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「“市民のため”の視線忘れない」

次期市川市長

 大久保 博 さん

 子供のころは「家に帰ったら、バットとグローブを持って出かけていた」という毎日。高校ではラグビー部でハードな練習に耐え、体力や忍耐力、自信を身に付けた。厳しい選挙戦も「あの練習を思えば…」という気持ちで乗り切り初当選。「街が三分してしまったが、もう終わったのでノーサイド」と、還暦を迎えたいまでもラグビーの精神を抱き続けている。
  
   市川で生まれ育ち、仕事も常に市川。実家の建設会社を継ぎ、その後いちかわケーブルネットワークを立ち上げるなど、長く企業のトップを務めた。社長時代は、工事や営業でも自ら先頭に立って会社をけん引。部下に対しては「自分から近づく」「七十点でも足りない三十点をしかるのではなく、七十点を生かす」という姿勢で臨んできた。
  
   今月二十五日からは、市のトップに就任。「〝市民のために〟という視線を絶対に忘れてはいけない」と自らを戒め、職員にも徹底を図る。厳しい財政状況など困難も待ち受けているが、社長時代も数々の苦難を乗り切ることにやりがいを感じてきた。
  
   「一球入魂。四年間悔いの残らないようにやっていく」。穏やかな口調の裏に強い決意がにじむ。
  (2009年12月19日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「身軽に出かけ、心の声に耳を」

傾聴ボランティア・うさぎの耳初代代表

 市澤 廣子 さん

 お年寄りにとっての女学校時代など、輝いていた時代の話をする時、人はその目をキラキラとさせる。「話をすることで無意識のうちに自分を表現でき、生き生きとした時間になる。その時間を共有させてもらいたいんです」。

 つらい経験のある人の力になりたい―と傾聴の講座で学び、受講生とともにボランティア・グループを発足。特別養護老人ホームやグループホームなどの現場を見て回り、約一年後から傾聴活動へ。「大きく長い耳をもつウサギのように、心の声に耳を傾け、ピョンピョン身軽に出かけていく」ことがモットー。発足から三年八か月のいま、五十―七十代の会員三十人で市内外の五施設と個人を伺う。将来は、独居老人や終末期ケアへの貢献も願う。

 それまでは専業主婦。大学卒業後すぐに結婚し家庭に入った。両親の介護などの経験を人生の学びの時間と受け止め、改めて大学の門戸を叩き、関心のあった成年後見人を担える社会福祉士の資格を取得。行政書士の資格も得て、念願のキャリアーウーマンとして市内で事務所を構え、これからの時間を尽くそうと励む。

 趣味は「温泉」という五十九歳。夫と目的地を決め「その日に向けて仕事を頑張る。ワクワクして過ごしています」。
 (2009年12月12日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「お年寄りが喜ぶ“唱歌”生かす」

歌のボランティア・いちかわシャンテ代表

 小澤 真弓 さん

  「どうしてお年寄りは唱歌や童謡を聴くと喜ぶのだろうか」。幼いころから西洋音楽に親しんできたが、高齢者の反応が印象的で、ふと興味が湧いた。「認知症を患っていた祖母が、楽しそうに童謡を歌っていた」という記憶もよみがえり、音楽療法の学習をスタート。「高齢者世代なら誰でも歌える」という唱歌や童謡の研究にも取り組み、それらを生かした簡単な実践メニューを携えて、毎月、会員とともに市内の施設を訪問している。
 
  「続けることが第一」。訪問先の職員からは、こうアドバイスを受けた。「一回や二回の訪問では〝お楽しみ会〟になってしまう。続けて活動することに意味があり、そこにプライドを持っています」。活動も十二年目に入り、シャンテの訪問を心待ちにしている入居者も少なくない。「やっぱり喜んでくれる人がいるのが励みです」と笑顔を見せる。これからは「市内各地の老人ホームを訪問し、より地域に根ざした活動をしていきたい」。
  
   実は、唱歌の歌詞やメロディーには、明治・大正期の政治や戦争が大きく関係しており、「大学で学んだ日本政治史が、いまごろ役に立つとは…」と不思議な縁を感じている。五十六歳。「いまは若い世代から高齢者までが一緒に歌える歌が無い」と気にかけている。
 (2009年12月5日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「会話が生まれ、健康になれる」

10周年を迎える浦安市軽スポーツ協会会長

 阿部 信之 さん

 「まずは楽しむ。ルールは後でいい」。軽スポーツは勝敗や記録が目的のチャンピオン・スポーツとは違い、みんなで楽しむことを重視。生まれてから死ぬまで、また三世代や障害のある人も一緒に誰もが楽しめるのが特徴。「健康になり、参加者同士や親子の会話も生まれる。お年寄りが会話をしに病院に行くことも減り、医療費の削減につながる」。そのためには「さまざまなスポーツを気軽に楽しめる広場や施設の充実が欠かせない」。二〇〇七年問題は雇用延長で二〇一二年問題といわれるが「定年後の団塊の世代の受け皿にもなります」とみる。

 山形県の小学校時代からバスケットボールを楽しみ、実業団でも選手として活躍。忙しい仕事の合間を縫って浦安市体育指導員、県社会体育指導員も務めた。先月にはこれまでの実績に対し県レクリエーション協会の功労者表彰も受けた。

 二十八日と二十九日には十周年記念大会を開く。同協会では十一種目・団体が活動しているが「新しい種目を増やし、間口を広げてスポーツ人口を増やしたい」。設立時からの会長職を携えながら、自ら新しいスポーツの発掘と紹介に努めている。三味線の名取りの一面もある五十七歳。いやしの時間は「スポーツの後、友達とゆったりと楽しんでいるとき」。
 (2009年11月21日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「“家族”を助けられますか?」

全国女性消防操法大会で優秀選手賞を受賞

 大塚 真理子 さん

 悔しい―。念願の全国大会(団体の部)で優良賞。仕事と家事を終えてから三時間の練習を週三日、一年間重ねた。練習後は反省会。「優勝目指しみんなが一つになれたからこそ、きついことも言い合った。みんな辛かったはず。生半可な気持ちじゃない」。涙は流したが「このメンバーでよかった」と達成感がにじむ。

 二十七歳から五十七歳までのチーム七人の最年長。個人の部では指揮者で最高の優秀選手に選ばれたが「いまでもうれしいとは思えない。指揮者といえば監督。団員が表彰されればうれしいが…」。苦々しさを抱くが、団員の言葉「真理子さんのおかげで賞を取れた」に救われた。

 「家族を助けられますか?」。消防団は有事の際に火を消し、地域の防災リーダーを担う。女性団員十八人は消防操法のほか救急救命や後方支援、啓発にも携わる。地域に暮らす女性として「家も周りの人も助けたい」。女性が火を消すの?制服って格好いい!。そんなことからでも消防に興味をもってほしいと願う。

 ソフトボールの元実業団選手。同市のソフトボールチームで選手兼監督、コーチをこなし、民生委員・児童委員も担う。娘も消防団員。「常に笑顔を絶やさない」を胸に、大事にし大事にしてくれる家族とともに消防に携わり続けるのが夢。
 (2009年11月14日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「夢は市川チームの“全国制覇”」

