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「人」リスト~2012年

「バレエの感動味わってほしい」

市川市バレエ連盟代表

 臼倉 道代 さん

 行徳で塩業や土木業を営んでいた家に生まれた。「大戦後に初めてバレエ『白鳥の湖』を見て、美しさのあまり雷に打たれたような衝撃を受けたの」。すぐさま「バレエを踊る」と決心。その時の行動力は並ではなく、親の反対を押し切って16歳で東京の教室に入門。20代の頃には、憧れの舞台で活躍するようになった。
 
 55年前には、「自分のようなバレエを好きな人のために」と、まだ珍しかったバレエ教室を行徳に開設。昨年12月には市内の6教室と協力して連盟を発足させた。来る24日には、「本物のバレエ」にこだわり、オーケストラを取り入れた記念公演『くるみ割り人形』を市川市文化会館で開催。「出演するこの時代の子供にこそ、自分が初めてバレエを見た時の深い感動を味わってもらいたい」と願う。
 
 後継者の娘とともに、子供たちにバレエの基本だけでなく、美しい言葉や音楽に触れることの大切さを伝え続ける79歳。「バレリーナが憧れるローザンヌ国際コンクールで1位か2位を獲る仲間の姿を見たい」という夢を抱きながら、「大好きなバレエがもっと市川に根付くように」と活動を続ける。

 (2012年12月15日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年 


「善行の灯火に光をあてたい」

市川善行会会長

 北川 善樹 さん

 市川善行会の第5代会長。同会は、目立たなくとも市川市内の地域活動として善行を行った人や団体をたたえ、市民に伝える善行表彰式を開き続けて、昨年で60年を迎えた。自らの意思で、無報酬で地域のために尽くす善行は「小さな助け合い。その積み重ねで、良い社会を作る」。
 
 表彰の対象は自治会や民生・児童委員、学校、駅などに推薦を依頼。時代を反映し、近年は交通安全や環境美化、高齢者・障害者施設への慰問などが増えた。携わる人たちには「静かに取り組みたい」という思いもあるが、表彰され「気付いてもらえてうれしかった」という声を聞くことも多い。
 
 自身の善行を振り返ると消防団員にたどり着く。「昔は地域のために働くのは当たり前。自分にできることをすることが善行」という75歳。同会に携わる前には、子ども会会長として善行表彰を受けたこともある。
 
 人と人とのつながりの大切さが改めて問われている昨今。「いまこそ善行が大切。ささやかな取り組み、人々の灯火に光をあて、感謝の思いを伝えたい。そういう会が一つくらいあってもいい」。

 (2012年12月8日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年 


「まだ気付いていない市川描く」

市川市民芸術文化賞を受賞した画家

 竹内 庸悦 さん

 「人の心を切り出す宗教と絵画」。両者の選択を迷った末に、18歳から絵の独習を始めた。生計を立てるため皮革染色業を営んだが、常に貧困と隣合わせだった。
 
 10年程すると、「絵とは、人とは何か」という疑問にぶち当たった。禅道場に通って救いを求めると、「いまやることに没入する」という教えに光を見出し、制作にまい進。50歳くらいでようやく「絵を描いてよかったと感じられた」。
 
 画業60年の今年6月には、市内で初の自薦展を開き、延べ千人以上が来場。人生を賭けて描いた絵は、多くの人の心に訴えかけた。「フランスでは絵そのものの魅力を見る。自分も賞や名誉はいとわない」というが、市民が選ぶ同賞受賞は、それとは別だ。
 
 「絵描きの目で見た、美しい自然の姿を残したい」。市川の自然を守るために外環道路反対運動にも力を注いだ。いまもその思いを胸に自転車で市内を巡り、変わり行く市川を絵に収める。「まだ気付いていない市川の自然や、心象風景を描くことに没頭したい」。妻と愛犬と暮らす北国分の地で、「画家として、これからものたうちまわっていく」。

 (2012年12月1日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年 


「気付けば花に育てられていた」

オープンガーデン・うらやすガーデントーククラブ代表

 城戸 夫巳枝 さん

 28歳で園芸を始めた。夫の転勤で米国にいた12年前、「貴婦人の耳飾り」といわれるフクシアの花に魅了され、栽培に没頭。帰国後、日本では珍しかったオープンガーデン(自宅庭の一般公開)を知り、10年前から取り組んできた。
 
 「大好きなフクシアなどが人の交流を生んでくれた」。庭を訪れた人は笑顔になり、会話も弾んだ。5年前に同サークルを設立すると、活動は市庁舎前の花のコンテナ作りへと広がった。
 
 しかし、昨年の震災で自宅の庭が液状化。ショックで1年ほど花から遠ざかった。転機は企業の花配布事業との出合い。「花のある舞浜を取り戻したい」と申し出て、近所150世帯に花を配布。市庁舎前での活動も、夫や仲間の支えで再開した。そして今年9月、それらの功績から全国花のコンクールで団体賞を受賞。「花のおかげで自分を取り戻せた。気付けば花に育てられていた」と振り返る。
 
 「人のためなら力が出る」と子育てボランティアにも参加する70歳。「街に愛着が持てるのも花のおかげ。浦安が花の潤いのあるきれいな街になるように」と、これからも花で社会に尽くしていく。

 (2012年11月24日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年 


「子供にたくさんの思い出を…」

30年続く子ども会の親子大運動会大会会長

 石井 孝幸 さん

 30年を迎えた、市川市立四中ブロックの子ども会による親子大運動会。昔は子ども会の会員が多く、単独で運動会を開く子ども会もあったが、やがて地域で集まって開催。絆の大切さが改めて重視されるはるか前から「子供たちの楽しみのため、そして親子や地域のつながりを深めよう」と開いてきた。
 
 種目は約20種。リレーや綱引き、障害物競走、玉入れなどシンプルなものばかりだが、接戦でもめることもあるほど皆が熱中。ただ、時代が移り変わり、パン食い競争や棒引きなど大人には懐かしくても、子供には分からない種目もある。それでも、「大人が思いっきり楽しむと、子供もやりたがる」と、大人も子供も一緒に楽しみ、種目とともに地域の関係を親子2代、3代とつないできた。
 
 「子供たちが笑顔で楽しむ様子が見られること、運動会やたこ揚げなどの行事を機に互いにあいさつができる関係になれること」が、ボランティア活動の疲れを癒す。相撲大会や公園での映画会など、生まれ育った地域でいまも暮らす59歳には大切な記憶が数多い。子供たちにも「たくさんの思い出を作りながら育ってほしい」と願う。

 (2012年11月17日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年 


「吹奏楽の魅力を味わわせたい」

県立市川南高吹奏楽部顧問

 緑川 裕 さん

 中学まで実績のなかった部員たちを率い、東関東吹奏楽コンクールB部門で金賞を獲得。東日本大会は銅賞に終わったが、「よくやった。私にとっては百点満点」と、生徒たちの成長に目を細める。
 
