子供の人生を豊かにするには
日本の教育は今どこに向かおうとしているのか。確固たる教育理論も教育観・人間観も確立されないまま、大海を漂流している。
1980年代前半、校内暴力や制服問題に端を発して管理教育が批判され、学校は画一的、閉鎖的で硬直的だと冷評された。その後も偏差値導入による受験戦争の激化に伴う学力・学歴偏重への道を不本意にも歩まざるを得なかった教師たちは、保護者(子供ではない)の期待に応えようと懸命に努力した。だが、国の教育方針の転換で、その努力は再び批判の的となる。今度は「【生きる力】が大事だ」として、今では悪者扱いにされている所謂「ゆとりある教育」へ大転換した。ところがそれも束の間、再度「確かな学力」なる方針に逆戻り。親・子供まで引きずり込んでの唐突の方向転換を、納得いく説明もなく強引にやってのけたのは、つい先頃のこと。
それがここにきて、文部科学省はまたもや知識偏重教育の転換を考えているという(近く中教審の答申で示される)が、文科省・教育委員会はどのような言い訳をするのだろうか。結果の検証をせず、たった数年で方針をコロコロと変えてきているのが日本教育の実態。被害者は子供たちであるが、その責任を文科省や教委がとることはまずない。
このような日本の教育環境の中で、子供に責任を持てるのは親であり家庭でしかない。従って、子供にとって最も身近で信頼される親が主体的に子供の成長を支えていかなければならない。その為には、どのような教育環境が子供の幸せにつながるのかを見極める必要がある。
その前提として、一つには「学校のテストや知能検査、進学適性検査などの評価は、人生における成功度や幸せ度には無関係である」ということが心理学の公然の秘密だということを知っておきたい。もう一つが「学業生活達成体験がマイナスでも、その他の生活体験がプラスの者は、学業体験がプラスであってもその他の体験がマイナスの者よりも、生きがいや充実感が高い人生が送られているという傾向がある」ということ。これらのことから考えれば、人生を生きがいある充実したものにするためには、学業以外の体験が豊富になるような環境にすることが重要である。
人の心や体は人間や自然との触れ合いを中心とした「教育環境」での実体験(バーチャル・リアリティではない)・経験がつくるのであって、知識や学業成績ではない。
(2016年12月17日)
「教育の理想と現実」リスト
子供の体力・運動能力を伸ばす
今年も子供たちの体力・運動能力テストの測定結果が発表された。去年よりわずかに数値の動きはあったが、大きな変動はなかったようだ。文科省やメディアは例によって、その数値を学校での体育指導の結果だとしているが、果たしてそうだろうか。
平成7年頃だったか、その年の測定値発表を受けて市川市の子供たちの体力・運動能力向上について、その対策を検討したことがある。結果は、週3時間の学校体育では限界があること、体力・運動能力の基礎が培われるのは就学前であるため幼児期から意識して意図的に運動できる環境が必要―との結論に達し、家庭・地域ぐるみで取り組むことを施策としたことがある。
東京学芸大学名誉教授・杉原隆氏は「体育指導より『外遊び』の方が子供の運動能力は高くなる」という。杉原氏の調査からは「積極的に体育指導を取り入れている幼稚園・保育園よりも、自由に遊ばせている園の子供たちの方が運動能力が高い」。その原因として①大人が決めたことをやらせるよりも子供がやりたいことをやらせる方が意欲高く取り組める②説明を聞く時間、順番待ちの時間のない、自由に遊ぶ子供たちの方が実際に体を動かしている時間が長い③決められた運動を繰り返すよりも好き勝手に鬼ごっこ、木登り、鉄棒、ジャングルジム、砂遊び、秘密基地づくりなどをしている方が多くの種類の動きを経験できる④スキャモンの発達・発育曲線(人体の発達・発育のスピードは均一ではなく、機能・部位によってペースが違うことを示した曲線)も裏付けられる―などとしている。
就学前期は「神経系型」の発達が急激に進む時期。体がさまざまな動きを習得するのに最も効果の上がるこのタイミングでは、形の定まっていない自由な遊びこそが最適なのだ。従って、小さいうちは山や川、野原などで好き勝手に駆け回るのが良いということである。
子供の「自由外遊び」は心象の表現といわれ、子供にとっては遊びそのものが本来の目的であり、生活全体である。だから「子供にとっては遊びこそ命だ」というのである。遊びは子供の体力・運動能力を伸ばすだけではなく、これら無目的な遊びや先行経験が、その後の物事を判断する基準・尺度になっていることを考えれば、子供時代にもっと自由に伸び伸びと遊ばせたいものだ。つまり、子供から遊びを奪っては、心身の健全な成長は覚束無いのである。
(2016年12月3日)
「教育の理想と現実」リスト
子供の遊びと成長・発達⑥
友達と一緒に「ダメ」だと言われたことをしたり、禁じられた場所へ行ったりすることには独特の意味がある。それは大人の禁止線を少し破ったり、動かしたりすることだが、それだけではない。それを「仲間たち」と一緒に行うとき、子供たちは単に親のルールを破っているだけでなく、いわば自分たちのルールによって親のルールの手応えを試しているのである。
禁止を破ることは親のルールからは「いけないこと」だが、子供仲間では、それは例えば「勇気のあること」を意味する。ここで初めて親のルールと自分たちのルールが対立関係をとる。このとき、子供は初めて世界を二重化するのである。親のルールは依然として強力で支配的だが、以後決して「絶対的なもの」ではなくなる。
この世代は、いつの時代も社会のルールを大人たちからまず一方的に与えられ、それを守る能力を身に付けていくが、必ず仲間たちとの共犯的関係でそのルールを破ったり、罰を受けたりする経験を持ち、そのことで少しずつ社会のルールの意味を試す。この経験を通して彼らは、社会におけるルールの存在理由、その本質を徐々に理解していく。また、そのことで初めて彼らは、自分たちの関係のうちで自分たちなりのルールをつくっていく能力を身に付ける。だから、子供の世代が大人の世代のルールを共犯的に破りつつ〝試す〟ことには、新しい世代が既成の社会のルールを徐々に改変していくことの原型があるといえる。
青年期になるとこの友人関係は更に独自の意味を持つようになる。それは、自分自身または自己と他者や社会との関係それ自体を「主題化」し、これを表現しつつ交換し合うという自由でフェアな関係の領域となる。これは、人間が互いに個性を持った存在として自己を表現し合い、相手を理解し合う関係といえる。
このように、人間は人間関係の中で成長していくのであり、親子関係、友人関係を経て社会の人間関係へと段階を踏んで成長の階段を昇っていくのである。従ってどの段階の人間関係も大事であるが、とりわけ友人関係は重要で疎かにはできない。反抗しない子、悪さをしない子には社会ルールを改変する力が備わっていないというのは、身近な現代若者たちの現実でもある。このように、子供時代の人間関係、それを育む「子供同士の遊び」が如何に重要であるかを大人は認識したい。
(2016年11月19日)
「教育の理想と現実」リスト
子供の遊びと成長・発達⑤
