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「被爆」「終戦」80年~戦後が続くように
戦争展で3日間のトークリレーも
原爆テーマの創作落語「母のお守り」

原爆をテーマにした創作落語「母のお守り」を披露した菊太楼師匠

戦後とともに年齢を重ねた米屋陽一さん。トークリレーで平和の大切さを訴えた
広島、長崎への原爆投下、そして終戦から80年―。広島「原爆の日」の6日は、市川市ゆかりの落語家による創作「原爆落語」が初めて披露されたほか、7月下旬には、「いちかわ平和のための戦争展」が開かれ、平和をテーマにした3日間のトークリレーが行われた。14日は、市川市の戦没者追悼献花式、15日には、ユネスコ協会の「平和の鐘を鳴らそう」で、中山法華経寺や真間山弘法寺、教会など市内各地で、正午を合図に鐘が鳴り響いた。
■広島原爆の日
広島に原爆が投下されて80年の8月6日、市川市に隣接する江戸川区のタワーホール船堀で、被爆者団体主催の「原爆展」が開かれ、市川ゆかりの古今亭菊太楼師匠(57)が、落ち着きのある深紫色の着物姿で高座に上がった。
師匠は、自身が5歳の時に、母が長崎市内で被爆した被爆2世。母は2年前に亡くなったが生前、原爆の話をすることは、ほとんどなかったという。
今回、江戸川区の原爆被害者の会「親江会」の山本宏会長から、「師匠は被爆2世なんだって」と依頼され、ふだんはやらない創作落語、それも原爆をテーマにした高座を引き受けた。
戦後は、戦争が題材の落語が演じられることはほとんどなく、ましてや原爆の話。立ち見客が通路まで埋めた小ホールで、菊太楼師匠は羽織を脱ぐと、演目の「母のお守り」を柔らかな口調で、ゆっくりと語り出した。
《2025年夏。生まれてすぐに、原爆で母を亡くした高齢の男性が、ある病院に検査入院する。そこで、母親とはぐれたという少年、タカシに出会う。タカシは「お母さんに会いたい?」と声をかけ、この男性の手を取ると…》
高座の後、菊太楼師匠は「中学1年生の男の子が、涙を流しながら聞き入っていたと、教えてもらった。原爆投下から80年のその日にやらせてもらい、意味があることだった」と思いを語った。
■市内で平和展
7月22日から27日まで全日警ホールで開かれた「いちかわ平和のための戦争展」は、同実行委員会と、口承文芸学研究者の米屋陽一さんの研究室が主催。市内で活動する朗読グループ秋桜、市川民話の会など多くの団体が共催、協力した。
25日から3日間のトークリレーでは、米屋さん、市川緑の市民フォーラム事務局長の佐野郷美さん、「市川学」コーディネーターの根岸英之さん、行徳郷土文化懇話会の名誉会長の田中愛子さんら、延べ20近い個人、団体が、30分の持ち時間で次々に″登壇〟。
米屋さんは、東京荏原大空襲、田中さんは行徳の空襲、また、佐野さんが、市内のクロマツに残る航空燃料用の松脂の採取痕について語ったほか、根岸さんが、「市川の戦争を語りつぐ」と題し、講演した。
朗読グループ秋桜主宰の小松久仁枝さん、秋本美智子さんは、米屋さんが冊子を語り台本にした「いたかったね クロマツさん」などを朗読した。
終戦直後の荏原区(現在の品川区)のバラックで、生後間もない赤ん坊の自分を見に来る人を笑顔にしたため、「陽一」と名付けられたという米屋さん。自らも戦後とともに年齢を重ね、「戦争の時代のことを学びながら、戦後が100年も200年も永久に続くよう、私たちはできることをやろう」と呼びかけた。
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