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2011年
「日本人の気質を引き出す教育を」
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今年最大の出来事は、何といっても「東日本大震災」である。千年に一度有るか無いかとまで言われる「マグニチュード9」の地震、それに伴う大津波、これだけでも凄いのに、チェルノブイリと同じく危険度が最大規模の7という福島原発の事故が加わる。地震と津波は一瞬の出来事、中継映像を見ていて言葉を失った。今でもその時の衝撃が脳裏に残像として有り、思いだすとぞっとする。
人間は、こういう時に本然の性は勿論、その気質の性をも表すといわれるが、今回それらの性が人々の行動となって表れた。注目すべきは日本・日本人に対する世界からの評価の高さである。略奪や救援物資の奪い合いもなく、互いを思いやり協力して復旧・復興に整然と取り組む姿に感動の声すら聞こえてきた。「日本人なら必ずやこの苦難を乗り越えて国の再生を図ることは間違いない。期待している」。この期待から「がんばれ日本」という合言葉が生まれ、大合唱となって世界に響き渡った。
もう一つは、日本人の地域の絆の強さを改めて浮き彫りにした。子供たちの言葉からもそれが窺われたことはどんなにか心強い。「地域の人々が一生懸命私たち僕たちを支えてくれている。感謝の気持ちでいっぱいです」と涙をこぼしながら語っていた小学生、「こうして卒業式ができたのも地域や先生方のお陰です。これから大人になってもこの地域を立て直すことに力を尽くしたい」と笑顔で話す中学生。そこには学力や学歴という価値や競争関係は無く、人間本来の愛や情のみが存在していた。
この震災を転機に、日本人が忘れかけていた家族や地域、絆の大切さを認識し、日本人本来の人間性の豊かさ・思いやり・感謝、そして絆を取り戻すことになればと願う。
折しも先月、親日家でもあるブータンのワンチュク国王夫妻が来日した。国王の言葉の中にも家族や地域の絆の大切さが滲み出ていた。「家族は心のよりどころである」「経済成長よりもコミュニティの活力を優先する」「助け合いの精神に支えられる国づくりを」、小学生には「人は経験を積み重ねて強くなるもの」とブータンの龍を例えに励ましていた。思いやり・助け合い・絆などは嘗て、日本人の心の原点であり気質の性であった。このDNAを引き出す教育をどう行うかが、これから問われる。
(2011年12月17日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「『キャリア教育』は『人間教育』から」
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「キャリア教育」の充実を求める答申が今春、文科相に提出された。若者の失業率や非正規雇用率、早期離職率の高さを改善するのが狙いで、学校段階での就業体験や地域の大人との対話の実施などを盛り込んだという。
そもそも、キャリア教育なるものは1970年代にアメリカで導入された教育の一形態であるが、同年代末には規模が縮小され、現在は企業中心のキャリア教育として存続している。当時、米連邦教育局の構想のもとで始められ、特にアカデミックな知的教育と職業教育の統合、少数民族や経済・文化的な不遇者の社会的統合を目指したものといわれる。
日本がこの制度を導入すること自体には吝かではないが、単なる模倣、対策であってはならない。あくまで、日本の教育全体としての位置づけが必要である。
わが国の教育政策はこれまで、何か問題が起こるたびに泥縄式の対応策でその場をしのぐという印象が強い。その結果、学校現場はあれもこれもと積み上げられた問題への対応に追われることになる。しかし、学校は万能ではないから、限界はすぐに来る。教職員は限界ぎりぎりまで奮闘したとしても、やっていることは対策の域を出ないから、根本的な問題解決にはならず、目に見える成果につながらないのが通常である。
では、どうすればよいか。必要なのは教育制度の抜本的改革である。まず、問題が起こる、文科省が中教審に諮問し答申をもらう、それを都道府県・市町村教育委員会・学校に通知する。学校はそれに基づいてカリキュラムを作成し、教員が子供の指導に当たる。指導結果は地方教委・文科省がチェックをし、評価する。こうした従来からの縦系列のシステムを変え、市町村教委・学校と家庭・地域に主体性を持たせるようにする。そして、地域住民が自分たちの子供は自分たちの地域が責任をもって育てるという使命感を醸成することから始める。
これだけでは問題は解決しない。現代社会はかつて経験したことのないような文明社会であるが、仕事をするのは人間である。その人間作りをしないで学力だの学歴だのと言っているようでは、世界から信頼される人間には育たない。日本人が世界で信頼され、活躍できるようにするには、何といっても教育の目的である人間教育を取り戻す努力をする以外に道はない。
(2011年12月3日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「日本人学生の現実を直視し、思い切った教育革新を」
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〝日本の若者がどんどんバカになっている〟という。「漢字が読めない、分数ができない大学生は当たり前。昨今の若者たちのおバカっぷりは、それで社会生活が送れるのか、と心配してしまうレベルに達してきた。(中略)しかし、若者の『学力低下』『知的衰退』を嘆くだけでは何も始まらない。若者のピンチは、日本にとってのピンチでもあるのだ。見て見ぬふりをするのではなく、あざ笑うのでもなく、この現実を直視することから始めたい」(国際情報誌サピオ=2011年2月16日号)。
就活に見せる現代の学生気質。同誌は、「他人を気遣う」姿勢を欠く学生が増えている、アルバイトは怒られるのが怖いから、また、他の人と一緒にやるのが面倒くさいからといって避ける、面接時のグループディスカッションで自分の意見に反対意見が出たと泣き出す学生がいたなど、人間関係がうまくとれない傾向にあるという。話としてはこれまでにもよく聞いてはいたが、これが現実ならば事態は深刻である。
もう一つショッキングな記事は、日本人は勤勉で優秀だったのも今は昔ということ。「アジアの盟主」から転げ落ちた日本は、アジア、中でも韓国や中国からバカにされている。日本で教えたことのある韓国人教師は「日本学生は目的意識がなく努力をしない学生が圧倒的に多い。このままでは単純労働しかできないのに、何も疑問を持たないでいるのには呆れる」という。また、韓国人学生が竹島問題を話し合おうとしたが知らない学生が多く、「国際感覚がない。有難いくらい馬鹿だ」と言ってのける。中国でも日本人の評価は下がる一方で、与えられた仕事はするがそれ以上は自分の頭で考えない、やる気もないと散々だ。
一冊の情報誌から得たもので、一部の人の傾向であり、多くの日本の若者はそうではない! と言い切れるかといえば自信はない。というのも、企業の日本人採用枠が最近激減しているからだ。今年度の大卒の採用は昨年度から40%削減され、その分は海外から採用するか外国人留学生を採用するという。理由は、企業が求める人材と日本人学生との間に大きな隔たりがあり、応募してくるのは採用する気がしない学生ばかりだからという。
このような現実に手をこまねいてはいられない。思い切った教育革新が急がれる。
