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「人」リスト~2015年

手話できる人、下手でも数多く

厚生労働大臣表彰を受けた手話サークル「あおべか」会長

 秋山 文恵 さん

 4歳から母親に連れられて手話サークル「青べか」に参加。5歳のころ、各地の手話サークルと聴覚障害者とのイベントでアメをのどに詰まらせたが、多少できた手話で伝えて事なきを得た。本格的に参加したのは8歳で「覚えた手話を使い、自分の思いが通じた時の感動はいまでも忘れられない」という39歳。最近では、テーマパークで聴覚障害者とスタッフの会話の橋渡しができたことを喜ぶ。
 
 「青べか」の特徴は、聴覚障害者との交流の場づくり。ただ手話を学び、通訳士・者を目指すのではなく、「来てくれた聴覚障害者が〝ホッ〟とできる場所にしたい」と、ともに寄り添える場づくりを担い続けている。
 
 手話が以前より知られ、広まっているとはいえ、例えば、鉄道事故があったときの改札口などいざという時、手話ができる人がその場にいるとは限らない。長年の活動が認められ、国からも表彰されたが、望むのは、障害者と健常者がともに過ごす社会。「街中に手話ができる人が少しでも多くいてくれたらいい。うまく話せる人一人より、下手でもたくさんいる方がいい」。

 (2015年12月19日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「農業を身近な存在にしたい」

千葉なし味自慢コンテストで最高賞を受賞

 鈴木 庸夫 さん

 「自分が育てた作物をおいしいと言ってくれることが一番の喜び」。これまで市内や県内のコンテストで何度も1位を受賞。「作物は生き物。小さな変化に気付き、手間暇を惜しまず手を掛けることが大切」と情熱を注ぐ61歳。

 約200年続く農家に生まれ、大学卒業後はサラリーマンとして働いていたが、29年前、父親が高齢になったこともあって、無学から農業を始めた。

 それからは、父親に教わりながら夢中で農業に励む日々。「もっとおいしいトマトと梨を作りたい」。そんな気持ちから父親とは何度も栽培方法のことでぶつかった。疫病で作物が全滅したこともあったが、この失敗を原動力に「もっと高みを目指して皆に喜ばれるものを作りたい」とさらに土や肥料の研究に励んだ。今回のコンテストでは一般人50人による投票で28票を獲得。「やっと満足いく梨が作れた」と思う瞬間だった。

 市民農園やサツマイモ堀り園、学生向け農業体験プロジェクトも手掛け、多くの人に農業の楽しさや大切さも伝えている。「もっと身近な存在にしたい」。農業の未来も考える。

 (2015年12月12日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「集大成となる作品を作りたい」

第8回市川市民芸術文化賞を受賞

 藤田 潤 さん

 「自分の作品を見た人が『人生とは何か』を考えられる作品を作り続けたい」。

 世界的なガラス工芸家だった故・藤田喬平を父に持ち、「幼い頃からガラス工芸が生活の一部だった」。大学卒業後、一度は就職するも「企業の歯車になりたくない。物作りで自分を表現したい」という思いが強く、父の影響から自然とガラス工芸の道に進んだ。

 その後は父の助手として多忙な毎日を送りながら、自分の作品作りを模索し続けた。風や雲、水など自然界の気韻や生命の尊さを、温かみのある色彩と優美な形態で表現する−。そんな独自のスタイルと確立するまで約10年。「普通は専門学校で学びながら自分の作品を確立するが、父の指導だけだった自分は個性を見つけるのが大変だった」と振り返る。

 現在は日本とイタリアを拠点に多くの作品を生み出し、全国各地で個展を開くなどしている。日本ガラス工芸協会の理事長も務め、ガラス工芸の普及にも力を入れる64歳。「60代で自分のこれまでの集大成となる作品を作りたい」。ガラス細工の無限の可能性に人生を懸ける。

 (2015年12月5日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「高校の全国大会で優勝したい」

全国大会男子団体3位入賞の東京学館浦安中剣道部主将

岩崎 蓮 さん

 昨年、主将に選ばれた時は「全国大会で全く勝てなかった悔しさを忘れずに、自分たちの代では絶対勝ってやろう」と意気込んでいたが、試合ではことごとく敗退が続いた。しかし、全国大会では「1人負けたら、次の人が取り返すという気持ちでみんなが戦うことができ、個人的にも油断することなく戦えた」。結果は、創部以来の最高成績となる3位入賞。それでも「目標は全国大会優勝だった」と、今回の結果に決して満足はしていない。

 物心がついて間もない頃から竹刀を握り、「常に竹刀を持っていないと落ち着かない」と言うほど剣道が好きな中学3年生。「練習はつらい」と感じているが、「その分、勝てた時の喜びは大きい」と醍醐味を味わっている。「団体戦はチームで戦うため、試合の流れを見て気合を高めることができる」と、個人戦よりもチームとして戦う団体戦を得意とする。今大会でも、団体戦の個人成績は12勝1敗1分と大車輪の活躍を見せた。

 「高校入学後も剣道を続け、全国で優勝したい」。今大会の悔しさを内に秘め、夢に向かって突き進んでいく。

 (2015年11月28日号)TOP PAGE 「人」リスト~2015年


「仲間と歌えるのが最高に幸せ」

真間女声コーラス代表

 海宝 敏子 さん

 今年で創立40周年を迎え、きょう21日に記念演奏会を市川市文化会館で開く。「これまで一緒に頑張ってきたメンバーと最高の歌声を披露したい」と意気込む。

 小さい頃から歌が大好きで、小中学校、高校、会社でコーラス部に所属。一時期、子育てで合唱から離れていたが、子供に手が掛からなくなってきた時に市立真間小PTAのメンバーで合唱団が発足すると聞いた。「うれしくて仕方なかった」と即入団すると、すぐに代表に就任。現在のメンバー23人はほとんどが発足当初から活動しており、「心の底から歌が好きな人が集まり、あうんの呼吸でまとまっている」という。

