市川よみうり連載企画 |
曽谷一丁目にある向台貝塚は、昭和四十二年に市川市史編纂事業の一環として明治大学考古学研究室がはじめて発掘し、市川市教育委員会が現在に至るまで継続的に発掘している。前回も、向台貝塚の事例を含めた縄文時代の道路跡について触れたが、今回も引き続きこの問題について考えてみたい。
縄文時代の道路跡は、これまであまり知られていなかったこともあり、「けもの道」や「踏み分け道」のような道路と考えられていたが、確認された道路跡は実に多様なあり方を示しているし、ある程度まで機能が特定できるような事例もあり、空間利用を示唆するような情報をも提供している。近年では、遺構間の位置関係や地形的な制約を加味し、事前に道路の位置を推定した上で発掘を行って、道路跡を意図的に確認できた事例もあることから、これまで以上に調査者の問題意識が問われている。道路跡の確認は、発掘方法・遺存状態(残り具合)・調査者の問題意識に左右されることから、発掘で見逃した事例があったとしても、これまでは何ら不思議なことではなかったのである。道路跡は、硬化面・掘り込み・舗装・横木と杭(低地の木道の場合)などが確認の目安であり、確認後は層位・出土遺物・遺構の配置や新旧関係(切り合い)などを考えながら、慎重に時代(時期)決定することが求められる。
世界的に見て先史時代の道路跡は類例に乏しいが、ヨーロッパでは低地の木道が古くから知られており、イギリスのサマーセット低地にある木道は、約六千年前の新石器時代の所産として注目されている。日本国内でも、こうした木道が約四千五百年前には出現することから、市川市内にある低地の谷を発掘すれば、木道が確認される可能性は十分にありえる。拙稿では、三回にわたって向台貝塚の道路跡について紹介してきた。本貝塚の事例は、本来的には人間の歩行で地表面が変化し、帯状に窪んだり硬化した道路であったが、路面の沈下を修繕するために舗装が行われた可能性が高く、筆者は主要な機能や空間利用にも言及できる重要な事例と考えている。この道路跡は、縄文人による道路の修繕や管理の問題をも提起していることから、縄文時代の道路研究に一石を投じる注目すべき事例と言えよう。
縄文時代の道路は、集落間を結ぶ道路と特定の場所や施設に直結した道路から構成され、それらが各集落の盛衰と連動して形を変えながら、一体化して道路網を構成していたと推定されるが、古代官道のような計画道路ではないことから、同時期の道路網の全容を解明することは、現代日本の精密な発掘技術を駆使しても不可能であろう。筆者は、道路跡の調査・研究が構造の解明にとどまることなく、集落研究の枠組みを広げ、縄文人の空間利用の実態を解明する上で、重要な役割を果たしてくれるものと期待している。 (つづく)
市川市には、明治時代から考古学を志す人びとが訪れ、数々の遺跡を発掘していたこともあり、昭和四十年くらいまでの発掘品の多くは、市外の個人や機関の所有になっている。たとえば、史跡である堀之内貝塚・姥山貝塚・曽谷貝塚などの出土品は東京大学・明治大学・南山大学(名古屋)・独立行政法人奈良文化財研究所・独立行政法人東京国立博物館などに保管されているのである。 これらの出土品のうち、特に重要と思われるものについては、考古博物館で複製品(レプリカ)をつくって展示したり、常設展や企画展で借用して市川に里帰りさせているので、保管先がどの機関であっても大きく問題になることはない。さて、市川市教育委員会(以下、市教委)では、市史編纂事業と前後して昭和四十一年に文化財担当の職員を採用し、文化財保護法に基づいた発掘を実施するようになった。柏井町一丁目にある縄文時代中期(約四千五百年前)の今島田貝塚の発掘は、市教委の文化財担当職員による記念すべき最初の発掘であり、その出土品は考古博物館に移管されて企画展などで公開されている。現在、市教委には文化財を担当する専門の職員は二人おり、住宅の建設などにともなって破壊される遺跡を発掘し、その遺跡が破壊される前に写真や図面で記録する作業をしている。
