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《116》
『改訂新版 市川のむかし話』刊行~「語り」を意識した改訂へ

 11月21日、市川民話の会の編集・発行になる『改訂新版・市川のむかし話』が刊行された。A5版で230ページ、イラストもたくさん入った、読みやすい本である。
 
 同日には、〝市川民話の会創立35周年「改訂新版・市川のむかし話」刊行記念のつどい〟が、市川グランドホテルで開催された。大久保博市川市長ほか、市内の語り関係団体や文化団体関係者など、100人近い参列者が、刊行をともに祝った。
 
 市川民話の会は、昭和53年に発足し、市川の民話を記録し、次代に継承することを目的に活動してきた。
 
 地元に長く住んでおられる方から伺(うかが)った話は、テープに録音し、記録性の高い資料集として、『市川の伝承民話』1~8集としてまとめてきた(7集までは市川市教育委員会発行。8集は市川民話の会発行)。
 
 また、採話した民話をもとに、子どもにも分かりやすい読み物風にまとめた、『市川のむかし話』(昭和55年)、『続市川のむかし話』(平成2)も刊行してきた。

市川のむかし話全51話収録(市川市内の書店、市役所売店などで販売)
 市川民話の会の高田和正会長は、「『市川のむかし話』〔改訂新版〕の刊行にあたって」で、次のように記している。
 
 〈『市川のむかし話』刊行のあと、三〇年を経過した頃から、多くの市民の皆さんから再刊行の要望が多く寄せられてきました。しかし、今日では再販が不可能なため、この機会に正編、続編を見直して、改訂版を刊行することにいたしました。
 
 改訂版の編集にあたっては、『市川のむかし話』正編のすべての話を再録したうえに、『続・市川のむかし話』から選び出した話を加えた、いわば決定版といった性格の本としています。また、判型はお子さんたちにも読みやすいA5版とし、二段組を採用しました。(中略)
 
 文章表現については、(中略)私たち会員が、長い間にわたり、市内各地の話者を訪ね、お聞きした話を可能な限り忠実に記録したものを、かつて「市川の伝承民話」として発表しております。今回、それを基礎としながら子どもから大人まで、幅広く読んでいただき、市川の地域の民話に関心を持つとともに、そこから地域社会の文化を学び、先人たちの知恵を学び、それが次代へと継承していくことを期待して文章をまとめました。
 
 昔話については、語りを生かした文章表現とし、話し手と聞き手の呼吸を感じとれるように配慮しています。伝説、物語などについては、文語体を主とし、語尾は、です・ます調にしました。〉
 
 地域に伝わる民話をまとめた本の、全国的な傾向として、1980年代頃は、読み物的な本が多く出版されていたが、2000年以降は、「語り」の特徴を踏まえた出版が多くなってきている。これは、民話は本来、文字として読まれるものではなく、語り手と聴き手の間で語られるものであるとの認識が、一般的になってきたことによるものといえる。ことに昨今は、学校教育のなかでも、民話の語りに取り組む学習が増えており、民話が本来もつ「語り」を意識した本の刊行は、市川でも切望されるものであった。
 
 市川の伝承的な語られ方は、「むかしむかしあったとよ」と語り始められ、「~だったとよ」とか「~だったって」などの言い回しで語られ、めでたい話の最後は、「これでいちがさあけた」といった語り収めが付せられてきた。「いちがさあけた」は、「一期(いちご)栄えた」(一生幸せに暮らしました)の意味である。
 
 今回の改訂新版では、かつての『市川のむかし話』では、「です・ます」とされていた同じ話が、「だったとよ」や「だったって」などと、語りに近い形にして収められている。『市川のむかし話』は、絶版となっており、図書館などで見ていただくしかないが、同じ話を読み比べてみるのも、面白いのではないだろうか。
 
 ところで、刊行記念のつどいで、大久保市長から、「本としてだけでなく、映像として伝えていくこともお願いしたい」との祝辞をいただいた。民話の「語り」の継承の仕方として、ありがたい課題を承ったといえる。


 (2012年12月8日号)TOP PAGE「市川文芸歳時記~文化の息づくまちへ」リスト

《115》
小栗判官と鬼越の不動様

 急に秋の気配が深まってきて、市川でも紅葉が見られる季節となった。市川で有名なイチョウとしては、八幡の葛飾八幡宮の千本公孫樹(いちょう)が知られるが、葛飾八幡宮から1㌔㍍ほど東に進んだ、京成鬼越駅近くの神明寺にも、いわれのある銀杏(いちょう)がある。
 
 葛飾八幡宮が、実のならない「公孫樹」(雄木)に対し、神明寺は、「銀杏(ぎんなん)」のなる雌木。名づけて、「小栗判官(おぐりほうがん)馬つなぎの銀杏(いちょう)」。
 
 小栗判官とは、15世紀の室町時代、常陸国(今の茨城・筑西市)に実在した小栗小太郎助重(すけしげ)という武将を指す。史実とは別に、中世の語り物の主人公として、さまざまな伝承が生み出されていった。判官は「はんがん」ともいい、今でいう検察警察官僚のような身分のこと。

鬼越の神明寺
 神明寺の「縁起」では、次のような伝承を伝えている。
 
 時は足利幕府六代将軍義教(よしのり)公の時代。鎌倉に置かれた管領、足利持氏(もちうじ)は、小栗判官の評判をねたむ一色(いっしき)氏と山名氏の落とし入れを信じ、小栗判官が住んでいた鎌倉の稲村ケ崎の館を襲撃させる。
 