市川市少年野球連盟会長

 中川 実 さん

 中学・高校生の時は毎日が野球漬けの日々。エースとして活躍した市立四中時代には延長二十三回を一人で投げ抜いたこともある。県立船橋高時代、甲子園出場に〝あと一歩〟まで迫りながら、県大会決勝で涙を飲んだ悔しさはいまでも心に残るが、練習試合で当時県立佐倉高校生だった長嶋茂雄氏と対戦したことなどは良き思い出になっている。
 
 「野球で厳しい練習に耐えたからこそ、社会人になってから苦しい時でも前進できた」。昭和六十年に連盟に入ってからは、子供たちに野球の楽しさだけでなく、練習の厳しさ、指導者や保護者に感謝する心を伝えている。当初から副会長を務め、平成八年には会長に就任。常に裏方として、主役である子供たちが安全にプレーできるよう徹してきた。今年は連盟創設三十周年。「保護者や役員たちの協力があってこそ」と感謝の言葉が口をつく。
  
  父親から受け継いだ建設会社をいまも現役で経営する七十二歳。「シーズンオフは一月くらい」と忙しい日々を送るが、「子供たちの野球をしている姿を見ている時が一番楽しい」と目尻を下げる。「市川のチームが全国制覇できれば」。そんな夢を見ながら、これからも子供たちのために精力を注ぎ続ける。
 (2009年11月7日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「自問自答繰り返し創作に情熱」

市川市手工芸連盟理事長

 益子 智伃 さん

 茨城生まれの東京育ち。幼少のころから「自分がよしと思ったら絶対に曲げない」負けん気の強さで周囲を引っ張る。来年一月に米寿を迎えるが、「連盟を大きくしたい」「千葉県に手工芸美術協会を作りたい」とまだまだ大きな目標を掲げ、実現に向けた忙しい日々を送る。
 
  市川に越してきたのは二十歳のころ。戦火を逃れるための一時避難だったが、空襲で実家を失い、以降六十年以上を市川で過ごしている。
  
   和紙で人形を作る独特の手工芸を独学で始めたのは終戦直後。「人形という、当時の殺伐とした雰囲気とは逆のものを作って心を癒したかった」。以来、その道の第一人者となり、フランスやイタリアなどの芸術大国も含めた世界各国で展覧会に出品し、日本の手工芸の質の高さを知らしめている。
   
    その後、「市内でも手工芸の作品展を」と、約三十人の指導者を集めて同会を発足。多年にわたり「何を使ってでも気軽にできる手工芸の魅力」を市民に訴え続けている。忙しさのあまり「創作の時間がない」と戸惑うこともしばしば。しかし、「さすが市川の手工芸」と言われるために、「自分が人形なら納得するか」と自問自答を繰り返しながら、創作への情熱を抱き続ける。
 (2009年10月24日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「黄金時代だったと言わせたい」

イタリア・ローマオペラ発祥の地イタリアで日本人初の音楽監督に就任

 吉田 裕史 さん

 四十一歳にして日本人初の快挙。何よりもイタリア人にとって、オペラとは芸術を超えた重要な価値を持つ。「日本で言えば、外国人が歌舞伎役者をやるようなもの。プレッシャーは大きいけれど、『やってやるぞ』と武者震いしている」。

 北海道生まれの船橋育ち。ブラスバンド部で指揮者をしていた高二の冬、世界的指揮者・小澤征爾さんのコンサートを見て衝撃を受けた。「好奇心旺盛で、思い込んだら前へ進む性格」から、楽屋に乗り込み「指揮者になりたい」と直訴。東京音大指揮科へと進学し、研究科時代には音楽文化の違いから海外で挫折も味わったが、国内の一流歌手の歌声や心配りを目の当たりにしたとき「心と体が震えた。一生を捧げる価値がある」とオペラに目覚めた。平成十一年に渡欧してからは「必ずイタリアの歌劇場でオペラを振る」ことを目標に経験を重ねてきた。

 いまはさらに上のステージに立っている。「吉田がいた時が黄金時代だったと言わせたい」と本場イタリアに挑む。心中にあるのは、日本人としての誇り。「よく『お前の中にはサムライがいる』と言われます」と笑う。夢は「日本国内の公演回数やファンの数を十倍にすること」。力強い眼差しでこれからも前に進み続ける。
 (2009年10月17日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「野球に生涯かかわり続けたい」

中学野球合同合宿に市川で30年間取り組む

 佐川 真勝 さん

 昭和五十五年に始まり、毎年二~四校の野球部が参加している合同合宿。「先生や保護者の協力があるから続けられる」と周囲への感謝の心を抱き続ける。

 小学五年生で野球を始め、中学・高校では四番・エースの主将として活躍。だが、大学では授業で練習に参加できず一年で退部した。そんな折、小学生時代を過ごした日出学園をふと訪れたことがきっかけで、同学園の中学・高校に軟式野球部を創設。自身も指導にあたった。そこで、生徒たちの純真さと努力する姿勢を実感。「教えることがすごく楽しい」と指導者になる強い意志を持った。

 同学園では教師として勤務した二十四年間監督を務め、そのほか複数の中学・高校でも監督やコーチを歴任。日出学園では全国準優勝を経験した。平成十一年から四年間は、中学校選抜「オール市川」を監督として指揮。また、「思い立ったらやってみないとダメ」という行動力を発揮し、東京や市川で実年・還暦野球連盟を作るなどの功績も残した。

 「大学やプロで活躍する選手が育ってほしい」。そんな夢を抱きながら、七十四歳のいまでも市内で中学校を巡回指導する。「これからも中学生を指導していきたい」。こよなく愛する野球に生涯かかわり続ける。
 (2009年10月10日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「四季折々に見せる風景が魅力」

創立15周年を迎えた いちかわ歩こう会会長

 宮脇 顕一 さん

 入会当初から、役員として献身的に活動。〝健康づくり〟や〝仲間づくり〟の観点から、年々愛好者を増やしているウオーキングのさらなる普及を目指し、会の運営に力を注いでいる。

 ウオーキングの経験は、入会の数年前に「(同会会員の)家内に付き添い数回参加した」程度。さまざまな団体で要職を務めていたため時間に余裕がなく、入会には至らなかった。しかし、その後少しずつ身辺を改め、平成十五年に入会すると「市内でも知らなかった場所」や「四季折々に違う顔を見せる風景」などにウオーキングの魅力を感じ始めた。

 役員としての活動には「自由に歩けない」という窮屈な側面もあるが、「会に入りたい」と言ってくれる人や、献身的に働くほかの役員たちを見ては「個人の希望は言っていられない」と気持ちを引き締めている。

 「頼まれたら断れない性分」だが、やると決めたことにはこだわりをもち、「自分はどうあるべきかを常に考え続ける」七十三歳。会長として「健康都市を掲げる市川市とも協力し、多くの人にウオーキングの魅力をPRしたい」と意気込む。ただ個人としては、「いつかは、女房と手をつないで、のんびり歩きたい」と照れ笑いを浮かべる。
  (2009年10月3日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「大好きな野球と子供のために」

関東学童軟式野球大会優勝浦安キングスター総監督

 長嶋 久 さん

 キングスターを立ち上げて三十余年。その間ほとんど毎日グラウンドに立ち、「勝つこと」を前提とした厳しい練習を指揮している。大会中は、どんなに疲れていても誰よりも早く会場に赴き、チームの勝利を願いながらグラウンド整備に精を出す六十八歳。