人間としての成長には、子供時代に子供同士の群れ遊びが不可欠だということを繰り返し書いてきた。これまでその根拠を発達心理学と筆者自身の経験に置いていたが、今回は哲学の面から考えてみる。出典は明治大学院教授で哲学者の竹田青嗣著『哲学ってなんだ』(岩波ジュニア新書)。
人間はひとりで生きているわけではない。自己との関係、他者との関係の中で生きている。つまり、人間は関係性の中で生きている。
そこで自己関係はさておき、他者関係、つまり人間関係について、子供の教育という観点から考えてみよう。
人間が持っている人間関係には親子関係、友人関係、男女関係、社会的人間関係などがある。その中で人間誰にとっても初めての人間関係は親子関係であり、幼児期の親子関係の中で人間の価値観や感受性、美意識、倫理観など自己ルールが形成されていく。ただ、親から与えられるルールは必ず親から子供に一方的に与えられ、その後、子供がそのルールの意味を確認していくというプロセスをとる。問題なのは、子供が与えられたルールに信頼感を持てず不信と不定感に苦しめられ、ルール形成に不都合が生じる場合だ。例えば、①父親と母親のルールが一致しておらず分裂している場合②親が与えるルールと社会のルールが分裂している場合③親のルールが愛情によってではなく自分たちの都合で与えられている場合―などだ。このような場合、内面化されるルールは自分にとって納得いくものにはならない。自己ルールの分裂やズレは、必ず「自我」についての不安や自責感をもたらすから、この不安を打ち消そうとして過剰な防衛や攻撃性が強まることになる。
親子関係の次に出てくる基本的な人間関係が友人関係。親は自分と子供の一体性を求め、子供は親に依存しつつ徐々に自分の自由と自分をつかんで親から離れていこうとする。このような親子関係におけるルールの遣り取りは誰にとっても世界経験の基礎的なシーンだが、やがてそこにこれとは違った異質な人間関係が現れる。それが友人関係だ。
どんな子供でも、少し成育すると必ずイタズラをする。イタズラとは親のルールを少し破ってみることで、いわば大人のルールの手応えを自分で試してみるような行為なのだ。ただ、一人でやるイタズラはさほど大したものにはならない。友達と共犯的に試みられるイタズラ、これが重要な意味を持っている。
(2016年11月5日)
「教育の理想と現実」リスト
子供の遊びと成長・発達④
「人生に必要な知恵は、全て幼稚園の砂場で学んだ」(ロバート・フルガム)。
この言葉を実感したのは今から20年以上前、市川市立幼稚園の公開研究会で、園庭で遊ぶ園児たちを何気なく見ている時の出来事からだ。数人の園児が砂場で遊んでいたが、そのうちの1人の男の子が女の子をいじめているような姿が目撃された。しばらく見ていると、そこにもう1人の男の子が近寄り、2人の間に入って何か言い合っているようだったが、程無くトラブルが解決したようで、3人が仲よく遊ぶ姿に変わった。
この園庭でのわずか数分の出来事から学んだことは、子供たちの間で起こったトラブルは子供たちの解決能力に任せるべきで、大人が介入すべきではないということだった。この時、3人の園児は人間関係についてそれぞれが何かを学んでいるはずである。特に、仲介に入った男の子は間違いなく相互承認の尊敬欲求を満たしていると思われるし、他の2人もこの経験を通して何かしらの生きる知恵を学んでいると思うのである。もう一つ気が付いたことは、教師たちが黙って見ていたということ。当日は参観者も多い特別な日であったことから、トラブルがあってはならないとだけ考える教師たちであれば、きっと間に入っていたのではないかと推量できるが、一切介入をしなかった。園児たちも教師を呼びには来なかった。この園児と教師の動きから、同園の教育理念・方針が園児たちにも浸透し、園児の心を育てているのだと感動を覚えたものである。研究会の全体会議での挨拶はこれに尽きると思い、フルガムの言葉と共に園庭の砂場での出来事を話したと記憶している。
フルガムは幼稚園の砂場、即ち遊び場が、子供の心を育てるためにいかに大切なものであるかを語っている。昔から子供にとって遊びは命とまでいわれるが、まさにその通りで、子供時代に遊んだか遊ばなかったかで、心の成長に大きな差が生まれてくる。人間を学ぶのも人間関係を学ぶのも、自然を学び自然との付き合い方を学ぶのも、全てが子供の時の遊びの中からである。人の心の成長は、体験・経験の積み重ねであることから考えれば、子供の遊びが人間形成に欠くことができないということは至極当然なことである。
子ども時代の遊びを奪い、勉強だけを強いてきた付けが今、大人になり切れない大人の姿として表出していると考えてよい。
(2016年10月15日)
「教育の理想と現実」リスト
子供の遊びと成長・発達③
以下に、37年前の市川市教育委員会の広報紙「教育いちかわ」に掲載された、当時の社会教育指導員・岩淵義男氏の話をまとめた。
【㈠遊ばない子
最近の子供達は活発な遊びができません。①「鬼ごっこ」「かくれんぼ」「陣取り」など伝統的な遊びが姿を消しました。昔からの遊びをしないのではなく知らないのです。②遊びを教える年上の子供がいなくなり断絶ができたのです。本来、子供の遊びの先生は子供同士なのです。「タテ型」集団を沢山作り、のびのびと遊べるよい環境をつくるのが我々大人の任務だと思います。
㈡子供はガラクタ遊びが好き
最近の子供は「公園」「家の中」「家の前」など一定の場所でしか遊ばないようです。「空き地」や「原っぱ」が少なくなったからです。
ある公園の横に砂の山と土管の山があり、そこで子供達は夢中で遊んでいました。「どうして公園で遊ばないの」と聞くと、「公園はつまらない」という返事です。大人の考えで作った公園は、子供の心をとらえられないようです。草がぼうぼう生え、中古車の捨て場になっていた所で子供達が毎日遊んでいました。大人が危険だとして、きれいに整地したところ、子供達はそこで遊ばなくなりました。大人の考えで遊び場所を奪っているのです。我々大人が子供の為にのびのびと遊べる場所をもっと作るのが急務ではないでしょうか。
㈢学校外教育の問題
時間がないという言葉を聞きますが、どうして子供が遊ぶ時間がないのでしょうか。遊ぶ時間をつぶして学習塾に代表される受験戦争への参加を強要するのは、わが子だけは他人よりぬきんでて幸福な生活を送らせたいとする親のエゴのようです。塾や稽古事だけが校外での学習だとしたら大きな間違いです。遊びもまた学習です。
学校での体育の時間は週2、3時間ですが子供の体力増強には少なくとも一日2、3時間は自由に遊ばせたいものです。
遊びは「社会能力」「知的能力」「運動能力」などを鍛えていくうえで極めて重要な意味を持っています。遊んでばかりいるとよい学校に進学できないという間違った常識にとらわれて子供の遊びを窮地に追いやっているようです。ですから、最近の子供は知識を持っていますが「知恵」や「発想」がないのです。】
既にこの頃から、市川市教委では子供の遊びが失われていくことへの危機感があったのだが、今はどうだろうか。
(2016年10月1日)
「教育の理想と現実」リスト
子供の遊びと成長・発達②
