市川よみうり & 浦安よみうり online

連載「ホンネで語る 教育の理想と現実」


自然との断絶といじめ②

 文明世界・都市社会などといわれるヒト社会と自然は対極。この関係がヒトとその社会に与える影響について論じた養老孟司の『遺言』(新潮新書)から、「自然との断絶といじめ」問題を再考する。
 
 まず、自然との関わりで現代社会がどうなってきているのか。ヒトはどう変わってきたのか。そのあたりから紐解いてみようと思う。
 
 同書によると、動物は目で光、耳で音、鼻で臭いを感じるという感覚入力を使って生きているため、「同じ」という感覚は無いのだという。対して、都市生活をするヒトはそうした感覚入力をできるだけ遮断する。そして意味のないものの存在を許さず、意識の世界に住み着いてしまった。現代人はひたすら「同じ」を追求してきたのだという。さらに、その「同じ」の追求の結果、最初に生じたのが、身の回りに恒常的な環境をつくることであったという。部屋の中にいれば、終日明るさは変化しない。風は吹かない。温度は同じ。外に出れば道路は舗装され、平坦で歩きやすい地面。今ならスマホで見ているのも皆「同じ」もの。現代社会は元々あった自然の世界に反抗し、諸行無常ではない世界を構築したと同書は言う。
 
 そういう社会で育てられた子供達はどうか。子供は社会の鏡といわれるように、当然ながら現代社会を反映して意味のないもの、「違うもの」を排除し、皆「同じ」という意識に取り込まれ、大人のコピーとなってしまった。
 
 本来、ヒトは動物の一員として自然との一体感を持っていたが、文明を発達させるにつれて次第に自然を切り離してきた。自然との断絶だ。この分離が、ヒトが生来持つ自然への愛着を否定することとなり、それが現代人の苦しみの原因となっている。これを文明がもたらす最大の苦悩と評し、「自然欠乏障害」と名付けたのが作家リチャード・ルーヴである。
 
 子供は自然から命の大切さや思いやりなど多くのことを学ぶべきであることを思えば、現代社会の状況は子供にとって最悪の生活環境であるといっても過言ではない。
 
 いじめ問題の解決もヒトの健全な成長も、ヒトと自然との関係を考えることから始め、そして学校の問題として特化するのではなく、大人全体の問題として行動を起こさない限りは無いと心得たい。或る専門家はいじめを無くすには都市生活を捨てる覚悟が必要だといい、養老氏は以前、「都会と田舎の参勤交代」を勧めていたが、いずれも一考に値する。
 
 (2017年12月16日)  

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自然との断絶といじめ①

 「自然との断絶がいじめを生む」。この言葉が生まれた根拠について考える。
 
 なぜ人はいじめをするのか。それは、生き物の進化という視点から見ると分かり易い。なぜなら、いじめは集団の中で自己が生き残るための手段として行うもので、生き物がもつ本能的なものだと考えられるからである。
 
 生理人類学者の生みの親である米国ハーバード大学のアルバート・デイモン教授は「何百万年もの人類史の殆どの生活環境は大自然そのもの。太古の森や草原に生きた脳や身体を持って、私たちは現在の文明生活を営んでいるのです。人間の生理機能は全て自然環境のもとで進化し、自然環境用につくられたままなのです」(要約)と述べている。また、米国の人類学者・スティーブン・グールドが「この4~5万年の間、人間に生物的な変化は見られない。文化や文明と呼ばれるものはすべて、5万年前と少しも変わらない身体と脳によって築かれたのだ」と言うように、現代人といえども、心身のメカニズムは文明以前の頃と何も変わっていないのであって、私たちは未だに「森の生き物」の心と体を持ちながら生活しているのである。従って、人間が自然と共に生きている時は「生き物」の一員であることを本能的に自覚できるので、心身が共に安定する。なかでも自然の申し子といわれる子供は自然の中で遊ぶことで、多様な自然物や自然現象と出合い、小さな昆虫や小鳥などと触れ合ってそれらとの生命のつながりを実感していく。このような経験を通して生命力を育てると、命の大切さを学ぶことができるのである。
 
 ところが、人類は文明の発達と共にできる限り自然を排除し、都市化された環境での生活を好むようになってきた。すると、自然の中で生きている時に自然が隠してくれていた個性の違いが、都市生活では曝け出されてしまう。その個性に、生き物としては身の危険を本能的に感じ取る。いつも群れをつくって外敵から身を守る生き物は、目立つものや違ったもの、勝手な行動をとるものなど群れの安全を脅かすものを排除しようとする。みんなと違うといじめの対象になるというのは、そのことに基づいている。このように、人間的に未熟な精神状態の行動がいじめである。
 
 この他、コミュニケーション力の不足や自己制御心の弱さ、克己心・自立心の無さ、自己中心性など多くの発達障害も自然との断絶に起因され、その影響は生涯に及ぶのである。
 
 (2017年12月2日)  

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 「自然こそが教師」といわれる。何故なら、自然は子供と向き合い無言で語り掛ける存在であり、自然の一木一草と言えども人間の生きる道を教え示してくれるからだという。
 
 子供は自然に向き合った時、自然からの刺激に対して主体的に対応していくものであるが、ただ自然に対峙させるだけに終わってはならない。そこには親(大人)の仲立ち、橋渡しが必要である。ただしその場合、親の生活体験や自然に対する姿勢・態度(自然観と行動)が、子供の自然観や生命観の形成に影響を与えることを考えておきたい。
 
 一例を挙げると、母親が虫を大嫌いだと子供も虫嫌いになるので、その子供は虫との触れ合いの経験が欠落してしまう。そこには子供に影響が出ないような配慮が必要で、好き嫌いという感情とは切り離した親の正しい科学的精神・科学認識が感受されるような教育環境をつくることが大事になる。
 
 このように、親の在り方としては勉強が出来るかどうかより、子供の人生観や人生哲学の形成に及ぼす価値が重視されなければならない。
 
 では、自然という偉大な教育力を子供の人間形成に生かすにはどうすべきか。まず、生きていく上で最も大切な「やる気」、つまり自由意思で喜んで遊ぼうとする意欲や探究心、洞察力、創造力を育てるのである。
 
 その為の心得としては、今までに経験したことの無い珍奇なものや、本物に直接触れさせる、或は神秘的な現象、形や色、音、動きなど変化を伴うものに触れさせるなどの環境と時間をつくること。
 
 また、科学心や情緒の芽生えを培う基になるのは、美的感受性だから、感性を豊かにすることを心掛けたい。その為にも、子供の空想や想像力には大人の枠をはめないで、イメージを大きく膨らませるようにさせたい。いずれにしても、子供の心の発達段階を無視した教え過ぎや説明は、溢れんばかりのイメージや科学心を萎ませてしまう。
 
 さらに、思いやりの心を支える愛着心や愛護心は、如何に言葉で生命や思いやりの大切さを話しても育つことはない。それよりも、子供の心を豊かに育ててくれる身近な自然を友として自由に十分遊ばせたい。そうすることで、子供は必ずや自然の厳しさや掟を感じ取ることができ、自然への畏敬の念や感動の念を持つようになるものである。自然の偉大な教育力を信じたい。
 
 (2017年11月18日)  