 小学3年で吹奏楽部に入り、名門・市立柏高では全日本大会で金賞を受賞。「大勢の人が一つになって作るものにはものすごいエネルギーがある」という吹奏楽の魅力を存分に味わった。「同じ思いをさせてあげたい」。この思いを胸に高校教師の道を選んだ。
 
 市川南高に就任して4年目。当初は賞を目指して練習していたが、金賞を逃して泣き崩れる生徒を見て「賞ではなく、自分たちの納得できる演奏を目指そう」と方針を変えた。あいさつなど高校生としての指導も徹底。やる気を引き出すよう生徒を褒め、「できるまで待つ」ことを心掛けている。
 
 温かく声を掛けてくれる地域の人との連携も重要視。地元での演奏機会を増やし、近隣の小中学校と合同演奏にも取り組んでいる。
 
 東日本大会の青森遠征では、部員たちと最高の時間を過ごした。「部員たちと海外の演奏旅行に行けたら」と夢を膨らませる31歳。

 (2012年11月10日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年 


「新たな本との出合いが原動力」

『元禄時代俳人大観』で芭蕉祭の文部科学大臣賞を受賞

 佐藤 勝明 さん

 「松尾芭蕉の時代を生きたほかの人たちはどんな句を詠んでいたのか」―。『元禄時代俳人大観』制作のきっかけは、大学院生だった時に抱いた何気ない疑問。全国を回りながら追究している間に20年が過ぎた。継続の原動力は新たな本に出合えるという喜び。同書は、編者3人の努力と苦労、そして院生時代から変わらない好奇心が生み出した傑作だ。
 
 この受賞で研究者としての一つの夢を叶えたが、元々は「研究者を目指していたわけではない」。事実、大学卒業後は当時の目標だった高校教諭になった。ただ、その教員時代に、後に同書の監修を務めることになる故・雲英末雄さんの講義を聴き、研究への道に惹かれるようになった。
 
 その後29歳で大学院に入学。生活費は夜学の教員を務めることで捻出した。昼は研究、夜は教育という忙しい日々にも「毎日に喜びがあった」と振り返る。
 
 立場は違うが、現在も大学で教育と研究に明け暮れている。「今回の研究で見えた俳諧の裾野が、今後どう広がっていくのかを調べたい」。尽きない意欲で教育と研究の神髄に迫る。

 (2012年11月3日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年 



「イルカに魅せられて深く潜る」

フリーダイビング世界選手権
女子団体金メダリスト
日本女子「人魚ジャパン」メンバー

 平井 美鈴 さん(左)
 廣瀬 花子 さん(右)

 フリーダイビング競技の発祥の地フランス・ニースで開かれた世界選手権で、2位のフランスを大差で引き離し勝ち取った金メダル。前回の沖縄大会で初優勝したが、参加国が少なく、2位とは僅差だったため「まぐれ」ともいわれた。だが、競技の中心地で2連覇を成し遂げ、「日本にはかなわない」と言わしめた。イルカに魅せられた2人はフリーダイビングが普及し、五輪種目になることを願う。そして、「まだ成し遂げた国はない3連覇」を目指して、深く、華麗に、青く澄んだ海を泳ぐ。
 
 

(平井さん)

 泳ぎは得意ではなかったが、東京・小笠原でイルカと泳ぐツアーに参加。これをきっかけに、30歳からフリーダイビングの世界に入って9年。「水の中で力を抜く。こんなに気持ちのいいことはない。地球で遊ばせてもらっている」と、イルカのような大きなフィンをつけて深く深く潜る。行きはよいが、「帰りは気合」と耳抜きに集中しつつ「私を支えてくれる人たちに会える」と太陽を目指す。
 
 「海は私の憧れの場所」。海を潜る種目で深さ82㍍のアジア記録をもち、記録への挑戦は楽しいが、あくまで通過点。好きなことだからこそ思いは広がり、「海は森や川、街とつながっている。水際だけでは意味がない」と、スクールを主宰するとともに、広い視野で海洋環境保全活動に携わる。
 
 好きなものは灯台―と瞳が一段と輝く。「個性があって、けなげに照らし続けてて、キュンとなる」。世界各地で必ず巡る。
 
 

(廣瀬さん)

 親戚がダイビングショップを営む東京・御蔵島で、幼いころからイルカとともに泳ぎ、遊んだ。映画『グランブルー』を見ると「私にもできる」と直感。人魚ジャパンの山本哲也監督とともに競技に挑戦し6年目の26歳。種目のプールでの息止め6分32秒、プール潜水189㍍のアジア記録をもつ。
 
 「深く潜ると、自然の中に溶け込んでいると感じられる、自然と体との一体感」がフリーダイビングの魅力。深い海から戻ってくる時には「周りが明るくなり、生きていることの喜びを感じる。私を待ってくれている人がいる。一人じゃない」との思いが沸きあがる。
 
 ダイビングショップでインストラクターとして働きつつ「海で遊ぶ人がもっと増えてほしい。そのためには日本の海をもっときれいにしなくては」と、清掃活動にも携わる。目下の楽しみは「やっぱり、大会が開かれる世界各地で、観光とショッピング」と笑う。

 (2012年10月27日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年 


「売れる品物を作ってこそ職人」

江戸つまみかんざし職人

 穂積 実 さん

 「なんと華やかな」。機械工作に夢中だった少年時代、親戚の勧めで泣く泣く修業に出た先で、一目見て印象が一変した。「自分のかんざしを作りたい」という目標を支えに10年間で技術を習得。念願だった独立を果たした後は、妻とともに制作に没頭し、伝統にはない新色を使うなど常に挑戦を怠らなかった。すると注文が次々舞い込み、「一時は問屋中に自分の商品が溢れた」と頬を緩める。
 
  しかし、バブル崩壊後に七五三用かんざしの売り上げが激減。多くの職人が廃業する中、新商品を武器になんとか切り抜けた。「流行を読むことが大事」という教訓を胸に、「一品に手をかける名人とは違い、売れる良い品物をたくさん作ってこそ職人」と、常に客の嗜好を探り続ける。
  
   近年は大手スーパーから受注するなど順風満帆だが、市場を席巻する低価格の中国産にどう対抗するかが課題。「かんざしは日本産にこだわってほしい」と、跡継ぎ候補の息子と工房で奮闘する。
   
    人生を振り返ればかんざし一筋。趣味で執筆してきたエッセーの集大成として「自分史を完成できたら」と夢見る。

 (2012年10月20日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年 


「愛好者として伝えていきたい」

創立30周年を迎えた市川市能楽連合会会長

 井上 定夫 さん

 日本で最も古く歴史がある古典芸能「能楽」の略式演奏、謡と仕舞、舞囃子を市川市で楽しむ観世流と宝生流、喜多流の愛好者を束ねる。能楽の魅力は、「物語から歴史を学べる」こと。700年の歴史があり、謡い方も舞い方も当時から変わらない。「愛好者として伝え、守っていきたい」と、伝統芸能に携わる。