市教委には、昭和四十一年以降に発掘された三十六年分の膨大な分量の出土品が保管されており、その一部は市内の小学校や考古博物館で展示されているが、市内には縄文時代の遺跡が一体どのくらいあるのだろうか。市教委では、明治時代から知られている遺跡のほか、遺跡のありそうな場所を歩いて遺跡を発見する分布調査を実施し、市内の遺跡が一覧できる『千葉県市川市埋蔵文化財分布地図』という本を平成元年に刊行している。この本を見れば市内にある遺跡の様子を知ることができるが、考古学の専門用語が多く使われていることもあり、一般の方には内容がやや難しいかもしれない。平成元年三月末日の時点で確認された遺跡が掲載されており、市内の総遺跡数が百六十遺跡、そのうち縄文時代の遺跡が百十三遺跡(うち貝塚五十一)となっている。この数字は、遺跡のとらえ方や遺跡の統廃合などで若干前後するが、市内にある遺跡の約三分の二が縄文時代の遺跡であり、その半数が貝塚をともなっていることに注目したい。海に近い市川市の特性がよく表れており、縄文時代の「貝塚銀座」と言う形容がぴったりである。
これまで、約一年にわたり「石器時代から縄文時代へ−縄文時代研究のあゆみ」を連載してきたが、次回からは「いちかわの縄文人とその暮らし」と題し、より身近な話題をとりあげていきたいと思う。
縄文時代の市川は、一体どのような場所であったのであろうか。そこに暮らした縄文人のことを考える時、この問題を避けて通ることはできない。とはいえ、何せ約一万二千年前から約二千年前まで続いた縄文時代のことであるから、一言では表現することができないので、環境の変化を大まかに説明しておきたい。
約二万年前、最終氷期(ヴユルム氷期)が最盛期を迎え、やがて気候が温暖化して大陸の北部を覆っていた氷河がとけ、現在の東京湾の入り口付近にあった海岸線が次第に高くなる。マイナス百メートル前後であった海水面の高さは、約一万年前でマイナス三五メートル前後、約八千年前でマイナス二〇メートル前後となり、約七千年前を過ぎると現在の海水面の高さとほぼ同じになり、約六千年前には現在の海面の高さを二〜三メートルほど上回った。驚くべきことに、年間約一センチの早さで、急速に海水面が上昇していったのである。当時、海辺で生活していた縄文人たちも、その変化に驚いていたことであろう。約六千年前は、縄文海進と呼ばれる海水面の上昇のピークにあたり、東京湾が内陸に深く入り込んでいた様子がよくわかる。その後、河川が運んできた土砂がたい積したり、気温がやや低くなった関係で海岸線が後退し、約四千年前には海岸線の最奥部が埼玉県南部にまで移動する。市川市内に姥山・曽谷・堀之内などと言った大型の馬蹄形貝塚ができる時期(約四千五百年前〜約三千年前)の海岸線は、いまのJR総武線や国道14号の付近にあり、市川の縄文人たちはそこで「潮干狩り」をしていた。
数年前になるが、国道14号のすぐ南側にあたる八幡三丁目の工事現場で地下約六メートルから、バカガイを主体とする多量の貝殻の化石が出土した。縄文時代の海岸線と考えられる場所からである。それらの貝殻は、二枚貝の一方の貝殻がなくなっており、貝殻だけが一か所からまとまって出土したことから、死んで海岸へ打ち寄せられた貝殻の化石と考えられる。この貝殻の年代を理化学的に測定したところ、約五千年前という年代が出た。この年代は、考古博物館一階ホールの天井に展示されているコククジラとほぼ同じ年代であり、このクジラが何らかの原因で海岸の浅瀬に打ち上げられたことを示している。
縄文時代の東京湾では、クジラが迷い込んで海岸に打ち上げられると、縄文人たちが死んだクジラの椎骨(背骨)を集落に持ち込んでいたようであり、貝塚からしばしばクジラの椎骨が出土する。おそらくは、木の実を加工する石皿のかわりに使用したり、ものを置く台などの家庭用品として利用していたのであろう。縄文時代には、クジラ猟がなかったとするのが定説であるが、自然死したクジラの肉を食用とした可能性は十分にある。最近、静岡県や茨城県でクジラが海岸の浅瀬に乗り上げ、テレビや新聞などのマスコミを騒がせたが、こうした「事件」は何も現代に限ったことではなく、縄文時代にも起こっていたのである。 (つづく)