(2011年11月19日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「“友人が作れない”原因は子供期の教育環境」
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大学生の友達作りを手伝う大学が増えているという。嘘のような話であるが、本当なのである。
ある調査による大学生の悩みの第一位は友達ができないことだと知って、唖然とした。分数計算や〝九九〟ができないといった大学生が増えているということは聞いていた。その為の補習をしているとも。ただその原因を、初等・中等教育やゆとり教育の所為にするなど教育関係者の意見とはとても考えられない発言が多く、メディアがそれを煽るという風潮には辟易する。
これは、人間の脳の〝記憶・忘却〟という機能を無視した考え方であることは明らかである。記憶の必要度の低下や、分数や九九などを日常的に使う頻度が激減したことの影響など、脳の特性や働きから原因を考える必要があるのではないか。覚えたことは忘れるが経験したことは忘れないという脳のメカニズムからいえば、短期記憶は脳の海馬に一旦保存されるが、その後に使用頻度が多ければ脳の大脳新皮質にしっかりと長期保存されるから、大人になっても覚えている。これは計算機が普及した頃から心配されていたことで、それが現実になっただけの話であり、ゆとり教育などの所為ではない。
この脳の特性や働きをコミュニケーション力に当てはめて考えてみれば、友人関係をうまくとれない大学生が出てくるのは必然。その延長線として、社会に出た時に人間関係がうまくいかず孤立したり悩んだりするのも至極最もといえる。
いずれも子供期の教育環境に原因があることは自明であり、子供達にそれらの能力を開発する機会が与えられていないからだと考えられる。本来、子供は好奇心が強く、放っておいてもあらゆるものに関心・興味を抱き、それが元となって自発的、意欲的にあらゆる対象と向き合い、体験し、学習し、自ら解決しようとするものであるが、与えられた課題や大人の期待だけに応えようとした学習や問題解決はその場しのぎのものでしかなく、自分の人生の為にという意識も覚悟もないから、自主性も育たず身につくはずもない。
社会的動物といわれる人間にとって、友人が作れない、人間関係がうまくいかないなどは致命傷となりかねない。現代日本社会が人間形成をするには余りにも貧しい教育環境でしかないという、まさに教育全体の問題を反映したものでもある。
(2011年11月5日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「子供に学ばせたい「絆の大切さ」」
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NHKの連続テレビ小説『おひさま』を視聴した。舞台が、筆者が住む長野・安曇野であるので観(み)始めたが、時代背景が筆者の子供時代とオーバーラップしているため、懐かしさも手伝い最後まで観てしまった。
このドラマが描こうとしたのは、人と人との強い絆(きずな)ではなかったかと思う。親子や夫婦、親族、兄弟、師弟、友人、隣人や地域住民が助け合い、協力し合い、喜びや苦労を分かち合う姿が、全編を通じて随所に表現されていた。
方言やその頃(ころ)の衣装、建物などを時代に合わせるのは当然であるが、安曇野での出来事や人物までが事実に基づいていることには驚いた。例えば、安曇野の帝王と呼ばれた人物のモデルが実在したこと、松本市街の大火災などだ。また、学校で一人の子供の弁当が誰かに食べられてしまったという出来事。これは1年ほど前、近所のおばあちゃんに実際にあった話として聞いていた。この話には続きがある。「当時は、家が貧しくて弁当を持ってこられない子供もいたが、そういう子供に先生は自分のものを半分食べさせていた」というのである。話の最後におばあちゃんは「この時代の先生は子供を思う心が強かった、今は無いね」と寂しそうに言った。
一方、ドラマの中に出てくる教師たちは筆者が子供の時の教師そのものであることにも共感した。子供一人一人の家庭状況に心を配り子供たちを励まし、卒業した後も励まし面倒をみ続ける。一変した戦後の教育に悩む教師の姿などは、筆者が子供ながらに見聞きした事実である。ドラマを観ていくうちに、お世話になった恩師たちの思い出と共に、物語に吸い込まれ溶け込んでいく自分があった。
地域の人々の絆も今から見れば際立って強く感じられるが、当時はこれが当たり前であった。災害時などに支え合う姿は今でもあるが、日常的に助け合い支え合い、喜怒哀楽を分かち合う姿は今では希少である。しかし、安曇野にはそういった家庭や地域の絆がまだ残っている。
今年起きた東日本大震災を機に、家族や地域の連帯感や絆の大切さに気づき始めた日本人が増えたという。このことは子供の教育環境としては大変好ましいことである。気づいたら即行動。家庭や学校、地域社会で子供たちの発達段階に応じて人間同士の絆の大切さを学ぶ場をつくりたいものだ。
(2011年10月15日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「『叱るよりほめる』は最高の教育方法」
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ほめることの教育効果と脳の働きの基本メカニズムが、脳科学や心理学から明らかになってきた。人間の行動を決めるのは報酬だといわれる。脳が報酬として受け止めるものには、食べ物や金銭、性的刺激などの他、自分に対する他者からの良い評価などがある。脳はこれら快感を伴う刺激を受けると、脳の中の報酬系という神経回路が働き、ドーパミンという神経の成長を促す特殊な物質が分泌される。すると、快楽神経系にスイッチが入り、人は心地よさや気持ちよさを感じ、脳の様々な働きを活発化するというのである。
この脳のメカニズムを利用した試みが、様々な分野で行われている。その一つが脳卒中のリハビリへの応用である。米カリフォルニア大学工科大学の研究では、ほめることで回復力を高めているという。仕組みは、ほめられると脳の報酬系が活性化し、その運動を司る部分にドーパミンを送りこむ。その結果、ほめられた運動が上達する。ほめ方のポイントは、具体的にほめる、すかさずほめるとしている。これは脳に、今使った回路だと教えるためだという。更に、目標は低くし失敗を繰り返すことにならないよう配慮するというものである。
教育分野では前回紹介したように、遥か昔からその効果は実証され、広く教育に取り入れられてきたが、なぜか近年、その効果に目を向けなくなった感が強い。原因はいろいろ考えられるが、戦後、特に高度成長期を境にして、人間教育より学力・学歴を重視する教育に傾注し、その勝ち組を目指す親とそれに応えようとする学校という競争の悪循環が子供を追いたてる結果となった。こうなると、大人たちに心の余裕がなくなるのは必然で、子供をほめるより叱ることのほうが益々増えてくる。このような時代に育った今の親や教員は一様にほめられた経験がないから、子供をほめられない・苦手という連鎖が起こっている。
心理学研究によっても、叱るよりほめることの方が教育効果は遥かに高いというのが常識である。ほめることは行動の承認であり激励であって、子供には快感となり意欲を高めることになる。嫌いな教科であっても、ほめられたことがきっかけとなり大好きになる事さえある。このように『叱るよりほめる』という教育は、脳の基本的なメカニズムに働きかける最高の教育方法だといえよう。
(2011年10月1日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「子供の成長に必要な『褒める』『期待する』『励ます』」