 10年前、病気でしばらく練習を休んだ時期もあったが、「早く元気になって一緒に歌おう。あなたがいないとだめなの」という仲間の言葉が励みとなり、1年後に復帰。「ここが私の居場所だ」と改めて気づかせてもらった。

 「仲間と歌えることが最高に幸せでうれしい」と笑顔を見せる70歳。「音楽は私にとって人生そのもの。これからも仲間とともに歌える限りは歌っていきたい」。音楽人生に終わりはない。

 (2015年11月21日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「改めてモノ作りの楽しさ実感」

自律型ロボットの国際競技大会優勝チームのリーダー

 笠原 瑛甫 さん

 小学生の頃にゲーム機で遊び、「架空の世界がゲーム上では現実のものになる」とモノ作りに魅力を感じた。「将来はゲームのプログラマーになりたい」。小学6年生になると見よう見まねで簡単なパソコンゲームを作るほど熱中した。

 県立市川工業高校入学後、友人に誘われてロボット技術研究部を訪問。初めてロボットに触れ、「これまでやってきたことと違う。面白そう」と新たな世界に興味が湧いた。優勝した大会はそのわずか半年後。大会前から、チームを組んだ同じ部の仲間3人でスピードを出すにはどうしたらいいかなどを話し合い、内蔵プログラムで動かすロボットを何度も作り直した。当日は「これまで培ったプログラムの知識を生かすことができ、冷静に取り組めた」と、高校生初学者の部門で優勝。「ロボットとゲームは分野が全く違うが、モノ作りという部分は同じ。改めてモノ作りの楽しさを実感した」と貴重な経験を積んだ。

 「将来の道にまた新たな選択肢が増えた。残り2年半の高校生活でもっと勉強してしっかりと将来を決めたい」。可能性と夢は限りなく広がる。

 (2015年11月14日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「自然を愛する気持ち伝えたい」

創立40周年を迎えた浦安菊好会の会長

 室 洋二 さん

 日本を代表する秋の花の菊。大菊は花の直径20㌢、厚さ15㌢にもなる。「花そのもののたたずまいには謙虚さが感じられながら、ランよりも大きく、豪華絢爛さが魅力」。小菊を集めて咲かせる大作りや懸崖なども大御所会員の技の見せ所。10日まで浦安市役所で開いている菊花展で多くの人を魅了している。

 草花を育て始めたのは小学生のころという74歳。庭で矢車草やキンセンカなど数多くの草花を育てた。仕事で距離を置いてしまったが、定年を迎えると、市の高齢者向け園芸場・楽花苑で指導員になった。そこで、お年寄りが体が多少不自由でも草花を育て、癒されている姿を見て、園芸が果たす健康への効果を学ぼうと園芸福祉士の資格を取得。「園芸は体も頭も使う。きれいに咲かせる方法を考え、花の様子が気になって外出し、面倒も苦にならない。園芸で幸せになろうという考え方で、健康寿命を延ばすんです」。

 市立小学校で花作りの指導を担ったこともある。「子供やその親御さんにも、自然を愛する気持ち、花の魅力を伝えていきたい」。いま胸に抱く、ささやかな願い。

 (2015年11月7日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「団体、個人で世界一を目指す」

国体ボウリング競技で4連覇

 向谷 美咲 さん

 5歳のころ、親の勧めで初めてボウリングをしてから17年。アマチュアの国内最高峰の大会・NHK杯で3度優勝しているほか、国体4連覇、アジア選手権2位、世界選手権大会2013男女大会女子トリオ3位など、日本ボウリング界のエース級の活躍を続ける。中学生だった平成18年に本紙の取材で話していた「世界に通用する選手になりたい」という目標を実現している。
 
 「レーンとの相性によってストライクを狙うか、スペアを狙うか見極めができることと、周りのペースに惑わされずにマイペースで試合を運べること」が自身の強み。「課題がないと上を目指せない」と、常に課題を見つけて向上し続けている。今年から日本代表のキャプテンに就任。「仲間の悩みや関係者とのつながりを考えることが多くなり、想像以上に大変」と苦労もあるが、チーム全体を強くすることにやりがいを感じている。
 
 「日本代表チームとしても、個人としても世界一を目指している。来月行われるワールドカップで優勝を目指す」。自信に満ちた表情が活躍を予感させる。

 (2015年10月24日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「被災地を音楽で盛り上げたい」

被災地・岩手県で復興支援ライブを企画・運営

 鈴木 輝雄 さん

 「現地の人と一緒に歌い、盛り上がるのが楽しい。音楽は人との一体感を生む」。平成24年から大船渡市を中心に岩手県で無料ライブを開催。全国から多彩な分野のミュージシャンが現地を盛り上げている。

 「初めはライブをやらせてくれる施設がなく大変だった」。それでも「音楽で現地を盛り上げ、少しでも経済支援をしたい」と、何度も現地に通って実現させた。いまではリピート参加するミュージシャンも増え、現地の人からも「また来年も絶対に来てくれ。毎年楽しみにしている」と声を掛けられるようになった。特に昨年のライブでは「自然と歌声が上がり、会場内が一つになっていた。この一体感が何よりのやりがい」と感じたという。

 50代で「音楽と一生付き合っていきたい」とライブハウスをオープン。自身もフォークソングのバンドを組む。「震災直後はたくさんのイベントが行われていたが、いまでは閑散としている。私たちは被災地を忘れないという思いでこれからも音楽と被災地をつなげていきたい」。音楽を愛する男の夢はまだまだ続く。

