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「人」リスト〜2013年
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「突き詰めて、突き抜けた1年」
浦安青年会議所(JC)理事長
高梨 健太郎 さん
浦安JCの理事長になる。そう決めたのは、東日本大震災がきっかけ。当時は副理事長。震災翌日にメンバー30人が集まり、ボランティアとして尽力。「JCは責任感が強く、行動力がすごい」。若者によるまちづくりの担い手のJC。その存在を改めて強く感じた。
理事長として掲げたのは震災で胸に湧き上がった「利他心」と「愛郷心」。それらを元に、浦安の企業と学生をつなぎ浦安を好きになってもらうインターンシップ制度、マラリア撲滅のための寄付金付きゴミ袋を企画。浦安JC初の行政に対する政策提言書も策定し、まちづくりに積極的に参画する。通常、JCの事業は単年度制だが、今年まいた種は、いずれも継続して取り組むことが決まっている。
「JCは人の意識を変え、高める。皆が変わり、私も変わった」。その理事長任期は12月31日までで、JCは40歳定年のため卒業。「突き詰めて、突き詰めて、突き抜けろ」。そう掲げて行動してきた一年は「充実している。やり残したことはない」。これまでの経験を礎に、今後も「浦安のまちづくりのために尽くしたい」。
(2012年12月21日号)TOP PAGE
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「自分で限界を決めるのはダメ」
ベンチプレスアジア大会優勝
鈴木 重成 さん
市川市で生まれ育ち、市内で珠算塾講師を務める40歳。中学生時代は自転車ロードレースで全国3位、サッカーでも千葉県選抜に選ばれるなど活躍し、現在もフットサルチームで汗を流している。
自転車競技を続けていた高校2年生のとき、トレーニングの一環としてベンチプレスを始めた。最初に持ち上がった重さは40㌔。「当時、いまの自分を見たら化け物と思うかもしれない」と笑う。
27歳で県大会初出場。自信を持って臨んだが、周囲のレベルの高さを思い知らされた。「この経験がなかったらいまの自分はなかった」。以来、ベンチプレスに真剣に取り組むようになった。4年目で県大会初優勝。すると今度はそのうれしさから成績を伸ばし、6年ほど前に全日本大会に出場可能となる標準記録突破を果たした。
「自分で限界を決めたらダメ」。全日本大会では、50歳でもトップクラスの選手たちをじかに見て、努力の大切さを学んだ。珠算塾の子供たちにも「諦めずに頑張れ」と伝えている。自身の成績もまだ伸びている途中。「世界チャンピオンは手の届くところにある」。狙いは定まった。
(2013年12月14日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「『私のための曲』責任もち歌う」
歌謡曲歌手として今年CDデビュー
坂本 理恵 さん
いつか自分のオリジナル曲でCDデビューする―。平成9年に民謡の歌手としてデビューしてから16年、今年この夢をついにかなえた。曲は『おんなの酔い語り』(日本クラウン)。レコーディングでは感極まった。「これまで夢中で頑張ってきた。すべては人との縁。この縁を大切にしてきた」と周囲に感謝する。
青森で幼少時から親しんできた民謡と三味線を、10歳の時に市川市に越してから本格的に習う。民謡の全国大会(郷土民謡協会主催)では、小学生の部と中学生の部で優勝し、高校1年で一般の部の総合優勝。また、白浜音頭全国大会の優勝や千葉テレビカラオケトライアルの10週勝ち抜きチャンピオンなど数多くの賞を獲得。民謡歌手になった後は、イベントや民謡酒場で歌い、歌のボランティアサークル・歌一筋メンバーとして高齢者施設を訪問するなど、さまざまな機会を得て研さんを重ねた。
華やかな着物を着てスポットライトを浴びたい―。歌を習い始めたころの憧れの第一歩を迎え「大変なのはこれから。責任をもち歌っていきたい」と気持ちを引き締める。紅白歌合戦出場が新たな夢。
(2013年12月7日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「世界の現実を多くに伝えたい」
浦安市内初の少年少女国連大使
長谷川 愛華 さん
小学1年生の時、母親に勧められてガールスカウトに入団。そこでは「世界の問題についてみんなで考える日」が月に一度あり、戦争や貧困の話を聞く機会が身近にあった。アフリカでは出産で母親が死亡する確率がとても高いと知り、日本では考えられないことに「何で?」と疑問を持ち始めた。
中学1年生の今年、日本青年会議所が主催する少年少女国連大使に「知識を深めたい」と応募。国連本部で貧困の現状と課題を学び、「貧しさで小学校に行けない子を救いたい」と、解決策を大使の仲間たちと追求。「募金を集めて寮を併設した学校を建て、家のない子供に住んでもらう。庭には畑を作り、将来仕事に困らないよう農業も学びながら勉強できる環境を作る」という提案を国連で発表した。帰国後は「世界の現実を一人でも多くの人に伝えたい」と、積極的に活動している。
4歳から始めたピアノと、最近始めたミュージカルが大好きで、将来の夢は音楽の先生。「いつか、楽器をたくさん持って途上国に行き、演奏で子供たちを元気にしたい」と、未来の自分を思い描き、無邪気な笑顔を見せる。
(2013年11月16日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「20年後につなげる挑戦続ける」
20周年記念演奏会を開く市川男声合唱団長
稲田 道憲 さん
「男声合唱は奥行き、深み、迫力が魅力」という69歳。娘の舅が同志社大グリークラブ出身。その演奏を聴いた後日、市川男声合唱団の演奏を聴き、即入団。歌う経験はカラオケだけだが、やってみたいと思わせる魅力があった。
同団のモットーは「楽しく歌う、楽しく聴いてもらう」こと。演奏会はポピュラーソングコーナーが伝統で、会場とより一体になれる。同団有志で結成したハモラーズは高齢者施設を慰問、同じく有志のマンディーナイツはレストランで歌うなど活動は幅広い。
近年は、ボイストレーナーの指導を受けて技術にさらに磨きをかけ、地声と裏声を合わせるようなイメージで出すミックスボイスのやわらかなハーモニーを奏でる。「むさ苦しい男同士だが、ハーモニーが絡み合うと心が震えるんです」。会場には女性が多いが、特に若い男性の来場を願っている。