縄文時代の市川は、一体どのような場所であったのであろうか。そこに暮らした縄文人のことを考える時、この問題を避けて通ることはできない。前回は、縄文時代の東京湾と市川周辺の海岸線について触れたが、今回は市川の海と貝塚との関係について考えてみたい。
先月の一日、考古博物館の行事で江戸川放水路に出かけ、小学生の子供たちと干潟で「潮干狩り」をする機会があった。この行事は、市川で暮らした縄文人の生活を追体験することを目的としたものであり、学校の週五日制に対応した新企画の行事である。江戸川放水路と言うと、文字通り流れのある「川」を連想する人も多いと思うが、ふだんは水門を開けていないために塩分濃度は海と同じなのである。名前こそ「川」でも、実際には入り江のようになった細長い「海」であり、泥の割合が高く泥の多い海底を好む貝類が見られる。クイなどに付着したマガキを除くと、「潮干狩り」でとれた貝類の大半は黒っぽい色をしたオキシジミという二枚貝であり、五十センチ四方深さ約二十センチの範囲に五個体以上いた場所もあった。大きさは直径五センチ前後と粒ぞろいで、バケツ一杯にとった子供たちもいた。オキシジミは、泥っぽいところにすんでいることから泥抜きに手間がかかるし、あまりおいしくないことから、家に持って帰る人も少ないようで、おもしろいようにとれる。筆者は、貝塚から出土する風化した白色のオキシジミは見慣れているが、生きているオキシジミを見たのは初めてであり、「(海の)沖にいる(黒っぽい色をした)シジミ」と言う和名の意味を再確認することができ、非常に有意義であった。
千葉県環境部が二〇〇〇年に出した「千葉県レッドデータブック」によると、このオキシジミは江戸川の放水路では大量に見かけるものの、東京湾全体では極めて少なく、保護を要する貝類として名前があげられている。
市川市内の貝塚では、少数のオキシジミが含まれることはあっても、オキシジミが主体となる貝塚はほとんどない。堀之内貝塚のB地点(約二千五百年前)は、その意味でハマグリとオキシジミを主体とするまれな例である。オキシジミが浅く泥の多い海底を好むところを考えると、砂と泥が混じる浅い海底を好むハマグリとは別の場所でとられた可能性が高い。ハマグリはJR総武線の線路付近から南へと後退する海岸でとったものであり、オキシジミは上流から多量の泥が運ばれる川の河口か、波の穏やかな入り江のような場所でとったものであろう。
堀之内貝塚のB地点は、市川市内にある縄文時代の貝塚としては最も新しい時期に属しており、その発掘成果は上流から供給された多量の泥が海岸に変化をもたらし、海岸の一部に泥の多い海底を出現させたことを物語っている。このころを境に市川市内だけではなく、関東地方では全体的に遺跡数が急激に減少するが、そのことを考えると貝塚の形成が低調になる理由を海岸線の後退や海底の変化だけに求めることはできず、気候や植生など縄文人を取り巻く環境の変化が、遺跡数や人口の減少につながったと考えたい。 (つづく)
市川に暮らした縄文人たちは、一体どのような人たちであったのであろうか。今回は、全国的な統計資料と比較しながら、市川で暮らした縄文人の身体の特徴を考えてみたい。
筆者は、同世代の仲間と比較して身長が約一九〇センチ、足のサイズも二八センチとかなり大きく、洋服や靴を見つけるのに困った経験が数多くある。近年、若者たちの平均身長が高くなる傾向にあることから、こうした状況に注目したデパートなどの量販店が特設のコーナーを設置することも多く、筆者も苦労せずに洋服や靴を買えるようになった。さて、個人的な話はこの辺でおわりにするが、こうした日本人の平均身長の大きな伸びは、食生活の欧米化を含めた生活様式の変化が大きな要因とされ、通史的に平均身長を見た場合でも過去に例がない。ちなみに、平均身長が最も低いのは江戸時代であり、穀物類中心の食生活が要因の一つと考えられる。