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『ほめれば豚も木に登る』と『ピグマリオン効果』。筆者が初任の頃、教員が大事にしていた言葉である。前者は、山本五十六元帥の名言「褒めてやらねば人は動かじ」から来たものというが、更に遡って江戸時代の米沢藩主、上杉鷹山の作といわれる歌に原点がある。
鷹山といえば、J・F・ケネディ米国大統領が日本人記者から「日本で最も尊敬する人」を聞かれた時、即座に「上杉鷹山」と答えたことは有名である。10歳で上杉家の養子になり、わずか17歳で藩主となった鷹山は、財政をはじめ多くの改革に取り組み、貧窮のどん底にあった藩を立て直し、藩民を救った、江戸時代屈指の名君である。その成功の裏には、優れた人間性と思想がある。
『学問は国を治めるための根元』とする彼は、人間教育の根本である他者を思いやる「人間愛」を育てる教育の場として藩校「興譲館」を創設した。その精神性を表現した歌が『なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり』である。この他に『してみせて 言って聞かせて させてみる』というものもあり、それが山本元帥の「やってみせ 言って聞かせて させてみて 褒めてやらねば 人は動かじ」となり、広く知られるようになったといわれる。
これらの言葉からも分かるように、鷹山は藩の人々を信頼し、自らの行動で範を示しながら人間愛を以って改革を成し遂げたといってよい。この心と行動は正に教育者のものでもある。
もう一方の『ピグマリオン効果』。人間は期待されると、期待に添うような形でその人の個性に変化が生じる現象を指していう。その効果の存在は実証されてはいないというが、人間関係における期待の果たす役割の重要性を示唆している。
このように「褒める」「期待する」「励ます」は、子供の人間的成長には欠くことのできない要素であるが、なぜか日本人は人を褒めることが少ない。むしろ「叱る」「けなす」「ケチをつける」「陰口をたたく」などが得意なように思う。家庭や学校は、子供を育て教育する場である。それだけに、子供が才能を自ら引き出し、存分に伸ばせる教育環境が必要であり、その環境を整えるのが大人の責任でもある。その為にも、これらの言葉の持つ意味を大事にしていかなくてはならない。
(2011年9月17日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「わが子は愛情を注いだ上で荒波へ」
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『かわいい子には旅をさせろ』。子供の頃、よく聞かされた諺である。本当に可愛いなら甘やかすのではなく、荒波にもまれて世の中の辛さや苦しさも経験させよという意味である。他にも『可愛い子は打って育てろ』『獅子の子落とし』などがあり、外国にも『鞭を惜しむと子供はダメになる』というものがある。いずれも、自立し、厳しい世間を渡っていくために必要な力をつけさせなくてはならないという、親の在り方を表している。
ただ、諺が生まれた当時の時代背景が今とは大きく違う。その一つが、「可愛い子江ノ島までは旅もさせ」(古川柳)とうたわれているように、当時は交通が不便で、旅は辛く苦しい苦労の多いものであったこと。もう一つは、子供に対する大人たちの思いの違いである。昔、子は宝であって、子を産み育てることは親の務めであり、家族や親戚、地域にとっても誇りであると考えられていたから、出産、お食い初め、七五三のお祝い、初節句、そして入学、卒業とその節々で多くの人々が喜び祝ってくれた。それは、子供心にも何か誇らしく、自分の存在感を確認し、同時に家族や地域の一員としての自覚を高めていったと、今にして思うのである。
例え、現代の時代背景が当時とは違っても、子供が成長する上で親の愛が重要であることは、時代を超えて不変の真理である。子供が豊かな人間形成をする上で欠くことのできないものが「母親の愛」。特に乳幼児期、母親の無償の愛に包まれることがなければ、親の厳しさは子供の心に憎しみさえ宿すことになりかねない。十分な愛情を受けられないまま厳しさだけを強いられることにでもなれば、何れかの時に親に歯向うことがあっても不思議ではない。加えて、自立できないでいるから家から離れられないという悪循環に陥る。これが不幸にも、身近な者を対象とした家庭内暴力や殺人へとつながっていく。
一方、親や家族の愛情を存分に感じ取って育った子供は、厳しさを受けとめる心の余裕もあるので、自立するのも早く、家庭を母港として社会に旅立つことができる。
本当にわが子が可愛いなら、愛情いっぱいに育てた上で、子供の未知なる世界での多くの経験を積み重ね、逞しく成長してほしいとの願いを込めて、わが子を世間に追いやる勇気と覚悟を持ちたい。
(2011年9月3日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「子供の喧嘩は子供に解決させる」
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「子供の喧嘩に親が出る」と子供たちが囃したてる。筆者が子供時代の日常的な風景である。これは子供同士の喧嘩に口を出す大人を蔑視して言う子供の言葉である。
当時の大人たちは、子供は大人の保護下にはあるが、大人と子供の世界をしっかりと区別していた。だから、子供間で起こる問題に大人はやたらと口や手を出さず、できるだけ子供たちで解決させようとしていた。子供たちもそのことが分かっていたので、争いごとを親や先生などに言うことはなかった。仮に親などに知れたとしても、大人たちが解決を先導することはなく、自分たちで解決するよう仕向けるぐらいのものであった。従って、仲間が喧嘩の仲裁をして仲直りさせるというのが通例であった。『雨降って地固まる』の例えのように、子供の喧嘩はその後の強い友情を育むことが多い。
このような大人の行動の根底には、子供が自立して立派な大人になっていくには生きるための多くのことを学び、試練や苦難を乗り越えられる力を身に付けなければならず、そのためには多くの体験・経験が必要であるという思想があった。だから、その時代の子供たちは皆当然のこととして、どんなに苦しくても挫折することなく、心身ともに逞しく、心豊かな大人へと成長していったものである。
いまはどうだろう。まず、子供の喧嘩という概念はなく、その言葉さえ聞くことも稀になり、いじめや暴力という言葉にすり替えられてしまっている。我々世代から見れば、子供の喧嘩にしか見えないものでもいじめとか暴力として扱われ、大人が乗り出してくる。子供もそれが当たり前になり、大人に頼り自分たちで解決しようとは毛頭思わないし、解決する力も方法ももたない。
一方、子供と違って大人には妬み、恨みなどさまざまな感情が絡み合うから、大人同士の泥沼の戦いとなり、責任の追及になる。最悪の場合、訴訟ともなれば金銭が絡んでくることは必然。こうして、解決ではなく一応の決着を見たとしても、子供同士の仲直りとは異なり、その後の人間関係に罅が入り、その子の一生にまで影響を及ぼすことにもなる。
このような子供時代を過ごせば間違いなく依存的となり、自己解決能力のない自己中心的で、人間性に欠け、良い人間関係の築けない人間になることは避けられない。
(2011年8月20日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「人との関わりと遊びが子供を育てる」