仕事とは違う、同じ趣味の仲間たち。「青臭いが、練習後に飲みに行けば合唱とは―と語り、歌い出す」。メンバーは50代~80代だが「いま、まさに青春時代」。さらなる20年後に思いをつなげようと、挑戦を続ける。
(2013年11月9日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
「東京オリンピック出場目指す」
インターハイ柔道男子個人90㌔級で優勝
前田 宗哉 さん
京都に住んでいた5歳のころ、祖父に勧められて始めた柔道。「当時は柔道着を脱ぎ捨てて逃げ出していた」ほど嫌いだったが、小学4年生の時、初めて団体優勝して全国大会出場を決めると、練習に取り組む姿勢が変わった。そんな時、東京に引っ越し、名門・松前柔道塾道場に入門。組み負けしない体力や、相手より早く組む姿勢を徹底的に学ぶと、中学3年生の時に関東中学校柔道大会で個人戦3位を獲得するまでに成長した。そのころには「柔道以外のことは考えない」と、柔道一本の生活を送るようになっていた。
進学した東海大浦安高にいたのは〝超高校生級〟と言われた一年先輩のベイカー茉秋選手。「目指したい人を前に毎日が刺激的」と、練習にさらに力が入った。そして今年、高校最後のインターハイで個人戦優勝。ただ、優勝候補としてのプレッシャーが強く、「うれしさより安心した」という。
今年は大きな大会があと2回あり、練習後もサンボという格闘技で寝技の強化に励む。来年からは、難関といわれる「東海大学の団体戦レギュラー獲得」に挑み、「東京オリンピック出場」を目指す。
(2013年11月2日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「勝って満足したら成長止まる」
インターハイ柔道男子個人100㌔超級優勝
ウルフ アロン さん
東海大浦安高校3年生。100㌔の体から出る一発の威力は〝超高校級〟と名高い。父親はアメリカ人だが、生まれも育ちも下町だ。
祖父の勧めで5歳から柔道を始めるも、「友達は遊んでいるのに何で毎日練習なんだ」と不満ばかり。当時は「体も小さく、やる気もなかったため、いつも負けていた」という。中学生になっても柔道への思いはさほど変わらず、「高校ではアメフト部に入ろう」と思っていた。
そんな中学2年生の時、「練習中に友達にボコボコに負けた」ことをきっかけに、練習に対する姿勢が一変。元々「負けず嫌い」ということもあり、「同世代で自分に勝つ奴は許せない」と体重を増やし、練習後も自主的に稽古する日々へ。才能はすぐに開花し、中学3年生で出場した関東中学校柔道大会で準優勝に輝いた。
高校2年生だった昨年、高校柔道団体3冠の立役者になっても、「試合に勝って満足したらそこで成長は止まる」と自分を見失わず、着実に今年の優勝につなげた。これからも「何が何でも勝つ柔道をしていく。将来は母校の監督になりたい」と夢に突き進む。
(2013年10月26日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「1部昇格だけじゃ物足りない」
関東サッカーリーグ1部昇格の浦安サッカークラブ監督
齋藤 芳行 さん
5年でのJFL昇格を目指して3年目。昨年は「足踏みした」が、今年は他を圧倒する強さで関東サッカーリーグ2部を制し、1部昇格を決めた。「うれしい。ひとえに選手の頑張りと支えてくれた人たちのおかげ」だが、「これだけじゃ物足りない。チャンスをいただいた」と、一足飛びのJFL昇格への野望に燃える。
6歳からサッカーを始め、サッカーの王様と評されるペレのプレーをW杯メキシコ大会のテレビ放送で見て「人生が変わった。ペレになる」と誓う。ただプロ選手への夢は叶わず、コーチへ転身。「苦しい時、大好きなサッカーが支えてくれた。遠回りしてきたが、1歩ずつ上を目指して登り続ける継続性と情熱がある」と、人としての強さを感じさせる52歳。
チームは高い位置からのディフェンスと、攻守の素早い切り替えが持ち味で、仲間のミスを皆でフォローする献身力がある。「監督は選手の環境そのもの」と、日々の勉強も欠かさない。丸いボールに取り付かれた〝永遠のサッカー小僧〟の夢は「レアルマドリードの監督」。ストイックで、エネルギーがあふれる。
(2013年10月19日号)TOP PAGE 「人」リスト~2013年 関連記事
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「20年の歴史は愛好者のおかげ」
20回目の市川市民将棋大会を開く市川市将棋愛好会連盟会長
寺下 紀子 さん
兄と将棋を指しことをきっかけに将棋を始め、その後、就職した企業の将棋部でプロと出会い、将棋の世界に入った女流プロ第一期生。引退後は、居を構える市川市で将棋の愛好者を増やしたい―と、女性向けなどの将棋講座を市内各地で開講。そこから生まれた複数の同好会や、市内企業などの同好会と設立した愛好会連盟が開く市川市民将棋大会は来月で20回目。「すべては愛好会のボランティアのおかげ。皆さんの力があってここまで来られた」と感謝の念に堪えない。
子供の参加者が増え、おじいちゃんと孫が将棋を指す様子が懐かしさを誘う同大会。愛好者の親睦を図りつつ、お年寄りも子供も皆が平等に戦え、世代間交流も図ることができる。考える力が伸び、礼を重んじるようになり、ボケ防止にもなる―と、将棋の裾野を広げることに努め続けている。
将棋の普及を続けて良かったと実感したのは、定年後に引きこもりがちな男性が将棋をきっかけに外出し、地域活動を始めたことを幾度となく見てきたことという73歳。「街を、行政を活性化してほしい」と願う。
(2013年10月12日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「信頼あるサークルでありたい」
傾聴ボランティア「赤とんぼ」代表
山口 美枝 さん
連合会長に就任して1年もたたない昨年3月11日、東日本大震災が発生。宮久保地区でも瓦の落下など被害はあったが、最も胸が痛んだのは、乳児のミルクに使う水を探して走り回る母親たちに出会ったこと。「あの時、震災に強い自治会を目指すことを決めた」。
大震災のあった日は要援護者の安否確認に努め、その後、地域から義援金を募って被災地に送り、地域の被災世帯には連合自治会から見舞金を出した。規約を改正して自主防災組織を強化し、独自の倉庫を確保して会員3千世帯分の飲料水と乾パン、簡易トイレを備蓄。今年8月には自治会では異例の、地域スーパーとの災害時協定を結んだ。「一つでも多く避難所を確保したい。災害を想定外にしないために努めることが自治会の役割」。他人任せにはせず、自分たちで考え、行動に移してきた。
