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「一度住むと離れられない行徳」

行徳が舞台のテレビドラマ『帰郷』脚本家

 久松 真一 さん

 「行徳は多様な人間がいて面白い。住みやすく、一度住むと離れられない」と愛着は強い。脚本家で劇作家の倉本聰さんに学び、人の心を描いた作品を多く手掛け、「地元の飲み屋で会う行徳の人々が教材になることも」と笑う。

 脚本家を志したのは大学時代。テレビで倉本さんのドラマを見たとき、「人の心をここまでリアルに描けるものか」と深い衝撃を受けた。その後、「直接教わりたい一心」で、倉本さん主宰の富良野塾に入門。自給自足の農業をしながらシナリオや演技を学ぶ2年間を過ごしたあと、テレビの一線へ繰り出した。「人をよく見て、愛情を持ちながら人の色々な面を描くことで、感動をもたらすドラマが生まれる」と、人との出会いを糧に、心に届く物語を作り上げる。

 素顔は3人の子供を持つ51歳のお父さん。中学生の娘とは趣味の音楽の話で盛り上がることもしばしばで、「子供たちに目を配れるでしょう」と自宅の居間で執筆する。「ドラマを見た人が『生きていてよかった』『人生っていいもんだな』と感じられるような、感動を与える作品をこれからも作っていきたい」。

 (2011年12月17日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 


「歌と仲間で実りのある日々に」

30周年を迎えた合唱団「コール・チクタク」指導者

 時任 和子 さん

 障害者のための市川市主催講座の合唱団コール・チクタクで、昭和56年の発足時から指導者を務める。障害者を教えるのは初めてだったが「たくさん勉強させてもらった」とやりがいは大きい。

 指導は、「技術よりも楽しく歌えること」を重視。自然と「優しい仲間たち」が集まり、現在は障害者と健常者計56人が受講。健常者は障害者を介助し、難病を抱えた人も「チクタクだけは」と練習に現れる。「歌があって仲間がある。チクタクはそれがすべてなんです」とほほ笑む。,br>
 活動15周年を迎えたころから、チクタクのための曲を作っている。受講生の何気ない言葉や、歴史ある市川の風景などに触れると、自然と詩が浮かび、曲を作らずにはいられない。「自分たちの歌」を歌うことで、メンバーの結束も強くなった。いまは「多くの人にチクタクを知ってほしい」と、新しい仲間の広がりも願っている。,br>
 「限りある命。美しい歌と優しい仲間たちで、実りある日々を送ることが夢」という74歳。童謡『大きな古時計』にあやかったグループ名には、「百年先も歌い続ける」という願いが込められている。

 (2011年12月10日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 


「リスナーが楽しめるラジオを」

インターネットラジオ局「ちょあへよ.com」局長

 杉村 一之 さん

 高校時代、タレントの伊集院光がパーソナリティを務めるオールナイトニッポンを聴いて、どっぷりとラジオにはまった。深夜に繰り広げられる言葉だけの世界。ネタハガキを投稿し、番組内では名の知れた常連にもなった。リスナー参加型のイベントにも足を運び、「ラジオは聴くより参加するもの」とも学んだ。「もともと引っ込み思案な性格だったが、それを変えてくれたのもラジオ」。時は経ち、37歳にして現在はラジオ局の局長だが、「そんなことを学生時代の自分が知ったら、驚きで声も出ないはず」と笑う。

 長年の親友と浦安のコミュニティFMのパーソナリティーを10年ほど務めた後、「ちょあへよ」を開局。配信環境の整備など責任が増えたが、「ネットを活用し、仲間たちと作り上げるラジオは、かけがえのない存在」。リスナーを交えたボウリング大会を開くなど、学生時代に楽しんだ「参加型ラジオ」を目指している。

 コンピュータ関係の本業が多忙で帰宅できないことも多々あるが、「リスナーが楽しめるラジオ」を実現するための時間に惜しみはない。

 (2011年11月26日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 


「碁の奥深さ知りたちまち熱中」

創立30周年を迎えた西部碁友会会長

 手塚 功 さん

 発足から30年、碁を通じて会員相互の親睦を深める同会の2代目会長。「熱中できて、ボケ防止にもなる」と碁の魅力を語る82歳は、同会以外にも2つの囲碁サークルに所属しており、碁漬けの毎日を送っている。「碁は病気と同じ。かかったら一生ついて回る」。碁を始めてから半世紀以上経過したいまでも「あの定石をマスターしたい」など情熱は冷めない。

 東京で働いていた20代半ばのころ、上司に誘われる形で始めたが、「初めは基本を覚えるのが面倒だった」。しかし、「同じ形が一つもない」碁の奥深さを知ると、たちまち熱中。いつしか通勤や旅行、家族だんらんの時間すらも碁の本を携帯するほど、魅力にすっかり取りつかれた。

 同会には約20年前に入会。「共通の趣味があると仲間になれる」ことに喜びを感じた。こうしてできた仲間と、花見や旅行、カラオケなど、碁以外を楽しむ時間もいまでは欠かせない生活の一部だ。

 とはいえ、平均年齢が75歳超という同会の現状に危機感もある。「細く長く続く会であってほしい」。百戦錬磨のその腕で、次世代につなげる次の一手を模索する。

 (2011年11月19日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 


「汗流した仲間で日の丸背負う」

スピードボール世界選手権日本代表

 榎本 美紀 さん
 福田 大夢 さん
 小川 若奈 さん

 競技を始めたのは、ともに小学生のころの公民館講座がきっかけ。「初めはラケットにボールが当たらず、面白いとは思わなかった」。ただ「友達に会えるのが楽しみ」で、毎週欠かさず通っているうちに腕も上達。いつしか「ボールを芯でとらえた時が快感」(榎本さん)、「日に日に記録が伸びていく」(福田君)と、競技そのものの楽しさに引き込まれていった。