身長は、生身の人間を計測して決定するのが普通であるが、遺跡から出土した人骨から生前の身長を逆算する計算式がイギリスの生物統計学者K・ピアソン氏によって開発され、現在では計測に必要な手足の一部が残っていれば、身長が推定できるようになっている。原理的には、現代人の手足の骨の長さと身長の相関関係を計算式に置き換え、縄文人の手足の骨の長さから身長を導き出すのである。元新潟大学教授の故小片保氏は、ピアソン氏の方法で東日本と西日本の縄文人の平均身長を計算し、東日本の成人男性で一五九、二センチ・成人女性で一四八、二センチ、西日本の成人男性で一五四、六センチ・成人女性で一四九、六センチというデータを得ている。東日本では、成人男性の平均身長が約一六〇センチと高く、成人女性との差が約一〇センチあるのに対し、西日本では成人男性の平均身長が約一五五センチと東日本よりやや低く、成人女性との差が約五センチと小さい点に特徴がある。市川で暮らした縄文人の身長はどうであろうか。考古博物館では、縄文時代の展示室に国史跡・堀之内貝塚出土の人骨を展示している。この人骨は、考古博物館に隣接する堀之内貝塚の西南部分から、体を伸ばした伸展葬の状態で出土した縄文時後・晩期(約四千年〜二千五百年前)の成人女性の人骨であり、平成四年度の企画展『よみがえる堀之内貝塚』でも展示したことがある。古人骨の研究を専門とする東京大学(現筑波大学)の足立和隆氏に依頼したところ、ピアソン氏の方法で身長が約一五八センチと推定できることがわかった。縄文人の女性としては身長がやや高く、肩幅が広く、手足の筋肉が発達した逞しい女性であったようだ。また、状態のよい人骨は、曽谷一丁目の向台貝塚からも一体出土しており、やはり平成十年度の企画展『四五〇〇年前への招待状』で展示している。この人骨は、体を折り曲げた屈葬の状態で出土した成人男性の人骨で、顎の角張った典型的な縄文人の顔つきをしている。この人骨は、縄文時代中期(約四千五百年前)のもので、推定身長は一六五センチ年齢二七〜三〇歳くらいとされており、やはり平均身長よりやや高いことがわかった。復顔すると、俳優の藤岡弘さんに似ている?という。
市川の縄文人は、この二体以外にも全国的な平均値より身長が高い事例があり、地域的な特性として指摘できるものかどうか、今後の調査で明らかにしてみたいと考えている。 (つづく)
市川に暮らした縄文人たちは、一体どのような人たちであったのであろうか。今回も全国的な統計資料と比較しながら、市川で暮らした縄文人の寿命について考えてみたい。
平成十一年の簡易生命表によると、日本人の平均寿命は男性で七十七・一〇歳、女性で八十三・九九歳であるという。明治時代以降の統計によると、一八九一年(明治二十四年)から一八九八年までの平均寿命が男性五十五・七歳・女性五十七・一歳であり、一九六五年(昭和四十年)から一九六六年までの平均寿命が男性七十・三歳・女性七十五・〇歳となっている。驚くべきことに、過去百年間で平均寿命が約二十二〜二十六歳も伸びているのだ。人類学者の小林和正氏は、全国から出土した縄文時代後半の人骨二百三十五体分を調査し、十五歳以上の平均死亡年齢が男性で三十一・一歳、女性で三一・三歳であること、単純な平均死亡年齢にすると男女とも十四・六歳であることを突き止めた。実際問題として、医療技術が未発達であった縄文時代は幼児の死亡率が極めて高く、病気・けが・栄養失調・出産・過労など、命を縮める要因が数多くあった。
小林氏は、仮りに人口の六割程度が十五歳に達するまでに死んでしまう社会が縄文時代にあったとすると、平均八人程度の子どもを産まないと人口が保てないとも指摘しており、縄文時代が戦前の日本のように多産であったことがわかる。おそらく、縄文人たちも日常生活の中で多産の必要性を痛感していたことであろう。それでは、市川で暮らした縄文人の寿命はどうであったのか。これまでに百二十体以上の縄文時代の人骨が出土したことで有名な柏井町一丁目の姥山貝塚を具体例にあげてみよう。姥山貝塚から出土した十五歳以上の人骨二十八体の死亡年齢を調査したところ、男性三十三・二歳・女性三十二・三歳、男女平均で三十二・八歳であることがわかった。