 「謡」を学んだのは35歳の時。会社勤めをしながら、観世流能楽師・浅見重信に15年間習い、その後、市川の愛好会に入って鍛錬を重ねてきた。連合会発足後には、能舞台を備えた市川市文化会館も完成。30年を振り返り、活動の拠点があったことに感謝する。

 30年ほど前は、「古典芸能に興味をもって、多くの人が能楽を習っていた」時代。だが、いまは、「能楽をやっていると言うとビックリされる」ほど、愛好者が数少ないのが悩み。「小中学生に能楽の魅力を知ってほしい」と、学校での指導の機会も望む。

 毎年の舞台に孫が見に来てくれるのが喜びという80歳。節目の大仕事を目前に控え、「いままで以上に、元気に取り組みたい」と稽古に励む。

 (2012年10月13日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年 


「若い人に水木を知ってほしい」

活動10年目の水木洋子市民サポーターの会会長

 石井 敏子 さん

 自宅は水木邸のそば。水木とは親しく会話をしたことはないが、〝ご近所さん〟の関係だった。水木作品のファンだったこともあり、会の立ち上げ当初から参加。長く図書館で勤務した経験を生かし、市に寄贈された多数の資料や原稿、水木邸に残された着物や洋服を管理するとともに、水木の研究に取り組んできた。水木邸には生前の息遣いがそのまま残る。「水木さんが『ただいま』と帰ってきてもそのまま暮らせるくらい」と水木に魅せられた75歳は笑う。

 平成22年の水木生誕100周年事業の大仕事を終えると、水木の研究に力を注いだ前会長から昨年5月にバトンを受けた。水木の遺品の「受け皿」ともいえる会として、今後も「水木の存在をさらに広めながら、活動を維持すること」が使命。「多くの人、特に若い世代に水木を知ってもらえたときが一番うれしい」という。

 登場人物の人生が凝縮された何気ないせりふが胸を打つのが水木作品の魅力。たった一言でも涙させられるという。水木作品に限らず「映画を見られることが幸せ」。これからは「水木のドラマ作品の研究もしたい」と意気込む。

 (2012年10月6日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年 


「大震災のあの時、心に決めた」

事業者と災害時協定を締結した宮久保連合自治会長

 塚越 てい子 さん

 連合会長に就任して1年もたたない昨年3月11日、東日本大震災が発生。宮久保地区でも瓦の落下など被害はあったが、最も胸が痛んだのは、乳児のミルクに使う水を探して走り回る母親たちに出会ったこと。「あの時、震災に強い自治会を目指すことを決めた」。

 大震災のあった日は要援護者の安否確認に努め、その後、地域から義援金を募って被災地に送り、地域の被災世帯には連合自治会から見舞金を出した。規約を改正して自主防災組織を強化し、独自の倉庫を確保して会員3千世帯分の飲料水と乾パン、簡易トイレを備蓄。今年8月には自治会では異例の、地域スーパーとの災害時協定を結んだ。「一つでも多く避難所を確保したい。災害を想定外にしないために努めることが自治会の役割」。他人任せにはせず、自分たちで考え、行動に移してきた。

 自治会の役割は防災だけではない。「宮久保ってどこ?」。そうした声もバネに「ここで生まれて、ついのすみかにしてよかった。そんな町にしたい」と願う61歳。〝七人の侍〟になぞらえる宮久保連合内7自治会の各会長に支えられ、実行できる自治会を目指す。

 (2012年9月22日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年 


「最強より最高の選手育てたい」

高校柔道で3冠を達成した東海大浦安高の柔道部監督

 竹内 徹 さん

 昭和34年熊本生まれ。「ケンカに負けたくない」と7歳から始めた柔道で、「負けを認め、礼儀を尽くすことを学び成長した」と振り返る。柔道の強豪校・九州学院高と東海大を卒業後、東海大相模高などで指導者経験を積んだ。

 東海大浦安高には20年前に赴任。一環して「選手の自主性を育てること」に努めてきた。無闇に口を出さないことで、生徒は自主的に課題や目標を定める。そうした「高い意識がなければ日本一は目指せない」という。礼儀やマナーには特に厳しい。「生徒には『最強』ではなく『最高』の柔道選手になってほしい」と願う故だ。

 高校では社会科教諭で、クラス担任も受け持つ。授業では私語禁止を徹底するなど厳しいが、敬愛する長渕剛の歌を得意のギターとハーモニカで贈る熱い一面も見せる。「クラスの生徒たちの団結や頑張りに癒しをもらう」ことが、柔道の指導にも幅を生んでいる。

 今後の目標は「3年連続または通算4回の3冠を成し遂げて新記録を作ること。オリンピック選手も育てたい」。技術と人間性に磨きをかける選手たちを率い、さらなる高みに挑む。

 (2012年9月15日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年 


「体験通じ火の大切さ伝えたい」

火おこしボランティア指導員を10年間務める

 中村 一郎 さん

 縄文学習に取り組む市内の小学6年生などに、トークを交えながら縄文時代の火おこしを教える。木の棒と板で摩擦熱を起こし、息を吹き込んで酸素を送り続けることでようやく炎はつく。「いまは手軽になった火も、縄文人たちは苦労していた。火を目にする機会が減ったいま、その便利さと危険さを体験し、火の大切さを感じてほしい」という80歳。

大学で土木を学んだ後、国鉄(現在のJR)や土木建設会社に勤務。「ボランティアをしたい」と思っていた退職後、偶然見つけた同指導員養成講座に参加した。当時は道具やノウハウも少なく、先輩指導員とともに手探りで挑んだ。ベテランとなったいまは、同世代のメンバー11人と後輩の育成にも力を注ぐ。指導員を増やし、「多くの子供たちに火おこしを体験してもらう機会を作ること」が目標だ。

技術職の性か、昨年3月から夢中なのが原子力の研究。「子供たちへの影響も考えると、日本に原発は不要ではないか」。そう思い、原発について記したノートは16冊を数える。火おこしを機に、「大学で考古学を学びたい」とも思うように。学習意欲は増すばかりだ。

 (2012年9月8日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年 


「市川の水難救助の力強めたい」

全国消防救助技術大会水上の部複合検索で入賞

 鳥家 吉高 さん

 地区予選を勝ち抜いた全国の消防隊員が日ごろの訓練の成果を競い合う同大会。今回を含めて4回出場し、そのすべてで入賞という結果を残した。平成22年度に水難救助隊から消防本部の内勤に配置転換。今大会は、訓練不足や2年間のブランク、さらに「一般的には引退の時期」である34歳という年齢など、さまざまな不安を抱えていた。それでも再び目指した晴れの舞台でベストパフォーマンスを披露。「一番印象的な大会になった」。充実の笑顔がその裏の苦労を物語る。
 
 フィンなどを着けた状態で障害を突破し、水中のリングを探す同種目。同大会では、ミスのない演技でタイムが標準記録を上回った出場者すべてが入賞となる。一番の山場は、限られた全国への出場枠を争う関東大会。「全国の舞台で市川の水難救助のレベルの高さを示したい」という強い思いから、家族の応援も「全国に行ってから」と断り、背水の陣で臨んだ。
 