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「人間の脳の発達には人間関係が不可欠」といわれる。つまり、人間形成(教育)には人間同士の関係性が欠かせないということである。脳科学は、人と会話をしている時の脳が最も活性化の状態にあると明らかしている。これは人間関係が脳細胞の配線を広げ、脳の発達を促進することの証明でもある。
乳児は母親が語りかける顔をじっと見ているが、次第に笑うようになり、言葉にはならなくとも何かを話そうと盛んに声を出す。幼児期から児童期になると誰彼となく話しかけてくるようになり、多くの人間との関わりを好んでもつようになる。脳の発達にとってこの関係性は、極めて重要な事が分かる。
昔は、子供が生まれると多くの人がその成長に関わった。おじ、おば、いとこや近所は勿論、通りすがりの人達までが声をかけてくれていた。
ところが、現代の子供達の成育環境を見ると、人間同士の関係性が極めて希薄になった。兄弟が少ない、核家族である、地域で群れて遊ぶこともない、これでは豊かで多様な人間関係は作れない。
脳を発達させるもう一つの鍵が遊びにある。子供が数人集まれば遊びが始まるもので、遊びは人間関係づくりのきっかけ、下地になる。遊びを通じて個性や持ち味が見えてくるから、自然とそれぞれに合った役割もできる。役割をこなす過程で責任感も育つ。勿論、リーダーも生まれる。子供時代のリーダー経験は大人になって大きな力になる。また、遊びにはルールが必要だから、皆で約束事を作り、守る。これらが社会性の発達につながる。更に、自由な遊びは創造性の育成にも極めて有効である。
このように、生れた時は人間的に非力なヒトが人間として成長していく為には、遊びは欠くことのできないものである。昔の人は「遊びが子供を育てる」「子供にとって遊びは学びなり」と言ってきた。
子供を大事に育てることは、子供が成人した時にどんな苦境をも自らの力で乗り越え未来を切り開いていける、あらゆる力を身に付けさせること。その為の生育・教育環境を整えるべく最善の努力をする信念と覚悟が大人には必要である。
「家の中にばかり燻っていないで皆と外で遊んで来い」と言われ続けて子供時代を過ごした我々世代は、どんなにか幸せであったかと、今になってつくづくと思うのである。
(2011年8月6日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「“一緒に”が人間関係を深め、脳を発達させる」
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「人は人間関係の中で育つ」という。育つとは脳が発達することであるが、その為(ため)には多様な経験が必要だ。中でも人間同士のつながりが重要で、それも人間関係が濃密であることが不可欠。濃密な人間関係の基になるのは信頼感や愛情である。特に乳幼児の頃(ころ)に親の広くて深い愛がなければ、脳の発達も促されず、将来自立した大人としては育たない。その影響は、思春期や成人した時に表れる。例えば、人間関係がうまくいかない、人とのコミュニケーションを図ることが苦手、人から信頼されない、自己中心的である、などだ。
昔、「同じ釜の飯を食う」という諺(ことわざ)があった。寝食を共にしたり、同じ職場で働いたりした親しい間柄であるということで「同じ釜の飯を食った仲」ともいう。この『一緒に何かをする』ことは脳の発達からみれば、人間関係における共感回路を発達させるために重要な行為、経験である。子供はこの一緒に遊ぶ・食べる・寝るなどが大好きである。幼稚園・保育園、学校では一緒に勉強する・校(園)外学習に行く・学習発表をする・運動会に参加するなど、上級生と下級生、他校の児童生徒との交流など『一緒に』するという機会が多くあり、いずれも子供達が楽しみにしていて、殆(ほとん)どの子供が待ち遠しい、わくわくするという気持ちで待っているものだ。
好きだから、子供にとっては主体的な経験となり、脳の発達を促す。多少の辛さや苦痛にも耐え、それを乗り越えることもできる。そのとき、子供は脳幹が刺激され忍耐力がつく。また、やらされていると受け止めがちな授業での相対評価と違い、活動を通じて自分の存在感が示せる。褒められる、認められるという経験も脳の発達には欠かせないものだ。
ほかにも皆で群れて遊ぶ、じゃれ合う、取っ組み合う、揃(そろ)って同じことをするなどが本能的に子供は大好きだ。実はこの行為も脳の発達には重要なもので、子供時代に存分に経験させておきたい。
筆者の子供の頃は学校での業間の「遊び時間」と放課後、休日は毎日のように群れて遊んでいた時代であったが、現代はどうだろうか。「遊んでないで勉強しろ」と子供に強制してはいないだろうか。もしそうなら、脳の発達に異常をきたしたとしても仕方ない。子供時の人間関係づくりを大事にしたい。
(2011年7月16日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「“外群れ遊び”が人間的に成長させる」
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〝何かを学ぶためには、自分で体験する以上の方法はない〟(アインシュタイン)。人が生きる上で最も大切なものは「信念」であるといわれる。何をするにも揺るぎない信念が力となる。アインシュタインはその人の経験、そして経験から学ぶ力である「信念」に着目し、「経験からの学習」のプロセスを明らかにしている。
脳科学の面からも脳科学者の茂木健一郎氏が注目すべき発言をしている。今、日本人に欠けているといわれる創造力について「創造とは思い出すことである。その為(ため)には経験を沢山(たくさん)積んでおき、それを引き出して創造する」と。多くの自然に触れること、いろいろな人との交わり、失敗や危険など負の経験も含め、とにかく沢山経験しておくことが大切だというのである。だから一般的には高年齢の人ほど経験を積んでいて、引き出しの中身も多いから創造力もあるということになるという。但(ただ)し、意欲が高いことが条件だとも。
繰り返しになるが経験なくしてヒトは人間として成長することはできない。特に子供がそうであって、極論するならば、子供時の経験の差が人間力の差になるといってもよい。また、その経験は全(すべ)てを遊びがもたらすということに注目したい。昔は『探検遊び』『泥んこ遊び』『水遊び』『魚釣り』『蜻蛉(とんぼ)釣り』『小川での魚とり』『ゴム跳び』『縄跳(と)び』『馬跳び』『けんけん』『隠れん坊』『鬼ごっこ』『陣取り』『かごめかごめ』『花一匁(もんめ)』などと数えきれないほどの遊びがあった。これらには共通点がいくつかあるが、中でも重視したいのは屋外であることと、多人数が群れて遊ぶという外群れ遊びであったこと。それも学校から帰るとカバンを放り投げて夕方暗くなるまで遊び呆(ほう)けていたものである。遊びの主役は勿論(もちろん)『ガキ大将グループ』だったのは言うまでもない。
これらの外群れ遊びの経験がない現代の親世代は、遊びと称するものを『悪』と決めつけているが、子供にとっては『遊びは学び』であって、遊びなしには学べない、つまり成長できない。特に外群れ遊びは、自然や人との触れ合いが多く、質の高い経験ができる。その積み重ねによって人間的に成長していく。また、それらの経験が創造性や感性、更(さら)にはアインシュタインのいう信念にまで及ぶ。子供の成長はこの『遊び』と経験に支えられているのである。