 しかし、世間的にマイナーな競技だけに、練習会場の確保が難しかったり、遠征時に学校の公欠がとりづらかったりと、活動には何かと難題がつきまとった。こうした問題に加え、3人は、記録が伸び悩むというトップアスリートたちに共通する悩みも抱えている。「正直辞めようか悩んだ」こともあり、時には「練習中にやる気のない態度をとった」(小川さん)、「一時期スピードボールから離れた」(福田君)など、3人とも競技との向き合い方を少なからず考えた時期があった。しかし、こうした経験は「ここまで続けたんだから辞めたくない」(榎本さん)、「自分にはスピードボールしかない」(福田君)など、競技を見つめ直すきっかけになり、また、その後トッププレーヤーに成長する原動力にもなった。

 榎本さんと小川さんの2人は、昨年日本で開催された世界選手権に初出場し、世界のトップの強さを肌で感じた。2人で出場したジュニアクラスの女子ダブルスでは「手を抜かれているのが完全に分かった」(榎本さん)、「いままでに経験がないほどボロボロに負けた」(小川さん)と、悔しさも忘れるほどの負けっぷりに、当時は2人とも茫然。ただ、時間の経過とともに「このままでは終われない」(榎本さん)、「せめて試合になるような実力を身に付けたい」(小川さん)と考えるようになり、その後の練習では、技の習得や、基本動作の再確認など、これまでおろそかにしてきた部分を積極的に学ぶようになった。

 こうした努力が実を結び、2人は2年連続で世界選手権の出場権を獲得。また、今年は、受験を優先したこともあり、前回大会出場を逃した福田君も悲願の代表選出を成し遂げ、幼少のころから一緒に汗を流してきた3人の高校生がそろって日の丸を背負うこととなった。3人は「何でも話せる仲」(榎本さん)、「競技の相談ができる数少ない存在」(小川さん)と、互いに高め合うよい仲間。今大会に出場する相手は強敵だが、「メダルを持って帰ってくる」と、高い目標の実現に向けアタックする。

 (2011年10月22日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 


「かけがえないものを守るため」

浦安JC(浦安青年会議所)理事長

 深作 寛 さん

 「一所懸命~かけがえのないもののために」を所信に掲げ、1月に今年度の理事長に就任した40歳。その後、東日本大震災に遭った浦安を守るため、メンバーとともにまい進している。

 「尋常じゃない」。浦安の被災状況にぼうぜんとするが、すぐさま思い浮かんだのは「何かしなきゃ」。モットーの「悩むなら行動」が、被災翌日からの市民や行政への支援に表れた。さらに子供の「早く学校に行きたい」という言葉が、市内の子供たち皆の声にも聞こえ、連日の活動を後押しした。

 新浦安で整骨院を経営し、JCに加入して12年。明るい豊かな社会を築くことを目指すJCを「多くの人と出会い、さまざまなことを教わり、自分が成長できる場」とみる。メンバーやOB、近隣JCがボランティアに駆けつけた姿に、JCの本質をいままで以上に感じている。

 いま胸に抱くのは、各地から集まってくれた一般ボランティアへの感謝。そして、ボランティアに来た浦安在住外国人の「This is My Home」という言葉に、絆作りへの思いを新たにしている。

 (2011年10月15日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 


「喜んでもらえたら元気が出る」

市川演芸ボランティアグループ会長

 洞澤 米里 さん

 「ボランティアの〝ボ〟の字も知らなかった」という平成元年、定年退職をして都内の社会福祉協議会に勤務。初めての福祉事業に、「こんなに良い仕事があるのか」とすっかり魅せられ、ボランティアに目覚めた。すぐさま社協の中で、高齢者の元にボランティアスタッフを派遣する新たな事業を開始。通院や車イスの介助、代読・代筆、老人ホームへの慰問などを行うボランティアスタッフの数は、社協を退職する同6年には500人近くになるまで成長した。
 
 同8年に市川に転居すると、翌9年には、都内でともに活動してきた仲間や市川のメンバーらと市川演芸ボランティアグループを設立。日ごろはスケジュール管理や事務に励む一方、慰問先では司会進行役を務めながら、退職後に習った新舞踊も披露している。
 
 自宅を都内に戻したいまも、活動は市川で継続。「喜んでもらえたら『やっていて良かった。またやろう!』と元気が出る」。人々の笑顔が活力の源だ。趣味の釣りもできないほど、忙しく充実した毎日を送る82歳。「倒れるまでとことんやる」と〝生涯ボランティア〟を誓う。

 (2011年10月8日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 


「自転車が日本一にしてくれた」

ロンドン五輪を目指す自転車ロードレーサー

 西 加南子 さん

 中学・高校時代は陸上の中距離選手として活躍。大学入学時に静岡県から上京し、船橋市内のサイクリングショップのチームでロードレースを始めた。トレーニング中、市川の大きな松のある街並みや真間川沿いの桜並木などを通り、「いい街だな。こんな所に住みたい」と感じて真間に転居。卒業後、大阪で1年間自転車修行をした後も、すぐ市川に戻ってきた。

 当初、ロードレースに熱中した理由は「定年退職した人から学生まで、幅広いチームのみんなでワイワイとレースに行くのが楽しかった」から。いまでも、レース場でいろいろな人と出会えることが楽しみの一つだ。

 多くの人から支援を受け、40歳のいまでもトップレベルを維持。最も身近で支えてくれる夫には、「レース前などに感情を表に出しても耐えてくれる。家事がおろそかになるときも助けてもらっている」と感謝の気持ちがあふれる。