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自然と人間③

 子供は自分の体験を通して、感情や情緒、感性、科学心、適応力などを育んでいく。物事を判断する時も、小さい時からの先行経験を尺度としている。だから経験が無いと、時には恐ろしい判断を下すこともある。幼児が生き物に対し、時に残酷な行動をとるのは、経験の未熟さからくるものであって、経験を積むことで次第に労りや思いやりの心が芽生えてくるものである。
 
 子供は何でも体で学びとる。したがって、遊びの中で得られた体験は、大変貴重なものとなる。子供にとっての「遊びは学び」なのである。
 
 また、子供は好奇心の塊である。その好奇心からさまざまなものに関心を示し、鋭い観察の目を向け、探究しようとする。しかもその探究は主体的なものであるから一向に苦にならず、むしろ楽しいものである。
 
 そして、「子供は自然の申し子」といわれるように、本来は、自然が大好きである。自然を相手に一日中遊びに夢中になるのが子供である。
 
 前回、自然が子供に与える効用として、①やる気を育む②科学心を磨く③感性を育てる④身体能力を向上させる⑤自然の厳しさを教える――ことを挙げたが、今回、こうして子供の特性を考えてみると、子供の時に自然の中で遊ぶことがいかに大切であるかが改めて分かる。
 
 子供は素直な心で自然に触れる。観察力に優れ、心は無心であるから、自然の被造物主とも素直に交信ができる。このような直観的思考を積み重ねていくうちに、論理的思考もできるようになる。動植物に対する愛着心や思いやりも、遊んでいるうちに自然と芽生えてくる。これが命を大切にするという心を育てていくのである。
 
 自然体験からは緊張と我慢も学べる。子供の自然相手の遊びは、自分を対象と同一化させ、緊張を持続させるものであるから、やる気(主体性)が失われない限り熱中する。また、自分の思い通りにならない自然と対峙することで、我慢したり、相手(自然)に自分を合せようとしたりする心も育つのである。
 
 自然相手の遊びの中で得られた体験は、これからの人生に大変貴重な経験となる。米国の海洋生物学者・レイチェル・カーソンは「子供たちが出会う事実一つ一つが、やがて知識や知恵を生み出す種子だとしたら、さまざまな情緒や豊かな感受性は、この種子を育む肥沃な土壌だ。幼い子供時代は、この土壌を耕す時だ」と述べている。子供時代を大切にしたい。
 
 (2017年11月4日)  

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人間と自然②

 子供にとっての自然とは何か。子供は本来、野外で遊ぶことが大好きであり、自然はその小さな遊び場であり、生活の場である。庭、空き地、田畑、路傍、野原、山や川などが遊びの生活圏であって、そこで自分の興味関心を引き付ける対象を遊び相手として、朝から晩まで遊びに夢中になるのが子供である。
 
 では、自然が与える子供にとっての効用は何か。
 
 ①やる気を育む 子供は自然に触れた時、目が輝き、自分から喜んで自覚して行動する。この目の輝きが何よりも大切である。
 
 ②科学心を磨く 子供が虫を殺したり花をむしったりするのは、大人のする残虐行為とは異なる。子供は知りたがり屋で興味の塊なのだ。だから、虫や花をいじめているのではなく、自然に生の原体験をしていくうちに興味や関心も生まれ、いろいろな疑問にも気づき、科学する心が勢いよく育っていくのである。かわいそうなことをして初めてわが身の心の痛みを感じ、二度と生き物をいじめないようになったり、傷ついた小動物を助けたり手当てしようとする心が芽生えたりしてくるのである。
 
 ③感性を育てる 子供は、目、耳、口、鼻、手など体の五感を介して自然に接することで、鋭い直観力や豊かな感性、情緒、科学心を育てていく。そして、美しい自然に素直に感動したり、動植物の営みや生態、行動に愛着を抱いたりして、愛護する気持ちや自然の恵みに感謝する心、物を大切にする心を育てていくのである。
 
 ④身体能力を向上させる 今、子供が直接土を踏むことなどほとんどない。靴と靴下をはくので、土の感触を知らない。また、そのために偏平足になる、木登りができない、防衛反応が鈍く顔で球を受け取る、前に倒れるとき顔と鼻と顎をぶつける―といった子供が増加している。子供は遊びや運動を介して身体を鍛え、そして健全な精神を育てているのである。
 
 ⑤自然の厳しさを教える 自然は人間の思い通りにならない。その厳しさや無情さは、子供の心に憤りと悲哀の情を発露させるにとどまらない。そこからは、自分の感情を抑え黙々と一からやり直したり、我慢したり、周囲の人に自分を合わせようとすることの大切さを学んだりすることにもなるのである。
 
 このように、自然は子供たちに対し、知・情・意のバランスのとれた健全な心身の発達を促し、人間性を高めさせ、社会的に成熟させていくのである。
 
 (2017年10月21日)  

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自然と人間①

 フィンランドの教育とは違い、近年の日本の教育は「幸せに生きるための教育」ではない。戦後は、民主主義のもとに自由と平等を尊重し、子供一人一人を大切にしていた。それが現在では、画一・一斉指導・相対評価による競争の教育であり、その結果生まれるものが教育格差である。このような教育制度の中では子供の特権でもある自由は無く、個性が生かされることもない。そんな子供たちが健全な成長を遂げて幸せな人生を送るために唯一の心のよりどころとなるのは自然である。
 
 今から30年ほど前の「いじめは自然との断絶が原因」と言われていたころ、筆者が『子供と環境』(中垣洋一著・圭文社)を出典に作成したメモを元に、「自然が人間に与える影響、子供の成長と自然の関係」について、数回にわたって書いてみたい。
 
 まず、自然が人間に与える影響について見てみようと思う。
 
 自然は心身を癒す。具体的には①自然はストレス解消、気分転換などの精神衛生上好ましい効果がある。②自然の囁きは見る人の心に無限の問いかけと回答を与えてくれる。③緑色は私たちの心を鎮める心理的な効果がある。④森林は香り成分、テレペン系化合物のフィトンチッドを出す。それは、体内に寄生している菌を特異的に殺す静菌作用がある。健康にもよい。⑤科学をする喜び(好奇心)が生まれ、若さを保つ秘訣ともなる―などである。また、自然は感性を豊かにし、人間性を高める。
 
 反対に、自然破壊と緑の喪失は、人の心を荒廃させる。物質文明は人の心に利便性、合理性を求めさせ、止まるところの無い欲望へと駆り立てる。そして、自分中心にしか考えられない人間的未熟性がはびこるのである。これが自己中心性とか、自己愛性人格障害といわれる現代病である。
 
 知識がどんなに優れていても、人間性が豊かに育たなければ、自己中心的で思いやりなど身に付かない。罪を罪とも思わず、残虐な行為もやってのける。
 
 現代、特に都市化された街では人間性の劣化(感性の衰滅)が進んでいる。街には人があふれているのに、人間同士の接触交流が疎となる。その為に起こる心の問題は、人間社会における人々の関係が本来温かい人間愛、真心からの人間愛を失い、トラブルや殺人・暴行などが日常的に起こることにつながるのである。
 
 このように、自然が豊かであるかないかによって、人の心が変わり、社会までも変わってしまうのである。
 
 (2017年10月7日)  