自治会の役割は防災だけではない。「宮久保ってどこ?」。そうした声もバネに「ここで生まれて、ついのすみかにしてよかった。そんな町にしたい」と願う61歳。〝七人の侍〟になぞらえる宮久保連合内7自治会の各会長に支えられ、実行できる自治会を目指す。
(2013年10月05日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「卒業後も大好きな野球続ける」
県立市川工業高校定時制野球部主将
伊藤 輝一 さん
中学に入って本格的に野球を始めると、遊びの野球が厳しい練習に変わり、当初は不満もあった。しかし、練習を続けるうちに「本物の野球の面白さ」に気付き始めた。2年生の秋には初めてレギュラーとなり、勢い勇んで出場した初の公式戦で骨折というまさかの事態。約3カ月間野球ができない状況は、野球への情熱を急速に冷めさせていった。
県立市川工業高に進学後、野球部に勧誘されたが「誰がやるか」と拒絶。しかし、同校の全日制から定時制へと編入すると、仲良くなった友人は偶然にも全員野球部員だった。県大会を制覇できない野球部の苦境を聞かされると、「じゃあ優勝しよう」と再び野球の舞台に戻ることを決めた。
その後、久しぶりのプレーで感じたのは野球の楽しさ。主将となった昨秋にも筋肉断裂という大ケガに見舞われたが、「今度は絶対に辞めない」と心に誓った。そして今夏、悲願の県大会優勝を達成。勢いそのままに全国でも県勢として42年ぶりの3位に輝いた。
卒業後の具体的な進路は未定だ。ただ、大好きな野球は「どんな形であれ続けていくと思う」。
(2013年9月28日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「人の心に響く音楽を奏でたい」
30周年記念演奏会を開く「浦安男声合唱団」団長
谷 達雄 さん
「聴いてくれる人の心に響き、届くような音楽を目指しています」。明後日23日、浦安市文化会館で記念演奏会を開く。
歌が好きな家族の中で育つ。高校ではブラスバンド部を作り、大学ではビッグバンドでコンマスも務めた。しかし就職すると仕事に没頭。そして、40歳で楽器を再開する夢のその前にと、38歳の時に浦安市民第九演奏会に参加。その参加者ですでに組織されていた浦安男声合唱団に入った。創団から30年、皆の気持ちと声が一つになるハーモニーは円熟味を増し、さまざまな歌に挑戦し続ける。震災後は、海と緑のまちを歌った「浦安市民の歌」に励まされ、普及に力を尽くす。「浦安には歌が好きな人はもっと多いはず。生活の潤いや優しさそのものでもある歌があふれる街になってほしい」。
光学機器メーカーで技師長と社会環境事業部のリーダーを務めた後、現在は早大院で環境調和型生産システムを説く。生物多様性保全の環境ボランティアも担う65歳。「いろいろな生物がかかわっているから、人間が暮らすこの地球は維持されているんです」。皆のハーモニーを、大切に思う。
(2013年9月21日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「ボランティアの火、絶やさない」
市川少年文化推進会議会長
田中 洋 さん
「運営資金で悩んでいる市民団体は多い」。市川市内で読書や音楽などを通じて子供の心の教育を行う市民団体に、バザーなどで得た収益金を援助し続け、31年目を迎える同会議。会長に就任して約26年。「大変なこともあるが、人との出会いやつながりがやりがいの源」と笑顔で語る77歳。
幼少期に「戦争でまともな教育を受けられなかった」ことや、両親が教師だった影響もあり、「自分ができなかったことを、いまの子供たちにはやってもらいたい」と子供の教育に感心を持つ。鳥取県出身。21歳で市川市に移り住み、不動産会社経営の傍ら、PTA会長や同市青少年教育国際交流協会会長なども務め、真正面から子供と向き合ってきた。「子供は地域で育てる」という強い意志が、多忙な日々を支える。
これまでの経験で分かったことは「教育の原点は読書」。活字離れが進む時代だからこそ、「読み聞かせを30年以上続ける団体や、90歳を過ぎても続ける人たちの火を絶やしたくない」と、〝ボランティアのためのボランティア〟として精力的に支える。今後も活動を続け、「後継者探し」にも力を入れる。
(2012年9月14日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「『役に立っている実感』が魅力」
市川市ユネスコ協会会長
吉崎 晴子 さん
市川市内に外国籍の人が増えてきたことを受け、市内で日本語講座などを開こうと、平成4年に発足した同協会。発足約3年後に知人の勧めで入会すると、いきなり事務局長に抜擢された。あれから約18年。大変なこともあったが、「最後までやり遂げると喜びは倍になって返ってくる」ことを学んだ。「自分が経験したことを若い人たちにも経験してもらいたい」と語る2代目会長は、後身の成長ぶりを静かに見守る。
終戦の年に生まれ、戦後の貧しい時代を生きる中で「平和への思いは自然に身に付いていった」。この思いがユネスコと共鳴したため、入会と同時に始まった事務局長としての忙しい日々も苦にならなかった。「誰かがやらなくてはならないなら、それを自分がやるのは当たり前だと思う」。むしろ「自分が世界の誰かの役に立っていると実感できる毎日」に魅力を感じながら活動を継続している。
「次世代に伝えていくために自分がいる」。同協会でその役目を果たしたと実感できる日まで駆け抜けた後は「10代の頃からの夢だった小説家を再び目指したい」。夢はどこまでも広がり続ける。
(2013年9月7日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「郷土の大切な歴史を伝えたい」
浦安市郷土博物館サークル「朗読あおべか」会長
三宅 逸子 さん
「思っていた朗読とは違う」とは、来場者の声。朗読として最近耳にすることが多いものは、アナウンサーが読み上げる比較的穏やかなもの。同サークルは、演劇のように緩急織り交ぜた朗読に取り組む。セリフは登場人物になりきって〝話し〟、地の部分は穏やかに〝読む〟。人間の物語を、人の声で、聞いている人がまるでその場にいるかのように伝える。「朗読する者それぞれが役者ですね」。そう、一人芝居。
朗読に興味を持ったのは、ある時、人の声が持つ魅力に気づいてから。その後、浦安市郷土博物館の朗読講座に参加。「作者が描いた物語の世界を、自分の声で表現できる」ことが、朗読の魅力。
元々、文学や歴史に特段の関心を持っていたわけではない。それでも、数十回と読み込みながら、浦安弁や時代背景を学び、『青べか物語』と朗読の魅力を探求。「いまの浦安からは想像できない時代がかつてここにはあった。その一つが『青べか物語』。郷土の大切な歴史を皆さんにお伝えしたい」と願う戦後生まれ。声から紡ぎだされる、臨場感あふれる物語が、耳に飛び込んでくる。