 「自転車は、私を日本一にしてくれたもの。そういう自信もくれた。競技じゃないところでも一生続けていきたい」。もはや、生活から切り離すことのできない存在だ。

 (2011年10月1日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 


「今度こそ途絶えさせたくない」

八幡囃子保存会代表

 内藤 守 さん

 「祭りを見ると血が騒ぐ」。幼いころから祭りに参加し、青春時代は肩から血が出るまで神輿を担いだ。社会へ出ると東京中の祭りを見て歩き、「地元でも大神輿が出るような祭りをしたい」と強く願った。そんな折、運よく八幡祭の再開計画が浮上。たまらず実行委員会事務所に飛び込み、以降、現在まで運営に携わってきた。

 偶然参加したお囃子で演奏の楽しさに目覚め、同保存会を結成。その後は、人一倍、お囃子に没頭した。悲願だった「八幡神楽囃子復活」をなんとか達成したいまは、「6年後の八幡祭式年大祭までに、舞をつけた神楽囃子を復活させる。今度こそ、八幡のお囃子を途絶えさせたくない」と誓う。

 自治会役員や葛飾八幡宮の氏子青年会参与などを務め、地域に尽力してきた62歳。「地域活動は60点主義がモットー。気楽に参加しやすい雰囲気づくりが継続の秘けつ」という。再開発で変化していく町を見て、「祭りを通じて、地域が一つになることが大事」と感じている。「祭りがあって、地域の人々が円満に暮らせる下町みたいな市川」を目指し、伝統を次世代に伝えていく。

 (2011年9月24日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「自分にしかできないダンスを」

手話パフォーマー

 高木 理叶 さん

 体を動かすことが好きだったこともあり、「手話とダンスを融合させた、自分にしかできないダンスをしたい」と、37歳の時に思い切ってOLを辞め、専門学校でダンスを学んだ。音は聞こえなくとも、体に叩き込んだリズムと、耳の代わりとして支えてくれる仲間を信じて、舞台に立ち続けている。

 パフォーマンスで最も大切にしているのは、「ろう者の目線」。歌詞を手話に当てはめても、ろう者には理解しづらく〝歌嫌い〟を招く恐れもある。そのため、「歌詞の意味を含みつつも、視覚で伝わる手話」を心がけ、「見て美しいダンス」になるよう、踊りを撮影したビデオを確認しながら手話を振り付けていく。根気のいる作業だが、手話ダンサーの仲間と試行錯誤し、これまでに35曲の振り付けを完成。「ろう者には『歌の面白さ』を、健常者には『手話ダンスの感動』を伝えたい」。

 オフの日は「字幕付きのドラマを見るか、温泉巡りを楽しんでパワーを充電」する47歳。いまの夢は、手話ミュージカルに挑戦すること。「実現するためにも、人との出会いを大事にしていきたい」。

 (2011年9月17日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「境川はまちづくりの大きな源」

浦安灯籠流し境川実行委員長・海まちデザイン代表

 五十川 勝 さん

 横浜みなとみらい21や筑波研究学園都市など都市環境づくりに携わったまちづくりのプロ。最後にかかわった浦安には「その後を見守り続けたい」と越してきた。

 その後、水辺の生き物の復活や水辺を生かしたまちづくりなどを推進する市民団体「海・まち・デザイン」に当初から参画した68歳。市民の側からまちづくりに積極的に携わる。

 「川沿いのまちづくりは浦安の行政と市民の宿題」。灯籠流しやボート乗船体験などを企画してきたのは「境川はかつて、浦安の生産、遊び、景観の源だったが、今後のまちづくりにとっても大きなエネルギー」との思いから。さらに「重要なのは物ではない。人々がどのように暮らし、にぎにぎしくしていくか」と、心の拠り所になるソフトづくりを重視する。一方、将来にわたって住み続けられる街のためには「産業の育成、財政の維持も欠かせない」と、広い視野でまちづくりを見る。

 灯籠流しに現れるアオギスやカッパなどのねぶたは、設計の経験を生かした手製。浦安への思いが込められたねぶたは、きょうとあす、灯籠とともに川面で光を放つ。

 (2011年9月10日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「選手が楽しめるよう全力投球」

県で初めて発足した障害者野球チーム発起人

 笹川 秀一 さん

 市川市の少年野球大会「小笠原杯」を支援するNPO法人G2プロジェクトの代表。同NPOの新たな試みとして、県内初の障害者野球チームを発足させた。チーム名は「夢は誰にでももてる」との思いから「市川ドリームスター」に。「いずれ世界大会に出場する選手を育てたい」と、名前に負けない大いなる夢を思い描く。

 障害者野球を知ったのは約3年前。それまで「障害者とのかかわりがほとんどなかった」こともあり、「初めて見る障害者野球の激しさに衝撃を受けた」。すぐにチーム発足を目指したが、メンバー集めには時間を要した。問い合わせがあっても「人とかかわるのが苦手」など不安を訴える人ばかり。「『試しに一度来てみてください』と誘ったが、正直どうすればいいのか分からなかった」という。

 しかし、練習を始めたら不安はすぐに解消した。「言葉なしでも野球はできる。野球をすれば会話が生まれる」。メンバーが野球を楽しむ姿を見て、「彼らが常に野球を楽しめるよう、自分にできることがもっとあるはず」と気持ちを新たにする39歳。チームの飛躍のため、今後も全力投球を誓う。

 (2011年9月3日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「花々が生む景観と触れ合いを」

浦安の景観づくりに励む

 中村 周三 さん

 触れ合いが生まれる街を―。大学で建築設計を学んだ後、デザインの世界に従事した79歳。越してきた浦安は埋め立ての街。「私の故郷」といえる、思い出に残る街にと景観づくりに注目してきた。