(2011年7月2日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「自立した人間に欠かせない主体的経験」
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何事も経験が大事、経験はかけがえのないものと子供の頃(ころ)教えられた。「習うより慣れろ」「隣のもちも食ってみろ」などの諺も経験の大切さを、また「亀の甲より年の劫(こう)」「老いたる馬は道を忘れず」「松かさより年かさ」なども経験を積んだ者の方が何かにつけて優れていることを教えてくれている。
更(さら)に、小欄で度々引用させてもらっている動物行動学者のコンラート・ローレンツも経験について「子供の頃、肉体的な苦痛を味わったことの無いような子供は、成長して必ず不幸な人間になる」と述べている。ここにいう肉体的苦痛とは、暑さ寒さに耐えた経験とかひもじさや、辛い仕事に耐えるという意味で、折檻(せっかん)などを指してはいない。もう一つが、動物は自らの攻撃を抑制する知恵を始めから備えているわけではなく、群れの中で小さな諍(いさか)い、喧嘩(けんか)などを経験して抑制を学習するという。つまり、生きていくうえでの知恵は全て経験によって身についていくと言ってよい。このように経験が人をつくり、経験が多く多様であるほど人は賢くなる。人が賢くなれば社会も賢いものとなり、そういう社会は安心して暮らせるから、人々は幸せな人生を歩むことができる。この良い循環を起こす基になるのが子供時代の豊かな経験である。
経験の大切さを脳科学から見たらどうなるのか。人が生まれた時の脳の神経細胞(ニューロン)は誰でも等しくおよそ140億個もあるという。その神経細胞が情報伝達の為(ため)に互いにつながり合い広がること(配線を密にするともいう)が脳の発達であり、発達は一生続くものである。
配線を密にするには刺激が必要である。刺激といえば、乳児期は主に母親、幼児期以降は家族や地域の子供や大人たち、学校へ入れば先生や友達など、また、生き物や自然現象から受ける多様な経験によって得られる。ただし、刺激なら何でもいいというわけではなく、主体的に関わった体験であり、経験でなければならない。やらされていると感じる経験では脳の発達にはつながらない。また、体を使った肉体的体験が脳を発達させることも注目しておきたい。
これらのことから、脳の発達には質の高い経験ができる外遊びが最適であることが分かる。豊かな人間性をもち自立した人間に育つことを望むのであれば、子供の遊びの重要性を再認識したい。
(2011年6月18日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「睡眠は身体と脳の成長に重要」
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『寝る子は育つ』。そう言って追い立てられるように寝かされた子供時代が懐かしい。当時は大人の都合だと思っていたが、その後の研究で睡眠時間と脳の発達の関係が明らかになってきた。驚くことに、睡眠は身体の成長だけではなく、脳の発達にも大きな影響があるという。
人間の脳は子供時に急速に発達する。特に0歳から7歳くらいまでの脳神経細胞の結合スピードは著しく速い。しかも、脳は睡眠中に成長するというのである。つまり、睡眠時間の長短が脳の発達を左右する。その結果、よく寝る子ほど頭がよいということになる。子供の頃に十分な睡眠を取っておかないと、高レベルの脳には成長できないのである。
このように、睡眠は人間が生きていく上で極めて重要な役目を担っている。まず、身体の成長との関係では、睡眠中に分泌される成長ホルモンが身体の成長を促すことから、睡眠時間が身長を決める。更に、一日の疲れを取るために睡眠中に血液を生産し、痛んだ体を修復する。脳細胞も睡眠中に増えるから、子供の睡眠不足は知能にも影響が出る。
もう一つ、脳は、睡眠中に記憶した情報の整理をするという機能を持つ。脳科学によると、余り必要ではない情報は捨て、体験や強い感情を伴うような強烈な情報だけを脳に記憶する。記憶される情報の質が高ければ、それだけ高い知能を生みだすというのである。蛇足だが、夢はこれらの記憶がつなぎ合わさったものだという。つまり、脳が創造しているものを我々は夢として見ているのであって、時には自分でも考えられないような不思議な夢を見るのはそのためなのだ。
『寝る子は育つ』という言葉には、このように深い意味が含まれている。寝るということが、生き物である人間にとって如何に大切であるかが分かる。
では、今、子供達はこの大切な『寝る』ことを十分保証されているだろうか。親の生活に合わせて夜更かしをして短眠になってはいないか。短眠が勉強への集中力を欠き成績低下の原因になることや、精神的不安定を起こし人間関係のトラブルにつながることも考えておきたい。穿った見方をすれば、いじめや対人関係の悪化も、そんなところからきているのではないだろうか。大人の生活時間に合わせた子供の睡眠は、考え直す必要があるのではないか。
(2011年6月4日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「現代日本で尊重されない祖父母の教育力」
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♪小3の頃からなぜだか、おばあちゃんと暮らしてた…♪
去年暮れの或(あ)る日、ラジオから流れてきた歌に思わず耳を傾けた。それは「おばあちゃん」という言葉に引き付けられたといってもよいのかもしれない。自分の子供の頃(ころ)と重なるところもあって
♪次の日の朝おばあちゃんは、静かに眠りに着いた…♪
というあたりからは老涙を止めることができなかった。話によれば若者達も涙を流す人が多いという。
社会現象ともなったこの歌の教育的な意味を考えてみたい。単純には、この歌の作詞者が子供の時のおばあちゃんとの思い出を詠んだものであるが、それを聞いて共感し涙を流す人達がいるということに筆者は着目する。それは「おばあちゃん」の教育的価値との関係についてである。
一般に、祖父母の教育力は父母のそれより優れているといわれているが、現代の日本では何故(なぜ)かその価値が尊重されていない。理由は、戦後の高度成長期を境に、先人達が築き上げてきた日本の文化をはじめ価値観までを否定し、新しいものを良しとしてきた風潮にあると思われる。
戦後間もない頃までは日本の家庭には必ずと言ってよいほど祖父母が父母や子供達と一緒に暮らしていた。従って、子供(孫)は日常的に祖父母の高い教育力によって育て上げられていた。また、祖父母がいることが家族にもたらす様々(さまざま)な効果もあった。例えば、日本やその家の文化は親からではなく祖父母から学び受け継いでいくものであるから、文化伝承には欠くことのできない存在であること。また、家庭内の人間関係が父母と子供という関係から祖父母が加わった多重関係になり、質の高い家庭教育になること。更(さら)には、父母の愛情を補い家庭内での緩衝帯の役割を持ち、少年非行や凶悪犯罪の防止に至るまでその効果は絶大である。その他、夫婦の子育ての悩みごとの解消や家庭教育・保育等の負担軽減、児童虐待の抑制なども考えられる。
最近では、こうした祖父母の教育的効果に注目する自治体や学校が増えてきているという。市川市でも早くからこのことに気付き、市の施策にしたものがナーチャリング・コミュニティ事業である。その理念は地域を一つの家庭として子供達を育てるというものであるから、地域の祖父母はそこに住む子供達にとっての祖父母と成り得るのである。