 小栗判官と父は、常陸国へ逃れることにするものの、途中で小栗判官は父とも別れ別れになり、下総葛飾(今の市川)に差しかかる。
 
 ところが、小栗判官は、愛馬の鬼鹿毛(おにかげ)もろとも、大きな泥沼に入りこんでしまう。暗夜のなか、前には底なし沼、後ろには敵の矢が頭上をかすめ、進退極まってしまう。
 
 小栗判官は、従者に後事を託して割腹しようと、いつも持っている守り仏の不動明王を、懐ろから出して額の上にささげ、額に当て、目をつぶって祈った。
 
 すると、不動明王が月明かりのように輝き、行く手の道を照らしてくれたのだった。
 
 これこそ不動明王のご利益と、鬼鹿毛に一むち当てると、たちまち沼から踊り出ることができた。
 
 小栗判官が沼を渡りきった野原には、清水が湧き出ていて、そこで身を清めた。
 
 そのとき、夜明けの鐘の音が聞こえてくるので、鐘の音を頼りに進むと、寺があり、住職が「あなた方は不動尊のおかげで命拾いされたようですな。祈禱(きとう)しましょう」と言って迎え入れてくれた。
 
 小栗判官は、「九死に一生の難を救ってくれたこの不動明王を、この地に安置し、厄除(よ)け出世のために祀(まつ)るように」と託して、常陸に帰っていったという――。

小栗判官馬つなぎの銀杏
 この不動明王が、神明寺に祀られている本尊であり、寺に立ち寄ったときに鬼鹿毛をつないだ銀杏が、境内に遺されているわけである。「鬼鹿毛」が無事に沼を渡り越えることができたので、この地を「鬼越」というようになったとも伝える。
 
 また、小栗判官が沈みかけた沼を「判官沼」、体を洗った井戸を「身洗いの井戸」といい、これらは鬼高小学校の辺りにあったとされる。沼から出たとき、前方に開けた野原が、今の船橋市の「小栗原」ともされる。
 
 史実としては、古代から、この地は「栗原郷」と呼ばれ、それが、のちに「小栗判官」伝説と結びついて、このような縁起が作られたものと考えられる。しかし、どのようにして、神明寺に小栗判官と結びついた縁起が作られるようになったのか、まだ詳しい解明は、向後に期待される。
 
 11月17日、市川市生涯学習センターグリーンスタジオで開催される「第35回市川の民話のつどい」で、この伝説をはじめとする民話を、市川民話の会、すがの会、和の会、語り部サークル根っこの会が合同でお届けする。
 
 また、これらの民話を収めた『改訂新版・市川のむかし話』も、近日中に市内書店にて、販売される予定になっている。

 (2012年11月10日号)TOP PAGE「市川文芸歳時記~文化の息づくまちへ」リスト

《114》
中国分 街回遊展~井上ひさしさんが歩き描いたまち

 市川市北部の中国分は、戦前は、国府台に置かれた陸軍が軍事訓練を行う「東練兵場」と呼ばれる土地だった。昭和20年12月、食糧緊急増産を目的に、復員軍人の方たちが入植し、農地として開拓されていった。そして、現在では、良好な住宅地となっている。
 
 作家の井上ひさしさんは、同42年から50年までを、中国分の南側の国分寺の近くに暮らし、同50年から62年までを、中国分の北側の小塚山公園アスレチックの近くに暮らした。
 
 井上さんの小説『ドン松五郎の生活』(同48年から連載、同50年に単行本化)には、中国分辺りの様子が描かれている。

井上ひさし『ドン松五郎の生活』(新潮社)
 主人公のドン松五郎は、人のことばを理解できる犬で、井上さんをほうふつとさせる、国分の作家の家で飼われるようになる。近所の老犬キングから、次のような話を聴かされる。
 
 〈「わしの生まれるよりも前、この丘陵地帯は陸軍砲兵部隊の演習地だったそうだ。(中略)」
 「……やがて政府がこの荒野に三十世帯の農民を送り込んだ。三十世帯とも満州というところからの引き揚げ農民でな、むろん、そのなかに、わしのいまの主人もおったわけだ。農民たちはこの荒野を開墾した。掌にまめをこしらえ、額に汗しながら、だ。だが、何度もいうようにこの一帯は丘の上だ。水はけがよすぎる。いつも水不足で作物はみのらない。(中略)」
 「なにしろ丘の下を流れる江戸川をひとつ越せば東京だ。この丘陵は住宅地として評価されはじめた。丘だから水はけがよい、景色も絶佳だ。閑静でもある、開墾し残した林が風趣を添えている……農地としては役に立たなかった条件が住宅地としてはこの上のない好条件となったわけだ。わしのいまの主人は貧乏な農民からあッという間に地主に早がわりしてしまった。」〉
 
 満州の引き揚げ農民など、井上さん流のフィクションが入り込むが、おおむね、中国分の歴史が踏まえられた描写となっている。
 ドン松五郎は、仲間の犬が渋谷に誘拐されたことを知ると、「下総国分寺近くの自動車教習所」から車を失敬して、犬が運転して救出に向かう。これは中国分の教習所がモデルだろう。
 
 やはり犬を主人公にした小説『野球盲導犬チビの告白』(昭和53年~同55年に連載、同56年に単行本化)には、野球のうまい青年を見て、「千葉商大附属かもしれん(中略)あそこは結構いける子がいるぜ」などと、中国分に実在する高校の名前が登場する。