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フィンランドの教育

 「本来の教育を受けさせるために、多くの権限をそれぞれの場、つまり生徒、教師そして校長に任せたのです。国が決して阻害してはならないのです」。NPO法人・エルタネットの研修会で、講師の建石尚子氏が紹介したフィンランドの教育大臣の言葉である。
 
 この時の資料によると、同国は1990年代の教育改革で視学制度や習熟度別編成授業、教科書検定制度を廃止。学習指導要領の内容は削減し、教育委員会は国家権限から外れた専門機関にして政治家が口出しできないようにした。さらに、カリキュラム編成権は学校へ委譲。授業時間数は各自治体の実情に応じて決め、教育内容・実践方法は各学校・教師に任すなど教師を全面的に信頼している。
 
 その教師はといえば国民からも「尊敬され・信頼され・自由が保障される」専門教師として認められている。そのことがモチベーションアップに繋がり、従ってその専門性が生きるという好循環が起きているのだという。
 
 フィンランド教育の魅力は「幸せに生きるための教育」だと建石氏は言う。まさしく本来の教育である。フィンランドの国民は「人はそれぞれ違う個性を持つ。それをどう組み合わせてどう生かしていくか、その能力がこれからの時代に求められている」と考えている。従って他者と比較する競争は不健康だとし、教育の中で大切にしているのは「みんな違う」ということ、それぞれの違いをどう生かしていくかだというのである。「みんなちがって みんないい」。金子みすゞの詩が頭をよぎる。
 
 国の教育目標も「平等の教育」であり、全ての子供が手厚く保護されている。学校では一人一人が大切にされ、教師は個々の子供にとり最も効果的な指導方法を常に考えていく。また、「教師は教えない、子どもが自分から学ぶこと」「人の話をきちんと聞く、認め合う、違う力を組み合わせさらに強力にしていく」を心掛けているという。これはかつての日本の学校の姿であったが今はその跡形もない。
 
 フィンランドは学力テストで世界第1位である。だが、国民はそれを特に喜ぶ訳でもなく、教育は頭脳だけを育てるのではない、むしろテストでは測れない思いやる心やコミュニケーション力などを育てることの方が重要と考えているという。これからの国や地球を支えていくのにテストの結果にどんな意味があるのか、テスト結果をめぐる日本の騒ぎを理解できないという。フィンランドの子供たちは本当に幸せである。
 
 (2017年9月16日)  

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フェイク情報時代と教育

 いま世界はフェイク(嘘・偽物)の情報であふれ、何が真実か分からなくなった。特に政治主導となった日本の教育ではそれが著しい。
 
 まず、国が目指す国民像が「一握りのエリートと多くの従順な日本人」であり、教育はその手段という考え方に立っていることをどれだけの人が知っているだろうか。民主主義の理念を根付かせようと制定した教育基本法が障害になることから、現政権が目論む「国のために命を懸ける愛国心」強化の観点で改正が行われたことは明らかで、その延長線上に「人づくり(教育)革命」などという意味不明のスローガンがある。このような考えの基に教育行政が行われている。
 
 次にグローバル時代と言いながら、余りにも世界の情報が国民に広く正しく伝えられていない。世界の夏休みは米国及び欧州、インドネシア、南半球の国々では2~3か月、韓国・中国でも1~1・5か月というのが実態である。年間授業日数は日本の201日に対してフランス162日、イタリア171日、米国180日、韓国190日、英国190日で、OECD加盟国平均は183日である。
 
 教師の働き方は、日本では1日約11時間勤務した後も自宅での授業研究や子供にかかわる記録などの事務をこなしている。それに対してフィンランドでは午前8時出勤、午後2時退勤の6時間勤務で日本の教師のおよそ半分。授業の担当時間数は小学校で週24時間、中学校18~24時間、部活・委員会無しというのが実態である。
 
 その他、公的教育予算のGDP比は日本がOECD加盟国30か国中最下位、教師一人当たりの児童生徒数(2015年、文部科学省)は世界平均16・7人に対して日本は19・4人と多い。少ない予算で多くの子供を受け持つ日本の学校現場の実態を知る人は少ないだろう。教師の実質の夏季休暇は平均で4~6日、会社員などの休暇に比べてもかなり少ない。
 
 国が積極的に推進する小中・中高一貫校は受験戦争や「中一ギャップ」(入学時の環境変化への戸惑い)の緩和策というが、実は学校経営の効率化と教育関係公費の削減対策だということ等々、かかる例は枚挙に暇が無い。
 
 これらの事実を明らかにせず、国の政策に不都合な情報は隠され、別儀、虚偽情報がもっともらしく伝えられているのが教育情報の現状。こういう時こそ情報の真実を見極める力が必要であり、国の教育方針を金科玉条としているような教育委員会・学校では子供の幸せは無いと考えてよい。
 
 (2017年9月2日)  

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夏休み短縮

 「静岡県吉田町が夏休みを16日間にする」というニュースに耳を疑った。その狙いが「教員の加重労働解消だ」と聞いて唖然とする。「町教委の担当者は『残業が前提だった教員の働き方を改める。余裕をもって授業準備ができることで授業の質も高まるはず』と指摘する」(日経新聞8月4日朝刊)。つまり、夏休みの短縮が学力向上にもつながると言いたいのだろうが、筆者には詭弁としか思えない。
 
 日頃から多忙で自由な時間のない現代の子供には貴重な休みであり、学校から解放され、自由でやりたいことに没頭できる楽しい時間のはず。その夏休みが短縮されると、好きなことや遊びに熱中したり、自然と親しんだり、親子・祖父母や親戚と触れ合ったり、スポーツクラブの練習、遠征試合に参加したりすることができないなど、多くの体験や学習に支障が出てくる。
 
 筆者の経験からも、子供は驚くほど成長するものだと実感するのが、夏休みが終わって再会したとき。休みの過ごし方によって一人一人に多少の違いはあるが、一様に成長した姿を見せてくれる。
 
 過ごし方は、やりたいこと、夢中になれるものがあるか、それができる自由と時間があるか、大人の理解者がいるかなどによって変わるが、いずれにしても子供がやりたいことに熱中している時は脳が活性化しているので、いろいろな能力が開発される。AIが人間を超えると言われるこれからの社会で重要視される思考力や情報処理力、創造力、コミュニケーション力などが養われ、やりたいことを見つけて主体的に考え、取り組むという所謂中教審答申の「アクティブラーニング」の力も付く。その夏休みを短縮することは、子供が成長する上で極めて重要である多様な経験や主体的な学習をできなくするということに考えが及ばないのだろうか。
 
 一方で、夏休みを短縮すれば教員の長時間労働が解消できるかといえばそんなことはない。教員には研修やプール指導・部活動をはじめ、地域活動、指導要録等事務、2学期へ向けての授業準備・行事計画など、夏休み中に行わなければならない仕事が山ほどある。休みが少なくなればそれを授業のある日の放課後にやらなければならなくなり、結果として教員は今まで以上に年中ゆとりの無い、心身ともに多忙な日々を送ることになる。
 
 このような教育における夏休みの本義を知らずして、短絡的な発想で一方的に短縮するのは実に愚かしいことである。
 
 (2017年8月19日)  