これらの人骨は、縄文時代中期つまり今から約四、五百年前のものであり、数字を見るかぎり全国平均よりも長生きであったと推定できるが、調査した個体数が少なく、データに偏りがあることも予想されることから、おおむね三十歳強を平均死亡年齢と考えておきたい。筆者は、仕事の関係で縄文人の寿命の話をすることがあり、考古博物館の常設展示を案内しながら、高い年齢層の来館者に「縄文人の寿命は約三十歳ですから、縄文時代なら皆さんは、この世にはいないかもしれません。もちろん、説明をしている私も例外ではありませんが…」などと、冗談まじりに説明することにしている。
現代人は、ごく普通に生活してさえいれば、平均して八十歳前後まで長生きできる点で恵まれており、一面では縄文人の二倍の人生を楽しめるとも言える。しかしながら、価値観が多様化する現代では細く長く生きる人生ではなく、むしろ太く短く生きる人生を望む声もあろう。筆者なら、細く長く生きて急速に変わり行く社会を見てみたい気もするが、読者各位はどのようにお考えであろうか。 (つづく)
市川に暮らした縄文人たちは、一体どのような人間であったのであろうか。今回は、市川で暮らした縄文人の「歯」にまつわる話をしてみたい。 虫歯(むしば)は文明病の一つともいわれ、現代人の多くが悩まされているが、虫歯は縄文時代以降の人骨で確認されており、私たちの祖先も虫歯に悩まされることがあった。先日亡くなった国立歴史民俗博物館前館長の佐原真氏によると、日本の歴史の中で虫歯が急増したのは弥生時代と現代の二回であり、弥生時代の場合は農耕開始(米食普及)、現代の場合は飽食が主な要因であるという。 縄文人にも虫歯はあった。縄文時代の前半には虫歯のある人骨が少ないことが知られており、食べ物を噛(か)むこと以外の用途に歯を酷使したため、本来あるべき歯の上面の窪(くぼ)みがすり減って平坦になり、結果として虫歯の予防につながったと考えられている。歯の上面の窪みは、食べ物のかすがたまりやすく、虫歯の要因になりやすいのだ。東京大学人類学教室元教授の鈴木尚氏は、この「食べ物を噛むこと以外の用途」に皮なめしを考えており、比較のためにエスキモーによる皮なめしをあげている。 縄文時代の後半、つまり約六千年前以降になると虫歯が一般的に認められるようになる。歯学を専門とする井上直彦氏によると、縄文人は食料採集民の中で虫歯率(現在ある歯の中で虫歯が占める割合)が約一〇%と高く、アメリカのカリフォルニア・インディアンの約二五%に次ぐ高率であるようだ。一般論として、縄文人の虫歯の多さは豊かなる食料採集民の証しであるといえるが、地域によって虫歯率が異なることと、さまざまな要因が関係していることがわかっている。 たとえば、兵庫県の宝塚市や岡山県の笠岡市では、地下水にフツ素が溶け込んでいることから、そこに住む人間の虫歯率は時代を問わず他地域より低いらしく、縄文時代に属する笠岡市津雲(つくも)貝塚の人骨にも虫歯が少ないという。現代人は、医学の発達によってフツ素の効能を知っており、積極的に虫歯予防に役立てているが、フツ素の効能を知らなかった津雲貝塚の縄文人たちは、その恩恵に預かっていたという訳である。同じように糖分を多く含んだ食べ物を食べていたとしても、自然の防波堤によって歯が守られていたのである。 それでは、わが市川市の場合はどうであろうか。市川市の柏井一丁目にある今島田(いましまだ)貝塚では、下顎の左側の臼歯(きゅうし=奥歯のこと)二本が虫歯になった約四千五百年前の男性の人骨(八号人骨)が出土しており、市川考古博物館の常設展示室に展示されている。この人骨の臼歯には、小さい方は直径・深さとも約四 、大きい方は歯の片側半分に及ぶ穴があいており、見るだけでも痛々しい。歯医者などいなかった時代、この歯の痛みに襲われた縄文人の彼は、一体どのように耐えていたのであろうか。子どもの虫歯が気になる父兄の皆様には、ぜひとも親子で当館にお立ち寄りいただき、現代医療の恩恵に深く感謝しながら、縄文人の虫歯を見学していただきたいと思う。 (つづく)
市川に暮らした縄文人たちは、一体どのような人間であったのであろうか。前回は、虫歯の問題を取り上げたが、今回は抜歯の問題を取り上げてみたい。