遊び方を知らない子供たちが増えているそうだ。今や一人では外で遊べない子供が多いという。どうやって遊んでよいかわからず、ただ、その場にしゃがみ込み、ポツンと下を向いている。遊具も用具も目の前にないと、何もないからと工夫して遊ぶこともしない。
親の手作り遊具がなく、たまに手作りをしても魅力がないのか子供は喜びを感じなくなったようだ。だからといって既製品では子供の創意工夫の入る余地がないため、これを長く与え続けると子供が潜在的に持っている科学心や想像力、それに情緒や豊かな感性も育ちにくい。また5~6歳くらいになると、理論的な見方、考え方もでき、他人に対しても感謝の気持ちが自然に生まれてくるはずであるが、遊びという実体験が乏しいと人格形成も円満には育ちにくい。
遊びを知らない現代の子供たちは失敗や苦労、挫折などの生々しい体験、成功や完成による喜びの湧き上がる感動などの希薄さが感じられる。また、皆で一つの物をつくりだす仲間意識や苦労を分かち合う連帯感も育ちにくい環境にある。だから、今は子供たちを自然の中に放り出して自然児に戻してやる必要がある。そうすれば、頭で考えて行動できなくても、自分で自然の息吹に直接触れる中でいろいろな困難に出合い、それをどのように乗り越えていったらよいかを自主的・意欲的に学ぶことができる。
一方、大人にとって大切なのは、子供に手取り足取り教えるのではなく、何事にも自分から挑戦し対処していく、その心構えを見守ることである。主体的な行動から学びとれば感動も起こるし、意欲も湧いてくる。探究心や冒険心、創造性や思いやりは自らの体験を通して生み出されるのである。勿論、適切、有効な助言は必要。子供の心の広さと伸びやかさを認める寛大さを持ったものがよい。
また「気候風土は人間の思考や情緒の形成とも深いかかわりを持っていて、人の気質や性格、人情の機微にまで深く及ぶ」(和辻哲郎『風土』から)といわれるように、気候風土や社会環境は、よい面も悪い面にも個人のパーソナリティに強い影響を与えるものであるから、住む地域にも配慮が必要である。
子供は社会や文化的な生活環境の悪化の影響から自分を浄化する術を十分持ち合わせてはいない。そこでよりよい環境を整え、子供の自然に対する素朴な情緒や感動を大切に育んで豊かな人間性を培うことが大事になる。
(2016年9月17日)
「教育の理想と現実」リスト
子供の遊びと成長・発達①
人間形成と子供時代の遊びについて今回から6回シリーズで書いてみたい。
現代では子供遊びをしないまま大人になった人々が多くなっているという。子供の遊びは大人の遊びとは違って、子供にとっては遊びそのものが本来の目的であり、子供の生活のすべてである。従って遊びがなくなるということは子供の生活がなくなることであり、子供時代がないということである。このことは、子供が成長していく上で負の影響となり得るので、決して好ましいことではない。
遊び場を持たず、遊び仲間もいない、遊び道具は既製品しか知らないという日常生活を送っている子供たちには、例え自由遊び広場が与えられたとしても、そこでどう遊んでいいかが分からないようだ。
このことに筆者が気付いたのは1970年代前半に遠足に行った時だった。バスで目的地に到着後、子供たちに遊びについて諸注意をして「この広場で自由に遊んでいい」と言って解散した。子供たちが直ちに広大な草原に散っていくかと思いきや、意外にもブランコやタイヤなどの遊具があるところに集まって遊び始めたのには驚いた。60年代までの子供たちだったら、歓声を挙げながら一斉に広場一杯に散らばっていき、草の上を転がったり追いかけっこや木登りなどをしたりして遊んだものだった。
筆者が子供の頃は「よく学びよく遊べ」といわれてきた。家にいると「勉強は学校でするもの、家に帰ったら外で元気に遊んで来い」と追い出されたものだ。このことからも大人たちが子供の遊びの役割とその重要性を認識していたことがわかる。勉強ばかりして遊ぶこともなく大人になった人のことを「彼奴は遊びを知らない人間だ」と蔑む言葉があるが、遊びをせずに育ったために人間や社会について学ぶこともなく、社会で生きていくための知識もないままに大人社会に放り込まれるため、現実に同化できずにいる現代人が多くいるようだ。
もともと遊びは子供時代の子供世界そのもの、子供は遊びを通して人間形成をしていくものであり人格も形成される。子供の群れ遊びは思いやりなどの情を深め豊かにしていくと共に、人間の多様性をはじめ人と人との関係性や約束事の大切さなどを学ぶことで、約束を守り、お互いに協力し助け合って遊ぶというように社会性をも身に付けていく。
子供同士の群れ遊びを失った子供たちがその人生で失うものは極めて大きい。
(2016年9月3日)
「教育の理想と現実」リスト
子供が失った三つの間
「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」(教育の目的)と教育基本法第一条に定められていることは誰でも知っている。しかし、日本人及び日本社会がこの目的を果たすためにどれだけの努力をしているだろうか。
子供の教育(人格形成)上の今日的課題の一つとして、地域の教育環境の劣化による「子供同士の遊び」の消失が挙げられる。
一昔前、最近の子供達は三つの間を失ったと言われた。三つの間とは、『時間』『空間』『仲間』で、子供時代の仲間遊びを成立させるためには不可欠の『間』「遊ぶ時間」「遊ぶ空間」「遊ぶ仲間」である。子供が豊かな人間形成をするためには『子供時代の仲間遊び』がなくてはならないが、現代ではその『遊び』そのものが奪われてしまった。このことは子供たちから子供時代が失われたということでもある。
人間形成上、子供には子供の時代がなければならない。子供はその時代を思い切り生きることで子供ならではの体験をし、多くのことを学び、人格の基礎を身に付け、そして次のステップである大人へと昇っていく。このような人間としての成長に不可欠な三つの「間」を与えない家庭・社会は子供たちにとってこの上なく不幸なのだ。
子供時代を失った結果、子供たちは十分な人間形成ができず、人間性や知性・感性も未熟なままであり、社会でのさまざまな軋轢や葛藤、挫折や失敗を乗り越えられないでいて、時にはその反動としてとんでもない行動を起こし兼ねない。
また、子供同士の遊びをなくしたことにより情の発達にも悪影響が出る。日本人が非情であるとか自己愛への傾向が増してきているなどといわれるのは、遊びを奪われた結果でもある。更に、遊びによりもたらされる豊かな体験は学校に入ってからの学びによる知識と合わせて経験となり、抽象的な思考や価値判断ができるようになる。ほかにも異年齢の子供との遊びと自然とのふれあいは、体力は勿論のこと、感性や情緒、想像力を豊かにし、思いやりの情も芽生え、人間性を開花させていく。一方で、何事も自分の思うようにはならないことを学び、自己抑制力が身に付く。
このように『子供時代の遊び』がもたらす人間形成への影響は計り知れないものがある。人間としての成長・発達を支えるために子供時代の『三間』を取り戻したい。
(2016年8月20日)
「教育の理想と現実」リスト
自己愛性パーソナリティにならないために
