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「人」リスト~2014年
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「花を通して住民の心が豊かに」
ハイタウン塩浜第一住宅管理組合・花クラブ代表
若本 博志 さん
全国花のまちコンテストで優秀賞を受賞。分譲から30年が経過した600世帯のマンション群ではポイ捨ても、違法駐車も、コミュニティの希薄化もあった。そうした中、外構の全面整備と時を同じくして、メンバーが花を育て始め、歩く人たちが見て楽しむようになった。花を通した交流がまちを変え、評価された。
住民同士のあいさつが増え、夏祭りなど組合主催イベントの参加者も増えた。東日本大震災時にはメンバーが率先して復旧活動。それに誘われるように高校生や大学生も復旧活動に集まった。
マンションには巣立った子供世代も転入。親子3代で個々に住んでいる人もいる。「そう思うと、ふるさと作りにもつながっている。花を通して住民の心が豊かになっている」と誇らしげな71歳。
数人から始まった花クラブも来年で10年目。「活動は継続していくことがとても大変。振り返れば、よく続いてきた。受賞は、これからも活動を継続させていくためのきっかけ。皆の花を楽しむ心が続いてほしい」。花々が取り持つ人と人との交流が咲き乱れることを願う。
(2014年12月20日号)TOP PAGE 「人」リスト~2014年
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「成功した時の喜びはひとしお」
宝塚歌劇オーケストラの指揮者
御﨑 惠 さん
「(舞台において)指揮者は縁の下の力持ちであり、何があっても現場を守るのが役目」。華やかできらびやかな衣装を着た女性たちの舞台を、指揮者として支え続けて15年。「当時は5年くらいと思っていたが、続けるうちに(指揮者の)奥深さを知り、やれるところまでやろうと思った」。
幼少からピアノを習い、中学生で作曲家を志し、高校・大学で作曲を学んだ。高校でミュージカルを始め、大学ではミュージカル部を設立。ここで数多く作曲した。その頃に「指揮者も素敵だな」と大学で始めた指揮の勉強が、宝塚歌劇ですぐに力を発揮した。
「苦労しなかった公演はないが、だからこそ成功した時の喜びはひとしお」と、常に前を向いて進んできた。想像以上に重労働だったが、「求められる限り、やり続けたい。必要とされているのがうれしいから」と笑顔で話す。
「音楽は体の一部」。人生を音楽と共に歩んできた。たまの息抜きも、タクトにデコレーションすること。夢は「良い脚本に出会い、自分でミュージカルとして作曲し、指揮したい」。これからも輝き続ける。
(2014年12月13日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「けん玉で日本と世界をつなぐ」
世界最高峰の「けん玉」大会最上位クラスで優勝
嶋寺 克彰 さん
欧米などで6年ほど前からブームを迎えているけん玉。その世界最高峰の大会「ヨーロピアンけん玉オープン」の最上位クラスで優勝。「けん玉は自己表現の手段。自分にとってのけん玉を問われれば趣味を超えている。呼吸のように当たり前で、ライフワーク」という36歳。
けん玉を始めたのは大学3年生の時。所属していたサークルに全日本学生選手権チャンピオンがいて「とても格好良かった。すぐにはまった」。けん玉に触れない日はなく、当時は毎日4~5時間は練習。いまでは自分が作った技が100種ほどある。けん玉道の段位は最高位の7段で、1級指導員の資格も持つ。
けん玉が日本に入ってきたのは江戸時代。その後改良され、大正時代の広島・廿日市で現在の形状として誕生した。今年7月には発祥の地で初のけん玉W杯が開かれ、主審も務めた。「けん玉はいま、新しく、格好いいスポーツ。性別、年齢、国籍を問わず楽しめるけん玉の世界大会を浦安で開きたい」。選手歴10年。次世代を先導し、けん玉で人々や世界をつなぐ活動にも力を注ぐ。
(2014年12月6日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「リオ五輪目指し、リベンジ!」
アジア競技大会ボクシング競技男子フライ級銅メダリスト
林田 翔太 さん
ヒット・アンド・アウェーのアウトボクサーで、駒沢大入学後の戦績は70戦65勝(30KO)。アジア大会では左ストレートと、上体を反らしてパンチをよけるスウェーを武器に銅メダルを獲得。「監督やコーチ、支援者の無償の愛で残せた結果」と感謝する。結果を示す垂れ幕がふるさとの浦安に掲示されたと聞くや「やった!」と、小躍りして喜んだ。
平成20年3月に市立堀江中を卒業。それまで兄弟ゲンカばかりしていた兄の取り組むことは全て避けてきたが、「初めてやりたいと思った」と、兄の後を追って名門・習志野高校ボクシング部に入り、鍛練を積んだ。「試合前には減量という戦いがある。試合を見ると『もっと手を出せよ』と思うかもしれないが、パンチを打てることはすごいこと。そのために死ぬほどの練習をしていることを知って、試合を見てほしい」と願う。
アジア大会で敗れた相手は、ボクシング強豪国カザフスタンの選手で、兄も同じ選手に世界大会で敗れている。「リオ・デ・ジャネイロ五輪を目指し、リベンジする」。再び日の丸を背負うべく、兄弟で闘志を燃やす。
(2014年11月22日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「命をかけ羽ばたく姿が美しい」
ボルネオバードレースで優勝した茨城県チームメンバー
東 孝一 さん
撮影する時は「人間が自然界に入り込む」という気持ちを忘れない。「鳥にストレスを与えては自然な姿は見せてくれない」からだ。
バードウォッチングを始めたのは10年程前。親の介護から手が離れ、趣味で花の撮影をしていた時、目の前にカワセミが現れた。「動きのある中で撮るのが面白く、魅了された」。以来、北海道から沖縄まで全国を巡り、昨年はタイとネパールでも野鳥を観察した。
これまで観察した野鳥は300種類以上。新種を探すだけでなく、毎年撮り続ける鳥もいる。4月に日本に戻ってくる小さな渡り鳥。「命をかけて羽ばたく姿は美しい」と夢中になっている。
ボルネオバードレースでは、10㌔の荷物を背負ってジャングルを駆けずり回った。「大変だったが、日本では決して見ることのない鳥に出会えた」と充実の表情を浮かべる。「奇跡が起きた」とチーム全員が驚いた総合優勝は、現地の新聞にも大きく掲載された。