 今後の目標は、後身の育成と団体種目での全国への出場。そしていつかは思い入れの強い水難救助隊に戻り、「市川の水上チームを強くしていくこと」が将来の夢。

 (2012年9月1日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年 


「心を揺さぶり絆はぐくみたい」

野外ライブin南行実行委員長

 松崎 利光 さん

 「地域の皆が仲良く、楽しく暮らせるまちづくり。そんな大それたことを願っている」という、行徳生まれ、行徳育ちの64歳。PTAやコミュニティスクールなど子供たちを地域で支える活動に長年携わりつつ、まちづくりのツールとしてイベントを運営してきた。
 
 ここ10年間で、シーサイドフェスティバル(3回)と縄文野焼き大会(1回)を経て野外ライブⅰn南行にたどり着き、6回目を終えた。費用を抑えつつ成功させようと、会場や電源、イス、出演者やボランティアの確保など、すべてで手探りが続いた。イベントを変えざるを得ない苦節もあった。それでも、テーマは常に〝火と食と音〟。「皆の関心こそ欠かせない。そのためには、人の心を揺さぶる要素が大事」と一貫している。
 
 「イベントは私のライフワーク」。その思いの背景には「過去の祭は私たちがつぶしてきた。それを反省して、私たちで新たに作っていきたい。東日本大震災で皆、絆の大切さに気づいた。重要なのはこれから」との思いがある。「誰一人欠かせないスタッフ」とともに、地域の絆をはぐくむために飛躍を願う。

 (2012年8月25日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年 


「演者と観客で共に作り上げる」

いちかわ市民ミュージカル実行委員長

 中津 攸子 さん

 市川で作家活動を続け、喜寿を迎えたいまもなお「世界中のできるだけ多くのことを知りたい」と好奇心は尽きない。年平均3冊の本に加え、連載やコラムを執筆するという忙しい毎日を送りながら同委員長を引き受けたのも、好奇心が勝っていたから。「人間が好きで、人間のやることが大好き」。スタッフ、出演者合わせ、総勢250人の市民が作り上げる舞台の屋台骨となって活動を支える。
 
 ミュージカルにかかわるのは初めてだが、芝居への造詣は浅くない。高校、大学と演劇に携わり、いまでも音楽座の公演に欠かさず足を運ぶ。こうした芝居とのかかわりも委員長就任を後押しした。
 
 「芝居は総合芸術。書くのとは違って魂の開放になる」と、ミュージカルの魅力を作家ならではの切り口で語る。実際に稽古を見学した際には、「みんなで力を合わせて一つのものを完成させていこうとする情熱は素晴らしい」と感銘を受けた。「ミュージカルは演者と観客が一緒になって作り上げるもの。公演を完成させるために多くの人に〝参加〟してほしい」。市民の力の結集に大きな期待を寄せる。

 (2012年8月18日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「海外に追い抜かれたくはない」

ロボカップ世界大会ジュニア部門で優勝

 畝本 涼 君

 コンピューターに指令を出すプログラミングとの出合いは小学5年生のとき。国立の科学博物館でプログラミングでのロボット操作体験会に参加し、「自分が作った通りに動く楽しさ」に瞬く間に引き込まれ、すぐさま都内のロボット教室に通い始めた。
 
 6月にメキシコで開かれた同大会には日本代表チームの一員として出場。チームメートとプログラミング、製作した小型ロボットが、動きの速さや正確さを競う種目で優勝し、勝利の喜びを味わった。優勝すると兵役や学費が免除になる国があり、「競技に向かう外国勢の真剣さ」も肌で感じた。「ロボット分野で進んでいる日本が海外に追い抜かれる日は来てほしくない」。世界を見た15歳に新たな闘志が芽生えた。
 
 学校では友人とテレビドラマの話を楽しんだりもするが、やはり夢中なのはロボットとプログラミング。「洗濯機も車もプログラミング無しには動かない。我々の生活を支える大切な物なんですよ」とよどみない口調で語る。
 
 「国公立の高等専門学校に進学し、将来は情報系の仕事に就きたい」。夢はもう決まっている。

 (2012年8月4日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「映画だから伝わる山の美しさ」

市川山岳映画クラブ事務局長

 山口 茂 さん

 「風の音、そよぐ花、荒々しい岩肌、朝夕で表情を変える姿は自然の総合芸術」―。都会では味わえない山に魅せられた会員が、山だけを撮影し、映画を上映して32年。全国的にも珍しく、年一回の上映会は愛好家の心を山に連れ出す。

 山形・米沢市出身の61歳。集団就職で上京した翌年の16歳の時、「山が恋しい」と始めた登山歴は45年。最初の5年間は写真を撮っていたが、山の美しさを伝え切れない―と8㍉カメラ、ビデオカメラの世界へ。会員が自然の営みと、人と山の触れ合いを収めた映画はすでに239本になった。

 活動を支えてきたのは、山を愛する心、自然を大切にしたい思い、そして「見てくれる人がいることこそ喜び」という来場者への感謝。昨年からは高齢者など会場に来られない人のために菅野公民館でミニ映写会を開始。15年前からは、経営する果物店の一角を作品発表の場として無料で提供している。

 新たなテーマは市川市。自分にとっての「市川百景」の撮影を始めた。雄大かつ繊細な山々を見つめてきた瞳で、市川のすばらしさと人々の営みを捉えていく。

 (2012年7月28日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「健聴者と難聴者との架け橋に」

手話で歌を表現するアーティスト

 鈴木 絵麻 さん

 「手話は難しいんだろうな」。そう思っていたが、簡単な手話でも難聴者とコミュニケーションができると分かった。さらに歌と融合させたことで「手話は表現豊かな言語」とさえ思うように。「歌詞に『風』とあっても『強い風』『そよぐ風』とさまざま。どう表現するかが面白いところ」。単に手振りで手話をするのではなく、歌と手話を一体にする練習も欠かせない。「自身の音楽活動が健聴者と難聴者の架け橋になるように」という思いを原動力に、手話通訳の勉強にも取り組んでいる。
 
 46歳のいまは、「歌の練習や手話の振り付けの考案にじっくり時間をかける日々」。作詞を手掛けるなど言葉にこだわりがあり、「日本語の感性が豊かな小学生に手話を教えてみたらどうなるか…」と、若い世代への普及も視野にある。
 
 人との出会いが好きで、合唱仲間との会合は大切なひと時。「これまでの活動は、手話や歌の指導者、共演のピアニストなど多くの人のおかげですね」。感謝の気持ちは舞台のパフォーマンスで還元。「一生歌にかかわり、聞いてくれる人に楽しい時間を提供していきたい」。

 (2012年7月21日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「ロンドンでメダルを取りたい」

フェンシング男子フルーレロンドン五輪日本代表

 三宅 諒 さん

 市立六中2年生のとき、本紙の取材で話していた五輪出場の夢が実現。「太田雄貴選手がメダルを獲得した次の大会で注目が高まっている。太田選手に続いてメダルを取りたい」と闘志を燃やす。