 趣味の水彩画で浦安の街並みを描き、平成18年に個展を開いて好評を得た。続く今回の「ステキ浦安・花満開・浦安百景写真展」の写真は、樹木に名前の札を付ける活動に携わる中で「浦安には四季折々の花がたくさん咲いている」と気づいてから撮りためてきたもの。景観についての建築の世界の言葉「建物の脇に木を植えさせてもらえ。建物が古くなっても木が助けてくれる」も思い出す。

 家々で見事に咲く花々。きれいに咲かせたい、道行く人に楽しんでもらいたいと手がかけられている。しかし、庭の手入れには、2、3世代が必要な場合もある。世代の継続性がある家が少ないとも胸を痛める。

 「昔ながらの触れ合いが楽しめる商店が減っている。散歩をしたい街並みも多いかどうか。しかし、花が咲いていれば、そこに人の触れ合いが生まれる」。花のある景色と触れ合いを願っている。

 (2011年8月27日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「うれし涙を流すほど感動した」

東アジア・パシフィックボウリング大会優勝メンバー

 室井 勝 さん

 18歳から全日本チームに名を連ね、国際大会への出場は2度目。今大会のチーム戦では、優勝が決まった瞬間、「思わず皆でうれし涙を流した」ほど感動した。

 幼いころに始めたボウリング。中学生のときに「常にレーンの状態を読んで投球する」という頭脳プレーの面白さに目覚めると、高校までは帰宅後のレーンで自主練習に励み、関東大会などで活躍。ボウリング部が強豪で有名な千葉商大に進学後は、毎日の練習で自分のプレーとじっくり向き合いながら、ときには元全日本チームの先輩に指導を仰いで、全日本入りを果たすほどの実力をつけた。

 部活で輝かしい成績を収めてきたことも誇りだが、何よりも「同年代の友達が増えたことがうれしかった」。練習の合間には「カラオケで友達と熱唱することが欠かせない」とはにかむ21歳。

 次の狙いは「4年後のアジア大会でのチーム戦金メダル」。それには「フォームの安定と、経験の引き出しを増やすこと」が課題だ。「先輩に追いついて、もっとチームに貢献できるようになりたい」と心に決めている。

 (2011年8月20日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「必死に打ち込みつかんだ大賞」

第3回さくらんぼ文学新人賞で大賞を受賞

 中村 玲子 さん

 「本は読む専門」だったが、姑の介護と子育てに追われる生活の中で、「打ち込める自分だけの時間」が欲しくて5年前に初めて筆を取った。最初は娘のために物語を書いたが見向きもされず、悔しさから本格的に挑戦。社会性のあるテーマで書いては各賞に応募したが、すべてが1次選考すら通過せずに落選。完全に落胆したが、「せめて1次通過だけでも」と、すがるように応募し続けた。

 「どうせだめだろう」。今回もあきらめていたため、2次選考通過を知ったときは思わず震えた。「これまで何かに激しく打ち込んだことはなかった」が、発表まで必死に祈り続け、最終審査で届いた念願の吉報。「『好きに書いていいんだよ』と認められた気がした」。

 同作品は「台湾での抗日運動の事実を知ってほしい」と、祖父の体験を基にした思い入れのあるもの。ほかの賞では落選していたが、あきらめず手直して再び挑んだ。

 世には認められたが、「もっと娘や夫に喜んでほしいかな」と笑う52歳。「せめて家族にご飯をご馳走してもらいたい」というのが、いまのささやかな夢。

 (2011年8月6日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「多くの人に作品聞いてほしい」

創作民話朗読の会代表

 杉 彌生 さん

 平成13年、民話の作者で親友の辻田三樹恵さんと同会を結成。自身は読み手として出演してきた。同19年に辻田さんが乳がんで亡くなり活動を休止したが、創作に意欲的だった辻田さんの遺志を酌んで、翌年再開。「まだ書きたかったはず」。自身も辻田さんと同時期に肺がんを患ったが克服しただけに、親友を思うと涙がにじむ。

 夫婦で喫茶店を経営し、役者としても活動する74歳。20代のときに劇団で出会った辻田さんの第一印象は「年下なのに生意気なやつ」だったが、気付くといつも行動を共にし、持ち前の情熱で執筆に打ち込む姿を尊敬もしていた。

 辻田さんは作品の完成度にこだわり、同会でも「上演直前まで手直しが終わらなかった」ほど。そのため、一人での再開を迷ったが、「作品を多くの人に聞いてもらいたい」という思いが決め手となり、ずっと活動を支えてくれた俳優の夫らと共に再び歩み出した。

 「朗読は、役者が一人で構築する世界」。いまでも週3日はジムに通い基本の体力づくりを欠かさない。「作品を広めるためにできることをしていきたい」。笑顔で遺影に収まる親友にそっと誓う。

 (2011年7月23日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「仲間意識が地域愛をはぐくむ」

市川市消防団長

 鈴木 俊一 さん

 20代半ばで消防団に入団。「月に一度顔を出す程度でいい」と誘われたが、入団してすぐに消防操法大会が控えていたため「週に2度、3度と増えていき、大会直前には毎日になった」と笑う。ただ、サポートしてくれる先輩たちへの感謝の思いから「やるからにはいい成績を」と夢中で訓練。「厳しい訓練を続けていれば仲間意識が強くなる。それが自然と地域愛をはぐくんでいった」と振り返る。

 消防団員として初めての生活は約5年で終了。退団後は「サイレンが聞こえても起きなくていい」生活を素直に喜んだが、消防団ではぐくんだ地域愛を商店会やPTA、青少年相談員など、ほかの地域活動へと発展させていった。

 その後40代半ばに2度目の消防団生活を終えた後、当時の団長から要請され、40代後半で副団長に就任。それから10年以上、仕事やほかの地域活動で忙しい日々を送りながらも、団員たちの活動をサポートしてきた。

