〉
 市川市内の登四郎氏の句碑のうち、ほかに春らしい句としては、国府台スポーツセンターの次の句もよく知られる。

〈春ひとり槍なげて槍に歩み寄る〉

 句碑は平成10年、市川市俳句協会の創立50周年を記念して建立された。この句も句集『枯野の沖』に収められた作品で、句碑除幕式のリーフレットに次のように解説されている。

〈当然、教師としてグランドの練習風景など毎日のように見ていたことでしょう。この一齣は、見たままの景だけでなく、心の奥にある青春のイメージを重ね合わせたもので、心象風景が見事に描かれた代表作の一つであります。〉

 枯野の句も春ひとりの句も、市川の情景そのものの写生句というより、心象風景としての市川の景物が作品化されているといってよいのだろう。そして、それが登四郎俳句の魅力の特徴といえる。

 市川市内にはほかに、大町の市川霊園の菅田家墓地、東菅野の市川学園グラウンド、八幡の能村邸(非公開)に、句碑が建てられている。

 去る12月1日には、市川市文学プラザの企画展「俳人 能村登四郎とその水脈―林翔・伊藤白潮とともに」の関連イベントとして、登四郎氏のご子息で、「沖」主宰を継承された能村研三氏の案内により、これら登四郎氏ゆかりの地をめぐる吟行会が行われた。

 1月8日には、同じく研三氏による講演会「父・登四郎を語る」が、文学プラザで開催される。

 これらを通して、今日の市川の俳句文化に、登四郎氏の大きな水脈が流れていることを知ることができよう。

 (2011年1月3日号)TOP PAGE 


《93》
白幡天神社の幸田露伴と永井荷風の文学碑

参列者の前で除幕された永井荷風の文学碑(10月17日の例大祭にて)
  市川市菅野の白幡天神社に、この秋、市川を終焉(しゅうえん)の地とした幸田露伴(こうだろはん)と永井荷風(ながいかふう)の文学碑が建立され、11月28日に「お披露目の会」が開かれた。当日配布されたリーフレットには、鈴木啓輔宮司の「御挨拶(あいさつ)」が掲載されている。

〈近代文学において著名な文豪であられます幸田露伴・永井荷風のお二方の先生方は、この市川にお住まいになられていたにもかかわらず、そのことを記した碑などは、どこにも見当たらず、それならば両先生がお住まいになられた美しい里菅野の郷に文豪達を顕彰さしあげる文学の碑を建立しようと、当神社の総代様方によって発案され、永井荷風先生の作品や幸田露伴先生のお嬢様であり作家でもある幸田文先生の作品中にも散見される白幡天神社の境内に建立させていただくことにいたしました。〉

 荷風の碑は、正面中央に「永井荷風」の自署が入り、その右側に
〈松しける 生垣つゞき 花かをる 菅野はげにも うつくしき里〉その左側に〈白幡天神祠し はん畔の休茶屋にて牛乳を飲む、帰途りママ緑陰の垣根道を歩みつゝユーゴーの詩集を読む 砂道平にして人来らす 唯鳥ちょうご語の欣々たるを聞くのみ 「断腸亭日乗」〉
と記され、裏面に以下の文言が刻まれる。
〈文豪の永井荷風は昭和二十一年から十二年間市川市菅野の地に晩年を過ごした日々の記録を芸術にまで高めた大作「断腸亭日乗」には 荷風が白幡天神社のまわりの静かな環境のなかで読書に耽ひたり ひとり暮らしの楽しさをかみしめている記述がある 平成二十二年八月吉日 氏子協賛者一同  宮司 鈴木啓輔〉
 短歌は「断腸亭日乗」昭和21年4月22日、引用文は同年5月11日の記述である。日記には、ほかにも昭和21年4月18日、5月7日、7月20日、7月25日、7月31日、8月2日、8月17日などに、白幡天神社に立ち寄った記述が見られる。
 9月22日には、〈白幡祠畔売家の件思はしからず〉とあり、白幡天神社近くに住む家を求めていたこともうかがえる。
除幕された幸田露伴の文学碑(10月17日の例大祭にて)
 露伴の碑は、片面に「幸田露伴文学之碑」と彫られ、片面に以下の文言が刻まれる。
〈幸田露伴は小説「五重塔」「運命」等の作品で著名な作家である 昭和十二年第一回文化勲章を受賞ママ 同二十一年に白幡天神社近くに移り住み菅野が終焉の地となった露伴の晩年の生活をしるした娘の幸田文の「菅野の記」には当時の白幡天神社が描かれている〉
 幸田文の「菅野の記」(昭和25年)には、白幡天神社で父の死期の近いことを悟る場面が記される。
〈白幡神社の広場の入口に自動車がとまっている。いなかのお社さまはさすがに、ひろびろと境内を取って、樹齢二百年余とおぼしい太い榎が何本も枝を張っていた。(中略)さあっと風が来、ぱらぱらと榎の枝から葉が離れ散った。〉
 また、「葬送の記」(昭和22年)にも、
〈柩ひつぎは一丁ほどの白幡さまの境内に待つ霊柩車までを、人々が代り合って手かきにした。〉
と記される。 まさに、白幡天神社にふさわしい文学碑が建立されたといえる。お披露目の会で、総代の方が「名所になってほしい」と挨拶された。文学が地域づくりに希求されていることも感じられ、多くの人が訪れることを願っている。

 (2010年12月11日号)TOP PAGE 


《92》
井上ひさしさんと民話

井上ひさし『馬喰八十八伝』(1986年)朝日新聞社
  今年は、日本民俗学の祖である柳田國男(やなぎたくにお)が、岩手県遠野(とおの)地方の伝承をまとめた『遠野物語』が発刊されて、百年目に当たる。井上ひさしさんにも『新釈遠野物語』(1976年)というユーモラスな小説がある。
  
  7日まで市川市木内ギャラリーで開催されていた「文学散歩展 井上ひさしと市川」で関連資料が展示されていた市川のタウン誌『月刊いちかわ』(エピック)の連載「父・井上ひさし、娘・あや往復書簡」。その2007年9月号「第二十二便 39 人生のおそろしさ」には、次のような一節がある。生まれ故郷、山形県小松町(現・川西町)でのエピソードである。
  