(2013年8月24日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「皆の協力に感謝し子供と歩む」
40年間監督を務める浦安レッドシャークス総監督
川口 信一 さん
「野球が好き、子供たちが好きだから」−。26歳のころ、地元で野球を楽しむ子供たちが駄菓子屋で遊んでいた。声をかけると「チームはあるけど監督がいない」。それならばと監督を引き受けて早40年。風邪をひいても、病気の時は点滴を打ってでも子供たちとともに歩んできた。
仕事は東京・築地の仲買い業。市場で働く浦安の仲間とチーム「まぐろ浦安会」を結成し、キャッチャーと審判を務めた。その後は少年野球一筋。夜中や未明からの仕事だが、終わると浦安に戻り、昼食と仮眠をとって毎日のように練習。「そうした姿を見たからか、父親が子供たちにそろいの帽子を贈ってくれたんだ」。
監督を続けてこられたのは、ほかのチームの監督たちがライバル、目標だったから。35年ほど行動をともにするチームの仲間がいる。父兄、特に母親たちの協力は大きい。OBも自分の練習の合間に子供たちを指導してくれる。「皆の協力は本当にありがたい。そして、皆で子供たちの成長を見られることがうれしい」。厳しい監督―。子供たちの言葉の向こうにも、総監督の愛情が垣間見える。
(2013年8月17日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「最高の演技で感謝を表したい」
バトンの世界大会シニア部門日本代表
齋藤 真菜 さん
バトンを始めたのは小学1年の時。当初は遊びに行く感覚だったが、3年の時に大阪で開かれた世界大会を生で見て、「この場所に自分も立ちたい」と強く思うようになった。以来、練習に臨む姿勢が一変。すぐに全国大会の常連になると、中学2年の時には早くも世界大会への出場を果たした。
しかし、憧れ続けたその舞台では力を出し切れず、悔しさしか残らなかった。雪辱を期した2年後の大会は、東日本大震災の影響で日本は不参加。「何のために頑張ってきたのか」と落胆したが、あの悔しさは忘れられず、そこからまた2年間研鑽を積み続けた。
過去にはバトンを辞めたいと思ったこともある。「小学6年の時、遊んでいる皆がうらやましくなり、練習がつらくなった」。それでも「ここまで続けたのにもったいない」という恩師の言葉で意欲を取り戻すと、いまでは「世界一を目指すため」と、バトン一色の生活を前向きに受け止めている。
「親や先生、友達、ライバルのおかげ」。支えてくれた人への感謝と、この大会にかける4年分の思いを、今度こそ最高の演技で表現する。
(2013年8月3日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「みんなを笑顔にするために…」
千葉県PTA連絡協議会(P連)会長
齋藤 匠 さん
「明るく元気で楽しいPTA」をスローガンに掲げながら、10年以上PTAに携わってきた。継続の原動力は「千葉県の教育環境を良くしたい」という真っすぐな思い。県P連の会長は、そんな思いを突き詰めていく中でいつの間にかたどり着いていた場所だった。
「子供と遊ぶのが大好き」。そのため、番組制作という忙しい本職の合間に参加するPTAを、これまで苦に感じたことはない。その上「頼まれたら嫌とは言えず、与えられたら何事にも一生懸命取り組む性格」。市P連会長としては「市川をもっと楽しい街に」と、周年行事やママさんコーラスのコンクールなど、次々に新規事業を立ち上げていった。
PTA活動の延長で参加した、障害者らによる「チャレンジドミュージカル」との出合いは、自身にとって大きな転機に。「一緒にいると元気になる。障害者は大きな力を秘めている」。いまでは「この子たちの発表の場を作りたい」という夢を持つまでになった。
「みんなを笑顔にするために生まれてきた」と言い切る50歳。県P連の会長として、まずは会員約34万人に笑顔を届ける。
(2013年7月27日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「種になる物があれば書きたい」
90歳で初めて出版した本が椋鳩十児童文学賞を受賞
石井 和代 さん
小学5年生の時に書いた作文を当時の担任が高評価し、まるで大人に対するような寸評を寄せてくれた。「こういうものを書けば一人前と認めてもらえる」。以来、作文にのめり込み、幼稚園時代からの憧れの職業であった教師になった後も、児童文学の研究会に参加して作家と交流するなどしながら文章を学び続けた。
今回の受賞作『山の子みや子』は、岩手県の奥地に移り住んだ教え子の元を訪れた際、「3歳の子供が一輪車でまきを運ぶ姿に衝撃を受けた」ことが制作のきっかけ。その後10回以上同地を訪れては、純朴な子供の姿と家族の絆を自らの言葉で克明に記録していった。
当初本にするつもりはなかったが、90歳を前に「本にすれば生きた証が残る」という仲間の後押しで出版を決意。出版社が同賞に応募すると、選考委員から絶賛され、華々しいデビューを飾った。
受賞後に「多くの教え子からお祝いの電話を受けたことが一番うれしかった」と話す新人作家。今後については白紙の状態だが、「種になるものがあれば書きたい」。〝90歳で作家デビュー〟という物語は、まだ始まったばかりだ。
(2013年7月13日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「時代に即応した改革を進める」
第65代市川市議会議長
岩井 清郎 さん
現職の市議では唯一2度目の議長就任となった7期目のベテラン。今回は関東市議会議長会の会長職も兼任となる。「216市区議会の話を一つにまとめられるように努めたい」。市川市議として初の大役だが、ベテランらしく、気負うことなく役職を全うする。
昭和50年に28歳で市議に初当選。自分でも「通るはずがない」と考えていた若者に市民は期待を寄せた。しかし、その4年後と8年後に県議を目指した選挙で続けて落選。「自分の政治人生も終わりか」と考えたほどショックは大きく、続く昭和62年の県議選には出馬もしなかった。
だが、「もう一度市議になって地元のために働け」という地元の発破で意欲を取り戻すと、平成3年の市議選で当選。「戻ってきてくれてよかった」という支持者からの声を聞いた時、「地元の声を拾えるのは市議。やっぱり市議会議員でよかった」と確信した。