では、どうしたら自己愛パーソナリティ障害にならないようにできるのか。その答えは前回の「自己愛人間はどのようにして生まれてくるのか」の裏返しで、子供が生まれ育つ環境を人間形成に適したものにしていく以外に無い。
まず、家庭環境。なかでも両親、特に母親が子供の社会化(社会適合への行動様式が獲得されること)を促す最初の要素になることを自覚して子供と向き合うことが大事で、社会化を阻害する過保護や躾不足は禁物。成長は母から離れることでなされるのであって、自立して世界を探究し自我を強く意識するために重要なのである。従って、これらの発達を妨げる「母子密着型親子関係」は、依存と幼児性を呈したままの大人を生むことにつながることを認識したい。
次に、子供同士で遊ぶ環境の確保。子供は親や家庭、近所の人々との触れ合いや、地域の自然的・文化的環境等、所謂、教育環境から学び成長していく。子供にとっての学びは、親など大人から教えられることがその全てではない。その殆どを地域の自然と子供同士の遊びの中で学んでいる。
このように考えた時、今、子供たちに最も欠けているものは幼い頃からの仲間同士での遊びであり、多様な子供たちとの交わりである。感情のコントロールや共感性は自尊心を傷つけられながら育てていくものであるが、人を傷つけても平気な青少年が出てくるのは、人と人との交わりを学ぶことなく、自己愛だけが過大となり、共感性が薄く、自分の感情をコントロールすることができなくなってしまっているからである。
学校も変わらなければならない。今日の国の教育政策は、教育的な理由を尤もらしく謳うが、打ち出される政策はいずれもが経済と効率優先である。それに追従する学校は、急激に変化する社会制度に適合しうる自主的・創造的な人間を形成できるような環境とは程遠い。
このような教育環境の中で子供の学校での成績だけにとらわれ、人間形成を疎かにすることが、果たして子供の将来の幸せにつながるかどうか。
自己愛人間にしないためには、子供の健全な成長・発達に相応しい教育環境の整備に努めることが大事であるが、何といっても最悪な環境は自己愛的な大人たちである。まず大人たちが自らの病理性を自覚し、教育に対する考え方を変えていかなければならない。
(2016年8月6日)
「教育の理想と現実」リスト
自己愛性パ-ソナリティ障害を生む要因
自己愛性パーソナリティ障害は、どのようにして生まれてくるのだろうか。
まず、「母子密着型親子関係」。子供が自立していく12歳前後の第二次反抗期が日本で殆ど見られなくなったが、その要因でもある。子供にとっては母親以外に頼るべき人がいない。その母親に見放されては大変なので母親には逆らえない。これは限りなく母親の意向に沿って一生を送るマザコンへとつながる。それは自立、即ち「自己の確立」に失敗し、そのまま大人になった人たちである。一方で、ドロップアウトして家庭内暴力を振るうようになる者もいるが、これも母子密着の引き起こす病理である。こうした状況の中で育った子供は、自分は人にとって何の重要性も持たず、関係性もないと認識してしまい、パーソナリティ上の欠陥を有していると信じるようになる。
次に、親の育児能力の低下による躾の欠如が挙げられる。躾は善悪とその判断力を身に付けるもので、小学校2~3年までにしておかなければならない。思春期では手遅れになる。基本的な躾は学校に任せることはできず、親が自覚するしかない。
また、過保護も自己愛性パーソナリティ障害の原因になる。親が過保護だから子供が自己中心になるのではなく、親が自己中心的だから過保護になってしまうのである。過保護は、自分の慰めとするために子供を可愛がるという盲目的なものであり、親の側の自己中心的な愛情であるから、子供との間で他者を愛するという本来の愛情関係は成立しにくいのである。
子供同士の遊びの欠落も、自己愛性パーソナリティ障害の原因の一つである。子供の人間形成において、仲間遊びはなくてはならないものである。親が学力・成績など数値にこだわって高学歴社会への対応に追われ、いい学校、いい会社(職業)に入れば幸せになれるという考え方を子供に植えつけ尻をたたいた結果、子供たちは自由な時間や友達と集まって遊ぶ機会を奪われている。他者との関係で自分が傷ついた経験が殆どないので、傷つくことを異常に恐れる。親しくなるほど傷つけ合う可能性が高くなるので、友達と深い関わりを結べないのである。
このような状況の中で育った子供は、衝動・感情のコントロールができない。その他、豊かさゆえに大人が過剰な欲をコントロールできない社会や、個人主義の行き過ぎも、利己主義を生む要因となっている。
(2016年7月16日)
「教育の理想と現実」リスト
自己中心性と自己愛性人格障害
平成9年の小学生連続殺傷事件以来、「自己中心性」「自己中人間」などという言葉が広く知られるようになった。この「自己中心性」、あるいはそれと似た「自己愛」という言葉は、学術的にはどう説明されるのか。町沢静夫著『現代人の心にひそむ「自己中心性」の病理』(双葉社)や、インターネット上の辞典などを参考にまとめてみた。
「自己中心性」とは、幼児の思考や社会性の特徴を強調するためにスイスの児童心理学者・ピアジェが用いた用語。大人になれば他者の視点から自己や物を捉えられるが、幼児はいくつかの視点を同時に統合することが難しいので、自己の視点を中心化して理解する。これを「自己中心性」といい、知的・情緒的未発達な幼児性を表している。
一方、現代精神医学では、自己中心性と同じような概念でフロイトが使った言葉「自己愛」(ナルシシズム)が用いられる。「自己愛」は人間にとっては必要なことであり、幼児期には誰もが持っていて、殆どの幼児は自分が世界の中心で、最も重要で、何でもできるし、何でも知っていると感じているのだという。そこから多くの経験や体験を通して幻想的な自己愛を修正し、自己中心的な世界から脱皮して大人になるのだが、思春期以降になっても抜け出せないでいる状態を「自己愛性人格(パーソナリティ)障害」という。
では、自己愛性人格障害の人物像とはどういうものなのか。アメリカ精神医学会の診断マニュアル(DSM―Ⅳ)を要約すると、【自分は特別で重要な存在であり、才能があるから何でも思いのままにできる(自己全能感を持つ)として、権力を求め続ける。一方で絶え間ない称賛を求めるが、他方で他者に対する共感性が欠如し、しばしば羨望し嫉妬する。また、高慢・傲慢で尊大な態度や利己的な行動がみられるなど対人関係にトラブルが多い。脆く崩れ易い自尊心を抱えているため、批判された時は屈辱を与えられ、脅されたと感じ、自己価値観を正当化するために軽蔑、怒り、無視などで反応したり、他者を蔑んだり、高慢な態度で応酬したりする。またこれとは対照的に、非難されたり、欠点を指摘されたり、恥をかいたりすることを恐れ、人前に出るのを避け、社会から「引きこもる」人々もいる】という。
現代はこのような「自己愛性人格障害」に接することが日常的になった。生活習慣病同様、大人になるまでの生活(養育・教育を含めて)を見直す必要がある。
(2016年7月2日)
「教育の理想と現実」リスト
民主教育の形骸化