  〈幼いころに金作あんにゃという作男(さくおとこ)のおじいさんがいました。(中略)たいへんお話が上手でした。毎日のように土地に伝わる話をしてくれたものです。ですからわたしたちは金作さんが大好きで、世の中でいちばん偉いのはこの人だと思っていました。〉
  
  そんな井上さんが、1967年から住んだ市川市国分町の国分寺の裏手から、じゅん菜池東側の北国分に転居したころに書かれた「鴻ノ台(こうのだい)だより1」(1975年7月)というエッセイには、こんな楽しい話が記されている。
  
  〈近所に小さな稲荷があります。唐傘と絵日傘がぶら下げてあるので不思議に思っておりましたところ、古老(としより)の曰(いは)く、
  「……むかし、この稲荷さんへ洗濯屋が、どうかここ一週間ばかりは晴天の続くようにと祈願をかけた。天水場(てんすいば)の百姓からは、どうか一日も早く湿いのあるようにと雨乞を祈った。如何(いか)な稲荷大明神もこれには閉口。一方の願いを叶えてやれば一方は困るといって双方満足するようなことは到底できず如何にせんと、一夜、眷族(けんぞく)どもを集めて相談せられたが、一匹の白狐(びゃっこ)が、私は左程六ケ敷(さほどむつかしき)こととは思いませぬ。丁度私には年頃の娘が一人居ります。それを嫁入りさせば、双方の祈願を叶えさせましょうと思います。と申せば稲荷さんは小首を傾け、其方(そのほう)の娘を嫁入りさせて双方の祈願を叶えさせるとはどういう訳か、と問反(といかえ)すれば、白狐はハイ狐が嫁入りすれば日が照って雨が降るです、といったそうだ」 とまあこんな昔話を聞いてまわって居る毎日で呑気(のんき)なものであります。〉
  (井上ひさし『聖母の道化師』所収)
  
  ちょうど、『新釈遠野物語』を執筆していたころだろうか。市川の民話にも、聴き耳を立てていたことがうかがえる。もっとも、井上さんの創作かもしれないが。
  
  『馬喰八十八伝(ばくろうやそはちでん)』は、1980年に雑誌連載された、嘘つきの青年を主人公にした小説であるが、そこにも、こんな話が語られる。
  
  〈浦安の在(ざい)の与兵衛という百姓の末娘が、市川真間のさる本百姓のもとへ嫁入りすることになった。(中略)与兵衛が(中略)言い聞かせた。『嫁というものは、借りて来た猫のようにしているのが一番なんだからね』ともな。嫁入りして、さてあくる朝、姑が用事を言いつけようと思い、『嫁や、嫁や、どこにいるのだい』と呼ばわりながら土間をおりると、娘は土間の大釜の蓋の上に丸くなってすわり『にゃーん』と返事をしたそうだ。〉
  
  広島の原爆をテーマにした戯曲『父と暮せば』(1998年)では、図書館で働きながら、昔話の語り聞かせをしている娘が登場し、次世代に「語り継ぐ」ことの重要性が描き込まれている。
  
  13日には、市川民話の会による「市川の民話のつどい」が市川市文学プラザで開催されるが、井上さんの民話にかかわる作品を、市川の民話とともに聴いてもらうプログラムを企画している。

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《91》
井上ひさし「市川での土方歳三」

市川市文学プラザで展示中の井上ひさしさんの蔵書『おれたちと大砲』(左)と『歴史読本』(中央)=川西町遅筆堂文庫所蔵、市川市文学プラザ協力
  井上ひさしさんというと、昭和時代を扱った作品が多く印象づくが、直木賞受賞作品『手てぐさり鎖心中』(1972年)は、江戸時代後期の戯作者(げさくしゃ)・十返舎一九(じっぺんしゃいっく)をモデルに描いており、受賞直後に発表された小説『江戸の夕立ち』も、幕末から明治時代への変わり目に生きた商家の若旦那(だんな)と太鼓持ちの物語。
  
  坂本龍馬も描かれる小説『おれたちと大砲』(1973―75年)も、15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が大政奉還をすると知った下級武士たちが、何とかそれを阻止しようと、奇想天外な行動を取る、実に愉快な物語。井上ユリ夫人によれば、井上さんがとくにお気に入りの作品で、もっと評判になってほしかったと、生前よく話しておられたという。
  
  そんな井上さんのエッセイに、新撰組を特集した『歴史読本』1980年7月号に掲載された『市川での土方歳三(ひじかたとしぞう)』がある。
  〈市川市に住む以上は、国鉄総武線の市川駅を利用するほかないのであるが、この市川駅での昇降のたびに私は土方歳三を思い出さないわけにも行かないのである。まことに因果な土地に住んだというべきか。
  市川駅の近くなら、どこからでも市川消防署の望楼が見える。この望楼のあるところが例の「大林院」である。慶応四年(一八六八)四月十二日、土方歳三はこの大林院で旧幕府歩兵奉行大鳥圭介や会津の秋月登之助や桑名の立見鑑三郎等と会い、脱走軍の編成を打ち合わせている。この席上、全幕軍の総督には大鳥、参謀に土方、そして全軍を前・中・後の三団にわけ、ひとまず宇都宮を目指すことなどが決まる。(中略)一年後の明治二年五月十一日に土方歳三が箱館市内の異国橋近くで死ぬことは、このとき決定した。
  そういう思いがあるものだから、消防署の望楼が土方歳三の姿に見えて仕方がない。
  あくる四月十三日、市川鴻ノ台(こうのだい)から全幕軍は北に向かって出発するが、この鴻ノ台(現・国府台)の外れに拙宅(せったく)がある。ここでもまた私は土方歳三を思わぬわけには行かぬ。(中略)
  雨の夜など、里見公園の傍そばを通りかかると土方歳三の「ここで戦いたい」と呟つぶやいている声が聞こえてくる。というのも土方歳三が鴻ノ台に立てこもろうとしていたことを私が知っているからで、もう少し調べが進んだら、市川における土方歳三のことを戯曲に仕立てようと考えている。〉
  このエッセイは、井上ひさしエッセイ集『聖母の道化師』(1981年 中央公論社)にも再録されている。
  