日本では、自らの意志と無関係にかかる虫歯とは別に、縄文時代から弥生時代にかけて「抜歯」と呼ばれる特異な風習が流行し、健康な人間の「前歯」を意図的に抜き取っていたことがわかっている。「前歯」にこだわる理由は、口を開けた時に歯を抜いたことが一目瞭然にわかるからであり左右対称となる抜歯も多く認められる。抜歯された歯の歯茎は数か月で閉じることから、規則的に閉じた歯茎が複数の人骨や複数の遺跡から出土すれば、風習としての抜歯の存在が証明されたことになる。佐倉市にある国立歴史民俗資料館の春成秀爾氏によると、抜歯そのものは縄文時代以前の先土器時代にもあるが、風習としての抜歯は約四千年前頃に東北地方の仙台湾周辺ではじまり、それ以後に関東地方をはじめ全国に広がったという。
国立歴史民俗資料館前館長の佐原真氏によると、こうした抜歯は現在でも世界のいくつかの民族の間に風習として残っており、子どもから大人になるための儀礼(成人儀礼)としての事例、近親者が亡くなると歯を抜く事例、勝利の明かしに捕虜から歯を抜く事例などがあって、このうちも最も多いのは成人儀礼にともなう抜歯であるという。健康な歯を抜くことは、本人にとっては痛みをともなう一大事であるが、この痛みも儀礼に不可欠な要素なのである。日本でも九州地方の船上生活者の間に女性の成人儀礼として、二十世紀まで抜歯の風習が残っていたとのことであるから、古墳時代以降にも抜歯の風習があった可能性があるが、詳しいことはわかっていない。
それでは、縄文時代の抜歯もすべて成人儀礼と関係するのであろうか。こうした疑問に対して興味深い研究がある。抜歯研究を精力的に進めている春成秀爾氏は、同じ遺跡から出土した縄文人骨を調査し、同じ歯が抜かれている人骨が多いものの、抜かれている歯の組み合わせが異なること、抜かれている歯の位置や本数によって、埋葬されている場所が異なることから、成人儀礼で抜かれる歯がある一方で、自分が生まれた村がいまいる村かそれ以外かで、歯の抜き方を変えている可能性を指摘している。つまり、歯の並びを見ればその村の出身者か、そうでないかが一目瞭然でわかるというのである。それでは、わが市川市の場合はどうであろうか。曽谷二丁目にある国史跡の曽谷貝塚では、早稲田大学が発掘したW地点から、上顎の左右の犬歯が二本抜かれた約三千五百年前の成人女性の人骨(頭蓋骨)が、体を折り曲げた屈葬の状態で出土しており、市川の縄文人にも抜歯の習慣があったことを示す証拠の一つになっている。この二本の歯は成人儀礼で抜かれたものであろうか。生まれた村を示す抜歯は、もう済んでいるのだろうか。そんなことを考えながら原稿を書いていると、歯ではなく頭の方が痛くなってきそうである。 (つづく)
市川に暮らした縄文人たちは、一体どのような人間であったのであろうか。筆者は、数回にわたって彼らの身体上の特徴について述べてきたが、今回からは彼らの日常生活に言及してみたいと思う。彼らの日常生活を語るには、少なくとも衣・食・住について触れることが不可欠であろうが、衣服については断片が残されているに過ぎず、現時点で多くを語ることができないことから、順を追って食料と住居の問題を取り上げてみたい。縄文時代には、石器の石材として利用される黒曜石に代表されるように、生活物資が運ばれてくる集落間の道筋が存在していたが、現在のような大量輸送の物流システムが発達していなかったために、縄文人たちが食べていた食料は地域によって異なり、全国一律ではなかったことがわかっている。
その証拠に、海に近い沿岸部の貝塚と山間部の洞穴では、一部で共通する食料も見受けられるが、食料の組み合せは両者間で明らかに異なっているのである。國學院大学教授の小林達雄氏は、かつて「縄文カレンダー」という四季折々の食料メニューがわかる一覧を作成し、縄文人の一年間の食料の移り変りをわかりやすく解説したことがあった。小林氏の「縄文カレンダー」は、日本列島を一つの表で説明しようとした点に問題があるが、将来的に出土遺物に基づいた地域単位の「縄文カレンダー」が作製されることになれば、地域で異なる食文化の実態が明らかにできる可能性はある。