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子供の成長をお手伝い

 【私は全国の農家の人にこう言っています。皆さんの体にリンゴ一つ、お米一粒実らすことができますか。人間はどんなに頑張っても、自分ではリンゴの花一つ咲かせられません。米を実らせるのはイネです。リンゴを実らせるのはリンゴの木です。主人公は人間ではなくてリンゴの木やイネです。人間はそのお手伝いをしているだけです。そこを十分わかってください、と】。またこうも言う【私たちはイネが生育しやすい環境をお世話するだけです。土には数えきれないほどの微生物や菌類やカビ類が生きています。これらの生物が住みやすい環境ができれば喜んで力を出してくれます】(自然栽培農家の木村秋則氏の著書『リンゴが教えてくれたこと』より)
 
 この言葉は子育てや教育の本質に関わる名言である。成長し、能力を開花し、立派な人間になるのは子供自身であって、親や教師など大人ではない。大人は子供が成長するための環境を整え、成長のお手伝いをしているだけ。つまり、成長に必要な成育環境を大人が整え、与えることで子供が自分で環境から学び、成長していく。
 
 この言葉を学校教育に転換すると「学習の主体は子供(学習者)であって、教師や親(指導者)ではない。学ぶ環境を整えさえすれば子供は自ら学ぶものである」となる。
 
 顧みるに、筆者が子供の時は今に比べれば親たちの生活は多忙であり、経済的にも豊かではなく、しかも、一家の子供の数も多かったので、殆どの時間を子供たち同士で遊び学んで育ってきた。学校では「みんな仲良く、元気に」「よく学び、よく遊べ」など子供たちにもわかりやすい目標が掲げられ、子供たちは皆、仲良く元気に学び遊んで人間形成をしていた。教師は教えなければならないことは教えるが、あとは子供たちが自ら学ぶお手伝いをすることがその役割であった。しかも、現代のように学習塾もなければ家庭で親が教えるということもなかったが、豊かな自然との触れ合いや多様な人々から多くのことを学んでいた。
 
 このような成育・教育環境であったが、当時の子供たちはそれぞれが育ちや学びの主体として子供社会を形成し生きていたので、いち早く他律から自律へ、そして自立した大人へと順調に成長していくことができたと思われる。
 
 これに対して、現代の子供が如何に大人の間違った考え方や劣悪な環境で育てられているかを、真剣に考え直す必要があるのではないか。
 
 (2017年8月5日)  

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教育と自然栽培

 今回は、子供の教育を「自然栽培」との関連で考えてみたい。
 
 山野に自生する植物は皆、肥料も農薬も与えられない全くの自然の中で成長している。それなのにすくすくと枝を伸ばし、葉を茂らせ、花を咲かせ、実を付ける。しかも、虫や風や病気にも強い。このことに目をつけた人がリンゴ農家の木村秋則さん。しかし、自然栽培の道は険しく、10年もの長い年月をかけ、苦難の末にたどり着いた。木村さんの努力に応えてくれるかのように、実ったリンゴは極限の甘さだといい、収穫前に予約完売するほどになった。リンゴのほか、米や野菜などにも自然栽培を広げ、その傍ら、全国、世界を飛び回って自然栽培を伝え、広めている。
 
 では、自然栽培はただ無肥料、無農薬にすればよいかといえば、そんな単純なものではないという。まずは土。植生を考えて土の状態を整えることは勿論だが、過去に使ってきた肥料や農薬を土から除かなくてはならない。土を整えることは作物の根が地中深く伸びていけるようにするための環境づくりだが、そのためには作物のことを理解し、作物の立場に立って育ちやすい環境をつくっていくことが必要である。人でいえば、思いやりがあり、愛ある栽培をするということだと木村さんは言う。
 
 自然栽培を、人を育てる教育に置き換えてみると、子供の成長を支える教育環境がこの土に当たる。子供たちが健康で豊かな心を育てていくには、それにふさわしい土づくりが欠かせないことは分かり切っている。まず今の汚れた土に当たる教育環境を浄化しなければならない。例えば、コンクリートの地面や車専用の道路、立ち並ぶ住宅やビルディングなどによってなくなった土や草、樹木のある遊び場を取り戻すことで、遊びを通して子供の時代を謳歌できるようにする。そのうえで、親や家族、できれば地域の人々が一人一人の子供の性格や長所・短所を見極め、理解し、その子に合った育て方(教育)をしていくことが必要である。
 
 更に重要なことは、肥料や農薬などによってひ弱になり、虫や病気、風雨などで簡単にダメになる作物と比べて、自然に育つ草木や自然栽培の作物がそれらに強いことからも明らかなように、子供が逞しく育っていくためには、程々の危険体験や適度なストレスなどが必要であることを忘れてはならない。徹底した除菌、危険除去など管理された中での温室育ちではダメということだ。
 
 (2017年7月15日)  

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教育と作物づくり

 「作物づくりは人づくり」とか「作物づくりは子供の養育・教育に相通じる」などという言葉は昔から言い伝えられていたようで、筆者は子供の頃からよく聞かされていた。
 
 教員となり、子供の教育に関わるようになってからは、この言葉を折に触れて思い起こすことが多くなった。というのも、子供たちを眼の前にしていると、当然のことながら一人一人皆違うことを実感する。目に見える容姿や言動に表れやすい性格だけではない。生活を共にしていく中で目には見えない心も皆違うはずだと次第に意識するようになっていく。いわゆる個人差である。
 
 作物づくりの場合は、作物の種類が違えば作り方も違うのは当たり前だが、同じ種類でもでき具合は皆違う。しかも、その年の気候変動や土壌・肥料分などによっても生長が違ってくる。このように生物の成長には固体一つ一つに違いがあることから、作物づくりと人の成長が関連付けられたのだと思う。
 
 子供が育つためには養育環境が、学習するためには教育環境が必要だが、同様に作物が育つために必要なのは生育環境である。その環境にはどういうものがあり、それをどう整えたらよいのか。まずは、作物づくりの環境。生育環境には日光や水などが欠かせないが、代表するものは何といっても「土」(現代では土を使わない栽培も増えてはいるが)だ。農家の人たちは「作物づくりは土づくりだ」と口を揃える。どんなに良い種を蒔き、どんなに良い苗を植えたところで、土が悪ければよくは育たないというのだ。
 
 現代の農業は、この土づくりが疎かにされている。よい作物ができるよい土とは自然のままの土であり、畑にはミミズ、田んぼにはカエルやドジョウなどの生き物が生息できる土であるが、今の農業は化学肥料と農薬に頼っているため、これらの生き物が生息できない土になっている。
 
 作物の生育環境を子供の成長環境に重ね合わせて考えてみた時、現代の養育・教育環境が、農薬や化学肥料によって荒らされ劣化した土壌と相通じるところがある。生命の源である大自然を利用し、破壊してきた人間。加えて文明に酔いしれている中での人間性の劣化と社会の崩壊が近年急速に進んでいる。このような環境で子供たちの健全な人間形成が期待できるとはとても思えない。この現実を直視し対処できるのは国でも教育委員会でもなく、家庭と地域社会、そして教育の本質を指向する「本物の学校」であるのだが。
 
 (2017年7月1日)  