井上ひさしさんの書き込みがある『共同研究新撰組』(1973年 新人物往来社)=川西町遅筆堂文庫所蔵、市川市文学プラザ協力
  現在、市川市文学プラザで開催中の企画展「水木洋子の竜馬がゆく」では、井上ひさしコーナーも設けられ、山形県川西町の遅筆堂文庫から借用した『歴史読本』をはじめ、井上さんが新撰組や幕末のことを調べるために収集した蔵書約30点が展示されている。
  
  蔵書には付せんや書き込みも見られ、ことに注目されるのは、新人物往来社編『共同研究新撰組』(1973年 新人物往来社)である。田中真理子・松本直子『土方歳三北征行―市川鴻の台から宇都宮まで―』の章に、井上さんがエッセイの参考にした表現が見られ、「以前大林院のあった場所は、現市川市市川一丁目の消防署付近で、国鉄市川駅のすぐ北側である」の部分には、井上さんの朱あかい傍線まで引いてある。
  
  実はその後の歴史研究の成果により、大林院は真間山弘法寺の末寺で、弘法寺下の亀井院の西側にあったものと判明したのだが、遅筆堂文庫に保管されている井上さんの蔵書を、市川の視点で読み込んでいく可能性を感じ得た。
  
  今月16日からは市川市木内ギャラリーで「文学散歩展 井上ひさしと市川」が、23日からは市川市文学プラザで、遅筆堂文庫の蔵書による「井上ひさしの戯曲『小林一茶』」展が開催される。

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《90》
水木洋子『オペラちゃんちき』が
市川で初上演!

「オペラちゃんちき」初演のプログラム(1975年 二期会、市川市文学プラザ提供)
 9月4日㈯と5日㈰に市川市文化会館大ホールで、いちかわ市民ミュージカル『シネマ・ミュージカル~脚本家・水木洋子ワールド』(吉原廣/作・演出)が4ステージ行われ、3700人を超える観客が、脚本家・水木洋子さんの生涯と作品世界を堪能した。
 
 ミュージカルの後半には、かわいい幼稚園年長も登場するシーンがあったが、そこで演じられたのが、水木さんの作品「はげやまちゃんちき」の一部を、石川洋光さんの書き下ろしの楽曲によって印象的に見せる舞台であった。
 
 水木さんの「はげやまちゃんちき」は、元々は、日本舞踊の西川鯉三郎さんの依頼で舞踊劇として1959(昭和34)年に発表され、1975(昭和50)年には、作曲家の團だんいくま伊玖磨さんにより、オペラ「ちゃんちき」にもなった作品である。
 
 「(はげやま)ちゃんちき」は、キツネとカワウソが、互いに食事の呼ばれ合いをすることになったが、人のいいカワウソはたいそうなもてなしをするのに、キツネはあれこれ言い訳をして、もてなしをしない。カワウソは、キツネにあるウソをつき、キツネは痛い目に遭うという、日本の昔話を元に、水木さんが書いたオリジナル作品。
 
 元の昔話では、キツネは単独で語られるのが一般的だが、水木さんは、キツネの父親(おとっさま)と自立できない子ギツネ(ぼう)を登場させ、親子の絆きずなを見事に浮かび上がらせる、昔話とは違う作品世界を作り上げることに成功している。
 
 とりわけユニークなのは、この作品が全編名古屋弁で書かれている点である。 依頼された西川流は、名古屋を中心に名古屋踊りという舞踊公演を重ねている流派。また水木さんも、両親が愛知県犬山市出身で、自身も1945(昭和20)年5月の空襲で、犬山にほど近い親戚の家で疎開生活を送り、1947(昭和22)年に市川へ移り住むまで、名古屋を中心に仕事をしていた。名古屋弁は、水木さんとしても、近しい言葉であったろう。
 
 日本の昔話を元に、作家が創作性を加えて書く「民話劇」として有名な、木下順二さんの民話劇「夕鶴」が書かれたのは、1949(昭和24)年。1952(昭和27)年には、團さんによってオペラ化されているが、水木さんの「(はげやま)ちゃんちき」は、こうした「民話劇」の文芸史的な流れの上でも、重要な意義を持つ作品といえる。
 
 しかし、團さんのオペラ「夕鶴」が、繰り返し上演されるのに対し、オペラ「ちゃんちき」は、全編が名古屋弁で書かれていたり、ソロのアリアのような場面がほとんどないなどの理由から、あまり上演される機会の少ない作品でもある。
 
市川公演のリーフレット
 市川でも、いつか上演したいと思っていたが、水木さんの生誕100年を迎えた今年、市川市オペラ振興会の木村珠美さんが中心となって、市川での初上演が実現することになった。
 
 木村さんは、全曲の上演も検討してくださったが、より効果的に作品の魅力を鑑賞できるようにと、部分的に省略しても作品の流れを損ねない程度に整理し、約1時間のハイライト上演に仕上げた。
 
 指揮は神尾昇さん、演出はアンタン・P・パリーさん、狐のおとっさま役に門倉光太郎さん、おとっさまが化けた美人役に木村珠美さん、狐のぼう役に成澤香奈さん、カワウソのかわ兵衛役に宮田圭一さん、カワウソのおかわ役に天下井朱海さん、市川オペラ合唱団の合唱、竹之内純子さんと鈴木美苗さんのピアノ伴奏による上演となる。
 
 26日午後2時30分から市川市文化会館小ホールで、オペラ・アリアや日本の歌などもお届けするガラ・コンサートとの2部構成で上演される。市川ならではの期待される舞台である。

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《89》
シネマミュージカル
~脚本家・水木洋子ワールド

けい古に励む参加者たち
 いちかわ市民ミュージカルは2002(平成14)年に始まった、市民中心のミュージカル。三世代が交流しながら、文化芸術の創造の喜びを味わい、地域の絆きずなを深めることを目指している。
 
 2年に一度、市川市文化会館大ホールで行われており、5回目を迎える今回は、9月4日(土)、5日(日)に、「シネマ・ミュージカル~脚本家・水木洋子ワールド」と題した公演が4ステージ行われる。
 
 これは今年が、市川市八幡で創作活動を続けた脚本家の水木洋子さん(1910―2003)の生誕100年に当たるため、市川市真間在住の演出家・吉原廣さんが、1年以上の構想を経て書き下ろしたオリジナルミュージカルである。
 