定年後も週に2日働いて活動費を捻出。健康管理にも気を使う。「野鳥との出会いは一期一会。だからこそ、その瞬間を大切にしたい」。
(2014年11月15日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
「悔しさがまた自分を強くする」
インラインホッケー日本代表として活躍
宮崎 浩一郎 さん
本人いわく「自分は足が遅く運動も音痴」。だからこそ「機械を使わずこんなにスピードを出せるところが魅力」という。小柄ながら、ハンドリング技術を武器に日本を代表する選手として活躍。「小柄でも通用する選手になるため」と、猛特訓を重ねた成果だ。
中学2年生の時に強豪チームのプレーに心を奪われ、それまでの「ホッケーは遊び感覚で楽しみたい」という意識から「遊びではなく勝つ試合がしたい」という意識に変わった。その1年後、大会の休憩時間に自主練習をしていた様子を、憧れの強豪チーム「STIGA」のキャプテンが見ていたことがきっかけでチームの一員に。「早くチームに必要な存在になりたい」とこれまで以上に練習し、すぐに主力選手として活躍した。
「スランプに陥ったら買い物をするか髪型を変えるか」と学生らしい一面も見せる。技術のことで悩みすぎて試合で失敗することもあるが、そんな時、本気で叱ってくれる先輩や家族がいる。「悔しさや憤りが不思議と自分のプレーをまた強くする」。2年後のアジア大会で頂点に立てるよう、これからも走り続ける。
(2014年11月9日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「人と人のつながりで防犯活動」
設立10周年を迎えた浦安防犯ネット代表
村瀬 恵子 さん
「ひとたび犯罪に遭えば、当たり前の生活が一変する」。浦安市で防犯パトロールや啓発活動に取り組み10年。「私たちだけならつぶれていた。人とのつながりがあったからこそ存続できた」と、市や自治会、警察、消防、自衛隊などの協力、支援に感謝する。
活動は、子供のインターネット安全教室や低学年児童の連れ去られ防止教室、次世代を育成する防犯トップリーダー養成講座など多岐にわたり、さらに個人では青色防犯灯を付けたマイカーでの地域パトロールも行う。「ゆっくり走るので最初は文句も言われたけど、いまでは『ごくろうさま』の言葉ももらえるし、手を振ってももらえる」。地道な活動が人々に届いていると実感する50歳。恒例の啓発行事セーフティーコンサートをきっかけに「活動の起爆剤」と、吹奏楽の演奏を楽しむ。
勤務先の病院では地域医療連携に携わり、命の大切さが身に染みている。防犯活動も同じ。「一人でも多くの人が笑顔を浮かべ、幸せになってほしい。お金で買えないものがいっぱいある」。安全・安心なまちを当たり前にするべく、日々、力を尽くす。
(2014年11月1日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「ボランティアの輪を作りたい」
復興支援グループ「ひょっこりひょうたん島」発起人
森泉 純 さん
将来は複合飲食店を起業するのが夢。「人がワイワイ騒いでいる姿や楽しそうに談笑する姿が好きだから」と笑顔を見せる。
もともと被災地に特別関心が高かったわけではない。だが現地の光景に愕然とし、支援グループを作った。「大槌町においしい商品があると知り、少しでも関心を持ってもらえれば、震災後の現状を知るきっかけになる」と、大槌町の特産品を仕入れて市内外で販売。日ごろからみんなの目に留まるよう、店舗にも置かせてもらっている。利益で、学生の復興支援活動費の一部を援助。「持続可能なボランティアの輪を作りたい」との思いがあるからだ。
運営する人数が少なく、一人で作業する時もあるが、「普段会えない人に会って話すと視野が広がり、起業した時の糧になる」と苦にならない。いまでは完売商品も増え、仕入れ先からも「いつもありがとう」と言われるようになった。
「今後はNPOにして活動範囲を広めたい」と意欲的。ただ、あと一年ちょっとでメンバー全員が卒業する。「活動の火を消さないよう、引き継いでくれる後輩を見つけたい」。
(2014年10月18日号)TOP PAGE 「人」リスト~2014年
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「信頼される税務行政に努める」
市川税務署長
山口 幸夫 さん
昭和49年に横浜南税務署に配属されて以来、主に間接税を担当。「私たちの使命は適正・公平な課税と徴収の実現。まじめに納税した人が不公平とならないよう、悪質な納税者には毅然とした対応が必要」という姿勢を貫いてきた。昭和54年から大蔵省主税局に約12年間勤務。「平成元年に導入された消費税の企画・立案に携わり、これまでで一番大きな経験になった」と振り返る。
4月に消費税が上がり、来年1月からは相続税の基礎控除額が引き下げられる。「税金に対する国民の関心は高い。広報や相談などを親切丁寧に対応して信頼される税務行政に努めなければならない」と気を引き締める。
福島県会津坂下町出身の59歳。時代小説が好きで、市川税務署が管轄する市川市と浦安市についても「東京に隣接するベッドタウンという共通点があるが、下総の国府が置かれるなど昔から交通の要衝だった市川と、急速に東京ベイエリアを代表する都市に発展した浦安は歴史が全く違う」と深い関心を示す。まだ就任から2カ月余り。「これから休日を利用して少しずつ管内を散策するのが楽しみ」。
(2014年10月11日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「生産者をサポートし続けたい」
JA千葉中央会会長に就任
小泉 勉 さん
北国分で代々続く梨農園を経営。平成15年からJAいちかわの組合長を務め、今年8月には県内20のJAを指導・監査するJA千葉中央会の会長に就任した。
「趣味は梨作り。花が咲いたり、実が大きくなったりするのを見るのが楽しみ」と、梨にどこまでも愛情を注ぐ。台風やひょう害で梨が全滅する悲しみも経験してきたが、いい作物が実った時が何よりの喜び。プライベートでもリンゴや桃、サクランボなどの果物や、ボタンやユリ、チューリップ、バラなどの花を数多く栽培して楽しんでいる。
近年、日本のお米は高いと言われることが多いが、「日本人はお米を年間60㌔食べるので、昨年の小売価格で最も高かった10㌔6千円のお米でも年間3万6千円で買える。1日あたりだと100円で、ペットボトル飲料より安い」と疑問を投げかける。「いまの飽食の時代がいつまで続くかわからない。いざという時、どこが助けてくれるのか」と、自国で食料を生産する重要性を説く65歳。「農業は一度やめたらもうできない。将来困らないように生産者をサポートし続けたい」。