 4月に団長に就任。いまは「防災面で市民に心配させるようなことがない街を作ること」が究極の夢。この夢の実現に向け、同市消防団員約360人の先頭に立つ。

 (2011年7月16日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「皆のために舵取りに努めたい」

第17代浦安市議会議長

 辻田 明 さん

 「議員として培ってきた12年間の経験を生かし、皆をまとめ、舵取りに努め、皆のために頑張りたい」―。浦安市議になって4期目に議会のキャプテン、調整役の議長を拝命した。

 「少年をいち早く大人にし、大人をいつまでも少年の気持ちでいさせてくれる」というラグビーを、高校から始めたラガーマン。現在は、市ラグビー協会会長や市体育協会理事などを務めている。小学校時代の鼓笛隊での指揮者、高校ラグビー部時代のキャプテンなど〝まとめ〟役を担ってきた自らを、「目立つ方ではないと思うけれど、不言実行タイプかな」と評する。その言葉と、皆からの信頼を受けてきた実績の背後に、責任感の強さが映る。

 東日本大震災に遭った浦安市の議会では、よりよい復旧・復興を進めるべく、また「今後さらに、いつ起こるか分からない大震災にも備えるため、いまは市との協力体制をつくりたい」と奔走する。

 ブラスバンドの経験から、願うは「浦安ジャズ・フェスティバル」の開催という58歳。「ワン・フォア・オール、オール・フォア・ワン」の姿勢で、浦安のために尽くす。

 (2011年7月9日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「手を抜かず、何事にも全力で」

第63代市川市議会議長

 松永 修巳 さん

 定年までは、船橋市職員として40年以上勤務。在職中は、少年数百人を中国・上海へ連れて行く「少年の船」や、同市三番瀬海浜公園での花火大会など、さまざまな大事業を立案し、成功につなげた。

 「定年後は地元でゆっくりしよう」と考えていた矢先、地元に市議が不在の状況を打破しようとする地域の人から推され、平成15年の市議選に初挑戦。「出馬した以上は周りの人を裏切れない」と選挙活動にまい進した結果、多数の票を集めて初当選を果たした。その後も危なげなく当選を重ね、現在3期目。「手を抜くことが嫌いで、何事にも全力で取り組む」という71歳。

 新人議員が顔をそろえる市議選直後の議長として「早く全議員の特徴を把握し、円滑な議会運営を実現したい」。議員は「奉仕の心が最低限の資質」。こうしたことを「新人議員に教育することも先輩議員の役割」と意気込む。

 「頼まれたことが実現する瞬間」が一番の喜びだが、「次の仕事が待っている」ので休む暇はない。「〝あいつが議員で良かった〟と言われる存在になりたい」と、これからも全力投球を続ける。

 (2011年7月2日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「自分にできることで応援する」

「がんばろう浦安 つながろう日本」実行委員長

 南山 光徳 さん

 「こんなとき、ダンスは何の役に立つんだろう」。震災報道を見たときは絶望のどん底。仕事も休止し、不安な時間ばかり増えたが、「この気持ちを抱えているのは皆同じ」と切り替え「自分たちにできることで、人々を応援しよう」と、震災3日後にはイベントを提案。「もともと無鉄砲な性格」というが、19歳から始めたダンスを「意味のあるものにしたい」という思いに突き動かされた。

 双子の兄の背中を追うようにジャズダンスを始め、2年後には厳しい倍率を勝ち抜いてテーマパークダンサーに合格したが、思うような役がこない現実が続いた。「何をしているんだろう」。挫折感を味わったが、その気持ちをばねに基礎から猛練習。すると、23歳のときに憧れのショーに大抜擢された。「やればできる」。その経験は、いまでも自分の大きな支えだ。

 「ダンスは自分を成長させてくれる」。大好きなテーマパークは心を鬼にして引退し、劇団四季や海外留学などに挑んでいった。現在は社交ダンスやダンス教室の運営に力を注ぐ。「いろんなダンスができるビルを建てたい」。35歳の胸に夢が輝く。

 (2011年6月25日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「皆が知ることで社会は変わる」

浦安ドキュメンタリーオフィスの代表

 中山 和郎 さん

 「子供たちが自然や社会でずっと共存していける、持続可能な社会を目指したい」という41歳。東日本大震災で延期になった、念願の「うらやすドキュメンタリー映画祭」を、当初予定から3か月後のきょうとあすに開く。

 ドキュメンタリー映画を見ることは、身近で起きている現実を知り、忘れていたことを思い出し、生きることを考えるきっかけ。「皆に知ってもらうことで社会は変わる。制作者が捉えた人間の生き様や社会の課題を伝えたい」という。

 大阪出身で、人権問題に関心をもち、ドキュメンタリー映画の世界へ。大学入学と同時に関東に移り住み、都内で自主上映会を主催した。その後、浦安ドキュメンタリーオフィスを主宰し、年2回以上の上映会を開いて丸5年。延べ17回21作品を上映してきた。

 年に60本ほど見るドキュメンタリー映画をきっかけに、持続社会へとつながるよう、生活にも配慮。映画製作にも一部携わる。ドキュメンタリー映画の配給を本業としつつ、上映会と映画祭を開き続ける。「いつかドキュメンタリー映画を上映する施設を浦安に作れたら」―。心の片隅に夢の芽がある。

 (2011年6月18日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「子供ながら消防に憧れていた」

市川市消防局長

 角来 秀一 さん

 大学を卒業して一般企業に2年間勤めた後、市川市消防局に入局。父が消防団員だったため、「災害が起きれば昼も夜もない消防の過酷さ」は知っていたが、同時に、訓練や出初め式での勇姿、災害時に町を守る消防の姿に「子供ながらに憧れていた」。