 水木さんは、「また逢う日まで」「ひめゆりの塔」「純愛物語」「キクとイサム」など、日本映画の黄金時代に数々の名作を手がけた脚本家である。戦後の映画界は女をシャットアウトする男だけの世界。そこへ乗り込んでいった水木さんは、自立した女性としても、その人生には目を見張るものがある。
 
 吉原さんの脚本は、そんな水木さんの泣き笑いの人生を、市川市文学プラザでファイリングされた水木さんのエッセイや参考書などを読み込み、飽きない構成でミュージカルに仕立てている。
 
 迷子になったりお転てんば婆だった子供時代から、日本女子大、文化学院を経て、劇作家となり、戦争の渦に身を浸した姿も描きながら、戦後、今井正監督との名コンビで、映画の名作を生み出していくストーリー。
 
 後半には、水木さんの生み出した映画はいうに及ばず、テレビドラマ「竜馬がゆく」や、オペラ「ちゃんちき」などの登場人物までもが登場し、まさに水木ワールドが舞台上に再現される。
 
 仕上がった台本の表紙には、
 〈明治・大正・昭和…
 激動の時代を突っ走った
 水木洋子の映画と人生
 なにくそ!
 負けてたまるか!
 元気いっぱい女の一生!〉
 と記されている。
 
 上演に参加するのは、200人にのぼる市川市を中心とした市民の皆さん。幼稚園年長から、70代以上の人生の先輩まで、まさに三世代が一つの目標に向かって、休日返上で練習に励んでいる。大道具づくりや衣装の手配、基本的な音響や照明の操作などのスタッフも、市民が多数かかわっている。
 
 こうした市民ミュージカルの取り組みは、全国的にも例を見ないものであると同時に、今回は、水木さんの映画や名前さえも知らなかった参加者が、ミュージカルを通して、「水木ワールド」を体感する契機となっている。さらに興味をもった人は、映画を見たり、エッセイを読んだりと、こんなダイレクトな地域文化事業は特筆に値する。
 
 ところで、8月最初の練習を市川市グリーンスタジオでしていたときのこと。入り口に水木さんの等身大の写真パネルを置いていたのだが、練習を終えてそのパネルを見たある参加者が、「あっ、この人、練習のとき見かけたっ」と声を上げた。周りにいた人も目を丸くして
 
 「えっ、じゃあきっと水木さんが見に来てたんだようっ」。 霊界にも関心のあった水木さんのこと。お盆を前にして、さもありなんと思われた。お盆過ぎの8月25日が、満100歳の誕生日となる。
 
 水木さんもあの世から楽しみにしているであろう舞台を、一人でも多くの方に見ていただくことが、これからのラストスパート。ぜひぜひチケットをお求めいただき、足を運んでいただきたい。
 
 なお、吉原さんは明言していないが、今回の台本は、井上ひさしさんの戯曲「頭痛肩こり樋口一葉」や「太鼓たたいて笛ふいて」などにも通じるものを感じる。私は密かに、井上さんへ捧げる作品であるとも思っている。

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《88》
坂本龍馬の
継母の子孫は市川に

市川市文学プラザで展示中の北代寛二郎氏の関連資料
 NHK大河ドラマで放映中の「龍馬伝」は、注目の脚本家・福田靖さんのオリジナル作品である。福田さんの作品「救命病棟24時」(2005=平成17年)では、市川市役所や当時建設中の広尾防災公園も、ロケ地として使われた。座右の銘は、4月に亡くなった井上ひさしさんの「むつかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」だという。
 
 さて、1968(昭和43)年の大河ドラマの「竜馬がゆく」は、司馬遼太郎さんの原作をもとに、当時、八幡に住んでいた水木洋子の綿密な取材と構想により、一年間、脚本づくりが進められた。
 
 ところで、司馬と水木の「竜馬がゆく」では、早くに亡くなった母の替わりに、姉の乙女が龍馬の面倒を見た筋立てになっている。当時は継母のことはまだ知られていなかった。水木の手元に遺されていた「坂本家系図」(市川市文学プラザで展示中)にも、「後妻 北代氏之女」とだけ記され、作品にも登場しない。
 
 
山田一郎『坂本龍馬―隠された肖像』(1987年、新潮社
 その継母が、「北代伊与(きただいいよ)」だと突き止めたのが、高知市出身の新聞記者山田一郎氏がまとめた『坂本龍馬―隠された肖像―』(1987=昭和62年、新潮社)である。取材のなかで、ある人から次のような情報を得たのだった。
 
 〈北代家の住所も教えてもらうように言った。折り返し、当主は北代寛二郎という人で、千葉県の市川市に住んでいるので、すぐ連絡します――という伝言が届いた〉
 
 〈北代寛二郎氏を最初に千葉県市川市原木のマンションに訪ねたのは、昭和六十一年四月中旬の日曜日だった。それまでに私は北代氏から詳しい資料の提供を受け、電話や手紙で何回も連絡していた。(中略)そこには坂本家と北代家の親密な関係、伊与女の龍馬に対する教育、安政地震の時のエピソードなど、これまで紹介されていない事実が豊富に盛られていた〉
 
 そして、寛二郎氏から語られた伊与の姿が記される。
 
 〈「伊与さんは武家式にきびしく龍馬をしつけたと言われています。周りから見ると、継子(ままこ)いじめをしているように受け取られたかも知れません。勝ち気で、気位も高かったようです。しかし、慈悲心の強いひとで、乙女や龍馬をよくかわいがったというように、私たちの家では伝承されているんですよ」〉
 
 〈「いくら女丈夫であっても、わずか三つ違いの姉の教育で、泣き虫の鼻たれ小僧がいっぺんに変貌(へんぼう)し、十九歳で江戸へ剣術修行に行くまでに成長するでしょうか」  伊与の坂本家入りと、龍馬の成長期が一致していることに私は注目する〉
 
 〈「伊与さんのことは隠していたわけでもないし、特に宣伝する気もありませんでした。(中略)伊与さんが後妻であったり、(中略)北代のものが不遇だったりで、坂本家に遠慮して表立ったことを言わなかったのかも知れません」〉
 