(2011年5月21日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「子供の自立を妨げる日本の教育観と家庭環境」
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教育とは自立の為の支援である。子供が人間的に成長し一人前の大人になることは、一人の人間として自立することであり、それを支える行為が教育である。そして、教育は教育環境によって左右される。このように考えたとき、現代の教育環境は必ずしも子供の成長、人間的自立にとって良好とは言えない。
第一に、日本社会の教育観が目先の知識・技術や学歴を重視し、人間作りという教育の原点を忘れたものになっている。家庭も学校もテストの成績や競争の結果など、いずれも数値化できる短期の成果に目を奪われ、すぐには見えてこない人間的成長を大事にはしない傾向・風潮がある。
第二に、人間づくりの教育環境として最も重要な家庭が、人間としての自律・自立を妨げる教育環境になってはいないか。例えば、自立の基礎になる満たされた愛情感を乳幼児期に持てるかどうか。幼児期・児童期に自立の為の躾が十分行われているか。学童期・思春期に自主性や社会性を伸ばし、自立心を確立できるよう多くの経験の場を与えているか。また、子供としての自由を認めず、親の思いを先行させ、幼児期から競争の世界に押し込み、短期での結果を求めるあまり人と交わる楽しみまで奪ってはいないか。更には、自分や自分の身の回りに起こったことを人や物や社会の所為にする自立していない家族がいないかなど数え上げればきりがないが、これらは少なくとも子供の自立には負の影響をもたらす教育環境と言ってよい。
結果、成人年齢を迎えても自立してない青年が増えている。引きこもり、パラサイトシングルなどがその代表例だが、入社式にまで親が同伴する、上司とのトラブルに親が出てくるなどは親依存そのもので、自立しているとはとても言えない。こんな話もある。「中高一貫校の高一生徒の話で『勉強も遊びも勝手にやっているグループと、何かある度に親が学校に来て相談するグループでは前者の成績の方がいいんですけれどね』という。ひょっとしたら、このような『自立』のきっかけをつかめたかつかめなかったかで学力差が生じるのかもしれない。」(日経新聞1/17朝刊)
これからの時代を世界で活躍していくには、知識や学歴などより自立した、真の人間性を供えた日本人が求められているというのに、これでは余りにも心許無い。
(2011年5月7日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「人間としての基礎形成あっての知育」
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今度は教科書を厚くするという。いま、国は教育について考え違いをしているように思えてならない。本来、教育とは人間形成が使命であり、人間としての諸能力と人格を形成する目的がある。「ヒトは教育によってのみ人間になれる」ともいわれるように、人間の子供は他の動物と異なり非力に生まれ、必要な資質能力すべてを教育によって獲得していく。従って、成長過程・発達段階に応じた適切な教育環境がいかに重要であるかは、改めて言うまでもない。
ところが、現代の教育環境はどう考えても子供の人間的成長・発達にふさわしいとは思えない。教育環境の劣悪化は学校だけではない。家庭や地域、社会の諸制度、文化、自然のすべてに当てはまる。現在の状況はいずれも、人間形成上はマイナスの影響しか与えていないといっても過言ではない。結果として、豊かな人間性や優れた人格をもった人間よりも、非人間性、つまりピアジェの概念として有名な、幼児の特性である自己中心性をもったままの、自立できていない人間が増加することになる。
原因にはまず、教育の原点としての家庭という教育環境が考えられる。乳児期は溢(あふ)れんばかりの母親の愛情に包まれ心の安定を得る段階で、自己中心性が特性である。幼児期は、歩く、走るなどの運動機能、話す、食べる、排泄(はいせつ)など個体としての基礎技能が一応完成する時期であるが、自己中心性は未(ま)だ残る。同時に食事、睡眠、排泄、着脱衣など生活の基本に関するものや礼儀、作法、決まりを守るといった社会生活に関するもの、生命の安全に関するものなど広範囲にわたり、社会の基本的な行動様式・態度や基本的生活習慣を子供の身につけさせる営みの所謂(いわゆる)〝しつけ〟がなされることによって、他人を意識し理解するようになり、思いやる心が徐々に育まれていく。
第二の教育環境である学校は、基本的には学問をするところであり、知育が役割の中心。但(ただ)し、人間形成という教育の本質から言えば、就学前に前述のような人間としての基礎がしっかりと形成されていることが前提になる。それ無しで、学力向上という競争社会に子供を追いやることは、絶対に避けなければならない。
教育を学力の向上だと思い込んでいるとすれば、子供たちにとって社会は人間的成長を阻害する、甚(はなは)だ迷惑な教育環境となる。
(2011年4月16日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「被災地を復興に導く人間性豊かな子供たち」
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「『心』は誰にも見えないけれど『心づかい』は見える。『思い』は見えないけれど『思いやり』は誰にでも見える」(宮澤章二「行為の意味」より)。この言葉がテレビやラジオから繰り返し流れてくる。気持ちは行いになって初めて見える。
これは嘗(かつ)て市川教育『行動の教育』の基本理念にもなったものだが、大震災の被災地での人々の言行から、この詩の意味を知ることができる。中でも子供たちの気持ちがひと際目に立つ。
気仙沼市立階上中の避難所では中高生50人ほどが、自分たちだけで避難者の食事を受け持つ。食事の数を決め、炊き出しを担当する大人に指示し、配給から食器の片付けまで全てを担当している。リーダーはこの春に高校を卒業したばかりの三浦翔太君。「身体が動ける若い僕たちが、お年寄りや小さい子供たちの世話をするのは当然のこと! 階上の地域は人の繋(つな)がりが凄くて…。僕たちの仲間にも家族が行方不明の人もいるけれど、同じように一緒に作業を頼んでいる。できるだけ普通に。そのことが、今は一番良い関わり方だと思うから…」。取材に応じる三浦君をはじめ一緒に活動する中高生の顔から、最近の若者には見かけない凛(りん)とした表情と静かな強さが感じられた。
他にも、母親が行方不明の14歳の少年は「復興にどのくらいかかると思うか。これからどうするのか」との質問に「1年や2年では無理。もうここには住みたくないという人も多いから。でも、僕はここが好きだから協力してこの町を立て直し、みんなと楽しく生活していきたい」と明るく力強く答えた。被災9日目に奇跡的に救助された少年とおばあちゃん。少年は自分の事をさておいてもおばあちゃんを気遣っていた。ある女子中学生は、自分が被災しながらも「私にもできることをしたい」とボランティアを志願したという。
小学生も活躍する。岩手・山田町の避難所では「肩揉(も)み隊」を編成し、お年寄りの肩を揉んで喜ばれていた。
阪神大震災の時、地域住民の繋がりの差が復興の差だといわれた。そして今、被災地で地域との絆の強い子供たちが、それぞれの『思い』を『行動』に移している姿を見た時、被災地の復興はもとより、これからの日本は人間性豊かに育ったこの子供たちがリーダーとなって導いていくのではないかと思うと、どれほど心強いか。