 入局直後はいまでいう警防隊や救急隊として、季節も昼夜も問わず、現場に駆けつける毎日。「日々を夢中で過ごしていた」ため、1日の経過が「驚くほど早かった」。入局から現在までの35年間も「あっと言う間」。その間「決して忘れられない」悲惨な現場にも立ち会ってきたが、「やめたいと思ったことは一度もない」と話す。

 市民から感謝の言葉をもらうことも多い消防の仕事。「当たり前のことをしただけ」だが、「やりがいを感じる瞬間」でもある。全国的に救急車の利用マナーが騒がれているが、「相談できる人が本当にいないときは、気にせず消防を頼ってほしい」と訴える。

 そんな59歳も、家族の中では4人の孫に愛されるおじいちゃん。趣味のテニスや孫との時間でリフレッシュしながら、47万市民の生命と財産を守るために奔走する。

 (2011年6月11日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「世界大会は自分が出場する!」

パワーリフティング選手権の40歳以上の部で日本一

 鈴木 康之 さん

 パワーリフティングを始めてまだ6年。若いころに格闘技で鍛えた体を取り戻そうと軽い気持ちで始めたが、「やればやるだけ成果が伸びていく」この競技の魅力にのめり込んだ。当初週に2、3日だった練習は、いまでは4、5日となり、自分が決めた練習量をこなせないと不安になるほど。「何より自分に負けたくない」と日々トレーニングを積み重ねている。

 今回優勝したジャパン・オープン・パワーリフティング選手権大会では一昨年も優勝している。しかし、連覇を目指した昨年は惜しくも2位という結果に終わり、「悔しくて眠れなかった」という。この悔しさをバネに1年間トレーニングに励み、今年はライバルたちに大差をつける圧勝で日本一の座を奪い返した。

 次の目標は、来年開催される世界大会への出場。「世界大会の開催を知ってから、ライバルたちも目の色が変わった」というが、「必ず自分が出場する」と鼻息は荒い。

 「まだまだ限界は感じない」と話す45歳。〝仕事の合間にトレーニング〟という生活を続けながら、「いつかは自分のジムを持ちたい」と夢は尽きない。

 (2011年6月4日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「オール築地・日本で浦安支援」

35年続く海産物即売会を浦安復興へつなぐ青友会代表

 山﨑 康弘 さん

 「何しろ、元気になってほしい。そのために、僕らがいま、できることをやる」―。浦安は、東京・築地市場のほか都内や県内の市場で働く人が4千人以上もいる、いまもって水産の色濃い町。その代表格でもある浦安貝類加工協同組合の青年部(青友会)が35年ほど続けているのが海産物即売会。あすは浦安復興へのチャリティとして開く。東北被災地への支援も考えたが「浦安も被災地。ふるさと浦安をまず盛り立てたい」と、築地の仲間たちの協力も得て〝オール築地、オール日本〟で取り組む。

 浦安魚市場や市内すし店、割烹、ホテルなどに〝うまい〟魚を卸すのは、いまも漁師町・浦安の雰囲気を感じさせる彼ら。同業者やプロの料理人との真剣勝負の毎日だが、その心をほぐすのは「何も考えずに泳ぐ」こと。学生時代には水球で国体優勝も果たした41歳。

 海産物即売会を続けてきたのは「みんなで楽しく買い、おいしく食べられたら顔も緩み、食卓が明るくなる。そんな時間を提供したい」から。復興へ向かう、いまの浦安にとっても同じこと。抱く願いは、当たり前のようで、実は一番大切な時間。

 (2011年5月28日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「無理をせず〝自然体〟で活動」

いちかわ育メンズ代表

 陰山 元希 さん

 学生時代、「ペンションを経営する」という夢を描いていたのは、「人と人とのかかわりを大切にしたい」という思いがあったから。その思いは34歳のいまも同じで、2歳の息子には「人は財産。いろいろな人とかかわりが持てるようになってほしい」と願う。

 「育メンズ」結成のきっかけは、2年ほど前に参加したパパ向け育児講座。知人の少なかった市川で新たな人と出会い、話し合えるのが楽しかった。講座終了後も「縁が途切れなければいいな」と交流を続け、やがてサークルに発展。自分たちのペースで無理をせず、〝自然体〟で活動している。

 平日は仕事で忙しいが、週末はなるべく子供と過ごす。子供が言うことを聞かず大変なときもあるが、鬼ごっこを一緒に数時間やっても「疲れるけど、意外と楽しかったりする」と、子育ても至って〝自然体〟。買い物や、託児つきパパ講座などにはなるべく子供を連れて行き、妻が一人になれる時間を作るよう努めている。

 「子供が成長し、新しいことができるようになるのを見ると喜びを感じる」。〝自然体〟で見せる笑顔に家族への愛がにじむ。

 (2011年5月21日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「一体になる瞬間“鳥肌が立つ”」

市川市立南行徳中合唱部の顧問

 田中 安茂 さん

  今年1月、TBSこども音楽コンクール中学校重唱部門に男声四重唱で出場し、日本一を獲得。17年前にもNHK全国学校音楽コンクールと全日本合唱コンクールで全国1位に輝いており、「念願の3大コンクール制覇が叶った」と、26年前に同部を創立してからの悲願達成に頬を緩める。
 
  合唱の素晴らしさに目覚めたのは、第九の指揮者を務めた中学生の時。音楽教諭を目指して千葉大教育学部に進学し、「赴任した学校で合唱部を作る」と決意した。
  
   創部以来、一貫して指導してきたことは「技術ではなく、ハートで歌う」こと。感受性豊かな生徒たちは歌う楽しさを知り、才能を開花させ、「歌っている皆が一体になる瞬間が訪れると、感動して鳥肌が立つ」ほど。「人と思いを共有し、一つになれるのが合唱の醍醐味」と熱い思いを抱く。
  