最近、日本社会はおかしなことが罷り通る時代になってきたようだ。政治権力を監視し国民を権力から守るための憲法を、監視されるべき当事者の都合で変えようとする。また、放送による表現の自由を保障し、政治介入を防ぐために規定された放送法を政府が利用することもそうだ。
民主教育の形骸化もその一つ。民主教育は民主主義社会の発展を支える『主権者』を育てることが目的。その為には国民個々人が自由に学び、互いに意思を持った一人の人間として尊重し合い、意見を闘わせ、お互いの人間性や知性を高めていくというものであり、その根幹思想は自由の他に平等、博愛の精神がある。更にその精神は一人一人の行動によって実現されなければならない。
今日、日本では教育内容・授業時間など、教育に関する全ての権限を文科省に集中し、「いじめ」「不登校」などに対する事細かな指導や調査とその結果で学校を評価したり、学校が点数で人間を評価し差別したりしているが、これらは民主教育の精神に反する。
極めつけは、教育の根本である「教育の政治的中立性」を骨抜きにしたことにある。旧教育基本法の精神は「教育は本来法律で定めるべきものではなく文化であり崇高な営みである」としていた。従って、政治など権力が介入すべきものではないとして「教育は、不当な支配に服することなく…」と定めていた。それを平成18年の改定では「…この法律および他の法律の定めるところにより…」とした。つまり、立法権を持つ国会が教育に関われるようにしたのである。
現に18歳選挙権に伴う高校の『主権者教育』において、政治的中立から逸脱した教員に対する罰則について政権与党が検討をしているという。
このように教育は政治と直結し、その時の政権の狙う教育が行われることとなった。その為、教育現場は時の政権によって振り回されることが現実となり、子供たちへの影響は計り知れないものがある。
このような社会状況の中、子供を育て教育を受けさせていくためには、国は勿論、その御先棒を担ぐ教育委員会に依存するのではなく、保護者自らが主体性を持ち、子供の将来を見据えた教育の在り方を考え、教育環境を選定していく必要がある。
人間性尊重か、経済成長の人的資源か、いずれの人間観を選ぶかによって、学校は勿論、教師や地域さえも選ぶことを視野に入れていかなければならない。
(2016年6月18日)
「教育の理想と現実」リスト
「ゆとり教育」の亡霊を恐れる文科省
【学習指導「ゆとり」決別 次期要領 文科相が見解公表へ「文科省は児童・生徒が議論を通じて答えを探究する学習形態『アクティブ・ラーニング』の全面導入を目指しているのに対し、与党内から『ゆとりへの逆戻り』との批判が出ているためで、対立の芽を早めに摘む狙いがある。(後略)」】(読売新聞5月10日朝刊)
予想はしていたものの、教育より党内事情を優先した、いかにも政治家らしい見解である。子供の成長にとって「ゆとり」の重要さが全く分かっていないようだ。
「ゆとり教育」とか「ゆとり世代」といった言葉はメディアが作った言葉で一種の流行語である。学習内容と授業時間の削減が学力低下を招いたとの短絡的な見解で「ゆとり教育」を諸悪の根源としているが、その根拠とすべき評価・検証はない。
アクティブ・ラーニング(AL)は新しい教育方法であるかのように言われているが、ALの基本理論はロシアの心理学者・ヴィゴツキーが提唱した「最近接発達領域論」に基づく。彼は、発達には二つの水準があり、その一つが現状の発達水準で、子供が自分の力でできる水準。しかし、子供は大人や仲間の援助で、より困難な課題に挑戦し、到達できるというもう一つの水準がある。これが「発達の最近接領域」。これは、発達の姿を静的にではなく動的に捉えた点で極めて大切な視点である。
教育とは子供たちが「発達の最近接領域」に働きかけることによって、今日は先生や仲間の援助でできた課題を、明日は自分の力でできるようにすることである。その「発達の最近接領域」に働きかける場となるものがディスカッション・ディベートであり、グループワークである。これらの学習形態は1970年代からグループ活動として既に行われており、小中学校では決して目新しいものではない。
学習は何を教わったかではなく、何が分かったか、何ができるようになったかが重要。米国のある調査によれば、覚えたことの定着率一位は「他の人に教えること」であり、二位が「自ら体験する」、三位に「グループ討論」。他者の助けなしに分かる(やれる)ことに比べて、みんなと一緒にできることの方が広範囲に及ぶことが分かる。
「脱ゆとり」「ゆとりとの決別」などと騒々しいが、体験学習もALも「ゆとり」無しではできない教育方法なのである。
(2016年6月4日)
「教育の理想と現実」リスト
「ゆとり教育」よみがえる
「ゆとり教育が復活する」と言ったら驚くだろうか。それもそのはず、今では教育の悪役として名高い「ゆとりある教育」。平成8年の中教審答申「21世紀を展望した…」で脚光を浴びることになったが、21世紀に入って間もなく批判の的となり「ゆとり世代」と揶揄する言葉まで生まれたことは周知の通り。それが、不死鳥のごとく今年度中に蘇るというのだ。
日経新聞朝刊(4月17日号)の「日曜に考える」中外時評『ゆとり』は再生するか(論説副委員長・大島三緒)によれば【このごろ学校にはやるもの―といえば「アクティブ・ラーニング」である。略してAL。いま小中高校で教育委員会で、ちょっとした流行語なのだ】という。
では、ALとは何か。「生涯にわたって学び続ける力、主体的に考える力を持った人材は、学生から見て受動的な教育の場では育成することができない。従来のような知識の伝達・注入を中心とした授業から、教員と学生が意思疎通を図りつつ、一緒になって切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知的に成長する場を創り、学生が主体的に問題を発見し解を見いだしていく能動的学修(アクティブ・ラーニング)への転換が必要である」(中教審報告書、同24年8月28日)。授業の方法として、ディスカッションやディベート、グループ・ワークなどが例示されている。
ここで大島論説副委員長の記事に戻ってみよう。【ここまで読んだ読者のなかには、ALってどこかで聞いた考え方と似ているなあ、と思った方がおられよう。そうなのだ。これはかつて一世を風靡し、やがて文科省自身が封印に追い込まれていった『ゆとり教育』の理念にそっくりである。(中略)掲げる目標も、往年の『ゆとり』とうり二つである。「これはもしや『ゆとり』の逆襲では」と前川喜平文部科学審議官に聞いてみると、あんがい率直な答えが返ってきた。「小中学校でやっている『総合的な学習』のイメージです。語弊を恐れずに言えば、新指導要領で『新・ゆとり世代』を育てたい。(中略)これからのグローバル社会で活躍できる『人』を育てるには『ゆとり』が必要です」知識だけでなく応用力が大切―とは、そもそも1980年代の臨教審で示された方向性だ。成熟国家の教育の大きな流れでもある。】(抜粋)
またまた、国の方向転換に学校現場は振り回されることになるが、子供たちを振り落とさないようしっかり抱きしめておきたい。文科省も教委も責任をとることはないのだから。