 (2015年10月17日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「市川PRできる事業を目指す」

いちかわ電力準備会代表

 斉藤 真実 さん

 市民の資金で太陽光パネルなどを設置し、出資者に売電利益で返済・配当する「市民電力会社」。市川でも今年8月、市民ワークショップの受講生6人で、設立を目指す準備会を発足させた。事業化に協力してくれる会員も徐々に増えているが、「専門家を含め、まだまだ多くの人に参加してほしい」と協力者を募集中。「例えば梨農家さんと連携して出資者に梨を配るなど、市川の特色をPRできるような事業化を目指す」と意気込みを語る。
 
 市川生まれ、市川育ちの39歳。学生のときに環境問題に関心を持ち、大学院で専門的に学んだ。政治家の秘書として環境政策を学んだ後、環境系シンクタンクで全国各地の問題を研究。そんな中、「市川ではまだ何もしていない」と気付き、平成21年から市の環境市民会議やNPOの一員として地元で活動するようになった。
 
 現在は市川市地球温暖化対策推進協議会の理事も務め、「仕事と週2回の社交ダンス教室以外の時間は環境問題に取り組んでいる」という多忙な毎日。「環境問題が全て解決され、晴れて南の島でのんびり暮らしたい」とその日を夢見る。

 (2015年10月10日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「五輪に向け日本で一番目指す」

ビーチバレージャパン3連覇

 高橋 巧 さん

 物心がついた頃に親の影響でバレーボールを始めた。春日部共栄高校時代は、スパイクが打てないリベロという守備専門のポジションで、2年の時にはインターハイで全国3位の成績を収めた。

 了德寺大学に進学し、ビーチバレーに転向。「これまで試合でスパイクは打ったことがなかったので楽しい」と、その魅力に取りつかれていった。才能はすぐに開花し、翌年から大学選手権を3連覇。ビーチバレージャパンでも今年で3連覇と、23歳の若さでビーチバレー界をけん引している。

 「レシーブやスパイク、サーブ、ブロックなどすべての技術が必要なことと、風や日差しなどのコンディションがいつも変わること」がビーチバレーの醍醐味。「ペアで行うのでコミュニケーションは大事。ズレが生じるとプレーにも影響する」と難しさも感じている。

 五輪には日本から1組しか出場できない。「現在は代表の2番手。オリンピックに出場して、これまで支えてくれた了德寺大学や親に恩返ししたい。そのために、まずは日本で一番を目指す」。柔和な表情の中に熱い闘志を垣間見せた。

 (2015年9月26日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「自分なりの支援の形見つけた」

東日本大震災の被災地を取材するフリーライター

 矢田 海里 さん

 市川市に生まれ育った34歳。大学在学中に米国を自転車で横断し、紀行文をインターネットサイトに掲載。数年前からはフィリピンの貧民街を取材している。

 「とんでもないことが起きた。自分の目で確かめたい」。東日本大震災が発生すると、13日後には現地でがれきの撤去を手伝っていた。「自分はライターとして何ができるのか」。答えは出ないまま、現地に移り住み取材を始めた。 初めは「被災地でカメラを向けることは、ナイフよりも鋭い凶器を向けるのと同じ」と、罪悪感でレンズを向けられなかったが、ともに生活するうちに被災者と打ち解け、苦しみや悲しみを話してくれるようになったという。やがて現地で見えてきたのは、被災者の声をそのまま伝えないメディアの姿勢と社会の無理解。この事実を雑誌などに執筆したり、講演会で話したりすることが自分なりの支援だと、答えを見つけた。

 いまでも「親しい仲間に会いに行く感じ」と、数カ月に1度は現地を訪れる。「今後はこれまで取材してきたことを本にまとめたい」。被災地の取材活動にひとまず区切りをつける。

 (2015年9月19日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「あいさつし合える商店街にする」

地元活性化に取り組む「ねもポジ会」代表

 鬼頭 矢 さん

 京成線国府台駅前通りの商店街「根本発展会」のお茶屋に生まれた41歳。これまでアジアやアフリカ、南米など各国を放浪し、「その中で人や地域のつながりの大切さを学んだ。自分が生まれ育った町にも伝えていきたい」との思いを強く胸に刻んだ。

 家業を継ぐため地元に戻ったのは3年前。「多くの商店がシャッターを閉め、街は閑散としていた。町内の人同士があいさつもしないで素通りする姿が悲しく、あいさつし合える環境になれば商店街も変わるかもしれない」と、地元の有志数人でねもポジ会を設立した。以来、クリスマス会や夏祭り、子供向けの水鉄砲大会などさまざまなイベントを開き、地元の活性化に奔走。去年から「商店街の人たちと国府台に通う大学生との接点を作りたい」と、千葉商科大学の学生を中心に大勢の学生と商店街の人たちで協力して音楽イベントを開き、大成功させた。

 「今後は、閉店した店舗を学生が企画運営したり、市内の福祉事業所と連携した店舗を展開したりしたい」。活動は始まったばかり。これからも商店街のみんなと活性化に取り組む。

 (2015年9月12日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「歌声が一つになる瞬間が魅力」

30年を迎えた浦安混声合唱団の団長

 下津 可知子 さん

 昭和60年、浦安市在住の音大卒業生と合唱好きの市民により、ドイツの作曲家の曲を歌うサークルとして発足し30年。宗教曲やアニメの曲など幅広く歌うが、近年は日本の曲を歌うことも大切にしている。

 男声や女声の合唱団が多い中、男女4パートで奏でる混声合唱は「その歌声の変化、幅の広さが魅力。自然の美しさや静けさ、厳しさ、また人の感情などを男性と女性の声で豊かに表現でき、聴く人の心をとらえる」という66歳。