 こうして、市川市原木にお住まいの北代寛二郎氏の証言で、龍馬の継母の姿が世に知られるようになったのである。
 
 司馬と水木の「竜馬がゆく」には登場しなかった継母は、福田さんの「龍馬伝」では、「八平の後妻 伊與」として、松原智恵子さんが演じる重要な役どころとして登場する。
 
 現在、市川市文学プラザで開催中の企画展「水木洋子の〈竜馬がゆく〉」では、水木の手元に遺されていた作品関連資料や台本などはもちろん、北代寛二郎さんに関する資料や、幕末の市川に関する貴重な資料なども多数展示されている。
 
 龍馬と市川との思わぬ接点を知ることができるスリリングな企画展である。

  
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《87》
坂東妻三郎と早川雪洲
市川に住んだ往年の映画スター

市川市文学プラザ企画展「脚本家 水木洋子と日本映画の黄金時代」(20日まで)で紹介されている阪東妻三郎と早川雪洲の展示の様子
  市川は、東京に近い風光明媚(ふうこうめいび)な土地柄からか、活動写真と呼ばれていた時代から、「種とり」(ロケ)の場所となっていた。大正5(1916)年5月に、真間(まま)の亀井院(かめいいん)に仮寓(かぐう)した北原白秋(はくしゅう)は、同年の随筆「葛飾小品」にこう書き残している。
  
  〈原っぱへ時たますると、活動写真の赤鬼や青鬼どもが、昼の日中にひょっこり出て来て、あくびなぞしながら、真間の小川の一本橋に寝ころんだり、虱(しらみ)取ったりしていたものだ〉
  
  大正時代から昭和初期には、亀井院の北側に朝日キネマの撮影所もあった。
  
  戦前の映画スター阪東妻三郎(ばんどう・つまさぶろう)による阪東プロ第1回作「異人娘と武士」(1925=大正14=年)は、国府台でロケが行われたとされる。
  
  その阪東が、京都から東京に活動の場を求めていたのをバックアップしたのが、京成電鉄社長の本多貞次郎(ほんだ・ていじろう)だった。
  
  阪東は本多の支援で、市川市菅野に住居を定め、津田沼町(当時)の谷津海岸に阪東妻三郎プロダクション関東撮影所を設立したのである。
  
  関東撮影所第2作「風雲長門城」(1931=昭和6=年)をはじめ、いくつかの撮影に市川が使われ、真間の桜土手や須和田の府中橋などがロケ地になったという。
  
  国府台の坂下にあったそば屋「平の家(や)」は、大都映画と契約を結び、ロケの際には2階を提供し、阪東も利用したことがあった。
  
  平成18年、真間に住んでいた方から、「風とともに去りぬ」などの翻訳家として知られる大久保康雄(おおくぼやすお)氏の家が、以前は阪東の別邸で、庭で立ち回りしていたのを見たことがあるとの電話をいただいたことがある。
  
  匿名(とくめい)の電話だったのが、今となっては悔やまれるが、この証言によれば、阪東の住まいは、国府台女子学院南側の菅野3丁目の一角だったということになる。昭和3年の「市川町鳥瞰(ちょうかん)」という地図では、この辺りは桃林だが、京成真間駅北側の本多邸のそばでもあり、信憑(しんぴょう)性は高いと思われる。
  
  阪東は昭和10年に京都へ戻っていくので、数年の市川暮らしではあったが、市川の文芸史を見る上で、大きな出来事である。もし、ご存知の読者がいたら、ぜひとも情報をお寄せいただきたい。
  
外環道路用地となった早川雪洲旧宅跡
  戦後になると、戦前のハリウッドで活躍した映画俳優の早川雪洲(はやかわせっしゅう)が、市川市須和田に暮らした時期があった。
  
  雪洲については、『産経新聞』論説委員で、市川市香取にお住まいの鳥海美朗氏から、雪洲の妻で女優の青木鶴子(つるこ)のインタビュー記事「ある国際女優の半生」(『婦人倶楽部』1960年7月号)のご教示を得た。そこには、
  
  〈雪洲の帰国を迎えて、私たちは市川に新しい家を借りました。そこは、駅から三十分ほどのところでしたが、バスがなく、私たちはどこへでかけるのにも自転車を使わなければなりませんでした〉
  
  とあった。その後、須和田の生き字引きともいえる田中隆三氏に尋ねたところ、
  
  「雪洲さんは、須和田の東光寺の北東に、戦後の混乱期に10年ほど住んでいた。そこは、ある事業家が戦前に建てた別邸で、門も塀も木製で、広い庭のある平屋造りの、とても立派で目立つ家だった。その後、別の人が住んでいたが、外環道路工事のために数ヶ月前に取り壊されてしまった」
  
  とのことだった。こんなところにも、外環工事の影響があるのかと惜しまれた。
  
  田中さんは、今のうちにできるだけ市川の歴史を記録してほしいという。6月13日には、市川公民館で、田中さんによる「市川で農業と環境を守って八十年」の話を聞く会が開催される。
  
  現在、市川市史編さん事業や文学館構想などが進められているが、昨今の事業仕分けで先行きが怪しい。地域の歴史や記録は、一度消滅したら二度と取り戻せないことを、肝に銘じたい。
  
 (2010年6月12日号)TOP PAGE 「折々のくらし」リスト


《86》
さようなら、
井上ひさしさん

市川市生涯学習センターで開催中の「追悼・井上ひさし展」
  戯曲に小説にエッセイにと、多彩な分野で活躍された井上ひさしさんが、2010(平成22)年4月9日夜、病院から鎌倉の自宅へ帰られたときに亡くなった。75歳だった。昨年から肺がんのため、入退院を繰り返していたものの、新作に向けて筆を執られたとうかがっていたので、11日の朝、ニュースで知ったときには言葉もなかった。
  
  市川市芳澤ガーデンギャラリーで開催される「米原万里展」の資料調査で、この2月に山形県川西町の遅筆堂文庫におじゃましたときには、同行した市川市文化振興財団の職員に、井上さんのあいさつ文が届いたと、うれしい連絡が入り、3月にこまつ座の舞台「シャンハイムーン」を観(み)に行ったときには、新作「木の上の軍隊」の予告ちらしが配られていたので、回復されたとばかり思っていた。
  