西部公民館に建つ「東台開拓碑」
 また、国分周辺を舞台とする小説『偽原始人』(同50年に連載、同51年に単行本化)は、東京大学に進学することを親に期待された、「池田東大(とうしん)」という小学五年生が主人公。井上さんがご存命だったころ、「中国分には〝東台(とうだい)マート〟なんて名前のお店があるんですよ」と雑談のなかで伺った記憶があり、井上さんに確かめたわけではないが、私は勝手に、『偽原始人』の主人公の発想に、「東台」という地名が遠因しているのではないかと想像している。
 
 井上さんの次女・麻矢さんから伺った話では、井上さんはとても歩くのが好きな人で、国分周辺もよく歩いていたという。千葉商大付属高校が甲子園に行くときは、グラウンドをよくのぞいたりした。小塚山公園では、扮装して歩いて、痴漢に間違えられたこともあったという。市川駅に出るために、じゅん菜池緑地を通って、よく国府台小学校の校庭を横切って、バス停に向かっていたという。また、中国分商店街の来福軒(中華)や更科(そば)などからは、毎日のように出前を取っていたそうである。
 
 来福軒さんに伺ったところ、井上さんが来店されると、ラーメンと餃子を注文されたが、出前では、メニューにないラーメンの上にニラレバを載せたものを、よく注文されたという。
 
 11月10日、11日に開催される中国分街回遊展では、「中国分の民話と井上ひさし作品を聴くつどい」(10日午後)や、井上さんゆかりの場所をめぐる「案内ツアー」(11日午後)などが予定されている。

 (2012年10月13日号)TOP PAGE「市川文芸歳時記~文化の息づくまちへ」リスト

《113》
宮久保の「袖掛けの松」3~市民ミュージカルから伝承の記録へ

 9月1日と2日、市川市宮久保に生えていた「袖掛けの松」を題材にしたいちかわ市民ミュージカルが、市川市文化会館大ホールで上演された。出演者約160人、支えたスタッフは約100人にのぼる。市民中心のミュージカルとしては、全国的にも大規模なもの。全4ステージ、2800人以上の観客が、市川の民話と、家族や地域の絆を描く舞台に足を運んだ。

入口には、企画段階から協力いただいた宮久保連合自治会から贈られた大きな盛花も飾られていた。地域づくりを目指す市民ミュージカルとしては、大変うれしい贈り物であった。

「手鞠歌 風に乗って」の舞台で再現された袖掛けの松のシーン(伊藤善敏氏撮影)
 公演プログラムの作成には、宮久保2丁目で米店を営む岡野谷淳一さん(昭和35年生まれ)のお世話になった。

岡野谷さんは、宮久保小学校周年記念誌作りにPTAとして関わり、それをきっかけに宮久保の古い写真を集めるようになった。白幡天神社の鈴木啓輔宮司を通じて、岡野谷さんを紹介いただき、写真のご提供をお願いしたところ、快諾してくださった。

プログラムに掲載させていただいた写真は、袖掛けの松の伐られた昭和25年から5年ほど後に撮影された白幡神社の石段と宮久保坂が写る写真、昭和31年ころに岡野谷さんの本家に当たる岡野谷建設で使われていた三輪トラック、昭和38年ころに宮久保の頂圓寺で行われた稚児行列が宮久保坂を練っている光景など、宮久保の昭和30年代を記録した貴重な写真である。

編集中に、岡野谷さんのお店にお邪魔し、写真のことや、袖掛けの松のことなど、お話を伺っていると、宮久保地区の役員として先輩に当たる高橋博史さん(昭和19年生まれ)を、呼んでくださった。高橋さんは、新潟旅行から帰ったばかりだというなか、すぐに来てくださった。

高橋さんは、袖掛けの松が伐られたとき、その現場にいたという。そして、次のような話を聴かせていただいた。

〈袖掛けの松は、今の石段から少し坂上に向かった道沿いに生えていた。とても大きな木だった。道の西側は、神社側よりも高い高台になっていて、切り通しのようだった。今、低くなっているのは、宅地造成のために削られたからである。

昭和25年に松が伐られたとき、倒すつもりのない、西側の高台に向かって倒れかかっていった。高台には、たまたま女の子が遊んでいて、倒れた木の下敷きになって犠牲になってしまった。男の子も一緒にいたのだが、男の子は無事だった。
公演プログラムに掲載された宮久保坂の写真(岡野谷喜一氏撮影/岡野谷淳一氏提供)


松は女の木だといわれていた。女に焼きもちを焼いて、災いが起こるというので、松に掛かっていた袖も、女物ばかりだった。伐られたとき、女の子だけが犠牲になったのも、女の子を道連れにしたのだと言われた。

松のそばには、椎の木が生えていたが、松が切られたあと、椎の木の辺りから、水が染み出てきた。その近くでよく遊んだが、「椎の木は男で、松が伐られて、悲しくて泣いてんだんべ」と、子ども同士でもいいあった。

椎の木をなぐさめるために、ほどなく2代目の松が植えられたら、不思議と水の染み出るのが止まった。

しばらく2代目の松も生えていたが、その松も伐られてなくなった。

今は、石段の南側の石碑の奥に、3代目の松が植えられている。〉

袖掛けの松の民話は、いくつか記録されているが、松の木は女で、そばの椎の木が泣いたという話は、これまで記録には残されていなかった。

地域の古い写真口伝えの伝承は、個人の家や記憶の中には残っていても、広く知られることはないものが、市川にもまだまだあることを実感した。

市民ミュージカルをきっかけに、地域の古い写真や口伝えの伝承が記録されていくことにつながるといいと思う。
 (2012年9月8日号)TOP PAGE「市川文芸歳時記~文化の息づくまちへ」リスト