 外資系企業で早朝から深夜まで働いていた時、「仕事とは全く関係のないことがしたい」と、浦安市の第九演奏に参加。それまで合唱の経験はなかったが、「100人が集まって歌うこと、聴きに来てくれたお客さんの大きな拍手と満足そうな表情に、こちらも感動した」と、合唱の世界にはまった。

 次の定期演奏会は今月12日。「4つのパートがバランスよく一つになった時、目の前の空間にハーモニーが生まれる。その瞬間が魅力。私たちのハーモニーをぜひ聴きに来てほしい」。飽きるくらいの練習を重ね、メンバー16人が気持ちを一つにステージに立つ。

 (2015年9月5日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「自分と部下のため全国に挑戦」

 笹木 孝信 さん

 イクスピアリのシェフパティシエとして、同施設内の直営レストランなどのスイーツを一手に引き受ける39歳。このほど開かれた千葉県洋菓子作品コンテスト大会の国内産米粉を使った洋菓子部門で2年前に続き今年も優勝。米粉には「通常のものではありきたり。米粉は焼き色が付きづらく、パサつきやすいが、だからこそ自分の力を発揮できる。コメの消費拡大にも貢献したい」と関心を持つ。

 次は、9月27日に都内で開かれるジャパン・ケーキショーの国内産米粉を使った焼き菓子部門に出場。「全国を相手にトップを得たい。自分のため、そして部下の道も切り開きたい」と、千葉県で優勝した得意のパウンドケーキにさらに磨きをかけている。

 高校卒業後、調理師専門学校に進む。フレンチの世界を目指していたが「どうやって作るのか想像もできない」と洋菓子に引かれ、在学中に転進。さきごろ閉店した本格フレンチレストランのマキシム・ド・パリで研さんを積んだ。

 「ケーキは自分の分身。食べてくれた人のおいしそうな笑顔を見るのがうれしい」。客席をのぞき、笑顔を糧にしている。

 (2015年8月22日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「 皆の英知で平和な国にしたい 」

浦安市遺族会会長

 大塚 勝幸 さん

 「36歳の若さでお国のために命をささげた父は、出征前に母の実家に来て、私の名前を着物のたもとに残していった。あと1カ月早く戦争が終わっていたら父が生きて帰ってきたかと思うと悲しく無念でならない」―。戦没者の子供世代として初めて会長を引き継いだ71歳。「大変な思いをした両親だが、生んでくれたから私たちがいまいる。私たちの役割は、戦争の悲惨さや平和の大切さを子や孫、後世に伝えていくこと」。

 市町村規模の遺族会としては珍しく、靖国神社にならってみたま祭を昭和54年から毎年開催。会員たちが掛けぼんぼりや提灯を作ってつるすなどして始めた。また、会員らとともに、靖国神社や護国神社、さまざまな追悼式などにも参拝し、戦没者に感謝する。

 「戦争によって肉親を亡くした。そうしたつらい思いを他の人には決してしてほしくない」。当時のことを思い出すと目を潤ませ、言葉に詰まる。だからこそ、「孫やひ孫、その先もずっと平和な生活を享受していけるよう、皆の英知で平和な国を作っていきたい」。戦後70年だからというのではなく、日々、その思いを抱く。

 (2015年8月15日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


地元の良い所を知ってほしい

本紙連載『フォトスケッチぶらり市川・浦安』執筆者

 小島 愛一郎 さん

 「人間にも服にもメッセージがある。その見えない言葉を写真で伝えるのが私の仕事」。カメラマンとして、ファッションや報道、芸能などさまざまな分野で約50年間活躍した。当初は少し妥協したこともあったが、「写真はすぐにばれる」。仕事の上司や仲間、読者などから厳しさを教わった。「満足する写真は数枚しかない。最終目標は人の想像力を働かせ、ずっと見ていても飽きない写真を撮ること」。この熱い思いと高いプロ意識が人望を集め、会社を辞めたいまも仕事を頼まれる。

 10年前、「地元に貢献したい」とプロの写真家たちで市川写真家協会を立ち上げ、市民が市内を写した写真の展覧会を開催。「身近な場所だからこそ隠れた良さがある」。これまで多忙で気が付かなかったことだ。それまでも江戸川で写真を撮っていたが、以降は貝塚や里見公園など市内のさまざまな場所を撮影するようになった。

 市川市に生まれ育った71歳。「地元の良いところを知ってもらいたい。独自の視点で撮影すると、その人なりの街のよさが表れる」。連載への思いを胸に、きょうもカメラを片手に市内をぶらつく。

 (2015年8月1日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「ライバルを倒して優勝したい」

フルコンタクト空手の全国大会で準優勝

 大場 ももか さん

 家族全員がフルコンタクト空手に取り組む空手一家に育ち、父親が運営・指導する道場で5歳頃から稽古を始めた。ただ、稽古は基礎練習ばかりで厳しく、中学生になると部活や勉強が大変になったこともあり「稽古に身が入らず、試合にも出なくなった」。

転機は高校に上がる少し前。当時中学生だった弟の部活に参加し、初めて強い女性と稽古をした。「かっこいい。こんな人になりたい」。一瞬にして目標が定まった。

その後、ブランクを取り戻すかのように厳しい稽古を積み、数々の試合に出場。幼い頃の基礎練習もあって才能はすぐに開花し、高校2年生で全国大会高校生の部3位に輝いた。今年5月の全国大会では準優勝。ただ、長年のライバルに負け、「喜びより悔しさの方が強い」と負けず嫌いな性格をのぞかせる。「来年は今大会で負けたライバルを倒し、優勝したい」。心の奥底で闘志を燃やす。

幼い頃はやめたかった空手だが、いまでは週6回の練習でも「楽しい」。空手着を脱げば、和洋女子大学で勉学に励む2年生。道場の子供たちからも慕われる笑顔の素敵な女性だ。