「行政と議会が切磋琢磨すれば、結果的に市川は良い方向に向かうはず」。議会側の舵を握る66歳は「伝統を守りながら、時代に即応した改革を進めていく」と、議長として2度目の議会運営に臨む。
(2013年7月6日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「同志こそが消防団で得た財産」
市川市消防団長
髙橋 廣孝 さん
「若い人たちが憧れるような、団員一人一人が胸を張って自慢できるような、そんな熱い消防団を作りたい」。自らを〝根っからの消防人〟と称する54歳は、消防団の未来を熱っぽく語る。
昭和55年に市消防団第19分団に入団。当時は入団することが自然で、消防に対する特別な意識をもっていたわけではなかった。しかし、「学校などとは違い、世代の違う人とのコミュニケーションがとれる」という団の魅力に次第にのめり込むようになり、いつしか消防団は自分の生活に欠かせない存在になっていた。
チームの一員として出場した昭和58年の市消防操法大会で同分団が初優勝。その後は、市や東葛飾地区の消防操法大会で、個人でも団体でも最優秀賞を何度も受賞した。ただ、これらの受賞は「かけがえのない同志たちがいてこそ」。団生活で得た最も大きな財産は〝仲間〟と迷いなく言い切る。
出先でもサイレンの音に耳を澄ませるという消防人は「市川に〝自分の街は自分たちで守る〟という意識をもつ人を増やしたい」と意気込む。このハートの火だけはいつまでも消えそうにない。
(2013年6月22日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「活発な議論を傍聴してほしい」
第18代浦安市議会議長
西山 幸男 さん
市長が変わっても、議会が変わらなければ何も変わらない―。前市長時代は市議が固定化の傾向。「若い町なのに若い人の声が届いていない」と、市長交代を機に出馬し、市議を延べ3期10年務める52歳。施策の柱には、保育園の充実や学校施設の改善、新成人の企画による成人式の開催など、子供や若者を中心に据えてきた。
父としての子育て方針は、公立学校に通わせること。「祭やイベントなど地域行事に参加でき、浦安に根付く。独立してもいずれ浦安に戻ってくる」。自らもPTA会長や自治会長を担い、地域を盛り立てようと務めてきた。
議長には初就任。「市議には活発な議論をしてもらいたい。市民の皆さんには傍聴に来てほしい」。会社経営者の経験も生かし、市民を代表する市議の意見を大切に、公平な議会運営を目指す。
胸の中には「市政50周年(平成43年)の浦安」の姿がある。花が咲く町をスポンサー収入で無料の路面電車が走り、海辺のレストランで食事ができる。首都高速は地下化され、神輿が新町まで練り歩く。「町が変わり、市民交流も活発になる。思いが夢をかなえる」。
(2013年6月15日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「日の丸背負うことにやりがい」
フラッグフットボールチームRSG市川のエースQB(クオーターバック)
色摩 毅彦 さん
アメリカンフットボールに似たスポーツ「フラッグフットボール」。タックルの代わりに相手の腰に付いたフラッグを取り、攻撃を止める。QBは、味方に的確なパスを送る重要なポジションだ。
20歳くらいの時にサークルでアメフトを始めたが、やがてケガでプレーを断念。そんな折、偶然フラッグフットの存在を知り、仲間と「リバーサイドギャンブラーズ(RSG)市川」を結成した。
当初は、加盟する関東リーグでもまったく勝てなかったが、いまでは日本選手権優勝7回、世界選手権出場2回という強豪。4月にはアジアクラブ選手権を制した。
「体がそれほど大きくなくても、アメリカンフットボールの醍醐味が楽しめる。体格差はスピードや戦略で補える」というのが、フラッグフットボールの魅力。強豪チームとなったいまは、日の丸を背負って世界と戦えることにも大きなやりがいを感じている。
「来年のW杯にこのメンバーで出てメダルを取りたい」。大きな目標を掲げる41歳は、「フラッグフットボールは楽しい。みんなが興味を持ってやってくれたら」と競技の活性化も願っている。
(2013年6月8日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「剣道は『人生の支え』になる」
剣道8段を取得
榊 悌宏 さん
「目標とする大学時代の恩師に近づきたかった」。先月、浦安市剣道連盟の会員で初めて八段を取得。恩師は直前に他界してしまったが、一番に報告に駆けつけた。
徳島県鳴門市出身の50歳。10歳のとき、友達に誘われて剣道を始め、東海大相模高、東海大と名門を渡り歩いた。「行った先々で仲間にも恵まれ、互いに切磋琢磨した。先生にも熱心に教えてもらった」。中学生のときには四国大会で団体優勝。大学4年時には関東学生剣道選手権を制した。卒業後は現在に至るまで、東海大浦安中・高で教師と剣道部監督を務める。
老若男女を問わず、長く続けられることに剣道の魅力を感じる。だからこそ、「大会で活躍するのはもちろん、長く続けて剣道が人生の支えになるように」と、生徒には基礎を重点的に指導する。「上から目線ではなく、子供たちと一緒になってやる」というスタンスは、剣道部でも授業でも同じだ。
監督では全国高校選抜の優勝を経験。日本一になった教え子もいる。「退職後もここで指導し、お世話になった浦安の剣道の技術向上に役立てれば」。今後も剣道と浦安の発展に尽くす。
(2013年6月1日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「互いの思い大切に安全な街へ」
行徳・自転車安全指導協議会会長
松本 勝史 さん
「便利だが、使う側がいつ加害者になってもおかしくない自転車。歩道の主役は歩行者です」。放置自転車の全国ワースト2位だった行徳も大きく改善。しかし、商業が集積する街だからこそ、まだ道半ば。「自分たちにも要因はある」と、6つの商店会で4月に協議会を設立し、解消へ一歩踏み出した。ただ、禁止を訴えるだけでは街の活性化にはならない。「乗る人、歩く人、自転車を止められてしまう商店など、それぞれの思いを大切にしたい」。
活動は、自転車利用のマナーやルールの啓発に加え、加盟する商店に駐輪スペースの確保も呼びかけており、少しずつだが増やしている。協議会独自の駐輪スペースの設置も念頭に置いている。
元大相撲力士で、「鷹丸」の四股名で幕下上位になった後、飲食店を経営。海と釣りをこよなく愛する50歳にとって行徳は「アサリもとれ、フグやメジナなどの稚魚もいる、海の恵みあふれる土地」。街の活性化は、商業とも決して切り離せない。「三番瀬を自然が楽しめる都会のリゾートのような海にして、多くの人に行徳に来てもらいたい」と願う。