《112》
宮久保の「袖掛けの松」2
~「手向け」の風習からミュージカルへ

 前号(6月9日号)に続いて、市川市宮久保の「袖掛けの松」を取り上げて、その民俗的展開について触れてみたい。
 
 白幡神社石段脇には、明和3年(1766)建立の「妙法袖掛松」と彫られた石碑が遺されており、江戸時代には、すでにこうした風習があったことが分かる。
 
 似たような風習は各地に見られ、成田市の旧成田街道には、「袖切坂」という坂があり、転んだときには災厄に遭わないように、袖を切り捨てたという。土佐国一宮(高知市の土佐神社)の仁王門そばの「袖掛松」は、その傍らで転倒すると着衣の片袖をもいでかけることからその名が付いたという。
 
 今回のいちかわ市民ミュージカル実行委員長で、宮久保在住の作家・中津攸子さんは、『宮久保むかし話』(平成4)という自費出版の冊子の中で、この話を取り上げ、古代から続く民俗信仰との関わりについて解説している。
『宮久保むかし話』と『市川のむかし話』
例えば、『万葉集』には、政略により処刑されることになった有間皇子(ありまのみこ)が、和歌山県で詠んだ次のような歌がある。

〈磐代(いわしろ)の 浜松が枝(え)を 引き結び ま幸(さき)くあらば また還り見む〉
(巻二・一四一番歌)

 「磐代(地名)の浜松の枝と枝を紐(ひも)などで結ぼう。もし命が無事であったら、また帰って来て見よう」という意味である。ここには、松の枝を結ぶことで、旅の安全や命の無事を願った、万葉人の信仰を見て取ることができる。

〈白波の 浜松が枝の 手向(たむ)けぐさ 幾代(いくよ)までにか 年の経ぬらむ〉
(巻一・三四番歌)

 この歌は、先の有間皇子の松を、川島皇子(かわしまのみこ)または山上憶良(やまのうえのおくら)が偲(しの)んで詠んだ歌とされ、「松に供えられた〝手向けぐさ〟は、どれくらいの年月を経てしまっただろう」と、皇子を悼んだものである。

 この「手向け」というのが、土地の神霊に旅の安全や命の無事を祈るために、幣(ぬさ=神に供える布や紙)をお供えする行為で、しばしば、坂や峠などで行われた。

 こうした風習を踏まえると、袖かけの松は、坂や峠のような境を越えるときは、行路の無事を祈って神霊に幣を手向ける風習や、神聖な場所に生える巨大な樹木には神霊が宿っているという信仰などを、背景に持っているものといえる。

 袖掛けの松はまた、「縁結び」や「風邪ひきの神様」ともされるが、これも、「手向け」の延長線上に展開したものといえよう。
宮久保の盆踊り大会で披露された市民ミュージカルの狐ダンス(7月30日、宮久保小)
 伐採の折りに少女が犠牲になった悲話も、そこに宿る神霊の霊力によるものと受け止めることができるかもしれない。

 伐採の悲話は、市川民話の会の和爾貴美子さんによって、『市川のむかし話』(昭和55年)に紹介されている。

 少女の死を語ることは痛みを伴うものではあるが、戦後の開発の陰に少女の尊い命が犠牲となり、伐採に関わった木挽(こび)きが少女の通うはずだった小学校の用務員として子どものために尽くした、とする話は、児童文学者の松谷みよ子さんらが提唱した「現代民話」に重なるものといえる。

 原爆で犠牲になった少女を語る『おこりじぞう』『まちんと』『千羽づるのねがい(さだ子と千羽づる)』、さらには、東日本大震災の死者を語り継ぐ行為などは、犠牲者の尊い命の上に今の私たちが生きていることを思いやる「手向け」(=鎮魂)につながるものだと私は思う。

 9月1日と2日、市川市文化会館で上演される市民ミュージカルに向けて、こうした思いが共有されることを祈りたい。

 (2011年8月11日号)TOP PAGE「市川文芸歳時記~文化の息づくまちへ」リスト

《111》
宮久保の「袖掛けの松」~市民ミュージカルに向けて祈願式

参道石段脇に建つ「袖掛けの松」の石碑と袖の掛けられた3代目の松
 市川市民が中心となって、2年に一度、開催される「いちかわ市民ミュージカル」。今年は9月に、宮久保の「袖掛けの松」を題材にした公演が行われることになった。
 
 5月13日、ミュージカル実行委員会の呼びかけに、宮久保連合自治会が全面的に協力し、祈願式が宮久保の鎮守の白幡神社で行われた。
 
 白幡神社は、本八幡駅から北へ伸びるバス通りを進み、宮久保の台地上のこんもりした森にある。「袖掛けの松」は、戦後まで、神社からバス通りの坂道に、覆いかぶさるように枝を伸ばしていた。
 
 この辺りは、関東ローム層の滑りやすい土質で、いつのころからか、「この坂で転ぶと災難がある」とされ、「もし転んだら、着物の片袖をちぎって、松の枝にかけると災難から免れることができる」と言われるようになった。そこで、「袖掛けの松」と呼ばれるようになったと伝えている。
 
 ところが、この松は、昭和25年、道路拡張のため切られることになった。そのとき、小学校に上がる直前の女の子が、倒された木の下敷きになり、犠牲になってしまったのである。
 