  訃報に接した2日後の4月13日夜、新国立劇場に舞台「夢の裂け目」を観に赴いた。客席にも舞台にも、井上さんを偲(しの)ぶ空気のようなものが流れていた。ロビーに置かれた記帳台で、井上さんへのメッセージをしたためた。 最後にお元気な姿を拝見したのは、2009(平成21)年6月に、東京・浅草公会堂で行われた「頭痛肩こり樋口一葉」公演のときだった。8月に市川で、ひとみ座の人形劇「ひょっこりひょうたん島」をやること、「よみっこ運動」でお世話になることなどを、手短にお話しした。猫背で腰の低い、親しみやすい姿が忘れられない。
  
  市川でお会いするときの井上さんは、いつも多忙な予定の合間を縫ってのことだったので、個人的には、用件を手短にお伝えする程度のお付き合いだったが、井上さんの市川に対する思いは、あふれるばかりであった。
  
  井上さんの作品を意識して読むようになったのは、2004(平成16)年2月~3月に、市川市中央図書館で「市川の井上ひさしと永井荷風」、市川市文化会館で「市川の文化人展 永井荷風展」が開催されるに当たっての準備の折りだった。
  
  荷風作とされる「四畳半襖(ふすま)の下張」という艶本(えんぽん)が、1972(昭和47)年にわいせつ罪に問われたとき、井上さんは、裁判の証言に立ち、次のように証言しているのだった。
  
  〈ぼくも永井荷風が好きで市川に引っ越したくらいでかなり読んでるんです〉 (『四畳半襖の下張裁判・全記録 上』1978年 朝日新聞社より)

  市川を代表する2人の作家が、こんなふうにつながっているのかと知れて、市川の文学の魅力に引き込まれたきっかけにもなった。井上さんは、江戸の戯作者(げさくしゃ)にあこがれており、荷風にその系譜を見ていたのだろう。若いころの井上さんは、浅草のストリップ劇場でコントを書いており、そんな環境も、荷風に重なっていたのだろう。

  永井荷風展の折りには、「私の見た荷風先生」と題する講演で、浅草で見かけたエピソードを面白おかしく語ってくださった。『座談会昭和文学史 第3巻』(2003年 集英社)でも、同様の思い出を読むことができる。

  2005(平成17)年10月から、市川市生涯学習センターに市川市文学プラザができ、井上さんの作品を紹介展示するとともに、さまざまな事業を行っている。現在は「追悼・井上ひさし展」が5月27日まで開催されており、5月1日には「第2回市川・荷風忌」が開かれた。

  井上さんは市川に、芝居ができる劇場と、本格的な文学館ができることを、いつも夢のように語っていた。

  「夢の裂け目」のなかに、こんな歌がある。

  〈学問 それはなにか
  人間のすることを
  おもてだけ見ないで
  骨組み さがすこと
  人間 それはなにか
  その骨組みを
  研き 研いて
  次のひとに渡すこと〉

  井上さんが命を託した文学も演劇も、まさにこの営みに他ならないのではないか。
  
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《85》
永井荷風と水木洋子
をめぐる新資料

  今年2010(平成22)年は、市川市八幡から、日本映画やテレビドラマなどの数々の脚本を生み出した脚本家・水木洋子(1910―2003)の生誕100年の年に当たる。
  
  昨年が生誕130年・没後50年の節目だった永井荷風の原作映画「濹東綺譚( ぼくとうきたん)」(1960=昭和35年 東宝)が、当初は水木のシナリオで計画されたものの、実現しなかったエピソードについては、本シリーズ第63回(2008年6月14日号)で、荷風の元に出入りした毎日新聞記者・小門勝二(おかどかつじ)の『浅草の荷風散人』(1957=同32年 東都書房)をもとに紹介した。
  
  そのときは、それを裏付ける水木側の資料は、つかんでいなかったのだが、その後、水木洋子市民サポーターの会会員で、市川市文学プラザ非常勤職員の石井敏子さんが、国会図書館などで、当時の新聞記事を読み込む地道な調査をした結果、興味深い新聞記事を探し当てた。
  
  それは、『毎日新聞』1956(昭和31)年4月30日付の囲み記事で、〈「濹東綺譚」映画に〉の見出しのもと、次のような文章が続く。
  
  〈東宝では秋の大作として永井荷風氏の名作「濹東綺譚」の映画化を決定。藤本製作本部長のプロデュースで監督は成瀬巳喜男、水木洋子が脚色に着手した。〉
  
  3㌢㍍角程度のごく小さな囲み記事であるが、市川ゆかりの荷風と水木の2人の関わりが示された、私たちにとっては、とても大きな発見といえる。
  
  実際には4年後に、豊田四郎の監督、水木の師匠でもあった八住利雄の脚本で映画化されたわけだが、水木邸の書斎に遺された『永井荷風作品集』全9巻(1951=昭和26年 創元社)の「濹東綺譚」の部分には、水木によるものと思われる万年筆の傍線の書き入れが見られ、脚本の執筆に取りかかっていたことを想像させる。
  
  この記事に先立つ『毎日新聞』1953(昭和28)年4月15日付には、「私の愛読書」として、水木の顔写真入りの記事が掲載される。
 
  〈①ほんの名 『永井荷風全集』
  ②よんだとき 思いだしてはよみかえしています。
  ③どこがよいか 肩がこらず最初の一行から一気によめる文体、そして男女の偽りない鋭い観察を通して人生をしみじみ味わえる感銘も得がたいものです。要するに好きなのでしょう。〉
 
  また、水木の昭和初期からの友人の高田きみえさんは、「蝋梅(ろうばい)の家」(『海丘』第34号 2000=平成12年) というエッセイで、こんなエピソードを書き記している。
 
  〈水木さんとの出会いは、築地小劇場の研究生になった時で、私がまだ二十歳だったから、交友は茫々(ぼうぼう)六十年をとうに過ぎている。その間の懐かしい思い出は、語り尽くせぬほど胸にあふれている。(中略) 仕事の合間に芝居見物に誘われた。ある日、これから浅草へ墓参りに行くからと連絡があって、京成線の駅で待ち合わせていると、彼女のうしろから歩いてくるのが永井荷風。ソフト帽をかぶり、くたびれた洋服に下駄穿(ば)きだったかと思う。墓参りをあとまわしにしてあとをつけると、ロック座の楽屋口へ姿を消した。ことの序(ついで)に表へ廻って座席についたが、エロ・グロ・ナンセンスを絵に描いたようなひどい芝居だった。〉
 