(2011年4月2日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「非行に走る力の矛先が夢に変われば」
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小欄で新年号から連載してきた「地域社会で育った若者」シリーズを読んだT君から、寄稿「僕にも言わせて、〝夢を持つことの大きさ〟」があった。
【僕の中学校は市川の中でもかなり非行に走る子供が多い学校でした。初めは悪行も可愛いものでしたが、学年が上がるにつれて非行はエスカレートし、先生や地域の方々に大変迷惑をかけました。僕もその一人でした。
その頃に出会ったのが地域の人々でした。僕らがいっぱい迷惑をかけていたにも関わらず温かく向き合ってくれました。中でもS・S氏は嫌な顔一つ見せず話を聞いてくれ、何時でも僕たちの味方になってくれ、話をする度に「迷惑なんかじゃないよ。むしろ頼ってくれて嬉しいよ。みんな可愛いからさ」と言ってくれました。僕らは、将来こんな大人になれたらどんなにか幸せだろうと考えましたが、あの頃の僕らには夢のまた夢でした。
その後、世間から非難を浴び続けていた生徒たちは、一人も欠けずに無事、中学校を卒業しました。
あれから7年の月日が経ちましたが、あんなに熱い思いをもった青春はこの先二度と来ないと思います。今にして思えば、皆寂しかったんじゃないかなって思うんです。だって、何より一番辛いことって孤独になることじゃないですか。きっと皆悪いことしてでも構ってほしかったんですよ。だから、皆で悪さをしたり、仲間同士で寄り添ったりして沢山の時間を過ごしていたんです。
非行に走ることは決してよくないことは確かです。けれども、子供たちのこういった力の矛先が、自分のやりたい事や夢に変わると、それは計り知れないほどのものになるのも確かです。
だから僕にとって教育とは、子供に好きなこと、やりたいことをやらせ、よくできたら褒めて励ますことだと思います。子供時代は、好奇心が強く沢山の事に興味や関心を持ちます。それらはいずれ、その子の夢となるかもしれません。その夢が将来どんな現実になるかは想像するだけでも素晴らしく、これからの社会に必ずや素敵な影響をもたらしてくれると思います。
最後に、自分を育ててくれた地域の方々と両親に改めて感謝をします。】
今回までの寄稿が、『教育とは』『日本教育の今』など、教育の本質を再思するよう促していると思うのだが。
(2011年3月26日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「包容力のある大人たちに囲まれて更生」
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前回紹介した若者を育てた母親N・Iさんからの手紙を、許可を得て掲載させて頂く。
「私には3人の息子がいます。長男は学校職員、二男は宮大工の棟梁、三男は会社経営です。それぞれの道を歩んでいる3人は、互いを尊重し合うとても仲の良い兄弟です。
もう10年以上前になろうとしていますが、大きな『嵐』の中に私たち家族を放り込んだのは、一番感受性の強い三男でした。『偶然なんてない、世の中の出来事は全て〝必然〟』といいます。だとしたら、嵐の真っ只中に息子を追い込んだのは他でもない一番身近にいた母親の私なのだと、当時は自分を責め、随分悩みました。そんな中、父親も2人の兄弟も、姑も一緒になって葛藤し、励まし、私を支えてくれました。
やがて『嵐』が静まり、土砂降りの雨も少しずつ上がる日が来ました。あの頃はこんな穏やかな日が来るとは想像すらできませんでした。
息子がここまで更生できたのは、沢山の素晴らしい大人たちに出会えたお陰です。中でも、何時どんな時でも最後まで息子を信じ、諦めないで接してくださった地域の保護司S・Sさんです。息子は、今までの大人とは違う何かを感じ尊敬し憧れたようで、徐々に素直になり、顔つきまでもが変わっていきました。S・Sさんはその上、親の私にまで親身になって相談に乗ってくださいました。
また、非行に走る子供の親たちを救ってくださっているNPO法人非行克服支援センターの先生のもとに悩んでいる皆が集い、先生の話や互いの話に耳を傾けたことで〝自分一人ではない〟と感じさせていただきました。それにより親の私も少しずつ落ち着きを取り戻し始めたのです。他にも、息子や私たち家族と何時もと変わらぬお付き合いをして支えてくれた友人にも心から感謝をしています。
息子とその仲間は、大人たちの何げない言葉や行動に傷付き、不信感を募らせていたのだと思います。そんな子供を丸ごと受け止め、受け入れてあげられる大人たちが沢山いる世の中になるといいなと本当に願います」
◇
この手紙には子供を一人前に育て上げる苦労と喜びが滲み出ている。そして、子供は家族の見守る愛と有情で包容力のある多くの大人たちに囲まれてこそ、豊かな人間性を育み、自立した大人へと成長できるということを教えてくれている。
(2011年3月5日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「大人たちの見守り続ける“愛”が子供を育てる」
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前回S・S氏が本欄で紹介していた若者からの、「両親と地域の大人たちの愛が、ここまで自分を育ててくれた」という寄稿である。
【私は中学卒業後、幼い頃からの夢であった大工になるため、東京のある高校建築科に進学したが、現場で学ぶことと机で学ぶことの大きな違いを感じ、中退した。その後は、タウンページで工務店や建築・建設会社に電話をかけて仕事を探したが、15歳の私を雇い入れてくれる会社などなかなか無かった。諦めきれない私は、工事現場に飛び込んだところ、話を聞いてくれたタイル屋さんの紹介で念願の大工入りを果たすことができた。
その頃の私は、遊びにも夢中になっていたこともあって生活がかなり乱れていた。それでは仕事がまともにできるはずもなく、半年がたった頃には仕事を辞めた。次第に堕落し、非行への道をひた走ることになる。傷害や強盗致傷などあらゆる事件を起こし何度も逮捕拘留されることが続いたが、その度に見せる両親の悲しむ顔を見ながら、少しずつ更生の道を自ら歩むようになった。
そんな私も6年前の22歳の時に建設会社を設立、いまは平均年齢25歳の社員40人と仕事をしている。社員には社会の厳しさをしっかり伝え、どこでも十分通用する力を付けてやることを第一にしている。仕事にやりがいを見出せるようにすることもである。その為には一人一人に真正面から向き合い、目を掛けてやることが大事だと考えている。
昔は楽をして稼げる仕事などなかったと思うが、いまの社会にはその誘惑は多い。そういう現実の中で、どれだけ周りに流されず自分の信念を持ち続けられるかが、これからの社会を生きていく上で極めて重要だと思っている。その信念を培うには、成長過程でどれだけ信念をもった人と出会い、学ぶことができるかである。私にとっては両親や家族、そして地域の人たちであり、それらの人々にはいまも感謝している。
人間一人は脆く弱いものだが、非行を繰り返している時でさえも、決して目を背けることなく真っ向から自分を見続けてくれる人たちがいるだけで、自省の念に駆られ自ら気付くものである。
このような自分の経験から言えることは、両親そして子供を取り巻く大人のあるべき姿は単純に〝愛〟であり、それも正しい愛である。】