頂圓寺に眠る女の子のお墓へお参り
 『市川の伝承民話』(市川市教育委員会)には、次のような話が収載されている。
 
 〈宮久保の坂といっていましたが、「袖掛けの松」というのがあって、それは、太さが、二かかえもあって、まるで盆栽の松を大きくしたみたいに姿がよくて、それが神木だけど、道路の関係で切るといったんですよ。
 ところが、神木だから切れないといって、当時の浮谷市長が地元の宮久保で、住民の意向調査をしたんですよ。
 私の意見は「神木として、迷信的なことはぬきにしてもこんな立派な木だから、何らかの形で保存できないか」と。
 ところが、結果的には切ってしまったんですがね。
 私は、今残っていたら、市川の名所になったんじゃないかと思いましたよ。その時、子供を一人、だきこんでいきましたけどね。
 地元の人はいやがったでしょうが、しかし道路が悪いでしょ。
 小さい頃、松にかかっていましたよ。根が出ている。
 その上にかけてあるんですよ。人間の袖とか、馬の腹がけなんか、しじゅうころぶんですよ。〉
 (話者は宮久保の加藤包太郎さん・大正4年生まれ)
 
 市民ミュージカルは、「わが町いちかわ」を知ることで、地域づくりを目指している。袖掛けの松を扱うことにしたミュージカル実行委員会が、宮久保地区に協力を相談したところ、今回の祈願式に結びついたのである。
 
 祈願式に先立って、犠牲になった女の子の遺族の元へ、代表数名が挨拶(あいさつ)に伺い、参加者全員で、白幡神社北側の頂圓寺にある女の子のお墓に線香とお花を手向けた。
 
 その後、神社本殿へ移り、宮司による祈願式が行われ、参道の石段を下り、バス通りに面して建つ「妙法 袖掛松」と書かれた古い石碑と、「袖掛松之碑」と書かれた少し大きな石碑に、献花を行って終了となった。
 
 石碑の後ろには、まだまだ細いが、3代目の松が植えられており、当日は、宮久保の方が、着物の袖をかけて、往時を偲(しの)ばせてくれた。
 
 市民ミュージカルの取り組みをきっかけに、新しい地域交流の輪が広がろうとしている。
 
 6月16日には、大柏川第一調節池緑地で、「宮久保周辺の民話を聴こう」という催しが開かれる。
 
 また、「クロマツのある風景 いちかわ」展が、八幡市民談話室(6月4日~10日)、アイリンクタウンいちかわ(16日~26日)で巡回展示される。
 
 自然と文化に織りなされた市川の姿が、ここにあるといえよう。

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《110》
市川・荷風忌を終えて―永光氏の逝去と新たな出版

荷風忌で講演する鈴木康之氏(市川市文学プラザ提供)
 5月3日㈭㈷、第4回市川・荷風忌が、市川市グリーンスタジオで開催された。あいにくの雨にも関わらず、250人近くの来場者があり、関心の高さを感じさせた。
 
 冒頭の市長挨拶(あいさつ)の中で、荷風のご子息である永井永光(ながい・ひさみつ)氏の訃報が報告された。
 
 永光氏は、荷風の従弟(いとこ)である大島一雄(杵屋五叟=きねや・ごそう)氏を父に、昭和7年に生まれた。同19年に荷風の養子となり、同21年1月から、大島一家とともに市川市菅野で、荷風と同居生活を送る。
 
 同22年、荷風が同じく菅野の小西茂也宅に移ったことで、同居は途絶えたが、同34年4月に荷風が亡くなったことで、荷風亡き後の家に移り住み、以降、荷風の終焉(しゅうえん)の家と、『断腸亭日乗』を始めとする荷風の遺品を、今日まで大事に継承されて来られたのである。
 
 数年前から、体調がすぐれず、自宅療養されていたが、4月25日、肺がんにより逝去された。
 
 荷風の命日の程近く、荷風の亡くなった同じ部屋で、荷風と同じ79歳で、その生涯を閉じられた。ここに謹んでご冥福をお祈りしたい。
 
 荷風忌では、市長挨拶を受けて、評伝ビデオ『永井荷風』上映の前に、銘々(めいめい)で黙祷(もくとう)を捧げるひと時が設けられた。
 
 そして、岩波書店で『荷風全集』を担当された鈴木康之氏による講演「『荷風全集』新収資料をめぐって」では、永光氏が守って来られた遺品の中から、荷風の作品をドイツ語に翻訳していたクルト・マイスナーというドイツ人の書簡が新たに発見されたこと、それと対になる、荷風からマイスナー氏に宛(あ)てた書簡がドイツの遺族への調査の中で発見されたことが紹介された。
 
 また、小西茂也家から新たに発見され、『荷風全集』に収録された資料として、荷風が書いたとされる『四畳半襖の下張』という本に、「この書余の筆にあらず」と書きながらも、荷風の署名と印が押されている贈呈本や、父との思い出をつづった『父の詩集』という草稿などを紹介された。
 
 さらに、荷風が熱心に株取引をしていたことを示す「株取引台帳」についても紹介された。
 
 これらは、市川時代の荷風を、新たな資料によって、浮き彫りにする内容であった。
 
橋本敏男『荷風晩年と市川』崙書房出版
 講演後のフロアを交えた時間では、新たな出版物の紹介もされた。
 
 一つは、小西茂也氏の娘婿に当たる秋山征夫氏の著書『荷風と市川』(慶応義塾大学出版)である。本書は、近刊のため、筆者も内容を拝見していないのだが、鈴木氏によると、小西家に残る資料を基に、市川時代の荷風のことを取り上げた内容だという。間もなく、書店に並ぶことであろう。手に取るのが楽しみである。
 
 もう一冊は、市川在住で、荷風忌の呼びかけ人の一人でもある橋本敏男氏によってまとめられた『荷風晩年と市川』(崙書房出版)である。
 
 こちらは、平成16年に市川市文化会館で開催された「永井荷風展」の市民証言を中心に、井上ひさし氏による記念講演「私の見た荷風先生」の収録から、昨今の市川・荷風忌や、菅野の白幡天神社の文学碑建立まで、市川での荷風顕彰の動きを材料にしながら、市川での荷風についてまとめた本である。
 