 自身の本格的な野球経験は「中学生時代に少しだけ」。しかし、幼少のころは「木や竹でバットを作り、友達と毎日、日が暮れるまで野球をして遊んでいた」という。築地で働いていた三十代のころに、周りから推される形でキングスターの監督に就任。創設翌年には市の大会を制し、以来「市内ではほとんど負けたことがない」という常勝軍団を築き上げた。

 指導方法は「練習だけでなく、常に子供たちに目を配り、その子の特徴を探る」ことが基本。練習でも試合でも「キングスターは最後まであきらめない」ことを子供たちに教え続けた結果、今大会でも多くの試合で逆転勝利を収めるという粘り強さを見せた。

 年齢を重ね、時には体力的に苦しいこともあるが「多くの父兄やコーチが背中を押してくれるから頑張れる」。今後も「生きている限りはずっと監督を続けたい」と意欲を見せる。「大好きな野球と大好きな子供たち」のため。
 (2009年9月26日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「10年先の市民として理想追う」

第6期市川市環境市民会議座長

 森 和男 さん

 二年ほど前に退職するまでの約三十年間は、金や銀の輸出入などを扱うバリバリの商社マン。「休日でも常に仕事のことが頭を離れなかった」というほど仕事一色の生活を送り、地域活動などとは無縁の毎日を過ごしていた。

 環境問題に興味をもったのはもちろん退職後。時間に余裕ができたことから、近所の立派な旧館が取り壊されたり、枝ぶりのいい樹木が切り倒されたりといった身近で起こる環境の変化に気づき、「高度成長と引き換えに自分たちの世代が壊してしまった環境を、次世代にどう手渡すべきか」を考え、市川市のじゅんかんプロジェクトにも参加した。

 環境問題を考える上では、「長らくテーマであり続ける〝地球温暖化防止〟を、〝低炭素社会の構築〟といった次のステップに進める」ことが個人的な目標。「エネルギーが化石燃料頼みである現状から脱却し、経済との相乗効果を生み出す仕組みを次世代に残すことが自分たちの世代の使命」とビジョンを語る。

 今回の会議では「十年先の市民として、どんな市の姿が望ましいか」を、座長として参加メンバーたちと話し合い、理想に近づけるための会議運営を目指す。

 六十二歳。今年から始めた市民農園での農作業が何よりのリラックスタイム。
 (2009年9月19日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「金メダルより同志との出会い」

国際生物学オリンピック日本初の金メダルを受賞

 大月 亮太 さん

 「ゲームのキャラクターはこちらが動かさないといけないけど、彼らは勝手に動き回って、左右相称を作ったりする。それがきれいなんですよ」。親しみを込めて呼ぶ〝彼ら〟とは、アリや魚などの身近な生物のこと。幼いころから生き物好きな上、自然豊かな三番瀬で遊んだことも大きく影響し、親の心配を誘うほど観察に没頭してきた。

 「先生に恵まれた」。高校に入り、生物の楽しさを教えてくれた恩師と巡り合ったことで、本格的に傾倒。「情報源の塊」だという生物の書物を読んでいるときりがなく、「生物の勉強はいくらやっても苦にならないです」。

 今大会では金メダルを手にしたが、「国が違っても生物好きな高校生がいっぱいいた」と、何よりも同志たちとの出会いを一番の思い出に挙げた。同時に、生物学習に関する日本と世界のレベルの差も実感。「教科書の厚さもまったく違う。日本の生物(の授業)は微々たるもので、物足りない」と学ぶ意欲は限りない。

 「将来は分子生物や行動学を学びたい」。夢の実現のため、いまは受験勉強に集中。大好きな生物の勉強も封印し、参考書とにらめっこの時だが、「息抜きには週刊少年ジャンプを読む」と、十七歳らしい一面もしっかりと持っている。
 (2009年9月12日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「生態系で強い人間こそ優しく」

トンボの生態を子供たちに伝え続ける

 互井 賢二 さん

 童謡「赤とんぼ」の赤とんぼは、どの種なのか―。民俗学も含めた論文を発表し、一石を投じた。自身の研究テーマは「トンボと日本人」。トンボには、サナエ(早苗)トンボやショウリョウ(精霊)トンボなど、稲作や祖霊行事に合わせた呼び名がある。文化や民族、儀礼など「日本人の源流」への興味と、日本人が季節を感じるトンボが結びつく。
 行徳とんぼ研究室を主宰する日本蜻蛉(とんぼ)学会員。興味は、中学時代の植物からタナゴ、トンボへと、「日本的な原風景」の小川を通じて広がる。「似た種が多く、小さな違いがある」。その違いを探るうちに、トンボの世界にはまっていった。

 六十一歳。子供たちへの授業では、「現代のため池」と重要性を説く〝学校のプール〟を活用。地域に点在するため、各地の個体差も明らかにできる。県レッドデータブックAランクのネキトンボも児童が見つけた。

 人間が、池や川、湿地を奪い続けている。そんな環境でも、トンボなどの生き物はたくましく生きる。天敵は、生態系で一番強い人間。だからこそ、優しくなければならない―と説く。「生き物みんながともに生きていけるように、自分たちのあり方を考えられるようになる」。
 (2009年9月5日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「時間を有効に、やると決めたら必ずやる」

全国高等学校将棋竜王戦県大会優勝

 三重野 雄貴 さん

 幾多の難局を乗り越え七局を全勝。

 将棋では市川高初の県代表となった。「目の前で相手と対峙し、表情や態度で相手の心理を推理しながら、戦術を考えるのが楽しい」と将棋の魅力を語る。

 性格は「こだわっていることには負けず嫌い」。将棋を覚えた約十年前から、「誰かに勝ちたい」と練習に励んだ。多いときでは放課後の大半を近所の道場で過ごし、有段者などとの対局を重ねた。しかし、中学生になり初挑戦した大会の本戦初戦でまさかの敗退。「現実を知った」と、その後徐々に将棋から離れていった。しかし、高校に上がった今年度から、同校の将棋同好会に入会。インターネットの対局で腕を磨く傍ら、初心者に教えるという同会での新たな役割が、将棋を再度勉強することへの意欲にもつながり、今大会での躍進を生んだ。

 最近では将棋だけでなく、政治や経済、資格取得など、多くのことに興味をもつが、もちろん学業との両立が前提。「好きにやっていいけど、責任は自分でとりなさい」という両親の教えのもと、「限られた時間を有効に使い、やると決めたことは必ずやる」と自分の生活を律している。目下の目標は二十四日から行われる全国大会。「一つでも多く勝てるように頑張りたい」と静かに燃える十六歳。
 (2009年8月15日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「モチベーションを高めるのは観客の笑顔」

10周年を迎えた「コンサート水の輪inいちかわ代表

 須田 節子さん、渡辺 裕子 さん

 障害者を会場に招き、収益も全額寄付するこんさーと水の輪。埼玉・三郷市で開かれているこのコンサートに感銘を受け、渡辺さんが須田さんに「市川市でもできないかな」と持ちかけた。須田さんにとっては「幼少から続けている音楽で社会に何かを返したい」と考えていた時期。企画から約一年で第一回が実現した。