(2013年5月25日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「助けるだけでなく社会復帰へ」
第19代市川市消防局長
鈴木 富雄 さん
昭和48年の入局以来、警防隊で2年、特別救助隊で10年、救急隊で20年を過ごしてきた生粋の現場育ち。救急隊の後半10年は救命救急士として活躍した。同局では救急士資格をもつ初めての局長。「歴史と伝統と任務の重さを認識しながら、職員と機材を最大限有効に活用し、市民の生命と身体、財産を守る」。覚悟の言葉には、現場で培った自信が宿る。
高校の先輩の勧めで入局したが、当時は消防に対して特別な思いを抱いていたわけではなかった。しかし、現場での活動を通して「一人でも多くの人を助けたい」という純粋な思いに突き動かされるようになり、その後救急士の資格を取得すると、「命を助けるだけでなく、社会復帰させたい」という強い思いが芽生えるようになった。
救急車の中で出産に立ち会ったこともある。後日、その子供を連れた母親がお礼に訪れた光景はいまだに忘れられない。消防の仕事は緊張の連続だが、こうした出来事が「消防をやっていてよかった」と確信させてくれる瞬間だ。
3人の孫との時間が一番のリラックスタイム。いつかのんびりと夫婦で旅行する日を夢見る58歳。
(2013年5月18日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「子供たちに本物食べさせたい」
浦安魚市場協同組合理事長
池田 実夫 さん
組合発足60年を迎えた鮮魚店の集まる施設「浦安魚市場」。同じ価格で1ランク上の品質の魚が買えるとあって、市内外の飲食店や家庭に支持されてきた。28歳の時にサラリーマンから転身し、市場内の家業を継いで31年。「ついうまいものを勧めてしまう。お客との魚を通じたキャッチボールが楽しい」と、昔かたぎの店を営む。
近年、回転寿司店でよく出るネタが売れる―との印象を持つ。「皆さんの魚への関心は高まっている。勉強に来る子供たちも魚の姿を見て名前が言えるからね」―。この追い風に乗って、魚をもっと食べてもらいたい、一般の人がもっと楽しめる市場にしたいと、さまざまな企画も進めている。
親として、鮮魚店主としての願いは「子供たちに本物の味を食べさせたい」。子供たちは味に敏感。だからこそ、親がしっかり選んで食べさせなければ養殖物などの味に慣れてしまう―と不安も抱く。
仕事は空が白む前から始まり、休みも多くはないが、甘味も含めた「おいしいもの」を食べについ足を運ぶ。仕事と同様、その情報は人から仕入れる。ただし、うまさの判断は自分の舌でする。
(2013年5月4日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「対話大事に職員の力引き出す」
市川市副市長
佐藤 尚美 さん
「旅行に行っても早く帰りたいと思うほど」の市川好き。「大きな観光施設はないが、都心に近く、海や川といった自然があるなど各世代が楽しめる、住みやすい街」。同市初の女性副市長は、こうした我が街の魅力を浸透させていくことを今後の目標に据える。
昭和50年に建築課の職員として入庁。当時はまだ女性に対する風当たりは厳しく、「現場の職人たちから全く相手にしてもらえなかった」。しかし、「言うべきことは言わなくてはならない」と、来る日も来る日も現場に赴いた。すると、1年ほどで職人たちに自分の主張を聞いてもらえるようになった。「これでやっていけるかもしれない」。行政職員としての自信をつかんだ瞬間だった。
建築関係の部署で30年ほど経験を積んだ後、平成18年に都市計画課長に就任。その後、企画部と街づくり部の次長、文化国際部長と着実に階段を上った。そして新年度からは、ついに副市長に就任。「これまでどおり対話を大事にして、職員の力を引き出すサポート役に努めたい」。重責にも動じず、愛する市川のために決意をにじませる58歳。
(2013年4月27日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「芝居で生きること実感できる」
県内唯一のシニア劇団「波瀾ばんばん座」主宰
名倉 ゆみこ さん
シニア劇団に入って第3の人生を始めたい―。自身が講師を務める朗読教室の生徒が発したこの一言が胸に残り、3年ほど前にシニア劇団の公演を初めて鑑賞した。「上手ではないが一人一人が輝いていた。観客と一体になる舞台が印象的だった」。興味が深まり、その後、市内で高齢者を対象とした演劇教室を開催。上々の反響に手応えを覚え、昨年4月に同劇団を発足させた。
人前に立つことは元々好きだったが、ダンスや芝居を本格的に始めたのは20代後半になってから。仕事を辞めて飛び込んだ世界は「生きることを実感できて全てが楽しかった」。その後数々の舞台に立つようになると、「一つの作品をみんなで作り上げる舞台の魅力」にのめりこむようになった。
子作りに専念するために芝居を離れた時期もあったが、子供ができずに落ち込んでいた自分を救ってくれたのも芝居だった。そんな45歳にとっても、劇団員たちにとっても、今度の旗揚げ公演は新たな人生の幕開けの場。「思っていたより本格的な作品に仕上がった」。劇団員たちのはつらつとした演技を見る目には自信が宿る。
(2013年4月20日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「子供たちの笑顔に会えるから」
地域のたこ揚げ大会を長年影から支えるたこ作り名人
長谷川 義純 さん
作れるものは何でも自分で作ってしまうという器用さの持ち主。家の中には、見事な出来栄えのテーブルやラックなど、自らの手で作った品々が並ぶ。約30年前、市立北方小で始まったたこ揚げ大会で初めてたこ作りを経験し、その後熱中していったのも、「子供の頃から工作が大好きだったから」。加えて、「子供たちの笑顔に会える」ことが、何より大きな継続の原動力となった。
たこ作りだけでなく、地域の子ども会や市子ども会育成会連絡協議会の役員を務める傍ら、近隣の小学校の交通整理を毎朝行うなど、子供たちの成長を支えるボランティア活動を長年続けてきた。現役時代は「有給休暇のすべてを子ども会のために使った」というほど。それでも「子供たちの喜ぶ姿を見れば、何も苦にはならない」と迷いなく言い切る。
たこの作り方を教えた子供たちから毎年受け取るお礼の手紙は一生の宝物。そんな73歳の胸には次なる目標が刻まれている。「東北の被災地に行って子供たちにたこ作りを教えたい」。子供への果てしない思いが、被災地の大空に舞い上がる日を夢見る。