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自然から人間を切り離すと…

 子供が健康で幸せな一生を過ごすには、野外で日光を浴び、土や生き物と触れ合うという体験を通して自然との結びつきを深めさせることが大切である―と筆者は常々考えてきた。その自然と人間との関係について、世界的な研究結果をまとめた書籍『GO WILD』(NHK出版)から推考してみようと思う。
 
 人類は自然の中で過ごすように進化してきたため、人間が生得的に備えているのは生物や自然への愛情であり、それが人間の本質だとし、従って、環境への適応の度合いによって心身の健康や幸せが決まるという。だが現代では、自然から切り離された人工的なハイテク世界で暮らすことで自然への愛情を否定することとなり、人間は苦しんでいるとして、それを作家のリチャード・ルーヴは「自然欠乏障害」と名付けた。
 
 自然欠乏障害は、特に子供たちの心身の健康な成長に多大な負の影響をもたらす。子供は自然界で多くのことを学ぶべきであることを思えばかなり深刻な問題だが、それ以外にも複雑な問題が絡んでいる。例えば、自然の中で遊べばさまざまな微生物に触れることになる。それが体内の免疫力を高め、病気への抵抗力を高める。「森林浴」のアロマ効果として知られるフィトンチッドは脳に強く影響し、ストレスホルモンを減らしたり、ナチュラルキラー細胞(免疫系)を強化したりすることでインフルエンザや風邪などの感染症を防ぐ。日光を浴びての外遊びは睡眠のリズムを整え、体に不可欠なビタミンD量を健康レベルにする。子供のビタミンD不足はクル病を招くし、大人も含めて睡眠障害をはじめ大腸がん、高血圧と心疾患、自己免疫疾患などのリスクを高める。なかでも現代人の自己免疫疾患急増の背景は、環境が余りにも清潔なために免疫系が敵を失って暴れているからだというのだ。極度の清潔志向がそれを助長している。この状態を改善する唯一の方法は、日光を浴び、無菌の人工的環境から外に出て自然の中で過ごすことだという。
 
 自然との触れ合いは、脳の発達にも深くかかわっている。公園で散歩しただけでテストの成績が良くなるとか、自然の風景を見ることで脳からα波やセロトニンが生成されて共感力を高めて思いやりの心が育つとか、うつ病を防ぐとか、自然がもたらす恩恵は限りない。
 
 現代人は自然との触れ合いの大切さを見失っている。農作業や学校緑化などによる健康、学習の成果向上なども考えてみてはどうか。
 
 (2017年6月18日)  

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また一つ本物の学校が誕生

 長野県にまた一つ本物の学校が誕生する。小欄でも既に紹介したが、長野県には私立国際高校・インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢や「森のようちえん ぴっぴ」など、子供たちが心身ともに健全に成長していく上で欠くことのできない自然との触れ合いを重視した学校が多くある。
 
 その長野県に今度は「軽井沢風越学園」(幼少中一貫校)が同32年に設立されるという。設立準備財団の理事長は元楽天副社長の本城慎之介氏。その理念や動機を日経新聞のインタビュー記事(2月22日、長野県版朝刊)から紹介する。
 
 30歳で楽天を離れ、「最初は全寮制の中高一貫校でリーダーを育てたいと考えたが、横浜市の公募校長を2年間務めたのち、自然の中で子供を育てようと軽井沢に移住し、『森のようちえん ぴっぴ』の保育と運営に関わる中で考えが変わった」という。「そこでは安心して失敗できる環境があることが大切だと学んだ。木に例えると早くきれいなおいしいリンゴをつくる中高一貫校(国の推進する一貫校)ではなく、風が吹いてもどんな天気でもしっかり根を張れる教育をする幼少中一貫校を造りたくなった。理念は『すべての子供の〝自由〟に生きるための力と〝自由の相互承認〟の感度を育む』であり、先生主導の一斉教育ではなく、学びのコントローラーは子供自身が持ち、自分で計画を決めて学び、わからないところは学び合う。みんなが違いを認め合い、分けて遠ざけるのではなく、なるべく多くのことを混ぜて新しい出会いが生まれる学校だ」という。
 
 また、「軽井沢でどういう教育ができるか」という記者の質問に対しては「自然の中では思うようにならないことがあり、手に入らないものもある。都会では学べないことだ。軽井沢は東京に近いうえ、新しいものを受け入れる懐の深さがあると思う」。長野県の教育については「伊那市の伊那小学校の総合的な学習の時間など個々には素晴らしい取り組みがたくさんある。多様な学校が出てきて教育理念や方法で学校を選べるようになればいい。阿部守一知事が『教育県から学習県へ』と語り、大人も子供も主体的に学ぶ体制作りを打ち出したのに共感する」とも。
 
 最終的には「公教育のモデルとなる学校を目指す」とし、教育研修・研究機関も併設して情報交換や教員研修をしていく方針という。まさに本来の学校のあるべき姿である。
 
 (2017年6月3日)  

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「何といっても地域が大事なんだよね」

 「そうだよね、人にとって何といっても地域は大事なんだよね」。前回まで3回にわたって掲載した【NC事業推進者の寄稿】の読者の感想で一番多かったのが、地域での多様な体験の大切さであった。

 人は社会的動物であると言われるように、社会を作り、社会の中で生きていく。そのために必要な個人と他者との相互関係から、社会適合への行動様式が獲得されること、即ち社会化を成長の過程で身に付けていくことが必要である。勿論この役割の中心を担うのは家庭での躾にあるが、それだけでは十分とは言えない。特に最近の家庭では躾よりも教育に関心が集中し、また、地域から孤立した核家族、親戚づきあいもないというのでは社会化などほど遠い。このような環境で育つならば、人とのコミュニケーションが図れない、人間関係がうまくいかない、となるのは必定である。

 子供は成長と共に友達関係や活動範囲が次第に拡大していき、子供集団で様々な経験を積むことで自主性や社会性を育んでいくものである。従って家族という完結した人間関係の中では健全な成育は望むべくもない。

 このような劣化した養育・教育環境の改善を目指し、地域での日常的な子供逹同士、大人と子供の交流の接点の場と機会を作り、相互信頼の関係を図ろうとしたのがNC事業である。従ってイベントは本来の目的ではない。現在、「名称変更」という意味不明の理由をつけて市川教委が推進する「コミュニティクラブ事業」は、名称が示すようにクラブ(趣味・親睦など共通の目的を持つ人々の為に作られた団体であり活動)であって、NCとは理念も目的も全く異なるのである。

 しかし、寄稿からもわかるように、地域の人々の中に現在も本来のNC精神が脈々と受け継がれていることは、子供達の心の健全な発達にとって心強い。

 筆者が安曇野に移り住んで16年が過ぎた。その間、地域に溶け込もうと役員の殆どを経験した。この3月まで地元神社の氏子総代と近隣の神社10社の氏子総代会役員を兼務してきたが、その中で「地域の活性化に不可欠な要素は、若者、馬鹿者、そしてよそ者」だとして、特に学校で人は育たない、若者を育てるのは地域の大人達の責任だと訴えてきた。同時に祭典実行委員などには積極的に若者を起用。更に子供囃子や太鼓連、童舞い等を支援するなどしたことで、地域の大人逹の意識が変わりつつあり、子供達の健全な成長が期待される。
 
 (2017年5月20日)  