 音大生時代に音楽に対する疑問をもち、卒業後に一度音楽から離れたという共通の過去をもつ二人は「家庭の仕事をこなしながら長く続けていくためには互いに必要」なコンビ。ひらめいたことにすぐ手を付ける行動派の渡辺さんと、几帳面で周りへの気遣いを第一に考える慎重派の須田さんは、「二人合わせて百%。うまくバランスがとれている」という。

 一番やりがいを感じるのは、「正直な反応をする障害者たちが、本当に楽しそうにしてくれたとき」という渡辺さん。「来てくれた人たちを喜ばすために、小規模でもいいので地道な活動を続けたい」と願う須田さんともども、観客の笑顔でモチベーションが高まっている。

 「二十周年の時には、この水の輪をより大きなものに広げていたい」。その時六十代となる二人は、それぞれが活動する音楽団体でもさらなる躍動を続けていく。
 (2009年8月8日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「打ち上げて、見てもらう“二重”の喜び」

三世代にわたり行徳で花火を上げ続ける

 野口 進 さん

 「多い時には二千発の花火を上げましたよ」。市川市湊新田・胡録神社の祭礼で花火を上げ続け、先々代から三代、少なくとも六十年以上の付き合い。地域では人気の花火だったが、街の発展とともに観客が多くなり過ぎて彩り豊かな花火はなくなり、「ドン、ドン、ドン」という空包に替わった。

 いまでは各地で開かれる花火大会だが、昔、この地域では両国(現隅田川花火大会)と行徳でしか開かれておらず、浦安や市川、東京からも多くの人が訪れた。「いまの祭礼の人混みどころじゃない。身動きが取れないくらい」と振り返る。

 東西線が開通し、街が大きくなるたびに打ち上げ場所は変わったが、昭和五十年代終わりごろまで続いた。街中での打ち上げは楽ではなかった。でも、やりがいがあった。「一つの自治会が一発でも多く上げたい―と寄付を集めてくれた。その気持ちがすばらしく、ありがたい」。四十発の空包に伝統の名残が息づく。

 やはり、上げてみなければ分からない花火。歓声と拍手が心配で、観客席に混じって反応を見ることもある。「自分で作って打ち上げるだけで喜びがある。それを一般の人が喜んでくれる。二重の喜びです」。六十七歳。行徳の花火は「絶対やめたくない」。
 (2009年8月1日号)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「聞いてくれる人、指導者、家族の支えが宝」

クラシックギターコンクールで2冠

 岡本 拓也 さん

 「両手で弦に直接触れ、演奏者の気持ち、感動が楽器から空気に、空気から聴いてくれる人の耳に直接伝わる」と、クラシックギターが生み出す生の音に素晴らしさ、魅力を感じている。

 「こんなふうに演奏できたら」。十歳の時、恩師がクラシックギターで奏でる『禁じられた遊び』に出合う。楽譜も読めなかったが、「音楽を聴いて初めて感動した」。水泳やサッカー、合気道など、やりたいことは何でもさせてもらえた。ギターも同じ。「好奇心でした」。その偶然の出合いを育み、七年で日本トップレベルの演奏力を身につけた。「上手くなれるように、ワンフレーズなど小さくても目標を立てて頑張り続けること、ギターや音楽を愛することかな」と振り返る。

 みんなの「演奏よかったよ」「これからも応援してる」の声に「頑張るぞ、という気持ちになります」。聴いてくれるみんなや指導者、家族の支えが宝物だ。

 十七歳。いまはすべてが勉強。「多くの人に聴いてもらい、心の揺さぶりを感じてもらえるよう、すべての演奏でベストを尽くす」。ポップスやジャズも聴く。高校では水泳部。チームワークを大切に、仲間との時間を楽しむ。「クラシック・ギタリストとして生きていきたい」。将来の目標も定まった。
 (2009年7月25日)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年

「練習は一番の仕事、コンサートはご褒美」

国連欧州本部で日本人初のピアノソロ演奏

 根津 理恵子 さん

 音楽一家で育ち、三歳から鍵盤に向かう。楽しみながら多量の練習に取り組み、数々のコンクールに出場。「緊張はしないですね。人前でピアノを弾くのが好きだった」と受賞を重ねた。

 東京芸大を卒業し、恩師のいるポーランドに留学していた二十四歳の時、世界的なコンクールの一つ、「ショパン国際ピアノコンクール」でファイナリスト名誉表彰を受賞。現在は国内外を舞台に活動している。小学校の卒業文集に書いた将来なりたい職業は「世界的に有名なピアニスト」。有言実行。何事も明るく自然体で楽しむ二十八歳。

 「練習が一番の仕事でもある」というプロにとって、「コンサートは自分へのご褒美」。自分と観客が一点に集中した時に良い演奏が生まれる。そこに必要なのは「信頼」。大学時代、恩師から「作曲家が作った作品には誠実に向き合うこと」を学んだことが生きている。

 「中学時代の友人も多く、やっぱりここが一番」とホッとできるのが故郷・市川。今後は、なぜか日の当たらないパデレフスキを広めようと意気込む。「弾いていると楽しい曲なのに…ぜひ多くの人に知ってほしい」。“パデレフスキ大使”としての今後の活躍にも乞うご期待。
  (2009年7月18日)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「行事を通じ子供が地域を知ることが大事」

鬼越ふるさと会会長

 石井 隆夫 さん

 毎年初夏に開く「真間川歩け歩け大会」が、街の安全・安心、地域福祉、文化、スポーツ活動に貢献している―として市川市から健康都市市民賞が贈られた。「子供同士やリピーターが多く、楽しんでくれているのが分かる。すべては会員や協力団体のおかげ。これからも続けていきたい」と笑顔が浮かぶ。

 地域交流と街の活性化を目指し、ウオーキングのほか囲碁や将棋、新舞踊、史跡巡り、日帰りバス旅行、ふるさと祭りなどさまざまな行事に取り組む、自治会ではない、地域のための奉仕団体という特異な存在。会員約三百人のうち七割は地元住民だが、会員の友人など地元外の会員も多い。「案内を出すと、真っ先に応募してくるのは地域外の人だったりするんだよ」。友人を連れて来られるため参加しやすく、地域に縛られない、自由な活動、交流が生まれる。

 神社や樹木、歴史など地域の価値、宝を守り、生かすまちづくりを行う。「行事を通じて子供が地域を知る。そういったことが、ふるさとにとって大事」。

 鬼越で木材業を営む六十歳。陸上や水泳などで、成績やランキングを元に選手を発掘、応援するのが好き。地域の活動ともども、「若い人の成長を応援できるのが楽しみ」だ。
 (2009年7月11日) TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「市民が隅々にまで目を配るまちづくりへ」

第16代浦安市議会議長

 岡本 善徳 さん

 当選二期目の四十七歳、市議二十人をまとめる議長に選出された。「一人ひとりの考えを聞き、王道を探る中で、議会の方向性が見えてくる。新人がどんどん発言し、みんなが伸びていける成熟した議会に向けて尽くしたい」。

 小学校低学年まで浦安の原っぱで遊び、紙芝居を楽しみ、水田でザリガニを捕った。水害や火事からまちや人を守ろうと汗を流してきた住民の背中を見て育つ。「狭い浦安、土地と予算をもっと有効活用すべき。昔の浦安を知る世代の一人として、新しく浦安を選んでくれた市民とともに」これからの浦安作りに努める。目指すは「各地域、世代が互いの状況を理解し合い、市民が市政、まちの隅々にまで目を配るまちづくり」。