 (2015年7月18日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「愛情があふれる世界を作品に」

「花咲く書道」で知られる書道家

 永田 紗戀 さん

 祖母の薦めで3歳から書道を習い始め、小学2年生の時、書道の腕前を教員にほめられたことで、書道家を志すようになった。21歳で書道師範の免許を取得。23歳でフリーの書道家として本格的に活動をスタートし、11年が過ぎた。

 仕事が少ない時期が長く続いたが、人気が出たきっかけは、28歳で長女を出産した後の作風の変化。「気持ちが明るくなった」と、色彩が豊かになり、いつしか「花咲く書道」と呼ばれるようになった。

 自分の中の「愛情があふれる世界」を作品の中で描き続ける。それらの作品は見る人をひきつけ、時には号泣してしまう人さえいる。「私が過去のつらい思い出を持っているように、人それぞれ悩みを持って生きている。そんな人たちが作品を見ることで、抱えた不安を少しでも解消できれば」との思いで作品を生み出している。

 「子供たち向けの書道教室を開いて書道を楽しむ喜びを教えたい」というのが今後の目標。「個展や書道教室など一つ一つの仕事に全力に取り組んでいきたい」と、さらなる高みを目指して活動を続けていく。

 (2015年7月11日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「支えられていまの自分がいる」

津軽三味線の全国大会で最高賞を受賞した千葉商大4年生

 齋藤 沙希 さん

 幼稚園で初めて音色を聴き、「幼いながらその迫力に魅了された」という津軽三味線。小学2年生の頃に習い始めたが、母親からは「飽きっぽい性格だから」とレンタルの楽器が与えられた。「どうしても自分の楽器が欲しい」と練習に打ち込むと、才能は一気に開花。小学5年生で出場した全日本金木大会小学生以下の部で準優勝に輝き、その後も多くの大会で入賞した。
 
 高校に入ってからは、「目指す方向性が違う」と、所属していた流派をやめて独学で練習。それまで以上に厳しい稽古を重ね、今年5月に目標の一つだった同大会最上級クラスの一般の部A級で見事最高賞に輝いた。
 
 ただ、それまで順風満帆だったというわけではない。「独学への不安や、思い通りに弾けないいらだちから、何度もやめたいと思った。そんな時、家族や応援してくれる人々に支えられ、いまの自分がいる」と感謝する。
 
 「どんなに練習しても勉強不足だと感じる。まだまだ上を目指したい」と精進を続ける21歳。「将来は津軽三味線の伝統的な弾き方や歴史を引き継ぎ、聴く人が楽しいと思える演者になりたい」。

 (2015年7月4日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「子供が行きたい学校にしたい」

浦安市教育長

 細田 玲子 さん

 38年間の教諭生活を終えてから、市長に教育長就任を打診された。「私にその力はない。ただ、教諭生活のほとんどを過ごした浦安。必要とされるなら恩返しがしたい」と1カ月以上悩んだ末に決めた。「前任の教育長の後姿を見て仕事の大変さは知っている。周囲に支えてもらいながら、引き継いでいきたい」という61歳。
 
 教諭を目指したのは、小学生の時の担任の姿が脳裏に焼き付いているから。「厳しかったけれど、一人一人を大事に、得意な力をほめて伸ばしてくれた」。教諭としては子供や保護者から助けられて苦労した記憶はないが、母親としては子供がケガをさせたり、いじわるをしたりして何度も謝りに行った。「子供はまっすぐには育たない。右へ左へとそれながら育つもの。ブレ幅は広くていい」。
 
 「子供の健やかな健康、学びのために施策を考え、実行するチームのリーダー」である教育長。目下は、幼・保育園と小中学校の連携、インターネットで外国人と話す外国語教育、いじめがなく子供が生き生きと学べる環境の確立に重点を置く。子供たちが行きたいと思える学校にすることが願い。

 (2015年6月27日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「 子供たちに寄り添い、初優勝 」

全国優勝したAll☆Ichikawaのチアリーディングコーチ

 石川 絵里加 さん

 チアを始めたのは高校生の頃。幼少から習っていたクラシックバレエで柔軟になった身体が生き、「体がどんどん覚えていくのが楽しい」とのめり込んだ。大学卒業後はチアダンススクールの講師を務める傍ら、「現役は続けたい」と社会人チームに所属。昨年は世界選手権に日本代表として出場するまでになった。

 昨年から同チームを指導するようになり、「初めは受け身の子が多く引っ張るのが大変だったが、自発的にやれるよう子供たちの気持ちに寄り添いながら練習を続けた」。すると、今年3月に開かれたチアリーディングの全国大会で小学生以下の部で初優勝に輝いた。「優勝した瞬間の子供たちの笑顔と、『楽しかった』の一言が一番の幸せ」と笑顔を見せる。

 大切なのは「どうしたら子供たちの目標を達成させれるのかを考えること」。そこには「子供たちが主役。常にキラキラしてもらいたい」との思いがある。

   「体力が続く限り現役を続けたい」と、年に数回、技術向上のため米国で学ぶ27歳。指導者としても「一つレベルを上げた階級で優勝を狙いたい」と挑戦は続く。

 (2015年6月20日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「公正で公平な議会を運営する」

第19代 浦安市議長

 深作 勇 さん

 柔道に打ち込んできたことから柔道整復師になった。勤めた東京・西葛西の整骨院には浦安から多くの人が押し寄せ、やがて望まれて浦安で開業。「漁師町だから口は悪いが腹黒くはない。水が合った」と笑う茨城出身の74歳。
 
 父親は村会議員だったが、自身は「政治には興味がなかった」。だが、浦安市議の選対本部長を務めた時、市議から引き継ぎを打診され、周囲にも推され、「子供も成人した。世のため、人のため、市のために頑張るならいま」と、浦安への恩返しの思いで立候補した。
 