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NC事業推進者の寄稿…③

 最後は、「ナチャコミ」(NC=ナーチャリングコミュニティ=の愛称)で育てられたという市川市在住の伊藤貴彦氏からの寄稿。

 〈NCスタートから20年。私は小学生から大学生までの間、地域で遊びの企画を立案し運営する難しさや達成感、そして、遊びに限らず状況や事物を《楽しむ力》を育めました。

 中学校の同級生30人のメンバーで集まった青年部【あすなろ】では、企画を進めるにあたって仲間での意見の食い違いや仲違いがよく起きました。しかし、一番大きなハードルは地域の大人たちと価値観を理解し合うことでした。当時、最高に楽しいと思っていた〝遊び〟がなかなか大人に伝わりません。大人のスタッフたちは安全面や平等性など多角的な視点から考えていたのに対し、私たちは遊びを楽しむことだけに夢中になっていました。子供と大人が信頼関係を築くまでにとても長い時間がかかりました。企画の準備をするために会社の倉庫を解放してもらったこと、荷物の運搬に車を出してもらったこと、準備がギリギリまでかかってしまうのを辛抱強く見守ってくれたこと、とても感謝しています。そしてこれは私たちが学校内では築けなかった大人との信頼関係だったのです。

 友達を遊びに誘う《勇気》、自ら楽しみ楽しませる《ユーモア》、遊びを生み出す《創造力》が〝遊び〟には必要だと20年の活動経験を通して感じています。大人になった現在でも20周年記念行事「ジュニアカレッジ」の企画を発表する時には勇気がいりました。初めて一緒に活動した他ブロックのスタッフも素敵なユーモアと創造力を持っていたこと、遊びが子供だけではなく大人も変えていく力があることを実感しました。一方で、子供たちが力いっぱい走り回り、大きな声で笑える居場所が年々少なくなっていること、ボランティアスタッフの高齢化と減少など課題も多くあります。PR活動で市内の方々にこの活動を知っていただき、遊びに参加していただきたい。

 私は地域の多世代の人間関係が福祉や防犯・防災活動の下地になると思っています。地域が遊びの中でより明るいコミュニティになってほしいです。私自身、自分の育った地域を全力で楽しみながら生活しようといつも考えています。〉

 多世代間の信頼関係が教育だけでなく福祉、防犯・防災活動などの基礎になるという地域の神髄を、伊藤氏は経験から感得しているが、これはNCの理念そのものでもある。
 
 (2017年5月6日)  

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NC事業推進者の寄稿…②

 今回は、NC事業の理念・趣旨に共感し、積極的に関わった鈴木茂年氏からの寄稿。

 〈昔の子供達は、毎日の遊びの中で学年や年齢の垣根を超えて『今日は何して遊ぶ』を合言葉に、石蹴り・木登り・探検・秘密基地づくりなど、自分逹の発想力から遊びを考え、各々の役割を決め、上の子が下の子の面倒を見るなど、子供達の世界でのルールを自分たちで作り上げていました。その周りには必ず地域の大人逹の温かい目が見守り、間違ったことをしている子供には誰彼の区別なく本気で叱ってくれるおじさんおばさんがいて、地域の中には子供と大人の声が飛び交っていました。

 そのような教育環境が失われていく中、20年前始まったNCは、子供達の創造力や発想力を生み出すために必要不可欠な活動だと私は考えます。私の所属する中学校ブロックでは、小中学校から代表の子供逹が集まって「こども部」を立ち上げ、私はサポート役に回りました。中学生を中心とした子供部会議の話し合いでは8割方脱線して日時だけが過ぎていくのですが、それぞれ満面の笑みで夢のような話で盛り上がり、どんどん夢が膨らんでいくのです。気が付いてみると脱線話が少しずつまとまり、しっかりした内容になっていました。私は子供逹の発想力に感心し、その夢を現実のものにするために応援していこうと思いました。子供逹が企画したサマーフェスティバルでは、普通の舞台ではなくトラックの荷台で開会式やバンド演奏をやりたいと言っていた夢も叶いました。

 内容や準備・段取りなども含めて本番を完ぺきにこなすことが大成功と思う大人達に対し、子供逹はミスも含めてプロセスで満足できることが大成功だと思っています。そんな子供逹の笑顔に私も幸せな気持ちになりました。

 子供達が遊びを通じ、固定観念を無くし、自分で考え行動する大切さや、人とのかかわり方を学ぶため、私逹地域の大人逹に出来ることは『待ってあげること』、時間がかかってもゆっくり見守ってあげることだと私は思います。地域の中で見守られて育った子供逹がやがて大人になり、地域に戻って活躍してくれること、そのお手伝いをしたり、昔話に花を咲かせたりできることが私の夢であり、一番の喜びでもあります。〉

 子供が育つ地域(NC理念)になるかどうかは、地域の大人逹が子供をどう見るかという子供観(子供の可能性、発達、子供像など)に左右されるのである。
 
 (2017年4月15日)  

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NC事業推進者の寄稿…①

 本紙既報の通り、失われた地域の教育力回復を目指し「子供を育てる地域づくり」という理念のもと、20年前にスタートさせた市川市教委の施策「ナーチャリング・コミュニティー(以下NC)事業」の記念事業が先月、千葉商科大学で行われた。NC事業立ち上げに心魂を傾けた当時の教委担当者の押田氏、子供達の自立支援や健全な地域社会づくりに努力されてきた鈴木氏、そして当時小学生だった伊藤氏の3人の寄稿を順に紹介する。今回は押田敏郎氏(元市川市立小学校校長)。

 〈今から20年前、当時の教育長から新事業を考えているので進めるようにとの指示がありました。新しい事業とは、学校での学び中心の「コミュニティースクール(以下CS)事業」とは区別し、子供の成長に不可欠な地域の教育力の重要性を提唱し、市内各中学校ブロックを単位とした地域主体の活動を目指したNC事業です。

 当時は市川市がCS事業を推進していて、全国から視察があるなど注目を浴びている時期でもありました。それだけに、当初はCS事業との違いなど趣旨説明に難儀をしましたが、最終的には「みんなで子供逹を みんなでボランティア」の合言葉のもと、積極的に地域の子供達と関わってくれました。

 そのような中、「人づくりが街づくり」という考え方から、子供逹を主役にできる場づくりが必要であるとして、ブロックに「子供部」を作ろうという運びになり、大人は見守り役に徹し、子供逹を活動の中心に置くよう心がけました。

 その結果、子供目線の企画はたくさんの子供逹の遊び場を提供してくれ、多くの子供が参加するようになりました。中には、他市に住む親類の子供やその友達までが参加し『うちの市でもこんな遊びができるようにしてくれたらなあ』という声も届きました。

 この子供部で育った当時の小学5年生が現在では30歳を越えています。その一人、伊藤さんは市立東国分中ブロックで委員長を務めています。彼は地域に育てられたことに感謝し、大学の卒論も「地域コミュニティーづくりに関する論文」としたほどで、以来これまで継続してNC事業に関わり、貢献をしてきていることもあって、今回の20周年記念実行委員会委員長に推され、見事に市全体をまとめ上げました。

 これからも、本市がより住みやすい街になるよう、子供と大人が一体となり、互いに成長していけるような地域活動を期待します。〉
 
 (2017年4月1日)  