   近年では、市民合唱の指導や合唱指導DVDの制作を手がけるなど活動を広げている。将来は「野球のスタジアムいっぱいの人たちで合唱祭が開けたら」と、人をつなげる合唱の力を信じる53歳。休日は、水泳や自宅付近のウオーキングで汗を流す。

 (2011年3月26日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「まだあきらめるには早過ぎる」

市川北高吹奏楽部OBOGバンド演奏会実行委員会委員長

 近藤 剛志 さん

 県立市川北高がなくなる―。約10年ぶりの同校吹奏楽部の同窓会で耳にし「さびしかった」。その思いが「久しぶりにみんなで校歌を演奏しよう」と動かした。できない―ではなく、実現するために何が必要か―と久しぶりの練習とともにバンドの運営に奔走した。

 いざ集まったかつての仲間が、趣味がない、仕事や子育てで忙しいなどと打ち明け合った部屋は、懐かしい顔触れと音楽が詰まった、まるで高校時代の部室。いまの自分たちにとっては非日常で、息抜きの場だが、「原点はここ。本当の自分がある」、市川北高で音楽をやっていた経験が、いまに生きている―と改めて感じた。

 20日のファイナルコンサートが、3年間に渡るバンド活動の集大成。その後は市民バンドとして続けていく。40歳。高校卒業後、ずっと離れていた楽器を持つ手は当時とは違っていたが、改めて楽器にはまっている。「やってみたいけれど、久しぶりで楽団には入りづらい」という人が音楽を楽しめる、そんなバンドを目指す。「僕たちがいま味わっているこの空気感を伝えたい。まだあきらめるには早過ぎる」。

 (2011年3月12日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「神に届くような演奏をしたい」

市川で教室を開くバグパイプ奏者

 加藤 政俊 さん

  バグパイプは戦場で兵士たちが吹いていた楽器。「例え酸欠でも音を止めてはいけない」と男の美学が宿る。20歳のころにその音色と出合うと、当時でも数少ない奏者のもとに入門。大手精密機器メーカーに就職後も、熱心に練習に打ち込んだ。単身赴任先や自宅での休日も演奏活動に充て、いまでは「家族と一緒にいられず悪いことをした」と反省しきりだが、「さまざまな人と出会うことができ、バグパイプのある人生でよかった」。自宅の防音室には、国内大会の優勝皿や楽器のコレクション、個人輸入して集めた楽譜、海外の演奏家との記念写真が輝く。
  
  「身近な所から奏者を増やしたい」と、23年前から公民館で教室を主宰。「魂のこもった演奏」をする真の演奏家の育成を目指し、必ず実践を交えて指導する。夢は「16人の隊列で演奏すること」。定年後は「若手の育成に力を注ぐ」。
  
  58歳のいまも練習を欠かさず、数年に一度は本場スコットランドでスパルタ指導を受ける。「中身は『メイド・イン・ジャパン』でも、スコットランド人と同じ音を出し、神に届くような演奏をしたい」。まだまだ挑戦は続いている。

 (2011年3月5日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「歌舞伎の魅力を〝粋〟に伝える」

連載「歌舞伎幕間話」を執筆する元歌舞伎座支配人

 金田 栄一 さん

  「うまいこと考えたな」。元々大衆演劇だった歌舞伎は、日本人の泣きや笑い、しゃれっ気、センスのよさにあふれている。とともに、花道や回り舞台など世界の舞台技術の宝庫。観客を楽しませる工夫が込められたカツラや衣裳などを知ることで歌舞伎はもっと楽しくなる。
 
  歌舞伎に魅せられたのは、高校生のとき、演題の読みに面白さを感じたから。周辺知識も含め歌舞伎というカルチャーに興味をもち、大学では音楽に傾倒しつつも、歌舞伎研究会に所属。数年振りに新卒を募集した松竹に入社した。
 
  分かりやすく伝え、楽しんでもらいたい―と雑誌「ぴあ」や業界紙にコラムを連載。CS放送「歌舞伎チャンネル」社長時代は、会報の表紙やコラムなどを自ら担当し、枠にはまらず粋に伝えてきた。
 
  歌舞伎と高校時代に始めたハワイアン。「やりたいことを両立できた幸せ者」という62歳は毎月、ステージでスチールギターやウクレレを演奏。その腕前は、日本でいえば人間国宝にあたるハワイのミュージシャン、ジェノア・ケアベさんの来日公演メンバーを何度も務めたほど。伝えたい―思いは音楽でも表れ、ウクレレも教え始めた。

 (2011年2月26日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「家を大切に思う人がいる世に」

県伝統的工芸品に指定された屏風を作る経師

 田島 義弘 さん

 幼いころに両親を亡くし、早くに自立を思い描いた。魚河岸の仲買をして身を立てようとも考えたが、手先が器用だったため、「技術を身につければ一生の仕事になる」と、中学卒業後に表具の道へと進んだ。

 横浜で修業した当初は、寝る時間がないほど多忙だったが、持ち前の体力で次々と仕事をこなし、ハケ使いや下張りなどの基礎技術を習得。さらに「文化発祥の地・横浜で仕事ができたことが幸い」し、名家や商家などの注文を多く受けた。ここで襖や屏風の伝統技術や美意識を自然と身に付けると、「襖一つを変えることで、部屋の雰囲気がガラリと変わる」と、和紙や金具などの組み合わせでさまざまな顔に仕上がる表具の面白さに目覚めていった。