(2013年4月13日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「将来はミュージカルスターに」
ミュージカル『アニー』の主役を務める
吉岡 花絵 さん
子供向けミュージカルの代表格、『アニー』。昨年11月に全国の約9千人の応募者の中から、ダブルキャストの1人としてアニー役に選ばれた。芸能事務所に所属してアニーを目指す子役も多い中、浦安の子供市民劇団や合唱団で実力を磨いてきた、地元発の逸材だ。
「歌うことが好き」で始めたミュージカル。市民劇団では年長の時に主役を演じ、それ以降はなかなか大役をもらえなかったが、「演じる楽しさ」を味わいたくて舞台に向かい続けた。「カーテンコールで拍手をもらう瞬間が一番うれしい。将来はミュージカルスターになりたい」と夢を掲げる12歳。世話をする時間がないからと、イヌを飼いたい気持ちを封印してレッスンに取り組む。
アニーの舞台稽古は今年1月から始まった。共演する約30人の子供同士で「わいわい楽しく取り組む練習」の楽しさが、主役のプレッシャーをはねのけてくれる。舞台は4月20日から5月6日まで東京・青山劇場で行われる。「見に来てくれた人がミュージカルを好きになるような舞台にしたい」。公演が成功するよう、かばんにはずっとお守りを忍ばせている。
(2013年3月23日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「生徒が力を発揮できる環境を」
市川市洋舞踊協会会長
荒木 洋子 さん
幼い頃から歌と踊りが大好き。9歳からクラシックバレエを始め、10代は数々の教室で研さんを積んだ。舞台の出演と並行して21歳の時に市川の自宅に教室を開設し、40年以上を数える。夫や家族のサポートを受け、毎日のようにスタジオで指導する一方、いまでも現役のダンサーとして年に1回は舞台に立つ。「きれいな音楽を聴いて生徒と触れ合う時間が元気の源。バレエがなければ生きていけない」と少女のようにほほ笑む。
同協会には、設立直後の第1回公演から参加した。「生徒たちは他団体と舞台を共にすることで刺激を受け、目に見えて成長する」。そのことを励みに、長年、協会の運営に尽力し、一昨年4月に4代目会長に就任した。
「市内にバレエ教室が増えたいまこそ、協会の仲間を増やしてスケールの大きな舞台に挑みたい」と意気込む。生徒のスキルアップを目指し、海外バレエダンサーによる講習会を開くことも新会長のプランの一つ。一貫して変わらぬ使命は「生徒が思う存分力を発揮し、良い作品を踊れる環境を整えること」。それが市川の舞踊の発展にもつながる。
(2013年3月16日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「大人が変われば子供も変わる」
創立30周年を迎えた浦安市青少年補導員連絡協議会会長
富山 勝夫 さん
「子供たちには、心身ともに立派な大人になってほしい」。地域の大人たちが連携し、子供たちの見守りを続けて30年。活動の主眼は、聞いて納得してもらえるよう相手の立場になってひと言かける「愛のひと声」。頭ごなしに注意をしては、誰もが聞く耳を持ちにくい。価値判断が多様化している時代だからこそ、ルールを訴えることには欠かせない。
発足は共働き世代が増え始めたころ。「子供は寂しさから同じ境遇同士で遅くまで遊ぶ。そうすると、危険に巻き込まれる率が高まる」。子供たちが被害者または加害者になってしまうことを憂慮し、「地域の子供を地域の大人で守り育てたい」と取り組んできた。大人が子供の見本になっていないことも危ぐ。「大人が変われば子供も変わる」。県青少年補導員連絡協議会会長も務めながら、補導員の一員として声をかけ続ける。
PTAで青少年補導員になり、その後も、さまざまな地域活動に携わり続けている70歳。「自分のことは誰でもやる。他人のためになることができて一人前」。父親から贈られた言葉が、いつも胸にある。
(2013年3月9日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「ただただ皆で楽しめるように」
30周年を迎えた浦安市ソフトボール協会会長
森田 光雄 さん
会員約960人という大所帯の浦安市ソフトボール協会。その歴史はPTAの親睦大会からで、当初は指導者、その後は監督、副会長兼事務局長として携わってきた。30年の歳月は「自分たちが楽しんできて、あっという間だった」と笑う76歳。
所属チーム数は男性が圧倒的。自営業の人や東京・築地で働く人が多かったためで、魅力は「誰でも参加できるスポーツ。野球経験者も楽しめる」こと。親子2代は当たり前で、3代で楽しんでいる家族もいるほど、浦安は他市に比べても活動が盛ん。PTA活動だからこそ同年代が多く、その子供たちにも魅力が伝わりやすい。
東日本大震災の影響で昨年度の活動は休止した。だからこそ、今年度の春の大会は、4年に一度の浦安三社祭の準備の前だったが「心待ちにしていた人が多かった。日ごろから楽しむ生涯スポーツの大切さを知った」と振り返る。
30周年記念誌の扉に〝絆〟の筆文字をしたためた。「先代たちが作り上げてきた土台を守り、皆でソフトボールがつなぐ絆を育みたい」。ただただ、皆で一生懸命に楽しめることを願う。
(2013年3月2日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「鳥に一歩でも近づきたいから」
日本学生科学賞・優秀賞を受賞した中学生
清水 美衣 さん
「飛ぶことも歩くこともできるし、羽の色の反射が綺麗で魅力的」。いま一番夢中で、憧れている存在が鳥だ。今回の論文を書いたのも、「空を飛びたいという野望を持っていたから」と明かす。
幼いころから家族ぐるみで生物や宇宙などの自然に興味を持った。特に好奇心をくすぐったのは「人間にはない能力」を持つ生物の営み。一人で動物園に通うほどのめりこんだ。「渡り鳥でいえば、季節や方向などを自分の能力で感じ取って移動する。『どうして生き物はそういうことをするんだろう』と考えるのが好き」。
受賞した論文のための実験を始めたのは昨年の夏休みに入ってすぐ。「調べ物をするのは好き」で、納得行くまで手を加えたため、論文を完成させたのは始業式当日の午前3時。「大変だったが、最後までやりきれたのは、鳥が好きで、鳥に一歩でも近づきたいという思いがあったから」。
勉強と陸上部の練習で忙しいが、鳥の図鑑を眺めたり、ペットのインコと遊んだりするのが楽しみ。「将来は獣医や動物園関係の仕事に就きたい」。好奇心は夢に近づくための翼。