(2014年10月4日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「皆の勝ちたい気持ちで優勝」
団体で全国制覇した東京学館浦安中テニス部キャプテン
立山 里菜 さん
両親の勧めでテニススクールに通い始めたのは4歳の時。当時は水泳とピアノも習っていたが、「唯一テニスだけが楽しいと思えた」。
「中学はテニスに打ち込みたい」と、運動が盛んな東京学館浦安中に入学。1年生の時、関東大会出場をかけ挑んだ県大会で緊張とプレッシャーに負け、「精神的に弱い人間はテニスに向いてない」と、初めてやめたいと思った。どんなにつらくても休まなかったスクールを1週間休んで悩んだが、両親や憧れの先輩に励まされ、復帰を決意。再びテニスに打ち込んだ。
部員のほとんどがスクール通いのため、そろっての練習は少ない。大会前に集まると「みんな技術が高く精神的にも強いのでまとめるのは大変」だが、持ち前の明るい性格で部員を引っ張る。全国大会で優勝できたのは、部員全員の活躍はもちろん、「みんなが勝ちたいという気持ちで一致団結したこと」が一番の要因という。
普段は「友達とバカなことをして笑い転げている。とにかく楽しいことが好き」と、練習とは違う表情を見せる。中学校生活もあと半年。「いまはテニスを武器にじっくりと進路を考えている」。
(2014年9月27日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「住んで良かったと思える街に」
市川市社会福祉協議会の新会長
小島 武久 さん
昭和58年から4期連続で市川市議会議員に当選。平成11年から同23年までは県議会議員を務めた。市議時代には、議長や千葉県市議会議長会の会長といった要職も歴任。市議会と県議会合わせて7期28年間の議員生活で市や県の政策に広く関わってきたが、「みんなの協力があってできること」と、議員時代の実績については多くを語らない。
八幡生まれ、八幡育ちの73歳。市川高校野球部OB会長を務め、市川市の野球協会会長、少年野球連盟参与として野球の発展に尽力している。「高校野球の大会では、気になって市川の学校を応援に行く」と、思い入れは強い。
「議員活動の経験を生かして力添えができれば」と、今年8月に市川市社会福祉協議会の会長に就任。福祉にはこれまでも議員として関わってきたが、「もう一度、一から勉強し直さないと」と、気持ちを新たに臨む。「他の地域と比べられても『いい街』と言われるよう、そして『市川に住んで良かった』と皆さんが思えるよう、お手伝いしたい」。政治の世界から福祉の世界に変わっても、地域を思う気持ちに変わりはない。
(2014年9月20日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「時空を超えたロマンを感じる」
国際バッハコンクールバイオリン部門で1位
岡本 誠司 さん
国際バッハコンクールのバイオリン部門1位は日本人初の快挙。「まだ研さんするべき期間だと思う」と謙虚だが、「コンクール1位という肩書きがついて回るので、良い演奏を届けなければいけないという使命を感じている」と、その重みは自覚している。
3歳の時、バイオリンを習っていた女の子から話を聞き、「格好いいな」と自身も習い始めた。ただ、子供の頃はサッカークラブに入るなどスポーツも大好き。放課後に友達と遊んでから夜バイオリンを練習する毎日で、決して、バイオリン漬けという訳ではなかった。「だからこそ、音楽を嫌いにならずに続けてこられた」。練習が厳しくてやめたくなることはあったが、本格的に取り組むと決めた中学2年生以降はそのようなこともなくなった。
「バイオリンは音が好きだし、何百年前の作品を演奏することで、当時の空気感や雰囲気を感じることができる。時空を超えたコミュニケーションにロマンを感じる」。ソリストとして海外で活躍する日々を夢見ながら、クラシック音楽の普及にも積極的に取り組んでいく。
(2014年9月13日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「子供たちの歌声響いてほしい」
40周年の市川児童合唱団保護者代表(第4期生)
上村 美奈子 さん
コンクールではなく、自分たちの夢を追い求めることを大切にしている合唱団で、市川の歌好きの子供たちが長年、市内外で歌声を響かせてきた。「子供たちの歌声は周りの人たちを笑顔にしてくれる。(発足時から指導する)飯田満先生の情熱があって、子供たちはみんな輝いている」。
24歳から9歳までの娘3人が合唱団に入った。自身も4期生として小学2年から高校3年まで所属。出産後は卒団生たちと合唱グループ「Pojac」を結成し、いまも市内外で歌う。「私にはこれまでずっと歌があった。この合唱団が原点で、楽しい思い出ばかり。ステージ後の充実感もたまらない。子供たちも同じよね」と、同じく親子ともに卒団生の保護者らと合唱団を支える45歳。
合唱団のメンバーは、年の離れた人たちと同じ目的に向かい、小さな子はお姉さんに憧れ、お姉さんは小さな子の面倒をみながら、練習を重ねる。裏方も手伝う。「そんな生活全体が楽しい。皆と歌う楽しさは体験すればはまる。子供たちの仲間がどんどん増えて、みんなの歌声がもっと響いてほしい」と願う。
(2014年9月6日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「災害救助犬といつでも出動!」
NPO法人日本救助犬協会チームうらやす管理責任者
淵野 美代子 さん
災害救助犬とセラピー犬をボランティアで育成する同協会。関東にある3チームで合計約90頭が訓練を受けており、チームうらやすには33頭が所属する。
同協会を知ったのは約6年前。大型犬を飼っていたことから、友人に入会を勧められた。訓練場で真剣に活動する会員たちを見て、「私も地域の人たちの役に立ちたい」と感銘を受けて入会した。
当時6、7人だった会員数は、市内外でのイベントなどに積極的に参加するうちに38人に増えた。自身も「管理者として最低限の知識がほしい」と、動物の適正飼養管理や普及啓発活動に必要な資格を取得。認定犬として活躍し、東日本大震災で救助活動を行った2頭を含む愛犬3頭とともに、訓練にはほとんど参加している。
倒壊現場を想定した解体現場訓練も警察と合同で行い、「要請があればいつでも出動できる」と頼もしい。足場の悪い解体現場は危険が伴うが、「いざとなれば何でもできる」と、ヘルメット姿で訓練に励む63歳。「全国に救助犬を増やし、この活動を若い世代に引き継いでもらいたい」。これからも人の命のために動き続ける。