(2016年5月21日)
「教育の理想と現実」リスト
義務教育一貫校の是非を問う
【9年間の義務教育を一貫して行う「義務教育学校」が4月から制度化される。ソニー生命保険が1~2月、大学生以下の子供の保護者1千人に同学校を増やすべきか尋ねたところ「そう思う」は51%、「そう思わない」は49%と賛否が拮抗した。
義務教育学校では、地域ごとに学年の区切りや教育課程を柔軟に変えられる。それが英語教育の強化につながるという見方や、長期的な視野で教育ができることに期待する声がある。
一方で「小学校卒業、中学校進学という子供にとって大事な区切りが失われる」という意見や、小学校の段階でリーダーシップが育ちにくくなるとの懸念もあった。(後略)】
(日本経済新聞3月14日朝刊)
同記事には「義務教育学校に対する意識」として、具体的な質問に対する回答結果がグラフと共に掲載されているが、それによると、「そう思う」が「そう思わない」を最も上回ったのが「9年間同じメンバーのため、出会い、別れといった人生経験の機会が失われる」だった。ほかでは、「中学生が身近すぎて小学校高学年のリーダーシップが育ちにくい」「中一ギャップの防止に効果がある」などといった評価は半々で、人間教育を重んずるか否かによって意見が分かれたとみる。
だがそもそも、国の教育政策は、時の政権のご都合主義で、子供の健全な成長発達を意図したものではないことは明らか。その為、施策全体からみれば矛盾が起こる。例えばこの「一貫校」。国の教育方針は、グローバル世界に羽ばたくには競争力が不可欠であり、その為にも子供の時から厳しい競争の世界を経験させ、その競争を勝ち抜いていく力をつけなければならないということで、小学校から学力競争を強いている。ところがその一方で、中一ギャップを防止するために小中一貫校を、また学校生活に「ゆとり」がないから中高一貫校を制度化する。入試競争なしでじっくり勉強に打ち込めるようにするためというのだ。
教育の本質には目を背け、その時々の事象への対症療法でその場凌ぎをしているのが国の教育政策。子供の発達の実態も、学識も無視した机上の空論に過ぎない。子供の教育は、国や従属的な教育委員会依存から脱し、人間としての健全な成長を志向した自立の道を選びたい。
(2016年5月7日)
「教育の理想と現実」リスト
森の幼稚園
森の幼稚園、その発祥はデンマークで1950年に誕生した。名前の通り森の中にある幼稚園だが、デンマークの森の幼稚園のうち63園は園舎など施設が全くない幼稚園だという。つまり、森そのものが幼稚園なのだ。この森の幼稚園はその後、ドイツにも広がり、現在では日本でも150余りの幼稚園が森の幼稚園と称して開園されている。ただ、デンマークにあるような園舎なしの幼稚園は軽井沢にあるが、日本では少ないようだ。
では、森だけの本格的なデンマークの森の幼稚園とはどんなものか。当然、家庭にはある水道、電気、下水道はない。従って水の温度は外気と同じか近くなるから、冬はかなり冷たい水を使うことになる。次に、園活動はどうするのか。園舎など施設がないとなれば園児たちはどこに行き、どうするか。それは説明するまでもなく、森に行き、そこで先生と出会い、友達と出会い、一緒になって何かをすることになる。活動の中心は、森に生える草木やその実や花、そこに生息する虫や小動物などを相手にして遊んだり、木の間を走り回ったり、木に登ったり、とにかくそれぞれに思い思いの時間を過ごすことになる。皆でそろってやるのは、先生による本の読み聞かせやお遊戯、ナイフで木を削るなどで、それらを学習プログラムにしてあるという。
次に、園児たちは森の幼稚園から何を学んでいるのか。森にすむ動物や昆虫、草木との触れ合いから、幼児なりに命の大切さや尊さ、生命力や生きる力の逞しさ、自然の美しさなどを感じ、学んでいる。そのことが感性を豊かにし、情緒の安定につながってくる。また、表現力が豊かになりコミュニケーション能力が高まる。体も丈夫になる。また、水、電気などのない生活を体験することから、家庭での生活が当たり前でないことを学び、森という自然との体験を通して理屈抜きで「環境と社会」を幼心に学んでいく。
一方で、文字や数字に触れることが少ない園活動から学校に入ってから遅れを取るのではないかと心配する向きもあるようだが、その点は始めだけのことで、数か月でしっかり遅れを取り戻せるという。子供とはそういうものである。
日本でも一昨年、自分の子供を自然の中で育てたいと親が自ら開いた森の幼稚園がテレビで紹介された。森の幼稚園までは無理としても、山村留学などに入学させることはできる。できれば、全ての子供に自然の中での生活を経験させたい。
(2016年4月16日)
「教育の理想と現実」リスト
浦安市の教育に注目する
新年度が始まった今、浦安市の教育に注目する。理由は改めて述べるまでもなく、教育の本質である子供の健やかな成長を願い、人間形成の為の優れた教育環境づくりを重視した教育施策に力点を置いている点にある。更に地域教育力となる市民(NPO)が自主的にそれを支える活動をしていることは心強い。
昨年10月にオープンした「浦安市こどもの広場」は、子供が自由に遊ぶプレーパーク専用施設。芝生や築山、じゃぶじゃぶ池、泥遊び場などがあるが、ブランコなどの遊具はなく、火と水、木、土を使って自由にのびのびと遊ぶことがコンセプト。
もう一つが、自然の中で子供たちを育むNPO法人ⅰ―netの森のようちえん。同NPOは「埋め立て地で自然環境の多くない浦安だからこそ、子供たちが自然を感じ、思い切り遊んですごせる活動が必要」という。遊具などで遊ぶことは主とせず、身近な自然の中で走ったり、登ったり、寝そべったりしながら、道具を使わずに遊ぶ楽しさを経験できる場を目指している。保育者は、子供たちが五感を十分に使い、自然の中で刺激を受けながら「自分でやりたい」という意欲や、「できた」という喜びを感じられるよう支援をしているという。
昨年9月25日に開かれた「もりのようちえん」は生憎の雨だったが、その様な自然現象による環境変化にも即応して遊びを考えることができるのが子供。雨の中を走ったり木の根が地表に出ているところを歩いたりしても転ぶ子はいない。保護者は「子供たちはすぐに順応するし、自然の中で過ごすと身体能力も上がる」。保育者の一人は「子供たちはしっかり遊ぶと満足して素直になるし片付けも率先して行う。ケンカもあるけれど、自分とほかの子の気持ちを知り互いに認めて、優しくできるように導いている。今の子供たちは体験が足りないので、自然環境の中の探検も大切」という。
他にもある。浦安教委は今年、市立入船中学校で「植物工場」を導入し、理科の実験や食育の授業、環境教育などに活用している(日本経済新聞3月25日朝刊)。市教委は「生き物である植物の素晴らしさを感じさせ、愛する気持ちを育てたい」としている。
子供の健全な成長・発達に欠かせないのが自然との遊び。その価値を認識し、自然的な環境の整備に力を入れているのが浦安市。このような教育環境で育つ子供たちの将来は明るい。
(2016年4月2日)
「教育の理想と現実」リスト
学校と教師の役割