 橋本氏は、市川・荷風忌に間に合うようにと、編集を進めてこられた。当日は会場にいらしたが、体調があまりすぐれず、ご自身の口から紹介することは叶わなかったが、見本の本が披露された。
 
 終了後は、大黒家に座を移し、鈴木さんや、去年講演をしてくださった近藤信行さん(山梨県立文学館館長)らを交えて、荷風を偲(しの)んだ。
 
 永光氏は逝去されたが、荷風を顕彰する気運は、市川に脈々と続いていくように思われる。

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《109》
市川・荷風忌
―小西家からの新発見資料とビデオ上映―

 市川を代表する文豪・永井荷風の生誕130年・没後50年を記念して、市民の呼びかけで4年前から開催されている「市川・荷風忌」。今年も5月3日(木・祝)に、市川市グリーンスタジオで開催される。

 今回は、岩波書店で『荷風全集』を担当された鈴木康之氏による「『荷風全集』新収資料をめぐって」という講演が注目される。
 
皮膚病を治療するため荷風が小西家で使っていた薬品類(右)。市川市文学プラザで展示中。

 最新の『荷風全集』は、平成4年に刊行された『新版 荷風全集』(全30巻)に、新出資料などを所収した別巻1巻を増補し、生誕130年・没後50年に当たる平成21年4月から、昨年11月にかけて刊行された。

 この「別巻」には、荷風が市川で2番目に住んだ菅野のフランス文学者・小西茂也家から新たに発見された草稿やメモ断片が、新収資料として写真と翻刻文とともに、掲載されている。

 解説によれば、草稿は、横罫B5版ノートに鉛筆書きされたもので、市川を舞台にした短編小説『畦道』(昭和23年12月脱稿)の草稿や、『人妻』(昭和24年10月発表)の草稿などである。

 また、メモ断片は、荷風が皮膚病の治療に使った薬箱の中に残っていたという10㌢㍍ほどの手帳に記された、荷風筆と思われる鉛筆書き部分であり、荷風の日記『断腸亭日乗』昭和21年10月31日、または昭和22年12月7日に見られる、中山法華経寺、鬼子母神堂の絵馬堂奉納の絵馬の写しに相当するものという。

 手帳にはほかに、京成線の市川真間駅から京成中山駅まで乗ったと見られる切符もはさまれており、その写真も、掲載されている。

 鈴木さんの講演は、この辺りについても、紹介してくださることであろう。
 
『永井荷風ー個我の自由を求めて』(紀伊國屋書店ビデオ評伝シリーズ 2002年)
 小西家での荷風をめぐっては、さらに興味深い資料が発見されている。

 それは、『荷風全集第17巻』に付けられた「月報17」(平成22年8月)に、小西茂也氏の娘婿に当たる秋山征夫氏の書いた「『同居人荷風』の原本」という論考で知ることができる。

 秋山氏は、小西家での荷風を記した小西氏の有名な記録『同居人荷風』(『新潮』昭和29年12月号発表)の下書きと推定されるメモ帳が、小西家から発見されたことを伝えている。

 秋山氏は、〈本資料には『新潮』文章にも『断腸亭日乗』にもない記述が残されており、この時期の荷風研究にとって貴重な資料であると思われる。〉と述べてから、具体的な中身を紹介し、次のように締めくくっている。

 〈このメモ帳を『新潮』発表の文章と詳細に比較し、さらに『断腸亭日乗』との綿密な読み合わせを行えば、市川におけるこの時期の荷風理解は深まることであろう。近く、この三者を比較した結果を、当時の市川の描写をまじえて発表してみたいと思っている。〉

 没後50年を経てなお、荷風をめぐる新資料が、市川から発見されているわけである。市川市に、しっかりした機能を持つ文学館のような施設が整備されれば、こうした資料を研究し、市川の文化資産として、継承していく一助になるものと思われる。

 この日はまた、『永井荷風―個我の自由を求めて』というビデオ作品も、併せて上映される。この作品は、紀田順一郎氏の監修、藤原道夫氏の監督により平成14年に制作されたもので、朗読に佐藤慶さん、ナレーションに水木洋子映画でもお馴染みの香川京子さんが出演している。

 「市川・荷風忌」は、単に荷風を顕彰するだけでなく、市川での文学顕彰の気運づくりの一つにもなっている。

 「文学」の力が、「映像」などとも共鳴しながら、「まち」そのものの魅力づくりへと、つながっていけば、面白いと思う。

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《108》
災害への祈り・妙典の龍宮さま
~寺のまち回遊展で妙典めぐり

 「寺のまち回遊展」は、歴史資産と自然に恵まれた行徳の魅力を内外に広め、地元に住む人々が誇りと愛着をもてるようにと、毎年3月に行われる。昨年は3月26日に予定されていたが、3月11日の東日本大震災で中止。