(2014年8月23日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「ミュージカル通じ健全育成を」
第7回いちかわ市民ミュージカル実行委員長
行田 よしお さん
主にジャズの評論家・司会者として活躍し、デューク・エリントンやビル・エヴァンスら海外の大物ジャズミュージシャンの来日公演や、日本の代表的なジャズフェスティバルなどで数多く司会を務めた。全国放送のラジオ番組にもDJやキャスターとしてレギュラー出演。ジャズ専門誌・スイングジャーナルの連載も執筆した。「これまでに携わった国内外のジャズメンの話を楽しくまとめたい」。70歳のいまも、JR市川駅の近くでジャズバーを営みながら精力的に執筆活動に励む。
PTA連絡協議会の役員や学校評議員を務めるなど、長く市川市の教育活動に携わってきたこともあり、「ミュージカルを通して子供たちの健全育成に努めたい」と、今年、市民ミュージカルの実行委員長に就いた。これまでも、国内外の劇場に足を運んで数々のミュージカルを鑑賞。過去のいちかわ市民ミュージカルの公演では、「高齢者も小さい子も、みんな一緒になって一生懸命やっている。日本の原風景だ」と感動を覚えた。
「皆さんにもぜひ見てもらいたい」。本番まで、出演者とスタッフを陰で支える。
(2014年8月16日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「“ここ知ってる”が愛着になる」
浦安ロケーションボックス代表
佐原 光 さん
映画やテレビドラマ、CM、ミュージックビデオなどのロケ地が浦安にあることを知ってもらい、友達や家族と話し、浦安に愛着を持ってほしいと平成24年11月に発足。「画面の向こうと自分たちの身近な風景がリンクする。単純に『ここ知ってる』とうれしくなる」。それがロケ地の魅力と笑う。
今年3月には、そうした思いから名付けたフリーペーパー『ソレココ!』を発行し、代表的なロケ地を紹介。「映像で見ることで、まちをさまざまな角度から見直し、魅力を改めて知ることにもなる」と、ロケ地ツアーや作品の上映会などを展開。「浦安で撮影した作品が多くなればヒット作も生まれ、浦安の良さを多くの人に知ってもらえる」と、制作者へのロケ地紹介やエキストラ募集への協力などにも、若いメンバーとともに精力的に取り組んできた。
若者から多世代交流を目指すUrayaSmileプロジェクトを小学校の同級生と設立するなど市民活動に積極的な27歳。「さまざまな考え方や経歴を持つ人とのつながりができ、考え方が広がった。若い人にこそ携わってほしい」。自らの経験を踏まえ、願う。
(2014年8月2日号)ホームページ 「人」リスト~2013年
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「計算合った時が快感で楽しい」
全国大学生簿記大会で個人優勝
福嶌 紀之 さん
5月に開かれた全国学生簿記大会で、見事1位に輝いた。「発表された時は頭が真っ白になった。いまはうれしさでいっぱい」。
中学3年生の時、小売業を営む両親に勧められて簿記に興味を持ち、高校で本格的に学び始めた。いっとき簿記から離れたが、大学入学後に「いままで努力しなかったから、もう一度やろう」と、資格を取るため専門学校に入学。大学の勉強と両立する日々が始まった。
2級までは順調だったが、1級で壁にぶつかった。それでも、「絶対に1級を取る」という意志は強く、同大の学生が簿記などを学ぶ「瑞穂会」にも入会してそれまで以上に勉強に励んだ。先日受けた1級試験の結果はまだ分からないが、着実に力を付けていることは簿記大会の優勝が示している。
「計算が合った時の快感が楽しくて仕方ない」という簿記の勉強にほとんどを費やした学校生活も残り半年余り。卒業後は企業で経理として働くことが決まり、やっとのんびりと旅行などを楽しめるようになった。「将来は、簿記の知識を生かして海外でも通用する社会人になりたい」。これからも目標を持って走り続ける。
(2014年7月19日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「市川から世界に巣立ってほしい」
市川市スポーツクラブ代表理事
扇田 昌利 さん
4月に発足した「アーセナルサッカースクール市川」が使用する北市川フットボールフィールド。全面人工芝のこのグラウンドを整備したのが同クラブだ。「残土だらけだったこの場所で、思いきりプレーしている子供たちを見るとうれしく思う」。これまで数々の苦難を乗り越えてきた43歳でも、充実感をにじませる。
東京都新宿区出身。「エリートビジネスマンを見て育ち、いつかは自分もと思っていた」。子供の頃の夢そのままに、市内外に塾の教室を幾つも抱える実業家になった。
グラウンドの整備は、息子が小学生の頃に入っていたクラブでスライディングなどが禁止されていたことがきっかけ。「こんなのサッカーじゃない」。その後、子供たちが思い切りプレーできる場所が少ないという問題を知り、「自分が何とかしたい」と立ち上がった。
場所の確保や資金集め、世界的ビッグクラブの誘致など、問題は山積みだった。計画が頓挫しかけたこともある。それでも仲間とともに一歩ずつ進み続けた。
「ここで経験を積んだ子供たちが世界に巣立って行ってほしい」。ゴールはまだ先にある。
(2014年7月12日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「四季ごと見せる顔が森の魅力」
大町教育の森の会代表
大河内 英夫 さん
宮城県に生まれ、大学進学と同時に上京。「東京は緑が少なく殺伐としている」というのが最初の印象だった。就職後、たまたま電車でJR市川大野駅を通った時、「緑が多くて素敵な場所だ」とひかれ、20年前に市川市に越してきた。
10年ほど前、「仕事を辞めたら街のために何かしたい」と、遊水池の利用方法を検討する会や街づくりの勉強会に参加。ここで「森林をどう守るか」など自然について興味を抱くようになった。72歳で退職し、すぐに森林整備についてのシンポジウムに参加。ここで主催者の県から誘いを受けた参加者たちが、共同で大町教育の森の会を設立した。あれから8年。当初荒れていた森はきれいに整備され、子供たちの学びの場としても活用されている。
「森は四季によっていろいろな顔を見せる。そこが魅力」。これまでに教育の森で約270種類の植物を確認。木を食べる昆虫の除去と研究にも熱を入れる。現在はほかの団体にも所属して、森の整備を楽しむ元気な80歳。「市川市の森は面積のたった2%しかない。体が動く限り活動を続けたい」。これからも森を守り続ける。
(2014年7月5日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「自ら社会にモーションかける」
結成10周年の絵画サークル「市川アートクラブ」主宰
浅野 智 さん
東京芸大や同大院で絵画を学んだ神奈川県出身の洋画家。千葉県内の2つの高校で美術講師を勤めるなど指導者としてのキャリアも長いが、「当初は自分の絵にしか興味がなく、教えるのが好きではなかった」。そんな考えが変化し始めたのは平成7年の阪神・淡路大震災。「〝求められていないから〟とそれまで関わってこなかった社会に、自分から何かできないかと考えるようになった」という。
その後、米同時多発テロが発生した際には、自身の展覧会で急きょチャリティー販売を行い、売り上げを寄付。さらに「自ら社会にモーションをかけていこう」と、40歳の時に同サークルを発足させた。
平成23年に東日本大震災が発生すると、同サークル会員たちの絵画を集めて被災地を訪問。絵画作品展や子供を対象とした絵のワークショップを開き、被災者たちの心の隙間を埋めた。
「今後も自分が関わっている人たちが生きがいを感じられるような、新しいアートの形を探したい」。社会を遠巻きにしか眺めようとしていなかった昔の姿はもうどこにもない。
(2014年6月28日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「一つとして同じ樹木はない」
樹木医、NPO法人樹の生命を守る会理事長
有田 和實 さん
病虫害や環境の変化で衰えた樹木を治療・回復させる樹木医。浦安で樹木医院を営み、県内を中心に活動するNPOでは理事長。「個人の一本の木から森全体まで」の緑を診察、治療するため奔走する。
福島・南相馬生まれの68歳。子供のころ、植物は食べ物であり、遊びの対象だった。大学では造園を学び、日本指折りの造園会社に入ると、住宅やリゾートなどの緑造りに携わった。「たとえ同じ種でも、一つとして同じ樹木はない」。木々を愛し、個体の違いまで楽しむ。知ることは治療の原点でもある。
NPOでは県内各地の樹勢調査を行い、市民や公園職員、子供向けの講座を開催。講座ではにおいや手触り、味などの五感を生かし、植物との触れ合いを提供。解説は、幅広い知識を交えた楽しく分かりやすいもので、好評を得ている。
樹木を楽しむコツは、まず名前を知ること。「名前には特徴や由来がある。相手に興味を持てば、すべてを知りたくなる。男女の関係と同じ」と笑う。
「世界中の植物を見たい」。一本一本の木々との出会いを求め、世界も歩く。
(2014年6月21日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「『市川といえば曽谷の朝市』に」
「曽谷ふるさと朝市」を開き15年の曽谷ふるさと会会長
浮田 重規 さん
「にぎわいを増やしたい。地元の『いいことだ、やれやれ』という協力があって、ここまで来られた」。地域の春日神社境内で開く朝市は、毎回がお祭りのようなもの。市価より安くても値段交渉。それが会話であり、お楽しみ。「買い過ぎて持ち帰れない人もいるんだ」と笑う。
高校時代には隣のクラスの企画まで考えたイベント好き。イベント会社に就職して市川に越して来ると、「地元をよく知りたい」と市川JC(青年会議所)に入会。「市川まつり」や、いまはない「ミス市川」を考案した一人でもある。
居を構えたのが曽谷。自宅は大勢の人を迎えられるよう、広間を中心に設計したこだわり様。地域の友人たちとは曽谷を愛する会(曽愛会)を結成し、新年会や旅行、スポーツなども楽しんできた。
「喜んでくれる人がいて、協力してくれる人がいる。やめられない」という73歳は「曽谷といえば朝市、市川といえば曽谷の朝市と言われたい」と願い、人と人のふれあいを大切につなぐ。趣味はぐいのみ集めで、その数500以上。眺めては、大切な日、うれしい日に傾ける。
(2014年6月14日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「震災に学び次を考えてほしい」
コミックエッセイ『明日、地震がやって来る!』を出版
世鳥 アスカ さん
「アスファルトがタプタプしている」―。浦安が体験した液状化と、つらかった生活を漫画で描いた。若い女性の目に映った被災の記録、防災対策ガイドでもある。
3歳から住む浦安で「液状化する」と言われて育った。「被災するまでどんなものか知らなかった。起こる場所は全国にある。体験を伝えたい」と筆を取った。
ただ、そこに至るまで1年半。「津波や原発事故に比べたら液状化は些細な被害かもしれない。でも私の心には大きな傷だった。被災した年の夏はつらく、悲しく、やるせなくて筆が止まった」。それから1年後に改めて描き始めるが、たった2年前のことが思い出せない。「あんなにつらかった震災から何も学べていない。皆さんに震災を思い出して、次の震災を考えてほしい」と願う。
小学4年生から少女マンガ誌に投稿。興味はゲームに移るが、就職の時期に投稿した作品がコンテストで入賞。23歳で「たまごっち」のコミカライズ作品でデビュー後、ギャグ漫画などを連載している29歳。「1つでも多く、読者に『あれ、いいよね』と言われる作品を描きたい」。
(2014年6月7日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「マジックは人を楽します芸能」
30周年迎えたウェスタンマジッククラブ市川の会長
今野 邦夫 さん
大学のサークル勧誘で見たコインマジックのタネが気になり、「入れば教えてくれるかもしれない」と、マジッククラブの門を叩いた。「幼い頃から不思議な現象が好きで、気になると最後まで追求したくなる性格」。マジックは、そんな自分にぴったりだった。
「言葉を使わなくてもコミュニケーションがとれる」。マジックはビジネスの場でも大いに役立ち、社会人になってからも個人的に続けた。30代を迎えて市川に越してくると、子ども会の会長として参加するさまざまな行事でマジックを披露。平成12年にいまのクラブに入ったのは、行事で共演したことがきっかけだった。
「見せ比べて技術を上げられる」という団体の意義を改めて感じていた6年前、先代会長に指名されて会長に就任。以来、〝もう一度見たい〟と言われる技術の習得を目指し、会員の協力の下、さらなる会の飛躍に突き進んでいる。
「マジックは常識の裏をかいて見る人を楽しませる芸能」。孫と共にマジックを練習する時間を楽しむ69歳は「いつかマジックを披露しながら世界を歩きたい」と果てない夢を描く。
(2014年5月24日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「最前線こそ『優しさ』が大切」
第11代 浦安市消防長
大塚 等 さん
消防団が火災消火を全面的に担ってきた浦安に、常備消防(自治体の消防本部)ができてちょうど40年。浦安で初めて、現場たたき上げから消防長に就任した。「現場を知り、経験を積んで来た人間がふさわしい」との人事から、浦安を火災や事故、災害から守る指揮を任された。トップとして改めて意識しているのは「優しさ」。最前線では職員にも焦りが出る。しかし、「人々は困っており、助けを求めている。その時にこそ優しく接する配慮が欠かせない」と、職員179人に説く。
20歳の時、当時の浦安町消防本部に中途で入庁。「災害を最小限に防ぎ、一人でも多くの人を助けたい」と、訓練と消火活動に励んできた56歳。力及ばずの後悔もある。だが反面、感謝の電話や手紙も寄せられる。それらが、たくさんある「この仕事をしていて良かった」と思える時の一つ。
不規則で、緊張の続く仕事を長年担ってきた上で就いた消防長。その願いは「市内どこにでも、通報から5分以内で到達できる体制」を作ること。先達の意思や活動を引き継ぎつつ、信頼をさらに得られる消防の充実に努める。
(2014年5月17日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「子供たちと心のつながり実感」
50周年を迎えた市川市青少年相談員連絡協議会の新会長
石井 信広 さん
青少年相談員が地域の子供たちを見守り始めてから50年という月日が流れた。そんな歴史と伝統のある相談員として20年ほど活躍してきた新会長。「責任の重さを感じているが、会長だからといって敷居を高くすることなく、若い人たちにとって近い存在でありたい」。柔和で親しみやすい表情の裏で、自分らしい会長像を模索する。
生まれも育ちも市川市。20代半ばに知人の勧めで相談員になったが、当初はさほどやる気があったわけでもなかった。しかし、「徐々に子供たちが親しみをもってくれるようになり、心と心のつながりを感じるようになった」。気づけば活動にのめり込んでいた。
それでも活動に気が乗らないこともある。ただ、「必ず〝参加してよかった〟と思わせてくれる。相談員の活動にはそんな魅力がある」。当初断ろうと思っていた会長職を引き受けたのも、「きっといままでにない達成感を味わえる」と思い直したから。
喫緊の課題は若い相談員の育成。「自分から若手の中に飛び込んで行きたい」。未来の子供たちのため、そのリーダーの育成に全力を注ぎ込む。
(2014年5月3日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「フルートは私を表現できる声」
若手登竜門・日本音楽コンクール1位のフルート奏者
松木 さや さん
9歳の時、小学校のブラスバンド部でフルートを担う。中学2年で挑戦した全日本学生音楽コンクールで「すごい人がいる」とフルート界のレベルの高さを知ると、研さんを重ねた末、同コンクール高校生の部で第1位を獲得。演奏家の道を選び、東京芸大、同大院に進み、若手の登竜門・日本音楽コンクールの第1位に輝いた。
たゆみない努力を感じさせる言葉の一つが〝変化〟。「自分が思う範囲で成長しても、本当の成長はできない。自分が変わっていかないと、うまくはならない」。そして、新進演奏家として最高の賞を贈られたからこそ、「いただいた一つ一つの演奏会を大切にし、幅広い分野の演奏家から良いところを吸収していきたい」と励む。また、「環境があったから、いまの私がある」と、音楽関係者に限らず、周囲のすべての人たちへの感謝も胸に抱く。
「フルートは声。私を表現できるもの」という23歳の次の目標は、海外で開かれる国際コンクールへの挑戦。「自分のことを誰も知らない場所で、初心で学びたい」。謙虚に、変化を続け、可能性を広げていく。
(2014年4月26日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「日本一に必要なのは住民の輪」
北国分駅周辺を日本一良くする会代表
三橋 敏雄 さん
400年ほど前からこの土地で暮らしてきたという農家の15代目。同駅ができた後に駅前の土地を手放し、現在は不動産業を営んでいるが、残った農地でいまだに野菜・果物作りを楽しんでいる。
会の発足は、知人が地元で年一回開いていた盆踊りを手伝ったことがきっかけ。地元のために汗を流す知人を見ているうちに、「愛着のあるこの街に対して自分にも何かできないか」と考えるようになった。そこで始めたのが駅周辺のゴミ拾い。「降り立った人が住んでみたいと思えるような街にしたい」。地元を愛する心が徐々に仲間を増やしていった。
つらいと思ったことはないが、暑い日や寒い日の活動が嫌になることはある。そんな時に支えてくれるのは仲間たち。「一人だったらとてもできない。私はいい仲間に恵まれた」。仲間と共に「街がきれいになった」と言われる瞬間をあすへの活力に変えながら、一歩ずつ日本一への階段を上る。
「日本一の街に必要なのは住民の輪」。日本一大きな輪を作った後は「自分が育てた野菜を振る舞うパーティーを開いていたい」とほほ笑む66歳。
(2014年4月19日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「自分の信じる行いで社会貢献」
全国でホスピタルライブを行うシンガーソングライター
深沢 繁人 さん
市川生まれ、浦安育ちのシンガーソングライター。福祉施設に音楽を届けるホスピタルライブを昨年3月に始め、10カ月で47都道府県185施設を訪問。「病気や障害でライブに来られない人の元に音楽を届けたい」と、プロ活動と平行して全国を巡る。
中学生でギターを手にし、バンドとしてシングルやアルバムをリリース。島村楽器主催のバンドコンテストHOT LINE2010でグランプリを勝ち取り、音楽雑誌には「メロディックな楽曲、爽やかなボーカルが印象的」と評された。ただ、「ミュージシャンとして人気商売はしたくない」。喉にポリープができて歌えず、医者から「歌はあきらめた方がいい」と言われた経験もある。だからこそ、「心が弱っている時には音楽が必要。人の役に立つ音楽活動をしたい」と願う。
アレンジャーや企業ソングの作曲など幅広く活動する29歳。「自分の信じる行いを貫き通す。わがままでも、そこからしか本当の意味での社会貢献はできない」。各施設での出会いに感謝しながら、今年は昨年以上の施設を巡ろうと、機材を積んだ愛車を駆る。
(2014年4月12日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「ゴールはなく、死ぬまで勉強」
べっ甲職人
松本 仙翠 さん
「作品を作る時、常に遊び心を忘れない」。べっ甲に独自の技法で描かれた細かい模様は、芸術作品として見る人の心を魅了する。
生まれも育ちも市川市。中学生の時から、べっ甲職人だった父の仕事を手伝い始めた。19歳で父の跡を継いだが、しばらくは他の作業場で修業を重ねた。べっ甲作りは手作業が主流だが、「ヤスリをかけると数㍉の誤差が生じて、完璧な物は作れない」と、最初の修業は機械を取り入れていた福井県の作業場を選んだ。
30歳頃から本格的に自分の作品作りに取りかかろうとしたが、お金も信頼もなかったため高額な材料が買えず、作品を作れない日々が続いた。その時「人生で初めて辞めたいと思った」が、べっ甲への情熱は強く、「前に進むことだけを考え乗り越えた」。時代がバブルに入ると注文が殺到。休みもなく、睡眠時間を削って作品を作り続けたが、「仕事が大好きだから全く苦に思わなかった」。
「この仕事にゴールはない。死ぬまで勉強」。業界存続のためべっ甲の原料確保に全力で取り組みながら、生涯職人として最高の作品を作り続ける。
(2014年3月22日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「2人で人の役に立つことする」
コミックエッセイ『ボクの彼女は発達障害』を出版
くらげ さん
山形県出身の30歳。進行性聴覚障害を持ち、高校でろう学校に入るため市川市に引っ越してきた。
21歳で人工内耳の手術を受け、補聴器があれば会話できるようになったが、雑音が大音量で入るため「付けっ放しにすると疲れる」。仕事にも影響が出て、ミスをしても以前の会社は理解してくれず、健常者になり切れない自分が「中途半端で苦しかった」。
そんな時、インターネットの掲示板に聴覚障害について書くと、「言葉が面白い。もっと聞かせて」と評価され、「もう少し気楽に行こう。障害とは何かに困っている人のこと。健常者も障害者も同じ」と前向きに思えるようになった。
その掲示板で知り合ったのが発達障害を持つ恋人。ツイッターでやり取りする2人のコミカルな会話を見た編集者が出版を持ちかけた。「発達障害の専門書ではなく、読んだ人が面白いと思ってくれればいい」。日常のエピソードを明るく紹介し、2人で障害を乗り越える様子を面白く書いた。
これからの目標は「2冊目を出すことと、2人で人の役に立てることをすること」。これからも2人で一歩ずつ歩んで行く。
(2014年3月15日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「活躍の場広がり、感謝が募る」
クラリネットアーティスト
Micina(みきな) さん
中学の時に吹奏楽部の顧問が結成したビッグバンドに参加し、クラリネットでジャズやポップスを演奏する楽しさに目覚めた。高校ではオーケストラ部には入らず、ジャズバンド同好会を結成。会員が少なかったために楽譜を書き換えるなどしたこの時の経験が、アレンジもほぼ自分で考えるという現在の作曲活動に生きている。
その後東京音大に進学したが、音楽のエリートにもまれて感じたのは「自分はクラリネットや音楽のことを何も知らなかった」という劣等感。ただ、「こうして吸収できるのはチャンス。4年間、一日も無駄にできない」と気持ちを切り替え、基礎から徹底的に学び直した。その中で音楽の原点であるクラシックの魅力も再認識したが、卒業後に選んだのはクラリネットでポップスを演奏するソロアーティストとしての道だった。
活動を始めて3年。活躍の場が広がれば広がるほど「未熟な自分を支えてくれている」と、地元や身近な人たちへの感謝の思いが募る。「〝クラリネットと言えばMicina〟と言われる存在になること」が将来の夢。実現することが何よりの恩返しに違いない。
(2014年3月8日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「落語は何でも表現でき面白い」
真打ちに昇進した市川市出身の女性落語家
川柳 つくし さん
「日常生活にネタは隠れている。人情ものから滑稽なことまで何でも落語で表現できるから面白い」。緑色などの鮮やかな袴を身にまとい、古典落語や新作落語、ウクレレ漫談など多彩な芸を披露する。
幼少期から自分を表現することが好きで、演劇部や放送委員会で活動した。落語との出会いは大学生の時。ゼミの教授に「寄席について来れば単位をあげる」と連れて行かれ、魅力にはまった。
大学卒業後、出版社に勤めながら寄席や落語会に通っていた時、新作落語を知った。「古典落語は女性には難しいが、これならできる」と働きながら落語つくり方講座で学び、28歳で新作落語を得意とする川柳川柳に入門した。
2カ月後には高座デビュー。「初めは大きな声で師匠に教わった通りの台詞を言うだけ」だったが、持ち前の負けん気と努力で約3年後に二つ目に昇進。「若者や子供にも楽しんでもらいたい」と、時事問題や身近な話題を使った新作落語、ウクレレ演奏をしながらの落語などを数多く生み出した。入門から16年目の昨年、真打ちに昇進。目標は「一生落語家」。これからも笑いで人を魅了し続ける。
(2014年3月1日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「口笛は話すよりも表現できる」
口笛奏者
夕部 奈穂 さん
口笛を吹き始めたのは6歳の時。「いつも何気なく歌ったり、口笛を吹いたりしていた」という音楽好きの少女だった。学校の吹奏楽部では9歳からフルート、15歳からトランペットを担当。高校卒業後10年ほど音楽から離れていたが、6年前に口笛の教室や国際大会の存在を知り、早速、教室に入った。すると、開催直前だった国際大会の出場団体に急きょ加入。ここから口笛奏者として本格的な活動を始め、2年後の国際大会で成人女子総合2位に輝いた。音域が広く、高度なテクニックが必要なクラシックをレパートリーに持つ数少ない口笛奏者の一人。今年は6月に自身2度目のリサイタルを開き、10月にはブルガリアでオーケストラと共演する。
「口笛は、言葉で話すよりもダイレクトに自分を表現できる」。ステージでは、自分の思いをできるだけ伝えるため、マイクを使わずに生音で演奏することを基本としている。「口笛奏者だと言うと、『え!?』と言われる。口笛のための曲を書いてもらい、いっぱい演奏してみんなに聴いてもらいたい」。口笛が音楽としての地位を確立する日を強く待ち望む。