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寝る子は育つというが…③

 《十分な睡眠をとらなければ、しまいには太って、病気になって、バカになるでしょう》と言うのは、世界的睡眠研究の権威者スティックゴールド。人類学者のキャロル・ワースマンも睡眠に関する考察で肥満、病気、愚かさを結びつけた。

 両者の研究を要約してみる。睡眠不足のせいで糖尿病予備軍のような反応を示して食事の量が増える(スティック)。睡眠不足はストレスとよく似て、睡眠不足になるとコルチゾールが増え、食欲も増え、血糖値が上がる(ワースマン)。これが肥満の原因だというのだ。

 更に、睡眠不足は免疫系を大混乱に陥れ、その機能を半減することから病気になり易いという。

 ではバカになるとはどういうことか。研究では、睡眠を遮断された人々は単語を思い出すといった簡単なテストの成績が悪いが、単語記憶後、仮眠をとらせると成績は向上する。また、一日20時間も勉強していたという学生は、睡眠不足による能率低下で、何をするにも2倍の時間がかかるようになっていた。この他、睡眠不足はうつ病、心的外傷ストレス障害(PTSD)発症の原因にもなるという。

 スティックゴールドの処方箋は「誰でも8時間半眠りなさい」だ。では眠る時間(量)さえ十分確保すればいいのかというと、どう眠るかという質も大切だとワースマンは言う。それは人類の進化という視点から考えることで解明されるという。その1つが、一人寝は避けること。家族が同じ部屋で一緒に寝るという文化がどの時代、どの地域を見ても殆どであって、一人で寝るのは極わずか。幼児を一人で寝かせるなんてもっての外だという。独身より結婚している人の方が長生きすることも分かっているというのだ。

 2つ目に灯り。寝る2~3時間前に照明を暗くして睡眠のリズムを整えておくことが大事。光は睡眠のリズムにとってだけではなく、健康で長生きするためにも重要。夜の人工光とうつ病、心疾患、糖尿病、肥満、そして注意欠陥障害などの大きな要因にもなっているというのだ。(NHK出版『Go WILD』)

 これら睡眠研究の結果は子供たちの成長に強く関わるもので、無視できない。睡眠不足が原因となり勉強の能率が落ちる、或は生活習慣病、心的外傷ストレス障害、うつ、不登校などと睡眠不足との関連も研究によって解明されてきた。睡眠不足となる塾やゲーム、大人の生活リズムなどは真剣に考えなければならない問題であろう。
 
 (2017年3月18日)  

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寝る子は育つというが…②

 「睡眠障害が、子供の発達障害や不登校・ひきこもり、将来の様々な病気につながる状態のおおもととして注目され、社会全体の課題となってきた」(三池輝久著『子どもの夜ふかし脳への脅威』から)。

 近年の睡眠研究の進展から、子供の睡眠と脳の発達の関係が明らかになったことで、三池氏の提言『睡眠教育(眠育)』が小児医療機関をはじめ保育機関、学校などの取り組みとして全国に広がり、顕著な効果が表れている。

 福井県若狭町では町全体で眠育に取り組んでいる。きっかけは、町立三宅小の元校長・前田勉氏が自分の教え子たちが中学校に進学したあと急に不登校になるケースが相次いだことを気にかけ、三池氏に相談したこと。三池氏から「睡眠が関わっているだろう」との返答があったので調べてみたところ、不登校の生徒が多い学校といない学校の違いは、睡眠に原因があると分かってきた。以来、前田氏は年2回、学校で「睡眠授業」を行うほか、教師や親など大人への指導と個別診断に力を入れてきた。今では、町の全学校が「睡眠と朝食の調査」を実施しているという。何時に寝て何時に起きたか、朝食を食べたか、自分で起きられたか、体調はどうかなどを記録する「すいみんログ」を作成するなど学校独自のカリキュラムを導入している。子供が記録した睡眠表で気になる兆候を見つけたときには親との個別面談を行う。このような実践の結果、今では三宅小出身生徒の不登校はゼロになり、不登校は予防できることが証明された。

 子供の睡眠を守る取り組みは地域にも広がる。「子供があくびをしたり集中できないときはどんな生活になっているか注意したり、夜8時以降はテレビを見たりしないという運動が町全体で広がった」と三池氏。同県美浜町では小学生を対象としたスポーツクラブが20以上あるが、親からの要望で教育委員会がクラブの終わる時間を早める方針を打ち出した。福井県教育カウンセラー協会も「子供の睡眠と発達障害」について三池氏から学ぶ研修会を開催している。

 「家庭任せにせず、学校でも生活習慣の乱れをなくすよう促す取り組みは今後も続けていきたい」と、兵庫・加古川市立岡南中学校・上野正一校長は話す。国の管理的な不登校対策に従属しているだけの教育委員会・学校では無能と言われても仕方無い。真に子供の健全な成長を願うなら、教育のプロとしての知見をもって課題に臨みたい。
 
 (2017年3月4日)  

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寝る子は育つというが…①

 「寝る子は育つ」というが、今、日本では子供の寝る時間が大人によって脅かされている。ある調査の国際比較では、3歳以下の子供の睡眠時間は世界一短い。大人も2番目に短く、両者には相関がある。子供の睡眠時間が、大人の生活パターンに引きずられていると考えられるからである。

 睡眠の短さは、子供にどのような影響を及ぼしているのか。小児精神科医の三池輝久氏によれば、睡眠は「脳を創り、その働きを育て、守る(維持する)大切な時間」だという。具体的には「①眠ることにより脳が新たな体験を学習し、記憶するための神経回路が『創られる』こと②脳にある海馬は今日経験したことを何度も再生して確かめたり、過去の知識と合わせたりして知識を確立する。つまり、眠っている間に脳は学習(育てる)していること③シナプスの点検整備をする、即ち、大脳が自らの情報処理能力を『保つ(守る)』ために眠ること」という。

 このように、脳の発達にとって重要な睡眠であるが、特に子供の時の睡眠の量・質・時間帯が心身の成長に与える影響は極めて大きく、生涯にわたってその影響は尾を引くことになる。脳の発達障害をはじめ、うつ、肥満、糖尿病やがんなど将来にわたる病気のリスクも高まるという研究結果も出ている。

 三池氏は「子供の睡眠と脳機能の発達には深い関係があり、睡眠障害は子供の発達をゆがめる」として、次のように述べている。「乳幼児期の睡眠障害は運動や言葉の発達を遅らせ、注意欠陥多動性障害(ADHD)やコミュニケーション障害をもたらし、自閉症とよく似た症状を呈することが報告されている」。しかも、この時期の睡眠障害は成人に至るまで持続してしまう可能性があるという。獨協医科大の故・瀬川昌也特任教授も「脳の発達には、睡眠と覚睡のリズムの確立が欠かせないが、そのリズムの乱れが情緒や社会性の発達、認知機能に障害を与えていることから、その乱れによる学習意欲や学力の低下や発達障害、不登校、引きこもりなどを引き起こす」と言うのである。

 また、最近では8時間以上睡眠時間をとる中・高校生のうつになるリスクが最も低いという研究結果(東大グループによる国際学会発表)が注目されている。

 社会問題化している子供の不登校、引きこもり、学力低下や小児生活習慣病などには、いずれも睡眠障害との関係を重視して対処すべきではないだろうか。
 
 (2017年2月18日)  