 妻と父、三人の子と暮らす。市外に家族でサクラを見に行っても、商店街に買い物に出かけても、まちの様子が気になる。まちを見つめ、写真に収め、疑問を投げかける。浦安の息吹が活気づくように―との思いがいつでも顔をのぞかせる。

 休日がほぼない議長職。リフレッシュは、インド人から学んだ本場のカレー作り。浦安のCATV勤務時代に「スパイスたっぷりのカレーを食べると翌日、体調がいい」とはまった。周囲の「辛過ぎて…」という声に苦笑いを浮かべる。
 (2009年7月4日)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「“夢がもてる街”に向け努力するのが役割」

第61代市川市議会議長

 竹内 清海 さん

 平成十一年に市川市議に初当選して以来、三期連続で当選。これまでに環境文教委員会や議会運営委員会で委員長を務めたほか、現在も東京外郭環状道路特別委員として、地域住民の声を積極的に吸い上げている。

 幼少のころは「まじめで大人しい」というより「やんちゃで活発」なタイプ。「友達は多くて、リーダーシップもとる方」だったが、「自分が将来議員になるなど考えもしなかった」という。専修大学松戸高校を卒業してすぐに、父の経営するガソリンスタンドに就職。「昔からこのガソリン屋を継がなきゃならないと考えていた」ために、進学か就職かに対する「迷いはなかった」と話す。

 二十代半ばで「異業種の人に会えて、社会勉強になる」と、市川青年会議所に入会。同会議所での出会いやさまざまな人との交流が、議員になるきっかけとなったほか、「いまだに当時の人脈などが自分を支えてくれている」という。

 議員としてのモットーは「その時々を精一杯真摯に努める」こと。だからこそ将来の自分については「まだ何も考えていない」。今後「どんな職業の人でも夢がもてる街づくり」を目標に、「夢のようなこの目標の実現に向け努力するのが私の役割」と意気込む五十九歳。
 (2009年6月27日)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「走りきった後の達成感ですべて吹き飛ぶ」

国内外のフルマラソンに50回以上連続で完走中

 藤岡 經子 さん

 「マラソンは私の人生のごく一部」と話すとおり、現在も看護師として毎日働くほか、助産師、書道の師範、市川市体育指導委員など、多くの顔を持ち合わせる七十八歳。平成十九年度には「体育指導委員功労者」として文科省から表彰されるなど、その功績は誰もが認めるところだが、「いつまでも成長を続けたい」と、挑戦する心はいまだに尽きない。

 出身は自然豊かな山梨県。幼少のころから運動が大の得意で、男子顔負けの活発な少女だった。東京・新宿で過ごした学生時代には太平洋戦争が勃発。空襲警報に神経を尖らせながら生と死の間を生き抜いた経験が「看護師という職を選び、人一倍健康を気使ういまの自分につながっているのかもしれない」という。

 三十代の終わりにマラソンを始め、その後、五十代で初めてフルマラソンを完走。以来、現在まで五十回以上連続でフルマラソンを完走する偉業を成し遂げている。レース中、時には「苦しいからもうやめよう」と考えることもあるが、「走り切った後の達成感ですべてが吹き飛ぶ」とマラソンを続ける理由を話す。

 「“これから何ができるだろう”と考えると、楽しくてしょうがない」と今後もときめきを求めながら、「高齢者の見本」であるよう背筋を伸ばして歩き続ける。
 (2009年6月20日)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「“子供たちのための教育”に情熱を注ぐ」

市川市教育長

 田中 庸惠 さん

 重金属の定量分析など、化学のさまざまな研究に心血を注いでいた東京理科大四年生の時に「機械よりも人を相手にしたい」と突如教員を志した。周りの友人が卒業や就職を決め、残りの学生生活を楽しんでいる中でも、「四年生の時が一番忙しかった」と振り返るほど、教職課程の単位取得に追われた。

 教諭としてのキャリアは昭和五十九年九月、市川市立四中からスタート。弱冠二十二歳で新任教師として紹介された時は「夢と希望、期待と不安でいっぱいだった」と振り返る。

 平成三年に教諭の研修などを行う県総合教育センターへ異動となり、「子供から離れることに対する寂しさや物足りなさを感じた」というが、「子供のための教育の実現に不可欠な仕事」と新たな職責にも情熱を傾けた。

 その後も現場と教育委員会を行き来しながら「子供たちのため」となる教育のあり方を考え続けた。教育長となったいまの夢は「子供たちが『きょうもあの学校に行きたい』、保護者が『あの学校に行かせてよかった』、地域の人が『あの学校があってよかった』と言える学校を作ること」。そして「この夢と現実の幅を近づけることが私の役割」と、教育に注ぐ情熱はいつまでも尽きない。
 (2009年6月13日)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「患者の声に耳を傾け“わが地域の病院”に」

東京ベイ・浦安市川医療センター長

 神山 潤 さん

 幼いころに看てもらった開業医がとても好きで、自然と医師の道を志した小児科医。浦安市川医療センターを運営する地域医療振興協会の東京北社会保険病院長を務め、昨年十月から同センター開設準備室長として奔走してきた。

 長く地域に愛され必要とされてきた市民病院の後を継いだ。民営化のメリットは「スピーディさ」。患者のために即断即決し、ダイナミックな医療サービスが提供できることを、大学病院から同協会に移り、実感した。

 「患者の話をあまり聞かない医師がいることは、お互いにとって不幸なこと」と、コミュニケーションを重視。地域の人々に「わが地域の病院」として育ててもらえるように、患者の声に耳を傾け、医療者と患者がよりよい関係を築ける病院運営を目指している。医師も一人の人間であり、モチベーションが影響する。「職員が安心して働ける場所を提供したい」と、医師の環境作りも念頭に置く。

 「いまが年齢的に働き時」という五十二歳。世界一“遅寝遅起き”の日本の子供の実態に衝撃を受け「子どもの早起きを進める会」も発起。「きょうは何が起こるだろう、とワクワクしながら過ごす」姿に、小児科医でさらに培ってきた物腰の柔らかさや人柄がにじみ出ている。
(2009年6月6日) TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「会社での経験を生かし家庭教育の再建を」

市川市教育委員長

 宇田川 進 さん

 日大工学部を卒業した昭和三十四年、市川市に本社を置く京葉瓦斯に入社。石炭やガスの成分を分析する生産部で約十年間勤務し、「根っからのガス屋としての精神」を培った。その後はガスの料金改定を行う部署や、会社の組織制度を改革するプロジェクトなどで職務を全うし、同六十年には企画管理部長、平成十一年には社長と、企業の頂にまで昇りつめた。

 行政とのかかわりは、平成十二年に市川市特別職報酬審議会委員を務めたことがきっかけ。当初は「企業の人間が行政に入っていくことは難しい」と不安を感じていたが、その後も同市の総合計画審議会委員や教育委員を歴任する中で、「行政も教育委員会も企業とそんなに変わらない。自分の経験も生かせる」と感じるようになった。

 「方針や施策を決定する教育委員会は、企業でいえば取締役会。その決定に基づいて行動する各学校の校長や教諭が、支部長やその下の職員のようなもの」。地域の特色を生かすため「すべてを決めてしまうのではなく、ある程度校長の裁量に任せる部分も企業に通じる」という。