 昨年の全日本学生選手権で、幼少時代からのライバル・淡路卓選手を破って優勝。今年3月のドイツワールドカップでは、団体戦準々決勝でフランス相手に10点以上の差を逆転勝利する起点になるなど、3位入賞に大きく貢献した。「五輪でも最高のパフォーマンスをすればメダルも不可能ではない」。これまでの強敵との戦いが大きな自信になっている。

 「相手の考えを読んでだます知恵比べが楽しい。強くなることで全国のいろいろな人と出会える」。中学生時代、本紙の取材でこう話していたフェンシングの魅力は、21歳のいまも同じ。欧州の大会で、フェンシングを知り尽くした観客から試合内容を褒められることにも、やりがいを感じている。

 少ない空き時間を使い、最近、大学の友人と茶道を習い始めた。太田選手らフェンシングの仲間とは、陶芸やフリークライミングに興じている。

 (2012年7月14日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「協力者と一緒につかんだ優勝」

関東草野球界の頂点に立ったJAいちかわ野球部監督

 柳井 将志 さん

 監督になってまだ半年足らず。初陣となった関東大会「アークカップ」を同部史上初めて制し、最高の形でスタートを切った。ただ、その裏で新監督は「選手の時とは違う種類のプレッシャーを感じていた」。優勝の瞬間を「ホッとした」と振り返るその言葉にも、監督としての苦悩がにじみ出る。
 
 入社後間もなく同部に入部。以来、フルタイムで働いた後に練習に励むという生活を10年間続けてきた。選手を引退したいまも監督としてその生活を継続。活動の原動力は「周りの協力で野球をやらせてもらっている」という感謝の思い。この思いが、苦悩よりも常に向上心を先に立たせている。
 
 この半年取り組んできた基礎力の底上げが実を結んだ今大会。決勝には日ごろ自分たちを支えてくれている約千人が駆けつけた。そんな協力者たちと一緒につかんだ今回の優勝。「JAいちかわが一つになる瞬間を作れた。結果よりそれがうれしかった」とほほ笑む。
 
 次の目標は同部が約20年遠ざかっているという全国大会への出場。もう一度一つになる瞬間を生み出すために、その目標の実現に向けて33歳の挑戦は終わらない。

 (2012年7月7日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「市民が主役になる議会運営を」

第64代市川市議会議長

 加藤 武央 さん

 千葉市で生まれ育ち、大学まで生活のほとんどを野球に捧げた生粋の野球人。全国屈指の強豪校に在籍していた高校3年時には、レギュラーとして甲子園にあと一歩まで迫り、大学でも寮に入って野球に情熱を注ぎ続けた。「義理、人情、思いやりの精神を野球で学んだ」。議員となったいまでも、体に染みついたこの精神で「市民が市政の主役になる議会運営」を目指す。

 市川市農協への就職と同時に同市に転居。以来26年間、農協職員として市内を歩き回った。「社会人としてのすべてを教えてくれたのは市川市」。とはいえ、借り住まいを転々とする生活では「よそ者の感覚を拭えなかった」という。

 そんな悩みを吹き飛ばしてくれたのが平成15年の市議選初当選。「やっと市川市民になれた」。以来3期連続当選を果たし、「市民として認めてくれた皆さんへ恩を返したい」と積極的に活動する。

 「自分を応援してくれるすべての人が財産」と話す57歳。議長となっても「できる限り外に出て、多くの市民の声を生で聞けるようにしたい」と、野球で培った行動力を武器に直球勝負で挑む。

 (2012年6月23日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「少しでも上達できるよう努力」

ボストンで活躍する室内楽ピアニスト

 木田 陽子 さん

 東京芸大を卒業後、23歳でボストンへ渡って丸10年。1校目の留学先で、ドイツ歌曲の伴奏法を学ぶ機会を得て伴奏の魅力に目覚めると、世界屈指の弦楽奏者などが集まるニューイングランド音楽院博士課程へ進み、研さんを積んだ。「ハイレベルな学生たちとの共演はとても刺激になった」。ふるさと市川市の文化会館で今月23日に開く室内楽コンサートで、米国で磨き上げた音色を披露する。
 
 今年5月に同院を卒業し、現在は室内楽コンサートに出演しながら、同院で弦楽や歌曲を学ぶ学生の伴奏を務める。「今度の伴奏お願い」。学生から信頼を集めるのは、演奏技術への評価はもちろん、「互いに楽しく演奏するために責任を持って務める」姿勢が評価されているからだ。「相手と〝あうん〟の呼吸で行う演奏が楽しい」。人と掛け合う魅力がそこにある。
 
 キャリアを重ねたいまも曲目の拡充に努める。大好きなボストンで「散歩や外食、友人との語らい」を楽しみながら、「自分の力量を見極め、少しでも上達できるよう努力し、いつか『思い残すことはない』演奏ができれば」と毎日ピアノに向かい続ける。

 (2012年6月16日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「勉強できるということは幸せ」

市川市少年野球連盟会長

 中嶋 貞行 さん

 市PTA連絡協議会、市子ども会育成会連絡協議会、市青少年相談員連絡協議会から一人ずつ役員を出し合って昭和55年に発足した同連盟。当時青少年相談員を務めていたことから同59年に同連盟の副会長に就任すると、以来影から運営を支え続けた。そして今年、ついに会長に就任。「勉強する機会を与えてくれた。いくつになっても勉強できるのは幸せ」とこの重責を前向きに捉える。
 
 市川生まれ、市川育ちの63歳。これまで少年野球や青少年相談員のほかにも、保護司やPTA役員、他のスポーツ団体の役員も務めるなど、さまざまな地域活動に携わってきた。「申し出を断れば頼んだその人が困る。次の適任者を探して育成するのが自分の役割」。多くの団体に関わることで「それぞれの情報の橋渡しができれば」と地域のつながりも育んでいる。
 
 「寝ていたら何もできない。起きていれば何かがある」という飽くなき好奇心が活動の原動力。日に日に成長する球児たちの姿に目を細めながら、「これからも少年の成長が見守れる大会を開き続けたい」と、野球を通じて少年の健全育成を目指す。

 (2012年6月9日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「『まだ働きたい』と社会奉仕」

市川市シルバーボランティア「くすのき会」会長

 宮内 智至 さん

 市川市シルバー人材センターに登録し、植木の仕事に従事しながら、5年前に同センターの有志で結成した同会の2代目の会長を務める。「太陽の下で体を動かせることが何よりのやりがい」と充実した日々を送る67歳。

 定年まで大手自動車会社に勤務。「まだ働きたかった」と、同センターで基礎から学んで〝植木職人〟の人生をスタート。依頼は高齢者宅からが多く、持ち前のサービス精神から家事を手伝うこともしばしば。「お客との会話や交流も仕事の一つ。一人暮らしの家も多いから」と地域を見つめる。