学校と教員の役割を改めて考えてみたいと思う。一昔前、学校本来の機能を知識・技術・文化を伝達する機関としていたが、1990年代後半に「生涯学習」の教育理念が導入され、生涯学習という視点から学校教育を見直すべきだとして、学校は地域教育の主要な役割を担う教育機関へと変わった。具体的には、生涯学習の基礎を学ぶ場として、集団生活に適応できる社会性を育てる役割と機能を持つことになる。いずれは学校依存から脱し、子供たちが地域で学び経験をしながら人間形成をしていくことを期待するという教育の在り方そのものであった。
それが2000年代初頭、国の突然の方針転換により、現在進められているような競争社会に適応できる人間作りを目指す教育観が示され、その政策として学力向上推進と、一方で学校運営の効率化を目的とした一貫校化の推進が奨励された。このような本末転倒の方針転換に教育現場は振り回され、校長、教員たちは困惑したが、ただ黙って国や教委の方針に盲従している依存的で無能な校長・教員ばかりではない。確たる教育観と強い信念を持ち、子供の人間的成長発達を実感できる学校づくり、学級づくりを心掛けている校長・教員も数多くいる。ただ、それらの人々が力量を発揮するには、学校が教育の自由を認められていることが何よりも重要であり、そのような教育環境でこそ子供の精神的発達も健全で豊かになるのである。
《すべての教師に要求される唯一の画一性、それは、教師自らの力を最大限発揮して、それぞれの教育方法を案出し実行すべきだということである》(英国文部省)。
「英国の中央政府は体育の実施、宗教教育を義務付けているだけでその他は原則として地方教育当局の方針に任せており、校長に大幅な裁量権を認めている。校長も、一人一人の教員の自主性に期待する人が多い。ひるがえって日本はどうか。教育内容は学習指導要領によって細かく規定され、それを基準とする検定教科書を使用しなくてはならない。こういう体制では責任をもって自主的に仕事をする態度も能力も失われ、子供も教員も自発的に創意を働かして生きる喜びを味わえる学校ではなくなっている」(堀真一郎)。
これが果たして民主教育といえるだろうか。そんな自由の無い日本の学校に魅力を感じない―と教員を目指す若者が減っているというが、そのことが教育の質の低下に繋がっては困る。
(2016年3月19日)
「教育の理想と現実」リスト
学校も重要な教育環境
学校も重要な教育環境の一つである。従って、優れた教育環境にしなければならないのは当然であり、その責任は校長にある。ところが現実は、主体的に子供本位の学校づくりをすることもなく、文科省―教委という行政施策の上意下達に依存し、校長は学校の管理者で、子供・教職員・施設を管理する立場にあるとの考え違いをしてはいないだろうか。
『管理は教育の自殺行為である』(石井和彦)といわれるように、教育の場には管理者校長より、教育者としての校長が必要なのである。「校長が実践者として責任を持ち、学校全体の教育内容を的確に指揮し、新しい事実をその時々に創造していく力を持っていれば、形式的な管理体制などをつくらなくとも、全校の教師は喜んで一つになっていく」(斎藤喜博全集13)。教育の専門職である校長は、子供や教師と同じ学習者という立場に立ち、一人一人の力を引き出す指揮者でなければならないというのだ。その為には、子供にも教師にも自らの力を最大限発揮して学ぶ自由がなければならない。教育現場に自由が保障されて初めて子供は自主的な学びができ、教師もそして校長も自発的に創意工夫し、責任を持って自主的な教育ができるのであって、上意下達の体制は現場の自由と創造への意欲さえも失わせてしまうのである。
平成9年3月、或る小学校校長から「私の宝物です」と教育長室で手渡された卒業生からの一通の手紙。
『校長先生へ 先生に限らず大人には、大体大人から見てよい人間に育てようとする考えを持つ人と、子供の立場から見て子供を育てようとする人とがいる。今の大人は大体前者の方が多い。でも中には形ばかりにとらわれず子供の立場から見て指導してくれる大人がいる。そのどちらの考え方をする大人に出会うかによって小学校生活の思い出が大分変わる。例えば運動会。例年通り大人が考えたものを子供が実行し、とにかく成功すればいいという考えではなく、全て子供がつくり失敗してもいいという考え方になった。他にも学年縦割り活動など校長先生の考えたアイデアによって僕は考え方が変わった。自分から活動するようになった。校長先生に会わず物事に対する考え方も変わらなかったら小学校生活もこんなに楽しくならなかったと思う。本当に心から感謝しています。』Y・N
この校長は、子供や教師の力を信じ、自由と自主性を尊重した教育を心がけていたのであった。
(2016年3月5日)
「教育の理想と現実」リスト
人間教育の問題点
ヒトは他の動物と異なり、心も体も未完成のまま生まれる。それ故に「ヒトは教育によってのみ人間となり得る」とか「教育されなければヒトは人間になることはできない」などといわれる。
では、どのような教育が必要か。人間は社会を作り、社会に生きる動物である。従って、人間になるには社会に適応する為の知識や経験、態度などを身に付けなければならないが、それらをどのようにして身に付けていくか。人間形成は、人間が環境との関わり合いの中で自分自身を主体的に形成していく過程なので、人間形成の環境である『家庭や地域の人々や自然・文化等』の持つ教育力が重要となる。
子供が誕生して最初に出会うのが親であり家族、『家庭』という教育環境である。家庭の教育力は躾、社会適合の為の行動様式の獲得が最重要課題である。人間が社会的存在である限り、自己中心的に勝手気ままに振る舞うことは許されない。そこで、躾により基本的な生活習慣と行動の節度を学ばせることによって自制心を培う。このような親の的確な躾が自律性を、更に自主性を発達させる。家庭は、単に生活の場であるばかりではなく人間の精神的成長の基盤だから、家庭の教育力の低下は子供の生涯にわたって負の影響を及ぼすことになる。近年とりわけ、家庭生活の変化や親戚等の血縁的な人間関係の希薄化が乳幼児や青少年の人間形成に重大な影響をもたらしているといわれる。なかでも、性格・心情の形成にとってはその影響が大である。
また、家庭での生き物との触れ合いによって生物に対する愛情を育てることが、家族や人に対する敬愛の念を養うことにもなる。他にも、遊びが運動機能や危険から身を守るための危険予知能力などを発達させる。このように子供時代は人間としての身体機能の発達、精神的成長の著しい時期であるが、それらの成長・発達を支える教育環境が子供たちの身の回りに準備されているかどうかが問題である。
子供の心身の発達に欠かせない『自然』もまた、自然破壊の進行によって失われ、自然との触れ合いの場だけでなく、子供たちのコミュニケーション力、集団規範の習得や創造性育成の機会でもある自由で楽しい「群れ遊び」も奪われている。
いずれにしても、劣悪な環境下においては子供の健全な成長発達は望めないのであるから、家庭を中心とした教育環境の教育力を高めることが喫緊の課題であろう。
(2016年2月20日)
「教育の理想と現実」リスト