 教育委員長としてこれから取り組む最大の課題は「家庭教育の再建」。そのために児童・生徒と積極的に対話し、「家庭の教育力向上」につながる手がかりを探る。
(2009年5月23日)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「好奇心という“宝”でまち歩き楽しむ」

10周年を迎えた市川案内人の会代表

 石塚 娃子 さん

 「趣味の延長。好きでやらせてもらっています」 ―。市川市の市民団体支援制度「一%支援制度」を活用せずに、案内の質の維持・向上に自前で努めている、まさしくボランティアの団体。

 まち歩きを楽しむコツは“好奇心を目いっぱい生かす”こと。橋の欄干やマンホールのふた、ウグイスの鳴き方や風…、「ボーっとしてたら見過ごしてしまう所に発見がある。身近に面白いもの、気付いてなかった所はたくさんあります」。

 その好奇心は子供時分からの“宝”。チャンスがあれば逃さない。「運動は大嫌い」だが、初めてのスポーツも誘われればやってみる。市内に限らず新しい店ものぞく。帰り道も変える。「石橋は叩かない。叩いていたらつまらないもの。悔いなく過ごしたい。ケガばかりしていますけど」という行動派。自分が訪れてよかった所を「行ってくれば?」とは言わない。つい自分で引率してしまう六十九歳。

 思い出深い地は南イタリア。「日差しが柔らかく、空気がよく、食事がとてもおいしい。生まれ変わるなら …」と笑う。

 古いまち並みが消えていくことが気がかり。「なくしたら二度と取り戻せない。古きよきものは守り、残してほしい」。
(2009年5月16日)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「すべては市民47万人の安心安全を守るため」

市川市消防局長

 古賀 正義 さん

 現場で活躍する友人の兄の姿にあこがれ、高校卒業後に消防の道へと進んだ。消防隊と救助隊で現場を五年ずつ経験し、勤続三十七年となったいまでも「一人ひとりを救う」という意識を持つ。救助した市民からの「ありがとう」という言葉を何よりの励みにしている。

 消防士は責任の重い仕事。「組織の規律を守れなければ、人の命を救うどころか自分や部下の命を失うことになる」と、部下には「規律」と「礼節」の大切さを繰り返し指導している。一方で「仕事は楽しく和やかに」と、横のつながりにも気を配る。全ては人命救助のためだ。

 「他人の命を救う者が事故にあってはいけない」と日常生活の行動にも細心の注意を払い、趣味の街歩きをするときも防火水槽や避難場所に自然と目がいく。防災は“街歩き”が基本。普段から近所を歩き、よりたくさんの避難場所を確認しておいたほうがいい」。

 消防施設の整備や、近隣市との広域連携などが今後の課題。全国で設置が義務付けられている「住宅用火災警報器」の普及率を上げることを当面の目標に掲げる。「四十七万市民の安心安全を守るため、職員とともに精魂を込めて任務にあたる」。変わらぬ決意を抱いている五十七歳。
(2009年5月2日)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「理解し合う、心豊かな“より良い市川”に」

市川市副市長

 遠峰 正徳 さん

 副市長になったいまでも屈託のない笑顔と、誰もが話しやすい物腰の柔らかさが持ち味。反面、職員の甘えや怠慢に対しては厳しく、はっきりとものを言うほか、会議などの特別な業務を除けば「自分の仕事は時間内に終わらせる」の鉄則を貫く頑固さを併せもつ。

 高校を卒業してすぐに市川市の職員になったのは、女手一つで育ててくれた母親と、当時、市の監査委員として働いていた知人の弁護士の勧め。以来、企画室の交通担当や福祉事務所のケースワーカー、監査委員など、さまざまな職務を全うしてきた。

 契約課長に就任してからは、総務部参事、保健部長と、年々役職が上がったが、「“謙虚に誠実に”という仕事に対する考え方は何も変わらない」。仕事では「職員同士のコミュニケーションが一番大事」と、どの職場でも「積極的に声をかける」ことから始めるという。

 「いままで仕事が大変だったことは一度もない」と、笑顔で言い切る五十九歳。今後の目標は「市の職員として、この街をより良くする」こと。そのために、職員同士、市民同市が「フランクなコミュニケーションをとりやすい」環境を整え、「互いに理解し合う豊かな心を作っていく」行政運営を目指す。
(2009年4月25日)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「オカリナ吹く楽しさをみんなに伝えたい」

アンサンブルヴェントⅡ代表3位のシェフ

 境 泰子 さん

 視覚障害者とともにオカリナを演奏する活動を始めて九年目。それまではオカリナとも、視覚障害者とも全くかかわってこなかった。しかし、いまでは「一日練習しないと腕が鈍る」と毎日練習を欠かさず、障害者とのかかわりも「もはや一流のガイド」と胸を張る。

 本業は、子育てを終えた十年ほど前に始めた介護ヘルパー。「高齢者の介護をしている時が一番幸せ」と話すほど、自分の仕事に生きがいを感じている。ヘルパーを始めて二年目、仕事仲間の友人だった視覚障害者が「オカリナを吹きたい」と発した一言から始まったのがこの活動。以来、デイサービスなどで慰問コンサートも開くようになり、「この楽しさをみんなに伝えたい」と活動の幅を広げている。

 いまでこそ視覚障害者たちと当たり前のように接しているが、「ハーネスを着けている盲導犬に触ってはいけない」「視覚障害者の腕をつかんで先導してはいけない」などの基本は、九年間で自然に身についた。「文化祭やコンサートの前には緊張からピリピリした空気が流れる」こともあるというが、「終わった後の充実感」ですべてが吹き飛ぶという。

 趣味の旅行でも荷物の中にはオカリナを忘れない六十九歳。「今後もずっとオカリナを吹いていたい」と笑顔で語った。
(2009年4月18日)TOP PAGE 「人」リスト~2010年


「上達の極意は“毎日さばき続けること”」

「魚のさばき方教室」で十三年間講師を務める鮮魚店主

 中川 恵司 さん

 先代はてんびん棒を担ぎ、リヤカーで魚を売っていたという鮮魚店の二代目。歴史を背負いながらも、市川市内のどの鮮魚店よりも早く惣菜の販売を始めたり、配達用のバイクを導入したりと先陣を切って新しいものを取り入れてきた。頭には“豆絞り”を巻いて気合十分。「この魚は煮ても焼いてもおいしいですよ」と一声かけながら渡す切り身を、木を紙のように薄く削った“きょうぎ”に包む昔ながらのスタイルを貫く。

 過去には同市調理師会の役員を長年務めたことで、異例の厚生大臣表彰を受賞。現在は市川市鮮魚商組合の会長を務め、さばき方教室では仕入れなどの裏方も担当している。「魚を知って、好きになってもらえれば」と、これまでに多くの市民にプロの技術を伝授してきたが、結局は「毎日さばき続けること」が上達の極意だと笑う。「講師を務めたことで、初めて『先生』と呼ばれた」と、喜ぶ仲間のエピソードにも目を細める。

 今年で喜寿を迎えたが、毎朝四時には床を出て東京・築地へ出発。「魚はたくさんの種類があって、おいしく、栄養もある」と、店のケースにはこだわりの近海物が並ぶ。

 二人の孫も成長したいま、青春時代を費やした卓球を懐かしみ「時間ができたらまたやりたい」と夢を膨らませている。
(2009年4月11日)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「子供との触れ合いで“元気”をもらえる」