 市議として努めてきたのは、新町と元町とのまちの発展の差を解消すること。神社や祭、神輿など元町の良さを残して行くことは必要だが「住環境を良くするためには変えることも大事」と、道路の整備や駅前開発などを推進する。
 
 「いつかは」と思い描いた議長に5期目で就任。「開かれた議会、公正で公平な議会を運営したい」と重職に臨む。当然、議場を離れれば一人の議員。「市民の皆さんの要望をよく聞いて、住みやすい浦安にしたい」。モットーの「やる気、勇気、元気」を携え、恩返しを続ける。

 (2015年6月13日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「『開かれた議会運営』をしたい」

第67代 市川市議会議長

 中山 幸紀 さん

 政務活動費の使途を巡って混乱が続いた市川市議会。「市民の皆さんには肩身の狭い思いをさせている。これからは情報公開などを行い、開かれた議会運営をしていきたい」と気を引き締める。
 
 「何でも相談しやすい議員でありたい」。市議として4期目を迎えた64歳。フットベースボールチームの監督や中学校のPTA会長などを務める中で、地元の人々に推されたことが市議になるきっかけだった。しかし、これからという2期目の選挙ではまさかの落選。「当時は外に出るのも嫌で落選したことを抹消したかったが、落選して自分を見つめ直せたからいまの自分があると思うようになった。過去は変えられる」と振り返る。
 
 若い頃は「世界を見てみたい」と海外を飛び回っていた行動派。市議になっても「頼まれたらすぐにやる」とその性格は変わらない。議員になって一番うれしいのは「中山さんが市議をやってたからよかった」と言われること。これからも初当選時から訴えてきた「武蔵野線の新駅設置」を目標に、市民と共に活動する。

 (2015年6月6日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「 『消防の精神』を伝承したい 」

市川市消防局長

 髙橋 文夫 さん

 「人々の助けになる仕事がしたい」と、20歳のときに自動車整備士を辞めて、子供の頃から親しんだ市川市で消防士になった。

 当時は、非番の日に消防署から緊急出動の連絡を受ける手段が家の固定電話しかなく、外出をすることが難しかった。防煙マスクもなく、消防活動中に煙を吸ってしまったり、炎がシンナーに引火して爆発したりと、現場で困難な場面も多数経験。それでも、4年前の東日本大震災の時には、市川市から岩手県陸前高田市に派遣された消防局隊の隊長として約10日間の救助活動を行い、「いまの仕事に就けて良かった」と改めて実感した。

 今年度から、市川市の消防を統括するという重責を任された57歳。「これからますます少子高齢化が進み、出動の回数が増えると予測される。先輩方から受け継いできた消防の精神を消防士たちに伝承していきたい」と気を引き締める。「市川市民に市内が安心で安全な街だと感じてもらい、住み続けたいと思ってもらえるように取り組んでいきたい」。定年までの残り3年間、市内の安全確保に尽力する。

 (2015年5月23日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「子供たちが輝ける学校を作る」

市川市立初の小中一貫校「塩浜学園」初代校長

 渡邉 晴美 さん

 塩浜小と塩浜中が統合して誕生した一貫校。9年間を前期4年、中期3年、後期2年に分ける4・3・2制の下、5、6年生は中学生と同じ校舎を使い、一部科目を学級担任と教科担任によるチームティーチングで学ぶ。中学進学時に環境の違いから不登校になる「中一ギャップ」の解消や学力向上など、小中一貫校への期待は大きいが、「子供たちが『この学校で良かった』と思える学校にしないといけない」と、子供第一の方針は忘れない。

 子供たちの年齢が幅広い分、「年齢が上の子が輝ける場面と、下の子が輝ける場面を作らないといけない」と心掛ける。業間休みを全校でそろえた日には、校庭で小中学生が仲良く遊ぶ光景が見られ、「中学生が小さい子と関わることで、自己肯定感が高まっているのを感じる。小さな子も『ああいう風になりたい』と目標を持てる」と、早くも効果を実感している。

 「『新しい学校が始まった』と、子供たちの意欲が高い状況で開校を迎えられた」と温かい笑顔で語る56歳。小規模校で一人一人にきめ細やかに指導してきた良い伝統を受け継ぎながら、一貫校としての新しい教育を目指す。

 (2015年5月16日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「日本酒造りの奥深さ伝えたい」

本紙連載「一夜一献」執筆者

 横田 弘幸 さん

 東京生まれの63歳。1月から本紙で連載をスタート。「日本酒造りは日本の素晴らしい文化。その奥深さの一端でも伝えることができれば」と思いを語る。読売新聞東京本社で記者をしてきた経験から、本紙連載でも「現場に行ける時は必ず行く。現場を確かめないと落ち着かない」と記者魂を発揮する。
 
 仕事柄、酒を酌み交わすことが多く、「日本人の酒好きは『魏志倭人伝』にも記録されているくらい古くて歴史がある。ただ飲んでいるだけじゃもったいない」と酒蔵を訪ねたり、関連書籍を読んだりするようになった。酒は生活と密接に関わり、酒文化を語源とする言葉も多い。「知れば知るほど奥が深く面白い」と探究心は尽きない。
 
 「大勢ではなく2、3人で飲むのが好き」。その方がじっくり話せるからだ。「酒はコミュニケーションの道具であり、その時のパートナー役。主人公ではない」。
 
 記者生活の後、読売日本交響楽団の理事長などを務め、現在は都内の学校法人に勤務。手習いで始めた油絵は「最近伸び悩んでいる」というが「それでもヤケ酒はしませんよ」といたずらっぽく笑う。

 (2015年3月28日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「 子供たちと仲間になり楽しむ 」