 約80人が所属する同会は、イベント会場の清掃や公共施設の樹木の剪定など、会員それぞれが普段の仕事の技術を生かしながら、「社会奉仕の精神」をもって集団でボランティアに取り組んでいる。仲間の連携も自然と深まり、「活動のたびに達成感を感じる。今後も活動範囲を広げたい」と意気込む。

 30年間続けている剣道クラブが地域との唯一のつながりだったが、いまは「タクシーの運転手になれるほど詳しくなった」と笑う。「模型作りをしたい」という願いが叶うのは、まだ先になりそうだ。

 (2012年6月2日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「職員の思い支えるため努める」

浦安市消防長

 川口 利治 さん

 市職員生活の半分を消防本部の総務で過ごした58歳。父親は浦安の元漁師で、消防団に所属し、「私が小学生の時、火事のたびに出動していた。人命も救助した」。そうした様子を垣間見て育った。

 市民の生命・財産を守る消防。トップを引き継いだ同市消防本部は今年度、新町地区初の日の出出張所の設計を行うほか、ビルなどの防火設備の点検・指導も例年の1・5倍を目指す。断水時に給水車として活用できるタンク車や、情報収集や初期消火に役立つバイクの導入も検討。将来の地域防災の要と位置づける少年消防団の育成、住宅用火災警報器の設置啓発、救急搬送の適正利用の要請などを進めていく。

 消防の3要素は資機材と水利、そして何よりも〝人〟。「消防を目指してくる職員は特に〝人のために役に立ちたい〟という思いが強い」。業務の大半を占めるのが、訓練やルーティンワークという現実があるこそ、3年前から職員一人一人と面談し、職場や個人の悩みを聞き、解決にあたってきた。「職員のモチベーションを維持していくために支えたい」。大切に思うのは〝人〟。

 (2012年5月26日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「記憶薄れぬうち災害の備えを」

市川市危機管理監

 古賀 正義 さん

 「人助けになる職業」を求めて、約40年前に市川市消防局に入局。平成21年度から2年間は局長も務めた。昨年の東日本大震災は局長在任中に発生。「常に何かあると考えていなければいけない。想定外のことを想定していなくてはいけない」。消防で培ったこうした教訓を、今度は市の危機管理体制全体の強化につなげていく。

 昨年度当初からは危機管理担当理事、11月からは放射能対策担当理事と、立て続けに震災対応の重要なポストを任された。今回の震災で特に感じたのは共助の大切さ。「力を合わせればある程度の形にはなる。少しのことが減災につながる」。今年度から就任した危機管理監としても「震災の記憶が薄れないうちに次の災害に備えなくてはならない」と気を引き締め、公助の充実はもちろん、市民への啓発にも力を入れていく。

 60歳。重責が伴う役職の就任は想像もしていなかったが、「ずっと防災について考えてきたから抵抗はない」と、この〝想定外〟も笑顔で受け止める。オフは街歩きで気分転換しつつも、「いつでも準備は整えてある」と常に臨戦態勢で47万市民の安全に努める。

 (2012年5月19日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「地域のため、こいのぼり掲揚」

市川大野こいのぼり祭を開き続ける大野中央商店会副会長

 吉田 四郎 さん

 「地域の人たちからの感謝の言葉がうれしい」―。JR市川大野駅前から大柏川に至る大野中央商店会は毎年、こざと北公園でこいのぼりを揚げ続けている。

 こいのぼり祭は、庭のないマンション住民などの「揚げたくても揚げられない」という声が発端。開発前は一面が田んぼ。「大野の柱になるもの、新旧住民の関係作り」を願い、調整池の周囲でこいのぼりを大空に泳がせた。安全を重視し強度のある鉄柱を立て、風で飛ばされず、皆が揚げやすいよう、購入したこいのぼりにもさまざまな細工を凝らしている。

 「市川が大好き」が思いの源。大阪のデパートに勤務した時代もあるが、菅野で生まれ育ち、クリーニング業で独立後は南大野に暮らす。もてなしを大切にするデパートやそこでの企画職の経験も生かし、暗かった地域への街灯設置、市民まつりを誘致した地域PR、桜の下の提灯祭などを形にした。

 後進への引き継ぎに努めつつ陣頭指揮を執る79歳。車イスでも散策できる公園の歩道拡幅や池の底ざらいによる鳥の飛来、池の埋め立てによる憩いの場と避難場所作りなど、地域への願いは尽きない。

 (2012年5月5日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「体動く限り人の役に立ちたい」

市川市消防局長

 和田 照男 さん

 幼少時代、近所で火災が起きた際に「バケツを持って飛んでいった父の姿が強く印象に残った」。高校生の時には負傷した友人を助ける救急隊員の冷静な対応が胸に焼きついた。こうした経験から、人を助ける消防の仕事に興味をもち、高校卒業と同時に消防局に入局。「初めての出動は何をしたかも覚えていないほど緊張した」が、経験を積むにつれて「人を助けた時のやりがいを強く感じるようになった」。
 
 入局から約40年。東日本大震災以降、消防に寄せられる市民からの期待が日に日に高まる中での局長就任には「大変な重責を感じている」。まずは「隊員一人一人の災害対応能力を向上させること」が鍵。そのためにも今年は、大規模災害を想定した模擬訓練を実施することで「隊員全員が同じレベルでの意識を共有できるようにしたい」と決意をにじませる。
 
 「人を助けたい」という純粋な思いに絶えず突き動かされてきた59歳。47万市民の最前線で構えるいまはもちろん、将来自分がどういう立場にあろうと「体が動く限り人の役に立っていたい」。その思いはいつまでも消えない。

 (2012年4月28日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「障害ある人の現状を変えたい」

全国障害者スポーツ大会STT部門で連覇

 伊藤 みち子 さん

 視界を遮断された状態で音の鳴るボールを打ち合い、得点を争うサウンドテーブルテニス(STT)。「体のために」と平成16年ごろから始めたが、「相手との駆け引きが楽しめる」同競技の魅力に徐々に引き込まれていった。
 
 同19年ごろからは本格的に技術を磨くようになり、同22年に千葉県で行われた前回の同大会で初出場初優勝の快挙。今大会でも圧勝で連覇を達成した。
 
 ただ、全国トップクラスの選手であっても、その技術を磨く環境は全く整っていない。特別な用具を必要とする同競技の練習場所は市内に数か所しかないため、練習はできても月に4回ほど。さらにその練習も、一般の愛好者と共に行うことが多く、全国優勝を目指す選手たちにとっては「集中力を維持することが難しい」という。
 
 こうした状況下でも、日々努力を積み上げる59歳。「(障害者が)スポーツを楽しめる場所を増やし、やりたいと思ってもやる場所がない現状を変えたい」と志は高い。趣味の社交ダンスやカラオケで英気を養いながら、後身のため、障害のある多くの人たちのために、自らの活躍で道を切り開く。

 (2012年4月21日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「川柳の『自由さ』にひかれた」

第4回市川市民芸術文化賞を受賞した柳人(川柳作家)