昨年の市川・荷風忌であいさつする葉山修平氏
  ◇
 
  現在、市川市文学プラザで開催中の企画展「脚本家 水木洋子と日本映画の黄金時代」では、これら水木と荷風との関わりを示す貴重な資料が展示されている。
 
  5月1日には、「第2回市川・荷風忌」として荷風原作映画『夢の女』の上映と、作家葉山修平氏の講演「荷風作品に見る女性像」が開催される。
 
  こうした新資料が集まるのも、市川に文学プラザという拠点があればこそであろう。
  
 (2010年4月10日号)TOP PAGE 「折々のくらし」リスト


《84》
寺のまち回遊展で
行徳の民話を

妙覚寺にある江戸時代初期に作られた千葉県で唯一のキリシタン灯籠(織部灯籠)
 行徳は、江戸時代に「行徳千軒、寺百軒」といわれたほど、寺の多い地域である。毎年三月に行われている「寺のまち回遊展」は、そんな行徳の寺などを回遊して、地域の魅力を再発見してもらおうというもの。今年は三月二十七日に、本行徳の権現道沿いの寺院を中心に、開催される。

 市川民話の会も、すがの会と合同で、妙覚寺をお借りして、午前十時半より、語りと紙芝居で行徳の民話を紹介する。

 行徳には、常夜燈近くの旧街道沿いに残る「源頼朝と笹屋うどん」にまつわる伝説や、徳願寺に伝わる「宮本武蔵」や「円山応挙の幽霊画」など、歴史的な出来事にかかわる伝説が、よく知られているが、きつねやムジナが活躍する民話もたくさん伝承されている。


 〈むかし、妙覚寺には梅の木がいっぱいあったんですって。夕方、遅くなると、その梅の木のそばへね、狐が出るから、子どもは行っちゃ駄目だっていったそうよ。
 金ちゃんとこのおばあさんが婚礼に行った帰りに化かされたって話があるのよ。
 ほら、昔は、お料理も、うちで作って婚礼するでしょ。だからお料理をいっぱいもらって、おばあさんが歩いて来たんだって。そしたらねえ、梅の木の近くへ来たら、可愛い女の子が出て来てね、(中略)
 「おばあさん、よんな(寄っていきなさい)」って、言ってから、
 「あがれ(あがんなさい)」っていうから、そのうちへ、あがったそうよ。
 「どんな御馳走が出たの」とか、いろんな話して、おばあちゃんが「もう帰んないと、おら、しかられちゃうから帰るよ」って帰ってきた所が梅の木のそば。
うちじゃ、なかなかおばあさんがね、帰って来ないっていうので、みなで手分けしてさがしていたんだって。(中略)  見たら、三段ぐらい石塔が重なってる所なのね。そこの所をうちと間違えたのよ。
 「おら、土産もらってきたけんどさ。そこのうち、あがったから、わりいから、くれてきたよ」 「おばあさん、何か飲まなかったか?」
 「何も飲まなかったよ」 おばあさんは狐に化かされて、すっかりお料理をとられちゃったんだって。祝言のお料理が入ってた空っ箱が石塔のうしろかたにあったそうな。何も飲まなくて良かったよ。化かされて、雨水や、他の汚い水を飲まされたって話もあるからね。〉
 (話 鈴木ふく・関ヶ島。『市川の伝承民話』市川市教育委員会より)

円頓寺境内の南側の道に覆いかぶさるように「化け松」が生えていた
 〈円頓寺(えんとんじ)を曲がって、ちょいと来ようと思うと、松の木がちょうどこういう風に、往来に出ちゃってたの。この所へ来ると何かゾーと寒気がするって、みな言ってたんですよ。言いながら歩いて通ったの。
 そうしたら、てんきりこんな大きな、たんすがワーと化け松の所から下がっちゃったの。ここを歩いて行かなくちゃ、どうしたって家へは帰れない。
 それから皆で、ワァワァ騒いで石橋の側まで来るの。するとね、おじ横町っていってね―おじ(次男三男)たちがみんな、あそこに世帯持ってるから―そこまでみなで騒いで来て、四軒町(しけんちょ)っていう家へかけ込んじゃうの。
 そうすると、「おめえら、どうしたのか?」ってね、聞かれてね。「今、あそこでたんすが下がっちゃってねえ、えらい目にあっちゃった」っていって、そこで一服して、急いで家へ帰って来るの。
 それでね、それは狐じゃなくて、むじななんだってさ。〉
 (話 萩原とく・本塩。同右より。)

 こういう民話には、かつての行徳の土地の様子が、織り込まれており、地域の雰囲気を知るには、またとない題材である。民話集として文字に記録はされているが、実際に語りで聞いてもらうと、さらに実感できることだろう。
  
 (2010年3月13日号)TOP PAGE 「折々のくらし」リスト


《83》
小島貞二の描いた
セレベス島の寅さん

 寅(とら)さんといえば、誰もが渥美清の「男はつらいよ」の寅さんを思い浮かべることだろう。
 しかし、それよりズーッと前の、終戦直後の南方で、俘虜(ふりょ)生活を送った寅さんがいる。
 それは、戦後、市川市中山に暮らした演芸評論家・小島貞二の描いた寅さんである。

 戦前、鉱業会社に勤めていた小島は、昭和十九(一九四四)年七月から、南方のセレベス島(現・インドネシア・スラウェシ島)へ派遣社員として赴任する。翌二十(一九四五)年七月、現地召集で陸軍二等兵となるものの、終戦によりマリンプンという土地で捕虜生活を余儀なくされた。
 「寅さん」は、その収容所生活の中で生活を少しでも明るくしようと、同年十一月から収容所内の壁新聞のために描かれた四コマ漫画である。
 主人公について、小島は、次のような回想を残している。
〈おっちょこちょいだが無類の好人物。世のため人のためなら苦労をいとわない。丸顔でひげ面で、血液型にすればB型人間。四十がらみの健康なオッサンときめる。ネーミングは落語の八っつあん、熊さんの連想から『寅さん』とつけた。
 あとの話になるが、戦後、渥美清の『男はつらいよ』の寅さんが、私の設定した寅さんの人物像にそっくりなほど似ていた。〉
(小島貞二『わたしのフンドシ人生』より)