設立20年の浦安市青少年健全育成連絡会の会長

 永井 通 さん

  東京・両国に生まれ育った55歳。かわいがってもらった母方の祖母の生活を支えようと当代島に移り住み、そこで、子ども会、子供たちとイベントを楽しみながら話を聞く青少年相談員に携わり、青少年健全育成連絡会に従事。「子供たちを喜ばせたいという気持ちのある先輩や同世代と知り合い、楽しかった」。そうした出会いと思いが、35年近く続ける活動の原動力。

青少年健全育成連絡会の役割とは何か。「子供と一緒に過ごし、仲間になること。大人と子供、年上の子と年下の子、皆の関わりを作り、楽しむこと」と説く。いまの社会では決して容易ではない取り組みに、地域の住民やボランティア、教諭、PTAらが力を注ぐ。

2代目会長になり8年目。「(市内9中学校区の健全育成連絡会のメンバーが)互いに補い合い、地域で一緒に過ごす楽しみを次の世代につないでいきたい」と務める。そして、「子供たちは時代とともに変わる。でも、いつも話を聞いてくれる大人を探している」。その思いを胸に、子供たちの中に飛び込む。

 (2015年3月21日号)ホームページ 「人」リスト~2015年



「夢は東京パラリンピック優勝」

日本車いすテニス選手権大会ジュニア大会準優勝

 坂口 竜太郎 君

 ラケットを持ちながら車いすを懸命に走らせ、踏ん張りが効かない状態から、腕の力と体のバランスだけで放つショットは強烈。「(車いすで)速く走って、ショットを打てると気持ちいい」と競技の魅力を話す。
 
 強さの秘けつは、勝負のカギを握るチェアワーク(車いすの操作)で、同年代の誰よりもうまい。さらに実力を伸ばすために大人たちの大会にも参加し、「いろいろな大会で優勝したい」と勝負に挑む。車いすテニスの世界の第一人者である国枝慎吾選手が「俺が育てる」と話しているほど、評価は高い。競技道具などを支援してくれるスポンサーもすでについている。他の選手たちよりも障害の程度は比較的重いが、全ては努力のたまもの。
 
 車いすの友達と一緒に鬼ごっこで遊びもすれば、地元の子供たちの輪に入って行ってサッカーも楽しむ11歳。ラケットを持ち始めてからまだ4年だが、夢は大きく、「東京パラリンピックに出場して優勝する」こと。大人たちと話している時は照れくさそうに笑うが、強い思いをのぞかせる。

 (2015年3月14日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「『車に気を付けて』が一番大切」

市川市交通安全母の会

 川上 みつ子 さん

  母親による交通安全の啓発団体。子ども会やPTAの女性会員を中心に発足し、母親が家庭で家族に声かけをするよう啓発してきた。「家庭で毎朝『車に気を付けてね』のひと声をかけることが一番大切なことですから」。
 
  啓発活動は、警察や市から学ぶ交通法規の改正や事故の傾向なども盛り込んで行う。母の会が解散する自治体もあるが「ひとたび事故に遭えば命を失うことにもなりかねない。細々とでも活動を続けていきたい」と会員48人とともに務める。
 
  気にかけているのは一部の若い親が乗る自転車。通勤前に危険な運転をしながら保育園に急ぐ。「時間に追われているのは分かるけど、親、大人は常に子供の手本。子供の安全はひと声かけ、ルールを教える親次第」。親子の安全を心配しつつも、親への啓発の大切さを痛感する。
 
  白黒はっきりつける性格の65歳。「悪いことは悪いと叱る。その後はギュッと抱っこするの」。これまで地域に子供を守ってもらってきた分、いまは、地域の母親として恩返しする日々を楽しむ。

 (2015年3月7日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「良い仲間たちに恵まれて50年」

創立50周年を迎えた市川市テニス協会会長

 西村 宗一朗 さん

 設立当初から会の運営に携り、15年前に会長に就任。「50年も続けられたのは、良い仲間たちに恵まれたことと、皆で引き継いできた協会を存続させたいという気持ち」と朗らかに語る。

 平成18年には、ソフトテニス連盟と共同で約5500人の署名を集め、市にテニスコート新設の要望書を提出した。そして市は昨年、テニスコート12面の新設などを盛り込んだ北東部スポーツタウン基本構想を策定。願いは実現しつつある。

 昭和15年生まれの75歳。中学校に入ったとき、友人に誘われてテニス部に入部した。しかし、一面しかなかったテニスコートでの練習は先輩たちが優先。「毎日壁打ちやランニングばかりでわだかまりがたまった」。2年生の時に友人に声をかけられ、テニス協会の前身であるローズクラブに入会。存分にテニスを楽しんだ。

 いまでも筋力トレーニングが日課で、テニスも現役。「高齢者にも日常的にテニスをしてもらうことと、市内の中学校では私立にしかない硬式テニス部を増やすこと」を目標に、今後も活動を続けていく。

 (2015年2月28日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


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「人の心に響く作品創りが目標」

全国高校大会で優勝した和洋国府台高ダンス部顧問

 池田 恵子 さん

 5歳頃に始めたダンス。「親や友人に見てもらうのが楽しかった」。高校・大学でダンス強豪校に進学し、大学では日本一に2度輝いた。
 
 8年前、同校ダンス部顧問に就任し、昨年11月に開かれた全国中学校・高等学校ダンスコンクールで同部を初の日本一に導いた。自身が高校生の時は3位だった大会だけに「指導者としてトップに導けたのはうれしい」と喜ぶ。
 
 顧問就任時、最初に取り組んだことは規律を正すこと。練習メニューも決め、毎日厳しく指導した。すると7カ月後には全国大会で入賞するまでに成長した。
 
 「なぜうまくいかなかったのかを常に考えさせる。精神的・肉体的につらい練習をするから結果が出る」。成功体験を味わってほしいからこそ、あえて厳しく指導する。しかし、結果を出すことが目標ではない。「人の心に響く作品を創って、その先に結果がついてきたらいい」。第一線で活躍してきたからこその言葉だ。
 