 「家を大切に思う人がいる、ゆとりある世の中になってほしい」と願う69歳。近年、和室が減り洋間が増える中でも「壁紙も『美』だが、襖こそ『美』。落ち着く空間になる」と、跡継ぎの息子とともに作業場に立ち続ける。趣味はハイキングと釣り。手先を生かして自ら作った船で釣りに出かけたこともある。

 (2011年2月19日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「市響を『市川の顔』に育てたい」

創立60周年を迎えた市川交響楽団協会理事長

 時田 雄 さん

 昨年2月に3代目理事長に就任。40年間、協会の事務をこなしてきた実績を生かし、「できることを精一杯やり、目の前の演奏会一つ一つを大切に積み重ねる」ことに努めている。「『音楽を通じた社会教育』という理念を受け継ぎながら、時代に合った活動をして、いずれは市響が『市川の顔』に成長してほしい」。いまも市響の現役フルート奏者。活動に打ち込む父親の背中を見てきた息子も、同じ団員として舞台に上がる。

 中学のときにフルートを手にし、「大学から音楽の道に進もうか」とも考えた。だが、「稼ぐためではなく、楽しんで演奏を続けられるように」と、あえて千葉大工学部に進学。卒業後は建設関係の会社に勤務し、いまは建設工事の現場監督。「人をまとめたり、段取りをしたりすることは一緒」と、公私共に奉仕の精神が根付く。

 19日と20日に開かれる記念演奏会は、理事長就任前から計画していた大舞台。「終わったあとに皆で楽しいお酒を飲みたい」とほほ笑む。趣味のカメラで団員を撮りながら、「いつかメンバーと海外演奏旅行ができたら」と夢を広げる58歳。

 (2011年2月12日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「手児奈様の名をもらった責任」

結成15周年を向かえた手児奈太鼓の代表

 番場 ゑみ さん

 市川の街道を練り歩く神輿や担ぎ手を身近に感じながら成長。「祭りは地域で協力して盛り上げる大切な行事」と心に刻み、大人になってからも、色々な祭りの運営に協力して祭りとかかわり続けた。

 平成6年に手児奈祭りが始まると、「祭りなのに太鼓がない。ならば自分たちで」と翌年、女性太鼓の結成を呼びかけた。すると「心と体を思いっきり何かにぶつけたい」と切望する〝叩き盛り〟が集結。チームは指導者や支援者にも恵まれ、この15年間で、地元だけでなく県外や海外で演奏を行うまでに成長した。苦楽を共にした仲間には、「もはや分身」と言うほど厚い信頼を抱く。

 これからの目標は「百年先も手児奈太鼓が鳴り続けること」。「手児奈様の名をもらった」という責任感がある。次世代を担う子供の指導にも力を注ぎ、「手児奈太鼓を文化として継承したい」と誓う。

 本職のカルチャー教室を主宰しながら、チームの運営に奮闘。「くよくよしない」姉御肌の62歳は「地面で起きた色々な問題」を全力で乗り越えてきた。「これからは空が見たい」。日常から解放された大自然を心に思い描く。

 (2011年2月5日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「恥ずかしくない作品ができた」

アビリンピック歯科技工種目で金賞を受賞

 小田 茂 さん

 障害者たちが日ごろ培っている技能を競い合うアビリンピック。10年前からほぼ毎年出場しているが、前々回の銅賞がこれまでの最高成績だった。今回も出場者の多くが自分よりベテランだったため、「まさか金賞をとれるとは思っていなかった」。ただ、「制限時間の中でいかにバランスのよい義歯を作るか」がポイントの同種目で「恥ずかしくない作品ができた」と作品の出来栄えに胸を張る。

 出身は福島県。高校卒業後に市川市内の筑波大付属聴覚特別支援学校に進学し、歯科技工の技術を学んだ。大学卒業後は都内の歯科医院に就職。6年間歯科技工士として勤務した後、独立して市内に歯科技工所を立ち上げた。

 いまでは週に50人から100人の義歯を作るほど、患者と歯科医からの信頼を獲得。忙しさに目を回しながらも「自分が作った義歯を患者さんが喜んでくれた時」が最もうれしい瞬間という。

 休みには家族とキャンプに出かけるなど、妻と2人の子供への家族サービスも忘れない47歳。「この仕事をできるだけ長く続けながら家族みんなが健康に過ごせれば」と、ほのかな夢を思い描く。

 (2011年1月22日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年


「追いつくために必死に学んだ」

ベルギー国立管弦楽団コントラバス奏者

 石本 弾 さん

 幼いころのあだ名は「弾丸の弾」。毎日外で駆け回る、やんちゃな子供だった。しかし、10代で音楽に目覚め、ジャズに傾倒。「ズシンとくる低音の響き」にほれ込み、「ジャズをやるならダブルベース」と打ち込んだ。千葉商大在学中にクラシックの音色に目覚めると、急きょ音大へ入学。「皆に追いつくために必死に学んだ」。

 音大卒業後、留学を経て欧州で活動を始め、ドイツの国立管弦楽団で10年のキャリアを積んだ。現在はベルギー国立管弦楽団に所属。これからも「良い指揮者や演奏家と、音楽をやる喜びを感じていきたい」と飛躍を描く51歳。

 海外での演奏経験も生かし、「独奏のレベルは高いが、アンサンブルはまだまだ」という日本の若手を育てるのが夢の一つ。日本に滞在する年6週間ほどの時間は、主にN響や読響などとの共演や、市川の幼なじみと結成したアンサンブル「ショコラ・ヴィルトオーゾ・ジャパン」のコンサートに費やされるが、器楽クリニックを開くなど後進の指導も欠かさない。

 趣味は旅行。ドイツで指揮を振るう妻と、欧州のほぼ全土を巡ったことが何よりの思い出。

 (2011年1月15日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年