真間小近くの交差点で交通整理ボランティアを続ける

 岸 一芳 さん

 ちょっとしたボランティアをやろうと思っても、なかなか行動に移せない人が大勢いるなか、雨の日も風の日も市川市立真間小近くの横断歩道に一人で立ち続けている。これまでボランティアの参加経験はないが、近所の人が子供に声をかけていたことを参考に「子供が好きだから」という理由だけで、自然に始めるようになった。

 「子供と触れ合うと逆にこっちが元気をもらえるんですよ」と目を細める六十七歳は、登校する子供一人ひとりへのあいさつも欠かさず行っている。校長とPTAから渡された旗と蛍光ベストを身につけ、子供たちをガード。自転車同士がぶつかる事故も目の当たりにした。自転車のマナー改善や交通量の多い通りの改善を望む気持ちもあるが「子供の安全を守るためには、自分が続ければいいこと。体が続く限りはやりたい」。

 趣味は釣りや熱帯魚などの魚を飼うこと。「生き物が好きなんです」と優しい笑顔をたたえるが、危険な自転車には怒鳴り声をあげることもある。いまでは孫の一寿君より早く家を出発。「孫が卒業してもやめないでしょう」と、靴をそろえてくれる妻の“無言のエール”を背に、日課のボランティアに向かっている。
(2009年3月28日)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「“子供のために”と地域で下支え活動」

子供のために活動を続けて10年「あすか21」代表

 栗林 邦夫 さん

 子供が学校を卒業しPTAの役目が終わっても、「地域の子供のために」と五十代から七十代の約七十人が活動。浦安市立中学校の卒業式に花を贈る「レモンハート21」活動のほか、新浦安祭での子供縁日、薬物乱用防止活動、講演会、子供イベントなどを企画。子どもたこあげ大会でのしるこの提供など裏方的な協力も惜しまない。「活動に自由度があるからこそ、得意なことを生かした活動ができる。子供と一緒に楽しんでいます」。子供や学校を下支えする活動に取り組む。

 ただ、必要を感じても、具体的な活動に結びつけるのは大変。「いつもアンテナを張っていることで、ニーズを感じ、形にできる」。学校は地域の人材を生かした活動にも取り組み始めている。「学校は地域の中心。会員は、仕事や趣味などが多彩なので、新しいことに取り組みながら、協力していきたい」。

 「地元の有力者でなく、サラリーマンでもなれるのか」と不安もあったが、中学校PTA会長を二年引き受けた。「人のために尽くす仕事は、取り組んでみると面白さを発見でき、満足感を得られる」という六十四歳。趣味は読書。歴史物を中心に新書版で幅広い分野を読む。「土・日曜日に地元の書店で本を探し、喫茶店で読むのが楽しみ」。
(2009年3月21日)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「誇りのある思い出深い家を守り続けたい」

明治築の家を大切に守り市川市景観賞を受賞

 加藤 まゆ さん

 旧行徳街道沿いにあった旅人宿「しがらき」の娘として生まれ、塩問屋だった加藤家に嫁いだ。明治初めに建てられた家の建材はすばらしく「磨くとよく光る」。

 街道沿いは明治の建築。戸のガラスは細かい飾りが彫られ、桟が幾何学的な模様を形作るほか、天井は寺社のような造り。玄関先には神輿師・浅子周慶から新築の祝いにもらった松とツルの彫り物もある。夫が、馬の引き綱を結びつけられて怒ったという鉄の格子戸はいまも残る。「戦争でも持っていかれなかった。有り難い。見るたびに拝んでいます」。寒さ対策や暮らしやすさなどから、土間やトイレなどは改築したが、玄関や居間などは大切に保存。「大工の棟梁や建築を専攻する大学生などが見に来ます。誇りのある、思い出深い大事な家。守り続けたい」。

 「お迎えが来ないんだよ。西の方が混んでいるようでね」と周りを笑いに誘う九十九歳。結婚前に京都まで通い、身につけた華道・池坊の師範で、多い時には百人のお弟子さんに手ほどき。いまでも庭の花を生けるのが楽しみ。和裁も得意で、針の糸通しも未だにできる。ご飯とみそ汁も自分で作る。「ぬかみそ漬けが得意なの」と、元気な笑顔を振りまく。
(2009年3月14日)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「民話で当時の生活や庶民の願いが分かる」

市川民話の会会長

 髙田 和正 さん

 定年まで市川で小中学校の教諭を務め、現在は四街道市教育長。「地域や学校、家族、仕事、趣味などで学んだことを『自分のための生きがいづくり』と『地域のための街づくり』の両方に生かせて、初めて目標達成と言える」と生涯学習を重視する。自身も趣味は多彩。レザークラフト(皮工芸)では、師範になった時の展覧会で、内閣総理大臣賞を受賞した。

 民話への関心は、教諭になってから「真間の手児奈」の伝説を知り、芽生えた。やがて教諭仲間で伝承の会が発足。そこに市民が加わり、現在の会になった。民話の魅力は「当時の生活や行事、庶民の喜びや願いが分かる」こと。「聞き手や話し手の思いの違いから、同じ話でも内容が異なるのもおもしろい」という。

 昨年は会発足三十周年。当初は各地で語り部を訪ね歩き、話を記録することが目的だったが、いまでは学校やイベントで会員自身が語り部を務めることが多い。学校での語りは四街道市にも広がっており、「子供が民話を通じて自分たちの街を知ることは、いい街づくりにもつながるし、語りをする人にもやりがいになる」と、さまざまな効果を生んでいる。

 「民話を聞いて語り部となる子供たちが、市川でも四街道でも増えてほしい」。期待に胸を膨らませる六十九歳。
(2009年3月7日)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「世代替わっても住み続けたいと思う家を」

伝統技術で行徳の家を再現し市川景観賞を受賞

 大屋 好成 さん

 金属を使わず木材を組んで家を建てる日本の伝統木構造を基本に、圧迫感がないよう数寄屋造りを取り入れながら最新の建築技術を生かし、「色気のある」独特の家を建てる大工の棟梁。「施主にとって大事な家が、二十年から三十年で壊れてしまうのはおかしい。世代が替わっても住み続けたいと思う家を建てたい」。

 親族に国の有形文化財に指定された家を建てた棟梁もいる三代目の五十五歳。若いころは最新工法の家造りにも挑戦したが、その後、建てた家はカビだらけ。「俺がこんな家を建ててしまったのか―とッとした。流行を追ってばかりではつぶされる」。伝統木構造も「こだわるのはいいが、寒くて住めない。伝統を追求してばかりではダメ」。これらの経験を糧に、最新技術と独自のアイデアを盛り込んで磨きのかかった家を建てる。

 数少ない休みは、釣りと視察を兼ねた家族旅行。古い家には「そのまちに伝わる特色や暮らしぶりが現れる。家は個人の財産で、内側は住んでいる人のものだが、外観はみんなのもの。まちに安らぎと、まちを愛する気持ちを生む」。「大工は組み立て屋ではない」と、墨付けやカンナがけなど大工の基本も後世にしっかりと伝える。一男一女の子供が木くずを浴びながら、その背中を追う。
(2009年2月28日) TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「地域との交流を大切に“めっちゃ輝く!”」