 例えば、同二十年の暮れに書かれた作品は、中央に
〈寅さんマリンプンの現実にあってしみじみと内地の年の暮を想像してみましたしみじみと日本が遠い年の暮〉
と吹き出しがあり、以下のような絵が並ぶ。
〈何年ぶりかの平和なお正月をささやかに迎える事でしょう〉
〈雪だるまも軍国調はなくなってたのしいところでノンキナ父さんなど作っています〉
〈丸公が廃止されて値段は高いですが品物は自由に買われます〉
(丸公とは戦時中、物価高騰を防ぐために設けられた公正価格制のこと)
〈冬の寒空にふるえている気の毒な人たちもあります〉
〈つるはしの響き鍬(くわ)の音復興の息吹きは逞(たくま)しくもまた旺(さか)んです〉

 次のようなことば遊びの作品も描かれている。
〈船は早いでしょうか? さァセレベスはどうですか? 敗戦(はいせん)になって配船(はいせん)を待つ… なる様にしかならァしない やァ御苦労さん 寅さん牌戦(はいせん)と行こか あれあれ雨まで沛然(はいぜん)と降って来居ったョ〉

 こうして描かれた寅さんは、六十枚近くにのぼったが、同二十一(一九四六)年五月の復員船で持ち帰れたのは、三十二枚だけだった。

 現在、市川市文学プラザで二月二十八日まで開催中の企画展「小島貞二の世界」では、この貴重な寅さんの原画が展示されている。
 二月十四日には、同プラザ二階のベルホールで、午前中は「牛山純一と仲間たち」と題して、映像プロデューサー牛山純一を中心に制作されたスラウェシ島を始めとする東南アジアの民族を紹介する映像民族誌上映会が、午後は小島の長男でプロデューサーの小島豊美氏による「父・小島貞二を語る」と題する講演会が、それぞれ予定されている。
  
 (2010年2月13日号)TOP PAGE 「折々のくらし」リスト


《82》虎のいる風景
 千人針を語り継ぐ

京成国府台駅近くで千人針を女学生に頼む婦人(小島染雄氏撮影・小島愛一郎氏提供)=水野幸子『あの日あの時私達は』(2006年)より
 二〇一〇(平成二十二)年は、太平洋戦争終戦から、六十五年目を迎える。ひと世代が概ね三十年とすると、すでに三世代目に突入しているわけで、「千人針」といって、どれくらいの世代までが、思い浮かべることができるだろうか。

 「千人針」は、戦時中、出征する兵隊の無事を祈って、白い晒(さら)しの布を腰に巻ける長さにし、そこに、赤い糸結びを千個縫い付けたものである。赤い糸は、女性が一人ひと針を縫いつけていくため、出征することが分かると、身内の者が、知り合いや街頭に呼びかけて、千人の人に縫ってもらった。

 出来上がった千人針は、兵士が肌身離さず身に付け、それにより、無事に帰れるという願いを託したのである。万葉集などにも見られる「玉の緒」信仰にも通底する俗信で、その図柄として虎が選ばれた。また、寅年の女性は、自分の年齢の数だけ縫うことができた。

 市川市国府台にお住まいだった市川民話の会の水野幸子さんは、戦争体験を記録し、次代に伝えていこうと、市川市周辺に住む昭和一桁生まれの人に呼びかけ、『あの日あの時私達は』という記録集を、二〇〇六(平成十八)年に刊行された。そこにも、千人針について、何人かの体験が記録されている。

小島染雄氏の千人針(小島愛一郎氏提供)
 〈大東亜戦争が勃発した時私は女学生でした。(中略)国防婦人会と書いた襷(たすき)をかけた女性達が、町に出て「千人針をお願いします」と道行く人々に呼びかけていました。「寅(とら)は千里行って千里帰る」と言われ寅年の人は、年の数だけ刺します。また死線(四銭)を越すとかで五銭玉を縫い付けていました。
 相田敏江(当時新宿区)〉

 〈三年の時に大東亜戦争が勃発しました。(中略)女学校では殆(ほとん)ど勉強する日はなく、勤労奉仕に出かけました。千人針はずい分やりました。私の学年は寅年と卯年でしたので寅年の人は沢山刺さなくてはならないので大変でした。晒に武運長久と書き赤の糸でこぶを作って刺します。この布を持って出征し、身につけて戦場で戦ったのです。
 松永昭子(当時渋谷区)〉

 〈私は市川市の菅野に在る寺、不動院で生れました。大東亜戦争勃発の時は五年生でした。(中略)昭和十八年に女学校(昭和学院)に入学しました。(中略)学校では千人針をさしたり慰問文や慰問袋を戦地に送りました。
 小林智恵子(当時市川市)〉

 この本にはまた、市川の写真をよく撮られていた小島染雄氏が撮影された、京成国府台駅近くの街頭で、千人針を頼んでいる女性の写真も掲載されている。ご子息の愛一郎氏によれば、昭和十八年か十九年ころの写真だろうとのこと。

 愛一郎氏からは、「父が身に付けて行った千人針が残っており、市川市文化会館で開かれた市川市写真家協会の写真展でも、展示したことがありますよ」との思いがけぬ話をうかがい、展示写真まで提供していただいた。赤糸で虎が描かれ、五銭玉が縫い付けてあるのが分かる。

市立歴史博物館所蔵の千人針(同館提供)
 市立市川歴史博物館にも虎の図柄の千人針が所蔵されており、その左脇には、
「身体健全
清正公大奥義守護
武運長久
(氏名)
二十二才」

と墨書されている。清正公というのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、虎退治をしたとの逸話を持つ加藤清正のこと。二十二歳の若者は、どのような思いで戦地に赴いたのであろうか。

 ちなみに『あの日あの時私達は』には、次のような記録も紹介されている。

 〈昭和二十年(中略)私は市川市立中学校に入学した。一年の担任は虎渓(とらたに)先生で、お坊様だったので、昼食の時はいつも〽箸とらばーのお経を合唱させられた。
 佐藤錦一(当時市川市)〉

 こちらの虎は、また趣きを異にする。

 市民ひとりひとりの体験もまた、次代に伝えていくべき、市川の貴重な文化資産といえよう。
  
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