 岡本 公夫 さん

 「父はただ うなずくだけの 発車ベル」(本人作)。人の心の内面を五・七・五の17文字で表す川柳。俳句は自然への思いを詠むが、川柳は人間の喜怒哀楽を吐く。「相手を傷つけず、喜ばせようと考えながら話す心がけがあれば、誰でもできますよ」と勧め、「余韻があり、想像をかき立てる句が素晴らしい」とコツを話す。

 川柳との出合いは戦争中。「戦時下で言えないようなことでも川柳にすれば言える。その自由さにひかれた」。戦後は大学で文学を学び、ラジオ東京(現TBS)に入社。そして退職後のいまからちょうど20年前、本格的に川柳の道に入った。言葉だけのラジオの世界と、そこではぐくんだ人との縁が柳人としての土台にある。

 広報いちかわや手児奈文学賞の川柳選者も務めている85歳。しかし「審査ばかりではなく愛好者を開拓しなくては。長年住む市川に恩返しがしたい」と小学校で児童にも伝授し、「子供たちの純真さが表現されるとうれしい」と喜ぶ。

 楽しみはクラシックの名演奏にひたる時間。受賞して贈られた市川市文化会館の年間パスポートにワクワクしている。

 (2012年4月14日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「ダンスという財産伝えたい」

浦安市ダンス協会相談役

 篠田 学 さん

 生涯教育、健康や仲間作りなどの側面がある社交ダンスだが、「何よりも楽しいことが大切」。大学入学後、社交ダンスパーティーのチケットを購入。せっかくなら楽しもうとダンス教室に通い、たちまち魅了された。3年後には学生選手権で優勝、23歳でプロに転向すると5年後に全日本で優勝、英国の大会や世界選手権でも優勝、入賞を数多く手にした。

 競技生活は終えたが、縁は続く。20年前、「浦安に恩返しをしたい」と公民館でのダンス指導を提案し、77歳のいまも市内で継続。小学校でも多くの児童にダンスの楽しさを教えてきた。「国際化時代、ダンスは握手と同じ世界の共通語。相手のあるダンスは、配慮の心も育つ。日本人にも向いている」。愛好者のすそ野を広げるためだけでなく、「教えることが楽しい」と、初心者とも向き合う。

 ボールルームダンスジャパン副会長で、目下の課題はダンスの五輪種目への採用。NHKテレビ番組『レッツダンス』初代講師を務めた後、浦安でも指導員を数多く育ててきた。「ダンスという自分の財産を、将来の五輪のメダルのためにも伝えたい」。

 (2012年3月24日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「足が動かなくなっても続ける」

語り部サークル「根っこの会」発起人

 嶋根 フミ子 さん

 40代後半のころから15年間、社会教育指導員として市川市中央公民館に勤務。高齢者の趣味や生きがい作りを応援する講座の企画を主に担当していた。「何かを教えて、それで誰かが喜んでくれる姿を見るのが好き。この仕事は性に合っていた」と振り返る。

 ただ、自分にも高齢者となる日が近づいていることに気付き、「人のことだけでなく、私も何かを見つけなくては」と考えるようになった。そんな折に出合ったのが「語り」という活動。本探しに始まり、分かりやすい語り方を考え、自分なりに表現する語り部のスタイルは「元々本が大好きだった」自分をすぐさま魅了した。

 そこで、自身が手掛ける最後の公民館講座で「語り部養成講座」を企画。講義を重ねるに連れて、受講生から継続を望む声が上がるようになり、講座の終了と同時に同サークルが発足した。

 それから12年。会員同士で協力しながら会を支えてきた。最近は発声練習を兼ねてコーラスサークルにも通う。「足が動かなくなっても、自宅を開放して語りを続けたい」。語りへの情熱は冷めない。

 (2011年3月17日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「われわれは大震災を忘れない」

フォトサルベージの輪代表

 伊藤 誠 さん

 大津波で汚れた写真の修復ボランティア組織を、大震災後に立ち上げた。寄せられるのは写真のほか、絵日記や答案用紙、表彰状、卒業証書、通知表など幅広い。「形あるものはなくなってしまう。そうした物に思い出が詰まっている」と、他の組織にはない100人を超すプロのネットワークを組み、修復を進める54歳。

 立ち上がったのは、被災した人たちが汚れたアルバムを大事そうにしている様子を見て。「何かしたかった。でも何ができるのか分からなかった。そんな時、私たち印刷や写真を扱う者の技術が生かせると気づいた」。現地を訪問し、言葉を交わすことも大切。「写真を直接手渡すと皆の目の輝きが違う。すると、隣近所の人も頼みに来る。修復できることを知らない人がたくさんいるんです」。

 大震災から1年だが、ボランティアもカンパもまだまだ必要。「原発事故に隠れているが、いまも津波被害で苦しむ人がいる。写真修復は、台風被害時にも役立つので、恒常的に活動したい。われわれは活動の発端となった大震災を忘れない」。思い出を大切に残す活動は、さらに重要性を増していく。

 (2012年3月10日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「人のため町のために役立ちたい」

第10代浦安市消防団長

 平林 清重 さん

 浦安町時代の昭和44年に消防団に入団した68歳。「人のため、町のために役立ちたい」。任期満了後34年を経た平成20年、前団長に請われて再入団した。

 一時は全国で200万人いた消防団員は、いまは85万人ほど。近年は、サラリーマン化が進み、団員は減少の一途。だが、約2年前に団長に就任すると、「火災や風水害に対処するため、団員を確保したい」と、元団員に再入団を依頼し、消防団支援隊を発足させた。また、「防火意識と規律を学んでほしい」と、団長就任時から構想を温めてきた少年消防団の発足も、4月に実現させる。さまざまなアイデアと実行力は「一歩先を読んで取り組む」姿勢があってのことだ。

 東日本大震災の後も、市民生活の下支えに従事してきた浦安市消防団。「日ごろの訓練とそこで培ってきたチームワークが、素早い行動に生かせた」と、消防団の存在意義を再確認しつつ、団長として気を引き締める。

 「医療や看護の資格をもつ人にも消防団活動にかかわってほしい」。震災を踏まえ、次のアイデアも胸に秘める。

 (2012年3月3日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「災害に強い町は平時から醸成」

浦安市副市長

 石井 一郎 さん

 「浦安市の液状化被害は、世界でも最大級」。国交省(旧運輸省)出身で、港湾や空港の施設造りに長年携わり、液状化の全体像を把握する。対策技術はあり、金をかければできる。しかし、既存の建物や下水道があって難しい。個人負担を少なくするためにも、効率が大切。「いま考えられる中から浦安市に合った最適な答えを複数見つけ出し、コストとリスクも分かりやすく、秋には示したい」。

 震災後、市の理事に就き、災害からの復旧・復興の全体を担うため1月から副市長。すでに「いずれ市民のためになる」と、液状化対策工法の技術開発を後押しするため、企業に実証実験の場を提供することを提案し、実現。「災害に強い町は、平時の取り組みで醸成すべき」とソフト面も重視する。