子育てサークル「EXTRAL SHINE」代表

 関口 歩惟子 さん

 おしゃれも家事も子育ても頑張り“めっちゃ輝く!”が名前の由来。余裕の少ない子育て中でも自分の気持ちも大切―とおしゃれを「あきらめない」。若さや容姿からなかなか周囲に溶け込めなかったり、公共施設の利用申請用紙をもらうだけで時間がかかったりしたこともあるが「若いからできない―と思われるのはイヤ」と、嫁ぎ、引っ越してきた地域で10代、20代の若いママが助け合う。「こんなに同じ年代のママがそばにいた。30代のママに『自分の時にも同じようなサークルがあれば』と言われ、役に立ててるのかなと思い、うれしかった」。

 ママがおしゃべりするだけでなく、会員の得意なことや資格を生かして“子供を中心に据えた親子の活動”をモットーに手作りの活動に取り組む。同じ年代の“友達”だからこそ、さまざまなアイデアが生まれ、楽しく過ごせる。

 幼稚園教諭と保育士の資格をもち、2歳の子供を育てる24歳。イベントの企画や準備などで忙しいが、「家事も子育てもできて当たり前といわれるなかで、とてもやりがいがあります」。活動を始めて半年以上が過ぎ、地域の協力者も現れてきた。「地域の人との交流を大切にしていきたい」。ママや子供、地域の人がともに過ごしやすい地域を思い描く。
(2009年2月21日)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「感謝状受賞はみんなで活動してきた記念 」

知事感謝状を受けた民間市民農園利用者の会「柏井きらく会」代表

 赤星 辰昭 さん

 園主はナシやトマトなどを栽培する農家で忙しい。みんなで利用させてもらうために、自然発生的に発足した利用者の会。残さのたい肥化や供用部の維持管理、草取りや花植え、イベントなどの担当を決めて農園の運営を続けてきた。初代代表になって約5年。会員56人の9割以上が年上の56歳。「みんなの意見をきちんと聞き、オープンにするよう務めてきた。無関心になることが一番よくないですから」と、会社勤めの経験を生かし、全員参加を大切にしてきた。

 「野菜作りは土作りが大事」と、深く起こして空気やたい肥を入れ豊かにした土から、さまざまな野菜を作る。地物はやっぱり甘さが違う―とは友人や同僚の言葉。ただ、野菜作りの魅力は“味”よりも「育っていく過程が見られる」こと。タネから育っていく姿を眺めているだけで“癒し”になる。「台風や寒さで野菜は大丈夫か―と不安になります」と笑う。

 「八割方は一緒かな」。趣味の野菜作りとテニスを夫人とともに楽しむ。「知らない人と出会い、コミュニケーションを交わす。転勤してきた市川でもたくさんの人と出会い、輪が広がった」。感謝状の受賞は「みんなで活動してきた記念」。転勤で住まいはすでに宮崎市。新たな土地でも、家の次に畑探し。
(2009年2月14日)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「子供たちの笑顔がうれしい一番の思い出」

地域の小学生に乗船体験の機会を提供する船宿の女将

 伊藤 千鶴子 さん

 20年ほど前、漁師をしていた夫と江戸川放水路に船宿を開業した。だが5年前、台風で増水した川に夫が転落。地元を上げて捜索にあたったが、そのまま行方不明になった。夫亡きあとは、女社長として店を切り盛りする生活に一変した。

 やっと仕事がひと段落した昨年春、妙典小に乗船体験を申し出た。「夫の捜索に協力してくれた地元の人々や、日ごろ商売をさせてもらっている地域の人々へ恩返しをしたい」というのがその理由。何よりも、子供へのボランティアは夫の遺志でもあった。

 そして昨年11月、自社の船2隻を使って念願の乗船体験を実施。船に乗り込み大喜びする子供たちの笑顔を見て、「何よりもうれしかった。昨年で一番の思い出」と振り返る。だが、子供たちには心に刻んでほしいことがあるという。「海には豊さもあるが、怖さがあることも知ってほしい。海を甘く見ないで」。

 「仕事が健康の秘訣かな」という61歳。この地で一番の船宿になるのがいまの夢で、毎年正月には趣味の着物で客を出迎える。

 「次の乗船体験は潮干狩りなどいろいろなことをやりたい。楽しみです」。子供たちからの礼状をうれしそうに抱え、川面を見ながらほほ笑んだ。
(2009年2月7日)TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「目指すは“お互いさま!!”の地域づくり」

市川市社会福祉協議会会長

 伊与久 美子 さん

 八幡に生まれて高校まで市内で学び、「地域のおじさんやおばさんたちの愛情いっぱいのなかで育った」地域っ子。地域住民、NPOやボランティア団体など福祉団体をつなぐ助け合いのキーステーションの社協で、心のつながりづくりのために「お互いさま!!の地域(まち)づくり」を目指している。

 市内では、「生き生き地域」の再生の活動拠点として14の地区社協、相談窓口としての地域ケアシステムがある。その活動を補完し、決め細かな歩いていける距離の「居場所」として、サロン100か所構想を進めている。

 元市川市職員で、同市初の女性部長を務めた64歳。同社協理事になって4年。「互いの立場ではなく、『子供が幸せに過ごすには』など、相手の立場で考えれば解決の道はある」と職員を促す、何事もあきらめない、地域に足を運ぶ現場主義。

 筆で字を書くひと時が一番心落ち着く。ここ10年は太極拳にはまっている。数年に一度は世界の発掘現場などに旅をする。「とにかくこだわりがあります」というのはアイロンがけ。地域に暮らし、人々のなかで過ごすのが好き。そんなこだわりを生かして「ここで暮らせてよかったと思ってもらえる地域づくりをしたい」。
(2009年01月24日TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年


「周囲への感謝を胸に次の目標を見据える」

第8回障害者スポーツ大会水泳で金メダル2個を獲得

 鈴木 千絵子 さん

 幼少から幼稚園や学校の先生などに運動の才能を見抜かれ、さまざまな障害者のスポーツ大会で活躍。一九九二年のパラリンピック出場や全国優勝などの経験を持つ水泳以外にも、空手は黒帯の腕前、陸上の中距離走では全国優勝や日本記録樹立など、輝かしい成績を残している。

 水泳との出会いは小学四年のとき。「スイミングバスへの憧れ」という単純なきっかけだったが、「勝つことのうれしさ」と「人にほめられることの喜び」を覚え、二十五年という月日を重ねた。

 「競うだけじゃなくほかのことも」と信頼するコーチに助言され、平成十七年からはNPO法人・いちかわ市民文化ネットワークの「チャレンジドミュージカル」にも参加。「舞台に立って踊るのが好き」と、現在も三月に開かれる次のミュージカル公演に向け、家事手伝いと水泳のトレーニングをこなす忙しい毎日の合間に厳しい練習に励んでいる。

 たゆみない努力と類まれな才能が、知的障害というハンディキャップを感じさせない笑顔を作る。試合前の励ましや技術指導、環境整備など、支えてくれる周囲のさまざまな人たちへの「口に出せないサンキューの気持ち」をいつも心の中に秘めながら、健常者と競い合う「一般の水泳大会参加」を次の目標に見据える。
(2009年1月17日) TOP PAGE 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年