(2013年2月23日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「互いの日常を知ることが一番」
国際交流を続ける行徳ペンフレンドクラブ会長
吉原 トシ さん
昔から多くの少年少女の心をときめかせてきたペンフレンド。自身も、中学生の時に米国の女性とペンフレンドになり、「英語や外国の暮らしを学ぶ楽しさに夢中になった」と目を細める。50年が経ち、パソコンのメールが普及するいまでも、その異国の友人とは手紙で文通を続けている。
市川市国際交流協会の外国人委員会で10年ほど委員長を務め、地域の外国人と楽しめる交流会にも協力してきた。クラブの毎月の会合では、参加者で食事を共にすることを重視。「一緒に食べることで、文化の違いが垣間見える。メールや海外旅行が気軽にできる時代だけれど、互いの日常の姿を知ることが一番の国際交流」という。会合の間は、政治の話題はおあずけ。「この時間だけは、国籍を忘れ、皆一緒に楽しい時間を過ごしたいから」。
「会員や夫の支えがあるから活動を続けられた」。行徳には趣味のテニス仲間もいるが、世界にもクラブを通じてたくさんの友人ができた。「いまが一番楽しいし、あすはもっと楽しくなる」と期待しながら、これからも国際交流を続ける。
(2013年2月16日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「演奏通じて火災予防アピール」
創立60周年を迎えた市川市消防音楽隊隊長
片岡 一哉 さん
一昨年4月、7代目隊長に就任した42歳。代表として隊の統率を図るだけでなく、小学校から続けているトランペットで演奏にも加わる。「25人の隊員が一丸となり、音楽隊の演奏を通じて火災予防をアピールしていく」と誓う。
「人を助ける仕事に就きたい」という思いで救急隊を志願。「復帰した患者からの感謝の言葉」を励みに16年間、人命に関わる厳しい現場に立ち続けている。「職場では隊員同士で常に会話を続けること」を鉄則としているのは、互いの連携を深め、救命活動を1秒でも早くするためだ。
会話で連携を深めるのは、音楽隊も同じ。「隊員同士の年齢や楽器経験の年数は違えど、チームとして一つになることが大切」。
練習にも本番にも、夜勤後に寝ずに駆けつける隊員が少なくない。「心がけるのは隊員の労務管理。勤務上の負担を減らす事も隊長の役目」と細かな配慮も必要だ。
「ゆっくりしたい」と願いつつも、演奏会を間近に控えたいまは毎日、家でも音楽隊のことを考える。「演奏が楽しかったよ」と声をかけてくれる観客を思いながら。
(2013年2月9日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「精進して箏曲の発展に尽くす」
文化庁芸術祭で優秀賞を受賞した琴奏者
高畠 一郎 さん
琴や資料に囲まれた市川の自宅は、主宰する教室の生徒が訪れるにぎやかな場所。そこから各地の公演へとかけ巡る。それでも空き時間を見つけては国内外の旅へと飛び出し、現地のグルメを堪能して英気を養っている。
初めて琴を目にしたのは12歳の時。衝撃だったのは「木製の本体にむき出しの弦が張られた〝超アナログ〟な見た目」。しかし、弦から奏でられる無限の表情を持つ音色に魅了され、気付けば琴の道を極める意思を固めていた。
海外で邦楽を演奏し見えてきたことがある。「日本人が、日本のことを知る大切さ」だった。「海外では、自国の文化を語る力が問われる。例えば、琴や日本文化について自分の言葉できちんと説明できるか。それができなければ、どの分野の日本人も世界で戦えない」と危機感を募らせる。いま、「小学生全員に琴を体験させたい」と熱望しているのも、「日本文化を知るきっかけにしてほしい」と願っているからだ。
今回の受賞で「さらに精進して、筝曲の発展に尽くすこと」を改めて決意した。琴を携え、日本と世界をかけ巡る。
(2012年2月2日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「男の夢は全部かなえた」
「現代の名工」として表彰された中華料理人
山岡 洋 さん
20歳から中華料理人を続けて50年。昨年11月に名工の仲間入りを果たした。「それでも中華料理は学びきれないほど幅広い。まだ学ぶことは多い」と情熱をたぎらせる。いまも海外旅行先は、勉強も兼ねた中国だけ。そうして学んだ技術や知識も、後進や地域住民に惜しみなく伝えている。
料理を始めたのは「故郷に錦を飾り、母親に楽をさせたい」という思いから。都内のホテルに就職が決まった時、うれしさのあまり皇居に向かって万歳したことが忘れられないという。38歳からは新宿の大型ホテル・センチュリーハイアット東京に勤務。日中両国の料理人を統括し、年に数億を売り上げる重責はあったが、ヌーベルシノワ(新中華料理)への取り組みや、持ち前の勝負精神で挑んだ斬新なメニュー、料理人対決番組での勝利が客を呼び、中華料理人としては異例のホテル総料理長という頂にたどりついた。
母親も呼び寄せ、ホテル退職後は行徳に自宅兼店舗を構え、「男の夢は全部かなえた」と言いきる。「いまは、料理を通じて家族団らんの風景を見ることが、何よりほっとする瞬間」と目を細める。
(2013年1月26日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「一時のブームで終わらせない」
市川市でプレーパークを開く市川子どもの外遊びの会代表
和田 京子 さん
昔から人に教える職に憧れていたが、「言われた通り教える学校の先生にはなりたくなかった」。結局、大学卒業後は公務員として勤務。しかし、27歳の時にフリースクールの存在を知った。「私がやりたい仕事はこれだ」と転職を決め、東京と静岡のフリースクールで計3年勤めた後、自らが主宰するフリースクールを市川市に開校した。
当初は「楽しくて仕方なかった」が、徐々に1人での運営に限界を感じるようになり、4年後に閉校。挫折感から一時は「何かをする意欲をなくしてしまった」という。
ただ、すぐに「やりたいことはいずれまた見つかる」という前向きな姿勢を取り戻した。その結果、2年ほど前に出合ったのが〝子供が自分の責任で自由に遊ぶ〟というプレーパーク。この遊び場で「不登校の子供たちが生きる力を取り戻している」という話を聞いたことが決め手となり、早速市内で開くための準備に取り掛かった。
「失敗を繰り返さない」と仲間集めから始め、いまでは多くの協力者に恵まれた同会。「常設のプレーパーク場をもつ」という目標に向かって、「一時のブームで終わらせない」と静かに意気込む40歳。
(2013年1月19日号)ホームページ 「人」リスト~2013年