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文科省の天下り事件を考える

 文部科学省の違法な天下り事件報道には驚かされた。これまで、他省庁の天下り報道を見聞きすることはあったが、まさか(子供の)教育に携わる文科省がこのような違法な行為をするとは考えられなかっただけにその衝撃は大きいものがあった。

 この事件に関連して、現役官僚時からお付き合いのある元国会職員(退職時の役職は参議院憲法審査会事務局首席調査員)で、現在は千葉経済大学特任教授の荒井達夫氏から次のようなメールが送られてきた。荒井氏は行政の組織・人事のプロとして一貫して公務員の本質(全体の奉仕者)を追求し、「社会が必要とする本当の公務員」の育成を提言し、活動してきた。教育については「教育に競争はいらない」など、筆者の考えと多くの一致点がある。

 【昨年2月17日、参議院憲法審査会の意見陳述で私は次のように発言した。「議院内閣制の下で所謂キャリアシステムを原因とする縦割り行政と天下りが国家行政を大きく歪め、官僚機構の自己改革能力を著しく低下させている。各省に一人の事務次官をつくり出すために職員が生涯をかけて競争するキャリアシステムは、出世意欲という『私益追求』が不可避的に国家レベルの『反公益』となってしまう宿命を持つ人事の仕組みである。(中略)官僚機構による情報操作の凄まじさは特筆に値する。弱い内閣では官僚による政府の支配となり、強い内閣では官僚は政治家に迎合し、政府との共生を図る。国民に対して直接責任を持たない『巨大な権力機構』である官僚機構が『公共の利益』に反する無責任な行政をつくり出してしまう」。これが天下り問題の本質であり、今回の事件はまさにそれを露にしている。この認識を持たない限り問題の解決はあり得ない。】

 このような政府と官僚との関係の中で政策が決められていくのは政治関係者の間では常識となっているという。筆者がこの事実を知るのは教育長のときで、元官僚や中央教育審議会委員などの話や著書からであるが、実際に経験したのは教育基本法等教育六法改正の公聴会で公述人を務めた時である。

 政府側多数の委員選出、答申ありきの諮問、国民の意見を聴取するとして開く公聴会など形式だけは整えるが、実質的には審議会や公聴会を隠れ蓑にして政府案を押し通そうとするやり方が少なくない。

 このようにして決められる国の教育政策に無批判に追従するのは、無策で子供無視の教育行政といわざるを得ない。
 
 (2017年2月4日)  

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子供が学び育つ教育環境(下)

 前回は、さかなクンの著書『一魚一会』(講談社)から、母親の信愛が子供の豊かな人間性を開花させていった実例を紹介した。ただ、さかなクンの成長を支えたのは母親や家族だけではない。周りの人たちとの出会いの中での成長も見逃せない。今回も引き続き同書から紹介する。
 
 さかなクンは、小学2年生の頃にタコ獲りの名人に会わせてもらい、生きたタコを初めて見た夢のような喜びを味わうと同時に、食べるために内臓を引きちぎり石に叩き付けるという悲惨な光景を見てショックを受けた。だが、ここでは命をいただくということがどういうことなのかを学ぶという貴重な体験をしている。
 
 小学生時代は新しい魚屋、図書館や本屋などを求め、たった一人で自転車に乗って遠くまで走り回った。母親は事故などを心配していたが、自主性を重んじて見守っていたという。小学4年生になった頃には、電車で2駅先の街までが自分のテリトリーとなり、魚屋の店員と魚の知識比べなどをするようになったという。
 
 多くの図鑑を手掛けていた先生の大ファンになり、やがて出会うこともできた。専門学校卒業後には、アルバイト先の寿司屋で大将から頼まれた魚の壁画を描いたことがきっかけとなり、江ノ島水族館の魚の作品展、イラストレーターの仕事へとつながっていったという。
 
 さかなクンにとっては、このように「好奇心を大切に育てる」という母親の教育方針だけでなく、それを支えてくれる周り(地域)の人たちがいたということも幸運だった。
 
 近年は人間関係が希薄になり、子供たちは親戚の人や近所のおじさん、おばさんなど、いろいろな人と関わり合うことが少なくなった。しかし、狭い人間関係のまま成長して社会に出ると、会社に入っても同僚とうまくいかなかったり、上司に怒られただけで辞めてしまったりといったことになる。
 
 さかなクンは、人との出会いでいろいろなことを学び、人間としての成長を果たした。人が成長する上で、人と出会い、たくさんの経験を持つことは必要不可欠である。
 
 小学校の卒業文集に「将来の夢は東京水産大学の先生になることです。先生になったら自分の絵でお魚の図鑑を作りたいです」と書いていたさかなクンは、大学を出ずして今では東京海洋大学の客員准教授、同大学名誉博士として活躍している。
 
 (2017年1月21日)  

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子供が学び育つ教育環境(上)

 「どのような教育環境が子供の幸せにつながるかを親や家族が見極める必要がある」と前回書いた。それを見事に現実にした家族の事実を一冊の書物から読み取ってみる。

 【「あの子は魚が好きで絵を書くことが大好きなんです。だからそれでいいんです。」「成績が優秀な子がいれば、そうでない子もいて、だからいいんじゃないですか。みんながみんな一緒だったら先生、ロボットになっちゃいますよ。」これは、先生が家庭訪問をした時、さかなクンが授業中でもお魚の絵を描き、おさかなに夢中になる余り、学校の成績は悪くなるばかり、全然授業についていけなかったのを心配していった先生に対する母親の言葉である。更に、先生が「では絵の才能を伸ばすために、絵の先生をつけて勉強させてあげたらいかがですか。」というと「そうすると、絵の先生と同じ絵になってしまいますでしょ。あの子には、自分の好きなように描いてもらいたいんです。いまだって、誰にも習わずに自分であれだけのものを描いています。それでいいんです。」と母親の態度は一貫していた。その言葉通り、「勉強しなさい。」とか「お魚のことはこれくらいにしときなさい。」などと言ったことは一切なかった。「お魚が好きなんだから好きなだけ絵を描くといいよ」と、いつも背中を押してくれた。そのおかげで、今の今まで、一度たりともお魚好きを恥ずかしいとか、変だと思うことがなかった。

 また、母は毎週のように水族館についてきてくれ、時には好奇心に惹かれたタコの水槽の前に一日中へばりついているさかなクンに付き合ったり、おねだりをした夕食のたこ料理を味付けを変えるなどして一か月ほども続けてくれたりもしたともいう。ほかにも、料理屋の水槽で泳いでいるウマヅラハギを飼いたいと思い注文したところ、姿造りにされて出てきたのを見てショックで泣いてしまった時も母はただ後ろで見守るだけ、失敗することの大切さを身を以て教えてくれた。あるいは刺身料理を作っても何故かおいしくない。こういうときでも気づくまで母は教えず、何事も自分で経験して学んでほしいと思っていたのだと思う。】〈『さかなクンの『一魚一会』(さかなクン著/講談社)より〉

 母と家族の信愛が子供の豊かな人間性を開花成長させていくという事実例であり、まさに「この親にしてこの子有り」である。(続く)
 
 (2017年1月3日)  

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