 今年は、昨年中止となった第4回を踏襲する形で25日午前9時半から午後3時半まで、本行徳の権現道沿いの寺院や、妙典の旧街道まで範囲を広げ開催される。

 市川民話の会も、すがの会と合同で午前11時から、妙典の清寿寺をお借りして、語りと紙芝居で行徳の民話を聴いていただく予定。

 妙典の地名の由来や妙好寺、清寿寺にまつわる伝承については、本連載96回「寺のまち回遊展で妙典めぐり」(平成23年3月12日号)で紹介した。

下妙典龍玉宮
 今回は、東日本大震災から1年という時節柄、妙典に祀られている龍宮さまについて、紹介しよう。

 妙典駅から東に進むと、宅地造成された一角に、こんもりとした杜に包まれた鳥居が見える。

 ここは、「下妙典南無八大龍玉宮」で、宝暦2(1752)年建立の銘のあるものを含め、2基の石塔が祀られている。

 平成11年に建てられた由来書きには、次のように書かれている。

 〈往時の行徳(下妙典村)は葦に覆われた潮入りの原野と干潟であったが故に津波と洪水の力と戦う苛烈な土地であった

 天正十八年徳川家康が入府をして当時行徳は塩焼を主とし年貢を塩で納めていた

 米を作る田畑は殆どなかったので海を相手の為村人は自然の脅威から身を守るため海(水)の神として龍神を祭り安泰を祈ったのである

 徳川家康はこの地を幕府直轄の天領として代官を置いて治めさせる建立の時は宝歴二年代官は旧田尻村誌を引用戸田忠兵衛

 宝歴二年迄佐々井新十郎宝歴二年~六年となっている

 宝永一年(一七〇四)江戸川出水塩田被害甚大

 享保十四年(一七二九)江戸川出水塩浜ことごとく荒涼になる

享保十五年(一七三十)高谷の海岸に大鯨二頭あがる〉

上妙典龍宮様(八大龍王)に奉納された龍頭
 この場所から北に進み、江戸川放水路を間近に控えたところには、「上妙典龍宮様(八大龍王)」が祀られている。ここにも、平成10年に建てられた由来書きがある。

 〈ここに安置する龍宮様(八大龍王)は、安永三年(一七七四年)に、上妙典村中が願主となり妙好寺第十五世 大寶院日賢上人が村中老若男女の一切無障礙・海上安全・製塩業繁栄を祈り御祀りされたものです。

 安永九年(一七八〇年)の二月一日から龍宮奉謝として毎年十軒程の家が順番に当番となり昭和三十八年(一九六三年)迄、御奉謝は盛大に執り行われてまいりました。その後、永代妙好寺預かりとなった龍宮奉謝の御本尊様は、今日に至るまで上妙典婦人会の新年会に三寶奉謝の御本尊様と共に御祀りされています。

 妙典土地区画整理事業により此の場所を定め御遷座頂き未来永劫、妙典の地の御守護と平安無事を祈り御祀りしております。〉

 このように、これらの龍宮は、洪水や津波といった海との関わりとともにあった妙典の人々の、祈りの証しといえる。

 妙好寺には、本連載97回「語り継がれる『大正六年の大津波』」(同23年4月9日号)で紹介した「妙田地蔵尊」が、昨秋に新たな地蔵尊2体とともに復興されている。

 震災一年を迎えるこの3月、ぜひ行徳の街を歩いて、こうした行徳と海との関わりに思いを馳せてほしい。

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《107》
第12回市川手児奈文学賞

手児奈文学賞贈賞式(市川市グリーンスタジオ)
 「市川を詠む」をテーマに、市川の自然、文化、祭、史跡や建物、市川ゆかりの人物などを詠んだ、短歌、俳句、川柳を全国から募集する「市川手児奈文学賞」。

 12回目を数える今年度は、短歌2248点、俳句2612点、川柳899点、計5759点の作品が全国から寄せられ、入選作品が決定した。

 2月4日から市川市文学プラザで入賞作品展が開催され(5月22日まで)、2月5日には市川市グリーンスタジオで贈賞式が行われた。作品は『二〇一一年市川を詠む〔市川百歌百句〕』としてまとめられている。

 短歌の大賞は市川市幸の佐々木恵子さん。

 〈傘させど 身濡らすほどの 驟雨なり 手児奈の嘆き 受け止めきれず〉

 佐々木さんはこう自解する。

 〈文学散歩で手児奈霊堂を訪れた際、門前で急に雨が激しく降ってきた。引率の先生の説明も聞き取りにくいほどで、「これは手児奈だ。手児奈が降らせている」と思った。〉

 選考委員の清水麻利子氏は、次のように講評する。

 〈手児奈は何を嘆くのか。三月十一日の東日本大震災と、原発事故は、子供達の幸福を守る手児奈を嘆かせた筈です。今回の入賞入選作品中、数年来無かった数の多さで「手児奈」が十八首。「震災」が十一首。被災者の喪失感と共に、心にずしりと響く大賞作品です。〉

 俳句の大賞は、市川市若宮の宮島宏子さん。

 〈炎帝も 読むらし本の 塔まばゆし〉

 選考委員の能村研三氏の講評が、鑑賞の手がかりとなる。

 〈ここに詠まれた「本の塔」とは、鬼高にあるメディアパーク市川の中庭「水の広場」に立つモニュメントで世界的に有名なグラフィック・デザイナー福田繁雄氏の作品です。(中略)「炎帝」とは、俳句ではよく使われる季語ですが、「夏を司る神」を意味するものであり、俳句では夏の季語ということになり、ここではおおよそ夏の季節そのものの象徴といった意味合いです。(中略)まるで上空から、大きな神が手を出して、本を一冊ずつ開いている姿を俯瞰しているようなイメージが想像できるところがあります。〉

 手児奈をめぐる現代的な文学作品として、その位置が与えられよう。
手児奈文学賞入賞作品展(市川市文学プラザ)
 川柳の大賞は、市川市東菅野の南澤孝男さん。

 〈つくられた 悲話だわ手児奈 ありえない〉

 南澤さんの自解もユーモラスだ。

 〈体育会系とおぼしき元気そうな女学生四、五人が弾けるような声で会話していた。時々「ありえない」という言葉を発する。みな実に明るく、屈託のない顔つきだ。こんな娘たちが手児奈伝説を聞いたら、どんな反応を示すか。こうとでも言うのでは・・・。〉