しかしながら、実際には植物のように腐って残らない食料もあることから、全体像を把握することには多くの困難がともなうことを付記しておく。それでは、市川とその周辺地域の一年間の食料の移り変わりはどうであろうか。現市川考古博物館長の堀越正行氏が作製した「縄文カレンダー」には、春先に若葉・若芽や貝類、夏に魚類と貝類、秋に魚類と木の実・果実、冬に鳥獣類が図示されており、旬の食料が一目瞭然でわかるようになっている。縄文人たちは、ただ単に旬の食料を味わっていただけではなく、保存のきく食料は穴を掘って貯蔵したり、干物にして必要な時に食べていたことから、一年を通して食料の確保に努めていたことがわかる。
市川という地域は、少なくとも貝塚が頻繁に形成された時期においては、すでに古東京湾と呼ばれる広い内湾に面した沿岸地域であり、海との関わりを無視できない地域であった。縄文時代は、動植物など陸上で確保できる食料に加え、海・川・沼などで確保できる食料を積極的に食用とした時代であり、水産資源を求める縄文人たちによって、この地域が注目されはじめ(約七千年前)、やがて彼らの集落が営まれるようになっていくのである(約六千年前)。 (つづく)
市川に暮らした縄文人たちは、一体どのような人間であったのであろうか。前回は、國學院大学教授の小林達雄氏が発案した縄文カレンダーを引き合いに出しながら、彼らが一年間に食用とした動植物の組み合せを簡単に紹介したが、今回も引き続き食料の問題を取り上げてみたい。 縄文人たちは、地域ごとに四季折々の食料メニューを考え、それらの確保に努めていたと推定されるが、実際に遺跡から出土する食料は限られている。元来、遺跡から出土する食料は彼らが食べた食料の残りかすであるから、全体からすればごく一部の分量であるし、生ゴミであれば腐食して形を留めていないのである。 日本の土は、特殊な条件でない限り酸性であることから、こうした腐食に拍車がかかっているのである。縄文時代の貝塚から、当時の食料や埋葬された人骨が数多く出土するのは、貝殻のカルシウム分で酸性の土が中和されるからである。 読者の中には、古い時代であればあるほど、食料や人骨の残りが悪いと早合点している方がいるかもしれないが、必ずしもそのようなことはなく、古い時代の方が残りがよいこともある。たとえば、関東地方にある縄文時代の貝塚からは、当時の食料の残りかすである貝殻、獣や魚の骨、人骨などが普通に出土するが、関東地方にある弥生時代の遺跡からは炭化した籾(もみ)が出土することはあっても、獣や魚の骨、人骨などが出土することは希である。 縄文時代の貝塚は、土の中に含まれるカルシウムが多いこともあり、意外な遺物が出土することがある。糞石(ふんせき)と呼ばれるウンコの化石もその一つであり、市川市内では曽谷丁目の曽谷貝塚からややまとまって出土していることから、考古博物館では一階ホールの一角に一部を展示している。化石とは言っても、もちろん縄文時代のものであり、顔を近づけてよく観察してみると、ウンコの中に小さな小骨が食い込んでいるものもある。数千年の時を経ていることから、少なくとも乾燥した状態では、匂いはしなくなっているので、読者各位の余計な心配は無用である。 ここまで書くと、すべての糞石が人間のウンコの化石と思われるかもしれないが、縄文人が飼っていた狩猟犬の可能性も指摘されており、そう簡単には判断がつかないようである。人間と犬は、ともに雑食であることからウンコの形状が似ているし、そもそも同じ集落内で生活していることから、糞石が出土しても人間のものと即断できないのである。肉眼観察で判断する場合には、相対的に大きく砕かれた小骨の入らないものが、人間の糞石と考えられているようであるが、これは犬に骨を砕いて食べる習性があることからの推定である。糞石に含まれている脂肪酸(しぼうさん)を分析すれば、糞石の落とし主の食料がわかるという研究もあるが、複数の食材からなる食料の場合は研究が複雑になり、考古学をはじめとする研究者が納得するまでには至っていない。 (つづく)