日本人が劣化しているというが
日本人が劣化してきたという。香山リカ著『劣化する日本人』(ベスト新書)はSTAP細胞問題、偽ベートーベン問題などの事件を取り上げ、2014年から日本はこれまでの社会と違う自己愛人間が跋扈する劣化社会になったと指摘している。以前小欄でも「戦後の日本人が、思いやりの情・感謝の念・礼儀が失われた」と紹介したが、責任感や義務感も失った。この結果、物事がうまくいかなかった原因を誰かの所為にするという依存的言動が目立ってきたのも日本人の劣化だろうか。劣化を教育、つまり人間形成という観点からみれば、人間的発達が十分ではないということになる。
確かに、仕事、暮らしなど身近な人間関係の中にも日本人の劣化はみられる。日本人の特性であったとされる「人情」も薄れてきた。
知性や人間性の土台になる情であるが、発達段階からいえば情が育つのは幼児期である。ただし、それ以前に生理欲求や安全欲求が満たされていることが条件。これらが満たされていないと、その後も愛情や思いやりの情は発達しない。
情の発達は、その後の心の発達にも影響が出る。順調に情が発達していれば、小学生になると「仲間から承認され、尊敬されたい」という尊敬欲求が強くなり、それが満たされることによって自尊心や自信などが得られる。しかし、逆に満たされないと、劣等感や自己嫌悪感にとらわれるだけではなく、更に高次元の自己実現欲求を満たすことができなくなる。
また、知性も情が基礎となる。言い換えれば、いくら知識を詰め込んでも情の発達無くしては、知性が豊かになることはないということである。
このような人間の成長・発達の段階を踏まずに成人期を迎えるならば、依存的であり社会になじめない「自分だけ良ければ」という自己中心の「自己愛人間」や「無敵の人」にならざるを得ない。
「養って教えざるは親の責任」という言葉がある。養うことは誰でもできるが、教えることは親にしかできないもの。礼儀・決まり・生命など社会の基本的な行動様式・態度や生活習慣、善悪の判断などの教えや情操の発達は、親が責任をもたなければならない。
一方、教師は子供の実態を踏まえての子供観と教育観を持ち、ヴィゴツキーの言葉「教育は子供の発達の前を進む時にのみよい教育である」を心に銘じて子供と向き合いたい。
(2016年2月6日)
「教育の理想と現実」リスト
学力向上より健全な成長を
毎年多くの年賀状を頂くが、賀詞より自筆の別記が楽しみだ。忠言、諫言有り、励まし有りだから。なかでも、教え子からのメッセージは物事の核心をストレートに突くものだから有難い。最近では古希を迎えるなど高齢化したためか「健康」とか「長生き」、或は「感謝」や「憧れ」などといった言葉が目立つようになり、大いに励まされる。
今年、最も印象に残った言葉は「学校が企業の待合所になって『勉強が出来る』子を育てているうちは本当の教育はできないのでは?」(小学校で担任・市川在住の50代Nさん)。今、学校が企業の求める即戦力として「勉強の出来る子」だけを大切にし、全ての子供たちに目を向けることができなくなってしまっていることをズバリ指摘している。換言すれば、Nさんが子供の頃の学校が勉強の出来る出来ないの差別がなく、全ての子供たちが大事にされ、子供一人一人の存在価値が認められている学校だったということである。
振り返ってみれば、その頃の学校は教師にも自由とゆとりがあり、勉強が出来る出来ない、言行の良し悪しに関係なく、子供と教師、子供同士、皆がのびのびとした雰囲気に包まれていた。その背景には、当時の大人たちの人間性の豊かさがあり、人を包容する度量があったからこそ、人間本来の多様性が認められていたのだと考えられる。
それが今では、人間性の貧しさにより人々が生きる上での自由さを失い、生活・医療・教育格差など格差社会の中で差別され、排除・疎外されることによって多くの人々が絶望的になっている。その結果、自己中心主義・快楽主義・刹那主義・拝金主義などに流される。学校もその例外ではない。子供たちは人間形成に欠かせない自発的な行為・活動である遊びの自由を奪われ、人間性や社会性、協調性などを身に付けないまま学校という集団生活に入らざるを得ない。これでは仲間意識も持てず、友達同士の交流や経験の共有を楽しむこともできない。これらがいじめの背景でもある。そんな子供たちを預かり教育をするのが今の学校で、そのことを認識し、改めて学校の在り方を考え直す必要がある。
今、一部の子供たちを対象とした学力向上推進校とか小中・中高一貫校などに挑戦などと胸を張っている場合ではない。全ての子供たちの健全な成長発達を目指し、人間形成上負の影響を与えている教育環境の見直しとその回復に全力を傾注すべき時ではないのか。
(2016年1月16日)
「教育の理想と現実」リスト
大村智氏のノ-ベル賞受賞の教育的意義
「『日本人がもらった京大がもらったではなく、本当の意味で人類に貢献した実績がある人にノーベル賞が与えられたことが近年になく素晴らしい』。これは昨年、大村智氏のノーベル医学・生理学賞受賞をわがことのように歓迎した京大研究者たちの評価である。今回受賞の理由となったイベルメクチンはすでに何十億という数の生命を救った実績のある薬。ノーベル賞選考委員会が『人類への偉大な貢献をした人に与える』というアルフレッド・ノーベルの遺言に立ち返って賞を与えたことに対して称賛を送っているのです」(日経ビジネスオンライン、Dr・村中璃子氏の記事から)
大村氏の今回の受賞は教育の面から見ても非常に価値がある。受賞の原点が子供時代の教育環境にあるからだ。
大村氏は農家の長男として生まれ、ガキ大将ではあったが勉強はまるでダメ、でも「勉強しろ」とは誰にも言われたことはなかった。高校まではスポーツに夢中になり、スキー国体には選手として出場。負けず嫌いではあったという。このような生い立ちが大村氏の人格や知性を育んだ。
その氏の思いはテレビ番組などでの発言に表れている。まず、生まれ育った故郷への思い。「地域の発展は皆が心を一つにすることだ。一人の力は小さくても皆が力を合わせれば…。自分は故郷に育てられた。厳しく育てられたからこそ、負けるものかという心が身に付いた。そのことから人の為になることを考えるようになり、それが研究の成果(ノーベル賞)につながったのだ」。この故郷への感謝の念が自費を投じての「温泉施設」と「美術館」の建設となった。
地方大学については「地方大学は好きなことを自由にできる環境がある。更に、他学部との多様な人的交流が可能であり、少人数教育であることから教官との交流も密である。その出会いを大事にすることが自分を『役立つ人間にする』のだ」と。また、「自由に学びたいことが学べる大学が将来を決めるのだ」とも。
その他にも印象に残る言葉が多くある。「農業は科学者のやることだ」。子供・子育て論では「自然との触れ合いを豊かにすることが大事。人は自然に生まれるものだから」。若者たちには「幸運は強い意志を好む。やろうとする意志が大事だ。失敗を恐れずどんどんやれ!」。科学者であり教育者でもある大村氏の言葉は教育の神髄を内在しているだけに、日本教育の在り方に警鐘を鳴らすものである。
(2016年1月3日)
「教育の理想と現実」リスト