 短歌の秀逸、船橋市の福田大助さんは、詩人の宗左近氏が作った『市川讃歌』を踏まえて、震災以降の福島への思いを作品化した。

 〈黄泉にても 福島讃歌創るらむ 左近の魂ぞ 永遠に垂直〉

 短歌の佳作、市川市国府台の三木千代さんは、市川の民話を詠み、こう自解する。

 〈被災地へ 送る童話の束の中 「市川の民話」 添へておきたり〉

 〈手持ちの童話本等を持ち寄り、被災地へ送ろうという友に賛同した。何となく語り口が似ていて、とても温か味のある『市川の伝承民話』の本も添えておいた。〉

 民話といえば、次のような短歌も入選している。

 〈「夜泣石」 回遊展で語る朝 苔生す石に 線香をあぐ〉(市川市高谷 島﨑礼子)

 島﨑さんは、市川民話の会の仲間でもある。

 子どもの部にも、豊かな市川が詠まれている。

 委員長の吉井道郎さんは、「編集後記にかえて」に「市川手児奈文学賞は文化運動」の題名を添えている。手児奈文学賞は、文学を通して市川の内外を結ぶ大きな絆となっていよう。

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《106》
井上ひさし「ブンとフン」―なぜか1月に縁のある作品

井上ひさし『ブンとフン』(昭和45年 朝日ソノラマ)=市川市文学プラザ蔵
 昭和45年1月、井上ひさしさんの処女小説『ブンとフン』が朝日ソノラマから出版された。それまで、放送台本と戯曲を手がけていた井上さんにとって、初めて活字になった書き下ろし小説である。

 市川市の国分寺の近くに住む小説家「フン先生」の小説の中から、四次元の大泥棒「ブン」が飛び出して、世界をあっと言わせる泥棒を繰り広げるという筋立てで、世の中の「権力」や「権威」を痛烈に批判した、胸のすくような作品である。

 警察長官が、悪魔を手下にし、フン先生の家に現れたブンをつかまえようと命令する場面は、こんな展開だ。

 〈「こら! 悪魔! いよいよ、ブンをやっつける機会がやってきたぞ。」
 婦人警官から報告を受けたクサキサンスケ警察長官は、長官邸にやってきてから食っちゃテレビを観て寝、食っちゃテレビを観て寝てばかりいる悪魔をたたきおこした。
 「ブンが、フン先生の家にあらわれたのだ。さ、はやく行け!」
 「わかってます。で、フン先生というひとの家の所番地は?」
 「市川市のはずれに下総の国分寺という有名なお寺がある。そのお寺の裏側の畑の中の一軒家だ。」
 「了解。いってきまーす!」
 さすがは悪魔、いざとなれば鮮かなものである。一瞬のうちに姿を消した。
 「たのむぞ!」
 長官は神に、いや悪魔に祈った。〉

 実はこの小説は、昭和44年にNHKラジオ第一放送で放送されたミュージカルが元になっている。井上さんの自筆年譜では、こう書かれている。

 〈一月、NHKラジオ第一放送に一時間のミュージカル「ブンとフン」を書く。おそらくこれはこれまでのところ熊倉=宇野=井上の最良の作品だろう。〉
 (『百年戦争下』所収自筆年譜より)

 熊倉とは、俳優の熊倉一雄さん、宇野とは作曲家の宇野誠一郎さんのこと。

 NHK時代から付き合いのあった映像プロデューサーの恒松龍兵さんは、このミュージカルについて、次のように回想している。

 〈ブン・黒柳徹子、フン・熊倉一雄、ナレーター・藤村有弘と芸達者な声の出演者で発想の面白さ、スピーディな展開の見事な番組でした。〉
(『それからのブンとフン』市川公演プログラムより)

 その後、熊倉さん率いる劇団テアトル・エコーの依頼で、小説に描かれなかった後日談を加えた『それからのブンとフン』として戯曲化され、昭和50年1月に上演された。

 セリフには、市川という言葉は出てこないが、6場のト書きには、こう書かれている。

 〈東京郊外下総国分寺裏のフンの家。フンが例の木箱机に獅噛みつき、折込み広告利用の原稿用紙に向ってなにか書きまくっている。〉
「それからのブンとフン」市川公演から、フン先生の家に現れたブンたち(平成23年12月、恒松龍兵氏撮影)
 ところで、昨年の12月、この戯曲『それからのブンとフン』が、市川市民による井上ひさし顕彰公演として、市川市行徳文化ホールI&Iで上演された。キャストもスタッフも市民が中心となった手づくりの舞台だったが、3ステージとも300人前後の観客が、3時間を超える超大作の舞台に圧倒された。

 井上さんの三女で、こまつ座の代表を務める麻矢さんも観劇し、「長時間の舞台を飽きさせずに観せる、市民の演技に敬服しました。父も喜んでいると思います」と、役者の皆さんに声をかけて帰られた。

 戯曲『それからのブンとフン』の結末は、小説のそれとは違って、獄中につながれた作家が、作品を書き続けていこうとする壮絶な場面で幕切れとなる。それは、井上さんの最後の戯曲作品となった小林多喜二の評伝劇『組曲虐殺』とも、井上さん自身の人生とも重なって見えた。

 ラジオ放送も、小説の出版も、舞台初演もいずれも1月だった『ブンとフン』を、ぜひ年始めに読むことをお薦めしたい。

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