 浦安と同じベイエリアの千葉市に住む54歳。現在唯一のゆったりとした時間は、週末の愛犬との散歩。ただ、液状化対策や浦安のまちづくりが、つい頭をもたげる。「将来、皆さんが『あの時は大変だったけど、住み続けてよかった』と語り合えるよう、経験を十分に生かしたい」。恵まれた住環境の浦安を取り戻すべく、力を尽くす。

 (2012年2月25日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「頂点の競技で結果を出したい」

全日本ライフセービング大会サーフレース女子部門2位

 越中 万智 さん

 色白で小柄、笑顔が優しい和洋女子大の2年生。しかし、授業が終わればすぐさまスイミングスクールに向かい、夜まで泳いで体を鍛えるのが日課。休日には読書や菓子作りを楽しむが、「学校帰りに友達とゆっくりカラオケに行く」という願いは果たせていない。

 水泳を始めたのは1歳から。幼稚園の年長ですでに選手クラス入りするなど早くから才能を開花させ、周囲の期待も集めた。家政の道へ進むことを選び同大に進学したが、水泳部が無かったためにライフセービングの同好会に入った。活動のメーンは、県内の浜辺で夏に行うレスキュー。危険と隣合わせの活動では、「技術を身につけ無事故を目指したい」。オフには、救助の講習を受けたり、人命救助技術を競う競技大会に出場したりして、夏に備えている。

 競技では一昨年、19歳以下の強化選手に選ばれた。選抜メンバーとしてのプレッシャーも生まれたが、年上のベテラン選手などから学んだ1年間は大きい。今後は再び強化選手入りを目指すとともに、ライフセービング競技の頂点とも言われる「オーシャンウーマン」で結果を出すことが夢。

 (2012年2月18日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「書道で自分だけの芸術を作る」

高校生大作書道展で文部科学大臣賞を受賞

 阿部 文香 さん

 書道を始めたのは小学3年生の時。当初は一緒に始めた友人が級を上げていく中、自身はまったく上達しなかったため、「やめたいと思ってよく泣いていた」。しかし、辛抱強く通い続けて1年ほど経過したころからみるみる上達。小学6年生の時には五段の腕前になっていた。

 中学時代は書道から離れたが、県立市川南高への入学を機に書道部に入部。しかし、3年間のブランクは大きく、「成績が伸びず自信を失っていた」。そんな悩ましい日々に終止符を打つべく、2年生の夏休みに「最後の作品にしよう」と決意して取り組んだこの作品。一週間、毎日朝から晩まで学校にこもって作品を仕上げると、退部の意思を顧問に伝えた。

 そのまま書道から離れて約1か月が経過し、忘れたころに届いた最高賞受賞という吉報。「信じられなかった」と驚くとともに、「努力は報われる」ことを再認識し、再び書の道へ戻ろうと決意した。

 何度も書の道を外れながら、その度に引き戻されてきた。いまはもう「書道しか見えていない」。書道で「自分だけの芸術を作りあげる」ことが将来の夢。

 (2012年2月11日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「人と出会い、対話する醍醐味」

モノポリー日本チャンピオン

 山本 尚意 さん

 初代日本チャンピオンの著書に魅せられて大学時代からモノポリーを始めた。これまでにプレーした数は2500回を超え、「もはや悟りの境地に達したよう」と笑う。そのためか、日本一の喜びに浸るよりも「一人でも多くの人にモノポリーの魅力を知らせていきたい」と使命感の方が大きい。

 モノポリーの醍醐味は「ゲームを通じて人と出会い、対話すること」。富の独占を目的とするが、場の空気や相手の考えを察知し、「相手への思いやり」を持って対話することが勝利条件となる。「初対面の人でもあっと言う間に友人になれるのが魅力。携帯電話やパソコンが普及したいまこそ、目の前の人とコミュニケーションする楽しさを味わってほしい」と、41歳のミスターモノポリーは言う。

 ゲームで培った対話力は、勤務先のJAでも、メーカーとの価格交渉や全国の農家と連携した国産野菜PR事業に生きている。転勤で一年前から市川に住み、市内のモノポリークラブで強豪と力をぶつけ合う。「これからも、国内、ゆくゆくは世界のモノポリー好きたちと友人になりたい」。交流の夢は広がる。

 (2012年2月4日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「楽しくて、大変とは感じない」

77歳の“若手”芸人

 ティーチャ さん

 74歳になる直前に、次女とお笑いコンビ「めいどのみやげ」を結成した。昨年11月、市川市で開いたライブのポスターに自らの〝遺影〟を使用。ファンの一人に注意されたが、めげずにまた遺影を掲げてインタビューに臨む。

 24年間、日出学園中・高で教師を務めたことが芸名の由来。野球部を長く指導し、中学野球の市川選抜チームを率いた経験も持つ。

 若いころは音楽の司会者や俳優などマルチに活動。定年退職後も舞台やCMに出演していたこともあり、教師から芸人への大転身も、本人にしてみれば「ここまで自然に流れてきた」という。

 〝若手〟としての芸人生活は「楽しくて、大変とは感じない。お客さんから温かい言葉をかけてもらえるのがうれしい」と充実そのもの。「80歳まで頑張ってやれれば」と目標は控えめだが、最近はテレビ出演が増えるなど、活動も軌道に乗りつつある。

 同じ芸人仲間と頻繁に飲みに行き、「若い人たちと一緒に生活していることが元気の秘けつ。それ以外ない」と元気いっぱい。「Suicaのチャージがすぐなくなる」。これが現在の唯一の悩みだ。

 (2012年1月28日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年


「子供のためなら何でも楽しい」

国府台小コミュニティサポート委員会委員長

 小嶋 司 さん

 平成20年度から市立国府台小の同委員長とPTA会長を兼務し、同校と地域をつなぐ顔役として人一倍汗を流す。本業は警察官。PTAの集まりが夜勤明けで体力的に厳しくても「精神的に辛くなることはない。子供のためにやることなら何でも楽しい」と言い切る。

 PTA本部に入ったのは同16年度。元々「社会とより広範囲に付き合いたい」と考えていたため、PTAの活動は性に合っていた。PTA会長と同委員長に就任した翌年には、青色防犯パトロール隊を発足させ、隊長としても活躍。そして昨年、同委員会は優れた学校支援活動を行っているとして、文部科学大臣表彰を受けた。

 「自治会や老人会が充実していて古き良き日本が残っている」という国府台地区。「各団体が独自の活動を長年続けてくれている。こうした団体の横のつながりを強くすることが重要で、地域全体の発展につながる」。表彰を受けてもなお、目標とする頂きは高い。

 48歳。本業で犯罪を目撃するたび、神経をすり減らしてきた。そのため「定年後は、笑顔が絶えない子供たちにかかわれる仕事がしたい」とほのかな夢を思い描く。

 (2012年1月21日号)TOP PAGE 「人」リスト~2012年