(2011年2月19日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「大切に思う気持ちを見せることが教育」
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『教育とは見せることだと思う』。市川市で多忙な会社経営の傍ら、地域の教育活動のリーダーや保護司として青少年を献身的に育てているS・S氏からの寄稿。
【私は10年程前から、少しばかり道を外れてしまった少年たちと関わる活動をしている。少年達の外見は威圧的で、できるなら避けて通りたいと思えるスタイルではあるが、少年たちは避けずに確り受け止めて欲しいと思っている。生まれた時は皆同じだが、育ってきた環境や出会った人たちが大きな影響を与える。例え道を外れてしまっても自分を信じ大切に思ってくれる人がいれば、必ず正しい道に戻ることができる。私は少年たちとの交流の中で、どんなに嘘をついていると感じてもその言葉を信じ、何か問題が起きた時や困っている時にはいち早く駆けつけ少年たちを必死に守ることにしている。口先だけで「信じてるよ、大切だよ」と言い、無理やり心の扉を開こうとはせず、本気で思う姿を見せることで、彼らは自分から心の扉を開く。
少年達のやんちゃパワーは絶大なるもの。パワーを向ける先が仕事に変わり、人一倍努力をして20代で社員40人の生活を支える経営者となった青年がいる。その陰には青年が本気で信じ大切に思う仲間がいたからこそ成し得たことだと思う。先日、この青年から、私と同じ活動をし、少年たちの力になりたいとの相談があった。また一人、本気でこの地域の子供たちを大切に思う者が増えたと思うと本当にうれしい。
教育の基本は家庭である。泣くことしかできない乳幼児期、親はその泣き声だけで何を訴えたいのかを必死に考える。ところが、話ができるようになると、なぜこんな口を利くようになったのかを考えようとはせず、その言葉に対して叱ろうとする。しかし、子供が発する言葉は親が日頃言っている言葉のコピーでもある。子供が発した言葉を叱る前に、自分がいつも言う言葉を思い出して欲しい。親が日頃何げなく言う言葉で子供の心は傷付き、少しずつ心の扉を閉ざしていく。「かわいくない」「面倒くさい」「勝手にすれば」など親が無意識に言う言葉で、子供は自分が見捨てられたと感じている。子供は自分が大切に思われていると感じられることで、人を大切に想うことができる。教育とはこの想いを素直に見せることだと思う】。
(2011年2月5日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「子供のころの教育環境と経験が人生に重要」
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「人生は子供時代で決まる」といっても過言ではない。これは自分自身の子供時代と教員の経験から得たもので、今では筆者の信念にもなっている。それだけに、子供の教育においては、教育環境を何よりも重視するのである。
教育環境といえば、乳幼児期は家庭であるが、児童期ともなれば家庭の他に地域や学校へと範囲は急速に広がる。実は、この頃の教育環境が最も重要で、どんな環境でどんな経験をしたかが後々の人生に深く関わる。特に地域社会は、多様な価値観をもった人々の集合体であり教育者の宝庫でもあるから、子供達が豊かな人間形成をするうえで欠くことのできないものである。
昔から「親は無くても子は育つ」といわれてきたが、まさにそうであって、家庭や学校が崩壊しても地域社会が健全でさえあれば子供達は健全に育つものである。換言すれば、地域の崩壊は、子供達の成長の致命傷になりかねないということである。
小欄に前回登場してもらったH君が、子供時代の経験が育てた自分と育ててくれた人々への感謝の念を書き綴ってきたので要旨を紹介する。
大人になった今、「仲間の絆を作る」努力をする自分、思ったことを行動に移せる実行力をもった自分、コミュニケーション力に自信をもてる自分、経験から感謝や思いやりを得た自分を実感している。いずれも、市が実施してくれた「中学生のニュージーランド派遣事業」が「きっかけ」となり、その後立ち上げた「学生会」で培われたものである。行動力もコミュニケーション力も感謝や思いやりも、誰かが教えるものではなく、自分が経験からくみ取って、自分のエネルギーにもう一度回すことができるかどうか、そのことを教えてくれる人や仕組みが地域や社会の中にどれだけあるかだと思う。それが自分の時にはあった。だから、これからも、その「きっかけ」を与えてくれた人々に感謝し、恩に報い続けることになるし、その絆を守り続けていかなければならないと思っている。これまで続けてこられたのは、地域で育てられた私達の地域愛に他ならない。
ところが、最近は成果主義の世の中となり、成果が見えにくい「学生会」や「地域活動」が大事にされなくなってきたと感じている。教育には「待つ余裕」と「あそび」が不可欠と思うのだが。
(2011年1月15日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト
「若者の成長から感じる地域教育の手応え」
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「僕は市川が大好きなんです。だから最終的には僕を育ててくれた市川に帰って、この街の仕事がしたいんです」。これは、10年前に発足した市民による【市川(地域)教育を創る会】のある例会でのH君の告白で、出席者一同の感動を呼んだ。同時に、彼らの成長を献身的に支えてきた地域の人たちが、地域教育の確かな手応えを感じた瞬間でもあった。
H君は中学生の時、市川市の中学生海外派遣事業でニュージーランドに派遣された。その後、派遣生OBのための「学生会」を立ち上げ、「縦のつながり」づくりに奔走。仲間の絆を強めるだけでなく、市川市のさまざまなボランティア活動にも参加した。なかでも、子供たちの成長を支える地域社会を目指して平成8年にスタートした市のナーチャリング・コミュニティ事業では、子供たちの考えを直接事業に反映するために教育委員会が設置した「子供部会」委員として活躍した。
彼は大学院修了後に民間企業に就職したが、大学院で研究した理想と現実とのギャップに悩み退職。異業種のマスコミ業界へと転身し、いくつもの部署を渡り歩いた。30歳を過ぎ、新しいビジネスモデルのアイデアを求めて社会人大学院のMBAコースに進学。業種も企業規模も異なる学友に囲まれながら切磋琢磨する日々を通じて、強力なエネルギーを受け取ることができたという。そう語る彼の言葉の端々から透けてみえてくるのは、幼いころから地域での大人たちとの出会いを通じ、さまざまな影響を受けながら人間的に成長を重ね大人になった、ということだ。
冒頭の言葉は、彼が執筆した論文が日本新聞協会の懸賞論文で優秀賞に選ばれたことを、同会メンバーに伝えたときのもの。照れながらも感謝の気持ちを精いっぱい伝えようとする姿に、同会メンバーは一様に万感胸に迫るものがあった。
昨年の新年号では新政権への期待を書いたが、早々に失望へと変わった。今年は、国に依存せず、地域(ここでは広くは市、狭くは学区を指す)の自立に希望を託したい。幸い、わが故郷・市川市も行政トップが替わり、教育現場にやっと明るい光が差し始めたと聞く。再び、「人を育てる地域」への復活が期待できる。そこで、市川という地域で育った若者たちに光を当て、その成長を追いながら、「教育とは何か」を考えていきたい。
(2011年1月3日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト