市川よみうり連載企画

FM



<>


 いま、むずかしいことばは嫌われる。情報を伝えるときは、分かりやすく、より分かりやすく…。最近の大人向け経済書にも、くだけた表現が使われている。「日本人って、けっこうお金持ちなのに、何でいま不景気なの?」『景気というのは、“お金まわり”のことなんだ。だから、持っているだけではダメ。みんながお金をたくさん使わなければ、景気は良くならないんだよ』。イラスト付きのこんな会話文体で分かりやすく、より分かりやすく−と著者は知恵をしぼっている。ウ〜ン、むずかしいことを、やさしいことばで説明するのは、なかなか大変だなあ。

 いちかわエフエムのパーソナリティーとして、「分かりやすい、だれにでも伝わることばでおしゃべりがしたい」というたなべあけみ。
 「2年前、結婚をキッカケに市川に住みはじめたんですけど、転入時に市役所で『いちかわL BOOK』という冊子をいただきました。『いまから自分が住む街は、どんなところなんだろう』と、スミからスミまで読みました」

 『L BOOK』には市民の日常生活にかかわりの深い制度・手続き・施設、市のあゆみ(昭和9年〜)などの情報がコンパクトにまとめられていた。たなべは、スタジオに常備された同冊子をパラパラめくりながら、「この本がすべてのスタートでした。いちかわエフエムのことも、この本を読んで市の広報課に問い合わせたんですョ」パーソナリティーになってからも、知識欲おう盛な、たなべ。市川特有の地名も、資料を調べながら覚えていった。
 たとえば、「塩浜、塩焼、本塩…。市の南西部に、『塩』の付く町名が多い。昔、塩づくりが盛んだったことの名残りなんですね」。
 彼女は番組の中の『市川物語』コーナーで、行徳近辺の製塩業の歴史を紹介している。
 「地元市川で作られた塩、どんな味がしたんでしょうね? いちど味わってみたかったですね」という「自分の言葉」も添えて…。

 ほかに、市医師会の協力を得た「Doctor Please(ドクタープリーズ)」コーナーも好評。たなべがスタジオから直接、市内の開業医に電話をかけて質問。たなべと医師のやりとりがそのまま放送される。
 「毎回、約10〜15分ほど、これまでに市内約50人の先生方とお話しました。病気について、一般の人が不安に思っているけれどなかなか聞けないことを、重箱のスミをつつくように聞いてみたいと思っています。そうやって「ひたすら伝える、もっと伝える」意気込みは誰にも負けない、たなべ。
 これから、たなべ独自のことばで、情報をどのようにかみくだき、料理をしていくか…。もうすぐ、彼女の番組「Before the wind」は1周年。

 ここで市広報課から。 「昭和48年から市が発刊している『市民手帳』が、『いちかわL BOOK』という現在のかたちになったのは平成6年で、市内全世帯に配布しています。新規転入者は転入時、希望者に本庁・支所で無料でお渡ししています。特に医療マップが充実しており、本の名前を知らない若いお母さんたちから『お医者さんの地図が載っている本がほしい』との問い合わせも多く、『隠れたベストセラー』。今秋には新情報を加えて、市内全世帯配布を計画しています」 (文中敬称略)



<1>


1935(昭和10)年、アメリカ西海岸でFMラジオ番組『ハワイ・コールズ』が始まった。このハワイアンミュージック専門の番組(DJ=ウェブリ・エドワーズ)は、大好評で、アメリカ本土だけでなくヨーロッパ・日本・フィリピンなど、750以上の放送局から流され、40年間続いた。『もしこの番組がなかったら、ハワイアンミュージックは全世界に知れ渡ることはなかっただろう』といわれている。

 いちかわエフエムの音楽番組「世界を旅するスチールギター」(毎週火曜日午後3時−同4時)も『ハワイ・コールズ』をめざすのかな?
 パーソナリティーは、小林浩一(70)。昭和5年生まれの小林は、10代からハワイアンミュージックに魅せられ(元祖)ナレオハワイアンズ、ラナイアイランダース、ワイキキナッツで活躍し、現在「アロハ・トーンズ」のリーダーをつとめるベテラン演奏家。
 番組は、小林の演奏(録音)とおしゃべりで構成されているが、
 「他のバンドの演奏を流し、アレンジやフィーリングを聴き比べてもらうこともあります」
 たとえば、
 「うちのメンバー(アロハ・トーンズ)の奏でる『アロハオエ』と、ビング・クロスビーのそれと、どっちがいいですか ? なんて図々しくリスナーに問いかけたりしてますよ、ハッハッハッ」
 昼下がり、のんびりしたハワイアンと小林のソフトなしゃべりを聴いていると、不景気ムードもどこへやら、ほわ〜んと肩の力が抜けてくる。
 「そうなんです。ハワイアンが流行ったころ、特に昭和30年代前半はいい時代でした」
 いい時代だったから、ハワイアンが流行ったのか? それともハワイアンが流行ったから、いい時代だったのか?
 「う〜ん、どっちかなあ? とにかく当時の日本には、ハワイアンがぴったりだった」

 それでは、ここで、小林と一緒に、タイムスリップ!
 東京・牛込、3歳の小林がピアノを弾いている。山の手のおぼっちゃま?
 「ハハハ…。最初はピアノの練習がイヤで、逃げまわっていた。ところが先生のいないときに、自分の知っている童謡を即興で弾いてみた。弾けた! おもしろくなった。小さいころから、譜面を見て弾くのは、好きじゃなかった」
 終戦後、マッカーサーの親衛隊と言われていた「騎兵第1師団」が自宅近くに駐屯。
 「オシャマな妹(当時小学生)が、米兵を家に連れて来るんです。『オールドブラックジョー』とか、いわゆるアメリカのフォークソングをボクがピアノで弾いたら、兵隊は大喜び。ピアノにあわせて歌っていました」
 戦後の日本は、まず、ジャズが大流行。「センチメンタルジャーニー」「マイハピネス」…。
 ちょうどそのころ、
 「友人と日劇(当時)の前を通りかかったら、外に取り付けられたスピーカーから、いい音が聞こえてきた。中に入ってみると灰田勝彦兄弟のバンドが、ハワイアンを演奏していた。ウクレレ、ギター、ベース。周りが立って弾いているのに、おや、ひとりだけイスに座って、何かヒザの上にのっけているぞ。それがスチールギターだった。ものすごくいい音でねえ、たちまち魅せられてしまった…」  (つづく) (文中敬称略)



<2>


 前回に引き続き、いちかわエフエムのパーソナリティ−・小林浩一(70)の思い出話に耳をかたむけてみましょう。終戦後、日劇(当時)で初めてハワイアンバンドの演奏を聴いた小林は、たちまちスチールギターの音色に魅せられてしまった…。

----で、そのあと、どうしました?
 「都立5中(現小石川高校)の生徒だったボクは、5−6人の仲間と一緒にハワイアンバンドを作ろうということになって…」
 ----楽器は?
 「当時、スチールギターなんてどこにも売ってなかったから、工作の時間にみんなで知恵を寄せ合って作りましたよ。板にスチール弦を張り、弦の下に磁石を置く。ラジオにつなげて、スピーカーから音が出たときは、うれしくて、もう大騒ぎ !」
 ----楽譜は?
 「ありません。進駐軍放送が毎日15分間ハワイアンの曲を流していたので、それを聴いて覚えた」
 自分の耳だけを頼りに「峠のわが家」「ユアマイサンシャイン」「アロハオエ」など8曲をマスターした小林のハワイアンバンド。さっそく近所の画家のアトリエを借りて、ダンスパーティーを開いた。
 「娯楽の少ない時代だったから大好評でね、あちこちからお呼びがかかった。だんだんレパートリーも増えてくる。進駐軍のパーティーに呼ばれて、マッカーサー元帥の前で演奏したこともありました」
 世の中が落ち着き、生活も豊かになってきた昭和30年代前半、ハワイアンが大ブレイクした。学校を卒業、就職していた小林は、
 「昼間はサラリーマンで、夜は仲間と一緒にナイトクラブやジャズ喫茶出演。クリスマスなんかはどこの店もオールナイトで人手が足りず、大忙しだった。最盛期には、演奏のギャラが昼間のサラリーの4倍もありましたよ」
 ----すっかりプロのミュージシャンですね。
 「技術が上手くても、下手でも、それでメシを食っていればプロフェッショナルといえるでしょう。でも、ボクの場合は会社の給料ももらっていたのだから、プロじゃない。あえていうなら『ノンプロ』かな」
 ブームが去ったあとも、ハワイアンを奏で続けて半世紀。昨年、古希を迎えた。
 「『人生70、古来希なり』と言うけれど、ボクたち『昭和5年生まれ』は皆元気。同窓会でも、亡くなった人のほうがマレなくらいですよ」
 4年前から都内・県内の10教室で約150人(高校生−80代)にウクレレやスチールギターを教えている。1年前からは、いちかわエフエム「世界を旅するスチールギター」(毎週火曜日午後3時−同4時)のパーソナリティーをつとめ、 「これから、また、ハワイアンを流行らせたいな」

 豊かなステージ経験による「しゃべり1分、曲3分」の番組進行にマッチした、気取らない話し方が人気。なにかとせわしないいまの時代。ノンビリとしたハワイアンで、心がいやされるのか、リクエストも多い。
 自分の力を試そうとひしめきあう、いちかわエフエムのパーソナリティーの中で、小林の演奏と語りはひときわ渋く光っている。
    (文中敬称略)



<1>


6月2日朝、都内のAMラジオ局が「この番組の電波はどこまで届いていますか?」というテーマで聴取者からのメッセージを募集していた。AM波は山越え谷越え、かなり遠くまで伝わるようで、関東圏のあちらこちらから「聴こえま〜す!」。そんな中で、番組のパーソナリティーが「わっ、うれしいなあ!」と大歓声をあげたのは…。
 都内に住む男性からのこんなおたより。
 「アナタの番組は、ボクの心に届いています」
 カンゲキ! パーソナリティーなら、一度はリスナーに言われてみたいことばだよね。電波を飛ばしまくるだけじゃ、ダメ。どうすればリスナーの心に届く番組ができるのか、考えてみようよ。
  
−◇−  −◇−
 コミュニティーFMのパーソナリティーたちも、試行錯誤を繰り返しながら、番組作りに励んでいる。
 いちかわエフエムの深夜番組「夜もラジオぼーや」(毎日夜11時−深夜2時)。パーソナリティーが日替わりで3時間の放送を受け持っている。
 木曜日担当の浅倉涼一と金曜担当のラジオネームa.k.t.は、千葉商大放送研究会つながり。共に20代。局ロビーで顔を合わせると、

 a.k.t.「オーイ、浅倉氏、元気でやってる? お互い『夜もラジオぼーや』を始めて八か月になるよね」
 浅倉「最初に(局の人に)『ラジオぼーやをやってみないか』と言われたときは、三か月持つかなあーと思ったけど…」
 a.k.t.「もう、慣れたでしょ」
 浅倉「うん。このごろ、3時間の中で力の配分が何となく分かってきた」
 ギターケースを抱え、ミュージシャン風のa.k.t.。浅倉は、オシャレな自称「恋愛学博士」。
 a.k.t.「以前、ボクたち、夕方の一時間番組をやってたよね」
 浅倉「『College Station』。あのころは、ひたすらことばの剛速球を投げまくってた」
 a.k.t.「ボクは、街頭インタビューもやったよ。良く言えば『気合が入ってた』けど、聴いているほうは『何やってるのか分かんない』『疲れちゃう』みたいな…、そんなカンジだったよね」
 と、遠い目でルーキー時代を振り返る2人。
 浅倉「いま、ボクの番組『恋するナポレオン』は、恋愛の話が中心。社会学も少々…。理論ばっかり先に立って、実践が伴わないけどさ…」
 a.k.t.「浅倉って、よくしゃべるよね」
 浅倉「うん、誰かに自分の思いのたけを聞いてもらいたい。だから、マイクに向かうと、曲をかけるのも忘れて、夢中でしゃべってしまう」
 a.k.t.「ボクの番組『エムスタ』は、音楽中心。今年に入ってからは『六弦の美学』というコーナーも作って、ときどき放送中にギターを弾くこともあるんだ。リスナーから『熱演、ゴクロウサマ!』とメールが届くよ」
 愛用のエレキギターをケースから取り出すa.k.t.。ホントに音楽が好きなんだね。       (つづく)    (文中敬称略)



<2>


 きょうは、いちかわエフエムの深夜番組「夜もラジオぼーや」(毎日午後11時−深夜2時)の楽屋ばなし。番組開始30分前、木曜日担当の浅倉涼一は、いつものようにシャドウピッチングをしております。アサクラ投手、振りかぶって、第一球、投げました!。一方、金曜担当のラジオネームa.k.t.は発声練習。「ア・エ・イ・ウ・エ・オ・ア・オ…」。それぞれ、緊張のほぐしかたが違うようです。

 番組でかける楽曲のセレクトにも、独特のこだわりがあるようで、
 浅倉「女性アーチストを中心に、シンガーソングライターが多い。必ず歌詞カードを徹底的に読んで、チェックする」
 a.k.t.「自分がギターを弾くこともあって、やはりギタリスト。デビューしたての気になるアーチスト。音質、声質、録音状況など、『音』にこだわる。お互い、リスナーから『選曲がいいね』と言われたときが、いちばんうれしいよね」
 浅倉「うん。メチャメチャうれしい」
 a,k.t.「ところで、しゃべりが中心のキミは、どんなことに気をつけているの?」
 浅倉「うちの局は、日常会話をそのまま流していているようなところがあって、それが局カラーになっている。でもボクは、マイクに向かうと、自分の中でスイッチが入ってしまって、なかなか『地』が出せない。局の専務にも『キミのふだんのしゃべり方を、そのままマイクの前で再現できたら、最高におもしろいんだけどなあ』と言われている」
 a,k,t,「こうやって2人で話しているときは、肩の力が抜けた、いいしゃべり方だよ」
 浅倉「うん。この前、番組中に、自分の前に誰かが座っていると想像して、その人に話しかけるようにしゃべってみたんだ。けっこううまくいったと思う」
 a,k,t,「いろいろ、試しているんだね」
 浅倉「長い目で見てよ。成人式のとき、オヤジがくれた祝儀袋に『継続は力なり』と書いてあった。ここでそのことばを実践してみようかと…」
 a.k.t.「おっ、アサクラ君、カッコイイっすね !」
 浅倉「a.k.t.のしゃべりは、マイクの前でも変わらないね」
 a,k,t,「ボクの番組は、音楽が中心。しゃべりは『あえて』というカンジ。でも、語彙(ごい)力をつけて、正しい日本語をしゃべれるように、気はつかっている。ベストセラーになった『日本語練習帳』という本を、いつもカバンの中に入れているよ。『ネタ帳』(日記帳)もつけている」
 浅倉「将来は、プロになるの?」
 a.k.t.「実際にプロのパーソナリティーと話をしたことがあるけど、パワーが違う。ボクは『音づくり』が好きなので、音楽系の仕事をしながら、ボランティアのパーソナリティーを続けていきたい」
 浅倉「ボクもこれから大学院に進んで、就職して…。『職場で働く自分』『番組をやっている自分』と、生活にメリハリをつける。ボランティアパーソナリティーだったら、それも可能」
 A.K.T.「ふだんの生活(日常)があるから、マイクの前(非日常)でしゃべれる」
 浅倉「そうそう。ふだんの生活の中で思ったことを、自分の言葉にして放送で伝える。それが楽しくもあり、むずかしくもあり…」
 a.k.t.「ただし、自分の言ったことに対して責任を持つ。主張したい内容が客観的に見ても正しいのかどうか、気をつけないといけないよ」
 浅倉「これから、その段階に入っていくね」
    (文中敬称略)






「私、毎週木曜日の朝11時から2時間、いちかわエフエムでパーソナリティーをやっているのよ」。高橋久美は、市川市内で出会った幼なじみのM君に、近況を報告した。以来M君は、高橋の番組『What‘s Up Ichikawa』を聴いて、いろいろアドバイスをしてくれる。たとえば、『ダラダラしゃべってないで、もっとメリハリをつけろよ!』。

 高橋「批評は、なかなか辛口。耳が痛い。でも、しっかり聞く」
 M君「え−っと、雑談は、おもしろくない。曲名は間違えるし、しゃべりはつっかえるし…」
 高橋「ねえ、どっかいいとこある?」
 M君「あるある、『みんなの歌のコーナー』はおもしろい。そこだけは、いつもちゃんと聴いてるよ」
 高橋「そうか…」
 M君「いつもの気取らない雰囲気で、頼むぜ、DJ!」
 高橋「うん、頑張る」

 高橋が、いちかわエフエムのボランティアに応募したのは、平成11年12月。練習期間を経て翌年4月から正式に番組を持つようになった。
 なめらかな口調で曲を紹介する、カッコいいDJにあこがれていた。
 「新しい自分」を演出したくて、2時間の半分以上をインターネットなどで調べた情報で埋め、プライベートは公表しなかった。
 でも…。舌がまわらない、ネタがすぐに尽きてしまう。12年間幼稚園の先生をつとめ、人前でしゃべることには慣れていたハズなのに。どうしよう、どうしよう、理想とは、違う…。
 そんな煮詰まった状態に風穴をあけてくれたのが、M君だった。キビシイことも言われたが、
 「M君がほめてくれたコーナーを分析してみると…。そこは、幼稚園の先生時代の経験をいかした部分だった。子供たちと一緒に歌った童謡や、読み聞かせた絵本のことを、台本ナシで楽しそうにしゃべっている自分を発見した」
 そうか、無理なくしゃべれるコーナーをもっとふくらませてみよう…。
 「おっ、けっこうイケるじゃないですか」と局の人も手をたたいてくれた。自信がついた。自分の考えだけに固執せず、周りの人の意見を聞きながら番組を作るって、いいことだなあと思った。
 「M君をはじめ、放送を聴いて意見を言ってくれる人たちがいたから、番組を続けてこられたと思います」
 

−◇−  −◇−

 ここ数年、一般の人も気軽に放送に参加できるようになった。いちかわエフエムでも、たくさんのボランティアパーソナリティーたちが活躍している。
 最初はマイクの前で震えていたパーソナリティーたちも、だんだん自信をつけ、自分らしさを果敢にアピールしている。しかし…。
 電波は魔物。簡単には飼い慣らせない。よほど自分を強く持っていないと、食われてしまう、操られてしまう。イッキにパワーを使い果たさないように気をつけて! 燃料補給も忘れずに! 同局の放送を聴きながら、ふと、そんなことを思った。  (文中敬称略)


ー<1>


  


 いちかわエフエムの番組改編は春・夏・秋・冬の年4回。7月からの最新夏号タイムテーブルを見ると、それぞれの時間帯におなじみの顔ぶれが並んでいる。新番組もいくつかあるが、ラジオネームを変えたり、学校の先輩から番組を受け継ぐパーソナリティーもいる。改編を前に6月30日、原田奈央子は9か月間続けた番組「なおちゃんのおしゃべりセラピー」を「卒業」した。

 「山あり谷あり…、いい経験をさせていただきました。まだまだしゃべり続けていたいけど…、来週からこの時間に和洋女子大放送研究部の後輩『あちゃこ』が登場します。かわいがってね!」
 ハイテンションの原田の声に、一緒に番組を支えてきた仲間たちの笑い声が重なって、華やかなエンディングだった。
 「ここまでやってこられたのも、放送研究部の先輩や後輩がいてくれたお陰」と原田。
 国府台の和洋女子大放送研究部を訪ねてみた。サークル棟1階にある部室。機材・黒板・机・イスが詰め込まれた殺風景な部屋に、女子学生が5−6人集まればおしゃべりの輪が広がる。

 黒一点、放送研顧問を引き受けて25年という緒方惟章(60)は、同大人文学部日本文学科長。古典から近代文学までを朗々と語る講義は、学生たちの間でも評判だ。
 緒方「学生のサークル活動が盛り上がりに欠けるなか、うちは実に活気に満ちた活動をしているね。人前で何かをアピールするのが好きな人が集まっている」
 原田「目立ちたがりやが多いですね」
 緒方「放送で、いろいろな役を演じることで、隠れた自分を発見でき、自分探しにもなるわけですよ。それに、個性豊かな人たちと触れあっていると、どんな人に会っても驚かなくなる」
 原田「ハイ、もう並大抵のことでは驚かなくなりました」
 緒方「いまどきの子は他人との関係の結び方がニガ手で、一人ひとりがバラバラだから、よく落ち込んだりする。でも、チームワークの中では個性が発揮できる。放送は脚本を書く人、裏で技術的なことをする人、表に出てしゃべる人、そのどれが欠けてもダメ。いろいろな個性がまじり合って、初めてハーモニーが奏でられる」  (つづく)



ー<2>


 市川市国府台・和洋女子大放送研究部顧問・緒方惟章(60)と部員たちの話を聞いた。「昔、ラジオは家庭で神棚と同じ位置に据えられていた。高いところから重々しく伝えられる音声には、人を支配する力があったんだよ」と緒方先生。首をかしげる学生たち。テレビを見ながら育った10−20代には、「ラジオが人を支配した」時代なんて想像できないのでしょうね…。
 緒方先生の放送談義は続く。
「いま、豊かさの時代の中でラジオもテレビも、一人ひとりの部屋に持ち込まれ、すっかりパーソナル(個人的)なものになった。チャンネル権を争うこともなく、自分の思いどおりに、寝っころがって見たり聴いたり。番組が気に入らなければ消せばいい」

−◇−◇−◇−

 一方、放送の送り手側も、一段高いところからではなく、友達に話しかけるようにものごとを表現したり伝達したりするようになった。いま、放送の送り手と受け手は限りなく近づき、境界線もなくなろうとしている。特に、可聴範囲が限定されているコミュニティーFMを聴いていると、そのようすが手に取るようにわかる
。  こうした流れは、若者の間だけではない。「北海道新聞」によれば、さきごろ道内栗山町で老人クラブ連合会のお年寄りたちと町教委が、「FM放送局づくり講座」を開設した。同町の人口は約15000人で、その3分の1の約5000人が60歳以上の高齢者。お年寄りたちも力を合わせて、地域密着のラジオ局を作ろうとしている。

 そういえば、いちかわエフエムでも、1年ほど前に「ばあばのDJ」という番組があった。67歳の「ばあば」こと秋山長子はまことにおもしろい放送をしていた。
 たとえば、秋山は番組の中で
 「私の家の隣にお住まいの○○さーん、お庭の花がキレイですね。お宅の前を通るたびに、拝見していますよ」と呼びかけ、ローカル色豊か。若いときからDJになるのが夢で、映画会社の役員秘書をしていたころの秘話は絶品だった。選曲はもっぱらナツメロ。おしゃべりに疲れると水前寺清子や美空ひばりの曲を流し続けることもあり、ハラハラドキドキの1時間に、同年配の人から、ファンレターが届いていた。
 しかし、秋山は体調を崩し、ほどなく降板。また元気な声が聴きたい。

−◇−◇−◇−

 −緒方先生も、ラジオでしゃべってみたいと思いますか? 
 「ははは…、私は『鳴り止まないラジオ』と呼ばれたこともあってね。自分の講義を録音して聴いたことがあるけど、よどみなくよくしゃべる。あまりにもよどみがないので、自分でも眠気がさしてきた。『こりゃいかん、ボクの話はバックグラウンドミュージックだなあ、ところどころに間をあけたほうがいい』と思った。キミたちも、自分の放送は必ず録音して聴いたほうがいいよ。欠点が分かる」
 「先生の話は、止めるのが大変! きっと、マイクに向かったら放送時間をオーバーしてもしゃべっちゃうでしょうね」と学生たちの笑いも止まらない。  (つづく)    (文中敬称略)


ー<3>


  


   梅雨明け。ギンギンに冷房の効いた総武線車内で、高橋麻子に出会った。高橋は「あちゃこ」のラジオネームで7月7日からいちかわエフエムの番組「アナタのおそばに」をスタートさせたばかり。6月末に和洋女子大放送研部室で会ったときは「不安がいっぱい」と心細そうに話していたが、どうやら無事にデビューを飾れたようだ。番組を聴いた家族の評判はどうだっただろう? 
 「『もっと大きな声でしゃべりなさい』と言われました」
 誰でも最初にマイクに向かうときは、うれし恥ずかし。もう「何をしゃべってるんだか、わかんない」状態。でも、その「初々しさ」がかえって「コミュニティー放送らしくていい」と、ラジオマニアにウケちゃったりして…。

 高橋の大学の先輩・原田奈央子も「いちエフ」パーソナリティーだった9か月間の思い出を、同大放送研顧問・緒方惟章先生に、こんなふうに報告していましたよ。
 原田「パーソナリティーになって最初のころは、よくパニックを起こしてました」
 緒方「どんなとき?」
 原田「まず、ラジオはことばが足りないと、自分の思いを伝えられない。話の中で、ものの大きさを表現するときも、『これくらい』だけではリスナーに分かってもらえませんよね」
 緒方「そうだね。ラジオは映像がないだけに、豊かな表現力が要求される」

 原田「そして、すぐに相手(リスナー)の反応をキヤッチできない」
 緒方「なるほど。キミたちが学校でやっている『番組発表会』は観客を前にしてしゃべる、いわゆる『ライブ形式』。聴き手の反応を見ながら話ができた。でも、機材が相手のスタジオだと…」
 原田「自分の話が分かってもらえたかどうか、不安になる」
 緒方「で、どうやって切り抜けた?」
 原田「番組のコーナー担当に、私の言ったことが面白かったら『あいづち』を、分からなかったら『首をかしげて』もらった。そのうち、だんだんスタジオでしゃべるコツがつかめてきました」  緒方「人は、自分の言ったことを誰かが受け止め、反応してくれると、安心するものなんだね」    (つづく)(文中敬称略)






 ここまで、「いちかわエフエム」の放送に参加されているパーソナリティーのお話を聞いてきました。その数は、昨年10月の連載開始から数えて30人を超えました。どの人も、放送という表現の場で自分を試そうと一生懸命。そんな一人ひとりの顔が、なつかしく思い出されます。

 〇どんなことがあっても自分のペースを崩さない、トランスなかたに。きょうも、ひたすら「聴いて、感じて、参加するラジオ」の実現にむけて頑張っておられることと思います。
 〇突然番組を降板した夏目みかん。元気ですか ? アナタの番組には、人を魅きつける不思議なパワーがありました。
 〇しゃべりだしたら止まらない、いわさきひかる。キャラクターの濃さは局随一。「コミュニティーFMで、電波の隙間のそのまた隙間を狙う」という名言を覚えています。
 〇ピンチのときは、上川浩一にオマカセ。コミュニティー放送は、アナタのような人たちに支えられているのだなあ−と思いました。
 〇下島章寛。すっかり「夜もラジオぼーや」に腰を据えましたね。気合が入ったときの滑舌は絶品です。

 〇座右の銘が「継続は力」の浅倉涼一。お父さんもきっと応援していますよ。ところで、理想の恋人は? 
 〇カバンの中に「日本語練習帳」が入っていたa.k.t.。ゆっくりことばを選びながらインタビューに応じてくれましたね。ことばを大切にする気持ちが伝わってきました。
 〇強気な中にも、ナイーブさが感じられる柳田紳一郎。スタジオに入る前の緊張した面持ちが忘れられません。
 〇いけてるお。7月からラジオネームが運田天使に変わったけれど、独特の語り口はそのまま。また面白い「企画もの」を聴かせてください。
 〇20歳にして「ことばの大切さを知った」いとっち。活躍はこれからです。

 〇開局当初から「朗読の時間」を続けておられる「モモの会」のメンバーのみなさん。真摯な取り組みで、朗読技術もぐんと向上しましたね。
 〇自前のマイクを片手に、イベントや催しもの会場で市民の声を集めていた、小林いく子。取材を終えて「もっと勉強しなければいけない」と繰り返していた声が耳に残っています 
 〇たなべあけみ。ヤル気120%。「自分のことばで伝えたい」。そのパワーは、今年の猛暑もふっ飛ばしそうです。
 〇周囲のアドバイスを聞きながら、「自分らしさ」を探していた高橋久美。穏やかで、まあるい感じがしました。

 このほか、貴重な時間をさいてインタビューに応じてくれたパーソナリティー、本当にありがとうございました。みなさんの個性が花開き、大きな花束になり、「いちかわエフエム」を支えられるよう、祈念します。
 あらら、何だか、パーティ−のお開きのあいさつのようになってしまいましたね。でも…。連載はまだまだ続きます。こうご期待! (文中敬称略)



<>


いま、ラジオは街中でどんなふうに、どのくらい流れているのだろうか。7月20−27日の間、JR本八幡駅と京成八幡駅周辺で、音ハンティングしてみた。街の音源といえば、商店。そこで、商業ビル・スーパーなどの大型店舗(4)、コンビニ(3)、チェーン店(11)、個人商店(24)、あわせて42店舗を訪ねた。大まかに集計すると…。

 有線放送(22)、ラジオ(7)、CD(5)、テレビ(4)、ラジオ・テレビ・CD混合(2)、2店は「無音」だった。
 有線に次いで、ラジオはなかなか健闘している。その音は、派手さはないが、街にじわっとくっついたような感じだ。
 JR本八幡駅近く、靴修理のおじさんが仕事をしながらAM局の「身の上相談」を聞いていた。
 写真店の店先に並ぶ「お買い得商品」のミニラジオからは、「モーニング娘」の最新ヒット曲。ミニラジオのチューニングをそっと「いちかわエフエム」(83・0Mhz)にあわせてみた。八幡は同局の「お膝下」なので、バッチリ受信。女性パーソナリティーが「金縛りにあった」体験を話していた。市民の個人情報が聞けるのも、コミュニティー放送ならでは。

 古い商店が並ぶ横丁に入ると、そこにもラジオの音。商品棚に置かれたラジカセから軽快な洋楽サウンドがこぼれている。買い物に弾みがつきそうだ。チューニングはFM81・3Mhzだった。
 精肉店。カウンター奥の作業場から小さくラジオが聞こえる。
 「一日中、仕事をしながら聞き流しだよ。いま気に入っているのは、毎週日曜日朝十一時からやっているAM局の音楽番組。老練のパーソナリティーが、よけいなおしゃべりをせず、じっくりいい音楽を聴かせてくれる」とご亭主。
 夕暮れどき、京成八幡駅近くの商店街。
 テレビニュースを目の端で見ながら商売中のおやじさん。おやっ、どこからかラジオの野球中継が聞こえる。
 「昼間は有線放送の音楽だが、ナイターの時間はラジオに切り替える」(文房具店員)
 「野球はやっぱりラジオ。エコヒイキなく正確で、臨場感タップリの解説がいい」(写真店主)

 ラジオは特に個人商店で愛されているようだ。愛される理由ベスト3は?
 ▽仕事の手を休めずに▽知って得する情報が得られる。お目当ての情報は、その日の出来事・一般教養・交通情報など▽BGMがわり。音がないと何となくさみしい。(つづく)



<>


ここ数年、全国の新聞・雑誌に掲載されたコミュニティー放送関連の記事をみると、まず災害時に同放送の果たす役割を説き、次に各地域の人気DJや「新しい取り組み」を紹介、最後にさらりと経営の難しさや人手不足など、今後の課題に触れている。番組表を掲載している紙面もあるが、総じて「遠くから見守る」姿勢だ。
 地元コミュニティー放送の内容を、いちいち、ああだこうだ言っているのは、インターネットのラジオマニア系掲示板を除けば本連載くらいのもので…。

 もしかしたら、どこかに、「コミュニティー放送について書くときは、その局のポリシーを最大限に尊重し、既成局(特にふだんから聴いているキー局)の番組とゼッタイに比較してはいけない」という、「約束事」があるのか?
 でも、それではあまりにもさみしいなあ、と思う。一般リスナーがラジオに求めているのは、理屈ではない。「ああ、何となく聞いてよかった、おもしろかった、楽しかった」。その気持ちは、既成のキー局に対しても、コミュニティー局に対しても、変わりはない。事実、会う人ごとにコミュニティー放送聴取を勧めてみると、返ってくる答えは一様に「それって、面白いの? 面白かったら、聴くよ」。
 

―◇―  ―◇―
  JR本八幡駅と京成八幡駅周辺の42商店を訪ねながら、ラジオの音を探した。結果、7店でラジオが鳴っていた。
 選局について、7店での聞き取りをまとめてみると、
 基本的に▽どの店にも慣れ親しんだ「お気に入り」の局がある。
 そして▽「聞き流している」とは言いながら、番組の内容を覚えていて▽よほどのことがないかぎりは他局に『浮気』しない。
 局とリスナーの関係はかなり「親密」だ。
 さてここで、「いちかわエフエム」さんんに、一通の「ラブレター」をお届けしよう。送り主は、接客の合間をぬって、聞き取り調査に協力してくれたカメラ店長。同店では午前9時の開店から閉店までの10時間半、『いちかわエフエム』が流れている。
 −聴き始めたキッカケは?
 「約半年前、店のBGMに使っていたCDプレイヤーが壊れたので…。かわりに、他のFM局より音楽の時間が長い同局を店内で流すようになった」
 −聴いた感想は?
 「まず、流行りの曲からクラシックまで、いろいろなジャンルの曲を聞かせてくれるので、いいんじゃないかな−と思う」   (つづく) 


<>


 京成八幡駅近くのカメラ店に入り、店内で流れている音楽に耳を傾けた。流行りの“ポップス歌謡曲”。音源は有線放送? CD? それともラジオ? 曲が終わると、少しくぐもった、パーソナリティーのひとりしゃべり。おっ、これは「いちかわエフエム」スタイルだ! 店長に尋ねると、「ハイ、『いちかわエフエム』です。大当たり!

 客の出入りがひんぱんな店内で、都内在住の店長とカウンター越しにおしゃべり。
 −「いちかわエフエム」をはじめて聞いたのは?
 「試験放送(約3年前)のころにチェック。他のFM局よりも音楽の時間が長い−、そんな印象があった」
 −店内で流すようになったのは?
 「半年前、BGMに使っていたCDプレーヤーが壊れたので、それを機になんとなく。いまは毎日朝9時の開店から、夜7時半の閉店までかけっぱなし」

 −感想は?
 「まず、クラシックからポピュラーまで、いろんなジャンルの曲を聞かせてくれるから、いいんじゃない」
 −お気に入りの番組は?
 「特にないが、ポピュラーっぽい洋楽がかかっているのが好き。アルバイトの学生は、『カレッジステーション』という番組をヒイキにしていている」
 −音楽の時間が多いのは、店内のBGMとしてグッド?
 「ハイ。それと、ときどき、市川に密着したニュースが聞けるのもいい」

 −たとえば?
 「市内で『強盗が入った』『火災が起きた』などのニュースが入ると、『ああ、うちの店も気をつけなければいけないな』と思う」
 −局への要望は?
 「う〜ん」
と、しばし考え込んで、 「強いて言うならば…、<1>いまはもう慣れてしまったけれど、40代の私にとって若いパーソナリティーの日本語(ことば)は分かりにくい<2>お客によく聞かれることがあるので、市内の施設・レジャー・イベント情報をもっと教えてほしい<3>なつかしいオールディーズ(70年代)の特集が聞きたい」

 −スタジオの場所を知っていますか?
 「放送中に『…本八幡駅前の…』というフレーズが入っているので、『アッ、近くでやっているんだなあ』と、親しみが持てる」
 −そこから、ほとんど生放送。リクエストも出来ますよ。
 「えっ、生放送なんですか!? なるほど。いちかわエフエムさん、私がこの店にいる限り、ずっと聞いていますから、これからも頑張ってください」
     (つづく) 



<>


 台風11号が大暴れした8月22日、テレビ・ラジオは競って台風情報を流していた。当日、新聞の番組欄には、【随時台風(関連)情報】の文字。「〇〇線は運転を見合わせています」「〇〇では何人が被害にあいました」「〇〇は高波に注意」などなど…。全国放送は、台風の足取りや各地域の被害状況など、現地リポートも交え刻々と知らせてくれた。
 災害に見舞われたとき、地域のコミュニティー放送は、どんな情報を、どこまで伝えることができるのだろうか。

 いちかわエフエムから拝借した本、『FMラルース 999日の奇跡〜ボランティアの作ったラジオ局』に興味深い記述がある。
 ミニFM局「laLUZ(ラルース)」は、「阪神淡路大震災」が起きた平成7年、兵庫県西宮市に誕生した。同局は、延べ15万人を超える市民ボランティアに支えられて成長し、平成10年にコミュニティーラジオ局「さくらFM」に改組。
 「ラルース」時代から継承されている番組編成基本方針は、「市民参加と市民の役に立つ、より身近な情報提供」。大震災の経験をいかした防災放送は、国内外で高い評価を受けている。その基本姿勢を紹介しよう。

 『私たちは(大震災の)経験者として言います。有事に街の人びとが頼れるのはラジオです。私たちには、いかに苦しくても怠ってはいけない使命があるのではないでしょうか』
 事実、小規模のラジオ局にとって、めったにない災害のために予算と時間を割くのは大変なことだった。でも、
 『今後の災害に備えた実戦的な防災放送マニュアル作りは必要です。私たちの使命は、可能な限り速いスピードで、本当に住民が必要としている情報を送り続けることだと考えています』
 災害時、住民が求めている情報とは、
 『細かな地名表示・目印など地元の人たちにわかりやすい表現で、各町ごと・各学校ごとの安否確認、稼働医療施設の案内、国道や主要幹線以外の道路情報、ガス漏れや火災情報etc』

 車の渋滞や電話の不通にも、
 『冷静さを失わないように−と呼び掛けます。災害発生後48時間の動き如何で、被災者の生存率や災害の規模が決まると言われています。その間、私たち放送人は何ができるか、何を備えるべきか、精一杯模索しなければいけません』
 そして、『ふだんから、いざというときには(地元の)ラジオを聞く−という信頼関係を、街の住民と結んでおくことも大切です』。     (つづく)



 市川よみうり Top Pageへ