(2014年2月22日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「浦安市を備蓄日本一にしたい」
整理を通じた備蓄促進の提案が日本災害食学会で最優秀賞
岡部 梨恵子 さん
「備蓄品リストはあっても、どこに何をしまうのかという視点がない」。整理収納アドバイザーとして、備蓄品のしまい方と収納スペースを確保する片づけの大切さを訴える。「片付けのプロの私たちにも備蓄という視点がなかった。プロの私だからこそやるべき」と、備蓄促進の啓発に取り組む。
「一週間分の備蓄と聞くと気後れするでしょう。どうしまうかの見本もない。なら、私がそれを伝えたい」。すでに家族4人分の備蓄を完了。その量は押し入れ一段分。取り出しやすさやスペースの有効活用の面から、2㍑のペットボトル6本のダンボールを使い、その数は23箱。収納場所は分散し、中身が分かるよう色別にする工夫もした。
「片付けは快適な暮らしを提案することが仕事。でもその前に、安心・安全な暮らしのための供えが欠かせない。東日本大震災の被害に遭ったからこそ、浦安市を備蓄日本一にしたい」。その夢に向け、備蓄品のしまい方のコンテストの開催や、自治体への協力などを思い描く。いまの快適さに加え、備蓄を通じ、未来の快適さを提案する。
(2014年2月15日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「子供が学び生かす事がロマン」
市川市民芸術文化賞を受賞した作家
吉井 道郎 さん
東京生まれの86歳。現在はNHK文化センターの講師や市川手児奈文学賞実行委員長を務める。
中学生の頃に「将来は物書きになりたい」と夢を抱き、20歳頃まで文学や小説の書き方などを学校で学んだ。新聞社に入社すると、「いい加減にはやりたくない」と情報収集を徹底的に行った。その後、雑誌記者や編集者を経て、「近現代史の著述に専念したい」と作家に転身。記者時代に培った分析力と情報収集力を生かし、『昭和天皇全記録』『ビジュアル版・人物昭和史』など数多くの著書を執筆した。
市川市に越してからは「大人が子供をどう大事にするかが大切」と、子供たちと向き合いながら、献身的に動いた。小学校のPTA会長時代には植樹活動に取り組んだ。また、郷土に親しみを持ってもらおうと、市立小学校の歴史をまとめた本を出版。手児奈文学賞の子どもの部創設を発案し、子供たちが文学に触れる場も作った。
いまも小学校の出前授業で短歌や俳句などを教える。「いつか子供たちがこの学びを生かしてくれることが私のロマン」。これからも子供たちの未来を考える。
(2014年2月8日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「人の喜ぶ顔を原動力に腕磨く」
市川市民芸術文化賞を受賞した人形作家
早野 たづ子 さん
「自然な表情を作れた時が一番うれしい」。人のしぐさや豊かな表情を細かく再現し、いまにも動き出しそうな人形を作り続けて60年。作品の多くは子供が日常の中でたくさんの愛情を受けて成長する姿を表現しており、多くの人の心をつかんでいる。
26歳の時、「人形棚に何か飾りたい」と3歳の娘をモデルに人形作りを始めた。材料は小麦粉などで作った粘土や靴下を代用。作り続けるうちに独自の技法を生み出し、目や鼻、頬の垂れ具合までリアルに再現できるようになった。
29歳の頃には人形教室を開講。子育てをしながら生徒約20人を指導する毎日を過ごした。子育てが一段落し、人形作りに没頭できるようになると、教室運営の傍ら、作品展に応募したり、個展を開いたりするなど活躍の場を広げた。人の喜ぶ顔が原動力となり、いまなお腕を磨き続けている。
「人形は自分の分身みたいなもの。人形に目を描く時、不思議と心が通じる」と優しくほほ笑む。「今後は、父が子に与える愛情を表現した作品が作りたい」。これからも人の温もりを表現し続ける。
(2014年2月1日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「風つかみ、どこまでも行ける」
全日本学生ヨット選手権で準優勝した明海大学ヨット部メンバー
川戸 志織 さん
男女混合の全日本学生ヨット選手権で、強豪校相手に2人一組のスナイプ級トップの成績を出し、同大の準優勝に貢献した立役者。準優勝が決まると「涙が出た。皆で騒いだほどうれしかった」と、日に焼けた笑顔で振り返る。先の全日本学生女子選手権でも最優秀選手賞に選ばれた。
愛知・高浜出身。県立碧南高で伝統のヨット部に入る。「帆で風を受けて進むヨットだけど、最初は漕ぐものと思っていたので本当に難しかった。でも、きれいな海でスポーツをしたかった。自分の力で風をつかみ、大自然の海をどこまでも行ける」と魅力を語る。
高校時代、東海地方で1位の成績だったが、3年のインターハイでは12位。「もっと順位を上げたい」と大学もヨット部へ。結果が出ず悔しい思いも重ねてきたが、皆で日本一を目指し続けた。「大学と監督、コーチ、部員が一丸となったから手にできた」と喜ぶ。
「高校の時からヨット中心の生活。これからは親孝行をしたい」と、3月の卒業後はふるさとに帰る。「高校の後輩を支えていきたい」。自分を育ててくれたヨットに、これからも関わり続ける。
(2014年1月25日号)ホームページ 「人」リスト~2014年
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「後世に伝えていくことが使命」
木遣りの文化を継承する「継声会」指導者
福島 俊男 さん
大正生まれの88歳。戦前は市川市役所で、戦後は紡績工場などで働いていたが、病に倒れた父の後を継ぎ、20代半ばでとび職に転身。40代に入り、「こういう商売だから必要になってくる」と木遣りを習い始めた。その後、市川で木遣りを学ぶ会「市声会」を仲間と共に結成。市川市とび職組合の組合長を務めていた時には、同会が同市の出初め式で木遣りを披露し、その後現在まで続くこの伝統の礎を築いた。
ただ近年は、「もうただ老いていくだけ」と出不精になっていたという。そんな時に発足したのが継声会。「人生が変わった。会の活動が生きがいになり、生活に張り合いが出るようになった」。同会発足後は、稽古や発表以外でも会員たちと出かけるようになり、「熱心な会員たちにエネルギーをもらっている。何にも代えがたい力です」とほほ笑む。
今後の目標は木遣りの担い手を増やしていくこと。「木遣りは一つの無形文化財。後世に伝えていくことは使命だと思っている。命ある限り活動を続けていきたい」。木遣りで鍛えた美声で決意を語る。
(2014年1月18日号)ホームページ 「人」リスト~2014年