 「顧問次第でチームは変わる」。自分にも厳しく、責任感が人一倍強い。「ダンスは芸術。ゴールがないからこそやりがいがある」。挑戦はこれからも続く。

 (2015年2月21日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「市川市議会の活性化に努める」

第66代市川市議会議長

 宮田 かつみ さん

 政務活動費の使途を巡って2つの百条委員会が設置され、全議員を対象とした外部監査も行われる異常事態での議長就任。さらに、2月議会は新年度の予算が決まる重要な時期とあって、「市民の生活を考え、議会の正常化、活性化に努めたい。予算が建設的に使われることが一番」と気を引き締める。
 
 20代のときから、生まれ育った国府台で不動産・建築会社を経営。50歳で市議になり、「相談に来た人に喜んでもらえたときが一番」と、やりがいを感じてきた。力を注いだのは、障害者や高齢者、子供たちへの支援。特に、成年後見人制度の普及に精力的に取り組んできた。
 
 ただ、「ずっと変えない」と決めていた後援会長も高齢となり、自身も「議員は65歳まで」と考えていた年齢になったため、任期の5月1日で議員生活を終える。「残りの期間は短いが、できる限りのことをして仕事を全うしたい」と全力で取り組む。
 
 引退後も支援活動は続ける予定で、「生きている限りボランティア」と意欲は衰えない。「自分の立場や相手が変わっても、やることや言うことは変わらない」。

 (2015年2月14日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「生命通して人間の美しさ描く」

第7回市川市民芸術文化賞を受賞した日本画家

村松 秀太郎 さん

「生命力を表現したい」。テーマは人間の誕生から愛、戦い、苦しみ、葛藤、そして死。日本画の優美なタッチのイメージと違い、絵の具が混じり合うようなどろどろした色合い、気味悪くうごめくような筆遣いが村松絵画の特徴だ。

静岡県生まれの80歳。小学生のとき、空襲の中を必死に逃げ、人の死も多く見た。「生命とは何か」。この経験が絵画人生に大きく影響した。芸術への関心は幼少期から。「海で濡れた体を地面に当て、できる人型の水跡に感動した。乾いてすぐに消える様子も美しかった」。

東京芸大に入学後、才能はすぐに開花。「木や花が美しいように人間も美しい」と、裸体をモデルに多くの作品を創出し、創画展などで多数入賞。世界中を旅しながら現地の人や生活、自然も描いた。60歳で渡辺淳一著『失楽園』の新聞連載の挿絵を担当。独特かつ魅惑的な絵は注目を浴びた。そんな多忙な日々を送りながら、中学や高校、芸大などの教壇に立ち、後進の育成にも尽力した。

昨年、病気を患いいまは療養中。「暖かな春になったら壮大な気持ちが湧く。焦らず少しずつ描いていきたい」。

 (2015年2月7日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「市川の自然を将来に残したい」

本誌連載「いちかわ自然だより」執筆者

 渋谷 孝 さん

 昨年11月から本紙で連載をスタート。「市街地にもよく見ればいろんな生物がいる。緑地だけでなく、身近な自然にも興味を持ってもらいたい」との思いを込める。
 
 市川生まれ、市川育ちの51歳。「市川市は緑豊かなイメージがあるが、樹林地は全体の2%しか残っていない。自分が慣れ親しんだ市川の自然環境を将来の人に残してあげたい」と願い、市環境政策課の専門員としても、市内に多様な生物が生息できる環境の保全に精力を注ぐ。日ごろから市内を回って自然環境を観察しており、市内外の各種観察会で案内役を務めている。
 
 大学では宇宙物理学などを学んだが、幼少期から昆虫や鳥、植物も大好き。一番好きなのは「鳴く虫」で、市内の鳴く虫のほとんどの音を収録したCDを製作したほどだ。「美しい鳥や星、虫の鳴き声に癒やされる」と芽生えた興味の対象は、いまでは生物同士や生物と地球環境との深い関わりへと広がった。「生物同士の関係や生態系が分かれば、その中で人間がどういう位置にいるのか分かる。そこに目を向けることが、人間の安定した豊かな生活につながる」。

 (2015年1月24日号)ホームページ 「人」リスト~2015年


「自作の服でモデルを務めたい」

ミス・インターナショナル2015日本代表

 中川 愛理沙 さん

 11月に東京で開かれるミス・インターナショナルの日本代表に最年少の18歳で輝いた。「自分でも驚くほど落ち着いて、楽しみながら審査に臨めた。世界大会では、日本の『和』の文化と食文化を伝えたい」と華やかな笑顔を見せる。
 
 172㌢の長身。2歳からクラシックバレエを始め、中学までは練習漬けの毎日だった。有名モデルに憧れ、中学生で芸能事務所に所属。出場した全日本国民的美少女コンテストでは最終選考まで残ったが落選。「芸能活動とバレエの両立は難しい」と一度はモデルへの道を諦めた。
 
 しかし、高校生になってもモデルへの思いは断ち切れず、事務所に復帰。体型管理や美容に注意を払い、努力し続けた。すると、有名化粧品メーカーのポスターのモデルに抜擢。雑誌やCM、テレビなどでも活躍するようになった。
 
 和洋女子大では「日本のことを知りたい」と和裁を中心に学ぶ。勉強にモデル活動にと多忙だが「日々とても充実している。一つ一つを身につけたい」と常に前を向く。夢は「自分が作った服を自分がモデルになって発表したい」。大きな夢を胸に世界大会に挑む。

 (2015年1月17日号)ホームページ 「人」リスト~2015年