市川よみうり連載企画

市川市自然観察グループ岡崎 清孝

 
市川の自然を再考する早いもので市川の自然にかかわりを持って三十年、市川市市の職員になって二十年が過ぎた。昨年の四月に自然環境課ができてからは、図らずも直接自然環境行政に携わることにもなった。これを期に市川の自然について改めて考えてみたい。
 市川市はこれまで事あるごとに「市川は自然が豊か」と言ってきた。確かに昭和三十年代までは首都近郊にあって豊かな自然に恵まれた街であったと言えよう。
 しかし、地下鉄東西線の開通をきっかけに、最も自然が豊かであった行徳からはすっかり自然が失われ、気がついてみれば近隣の市に比べて自然の絶対量が少ない街になってしまった。
 利便性や物質的豊かさと引き換えに、四季の彩りを映す自然という精神的ステータスを失ったと言ってよいであろう。
 それなのになぜ今でも私たちは「市川は自然が豊か」と思い込んでいるのだろうか。それは、残り少なくても市川の自然が多様性に富んでいるからである。
 市川の自然は台地から低地、その間に位置する谷津と斜面林、農地、小河川、大河である江戸川、そして海、という様々な環境により成り立っている。
 しかもそれぞれの環境に、大町自然観察園や行徳鳥獣保護区など、少しずつではあるが“残っていて欲しい所”に質の高い自然が残されている。これはひとえに昭和四十年代の怒濤のような都市化の中でそれを守り抜いて来た様々な立場の先人たちの先見性と努力の賜物と言ってよい。
 今その恩恵に浴する事が出来る私たちは、それぞれの自然環境が持つ意味や、残されたことの本質を真剣に考えなければならない。
 「人と自然との共生」と言われるが、環境の持つ容量を十分認識し、共存に気を配らなくてはならないのは人であることを忘れてはならない。
 もうそろそろ「市川は自然が豊か」というのは止めよう! 豊かと思うとまだ大丈夫と思ってしまうが、もう後はない。
 桜の開花以来順調だった季節の動きはここへ来て少し早いようで、路傍のイネ科植物の花が満開になり、カラスの巣立ちの騒ぎも始まった。
(2003年5月23日)  
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タンポポの話市川市で行っている市民ボランティアの「身近な生き物マップづくり」の指定生物の一つにタンポポがある。在来種であるカントウタンポポと帰化種であるセイヨウタンポポの分布の差から環境の違いを探ろうという試みである。カントウタンポポもセイヨウタンポポも小さな花がたくさん集まって一つの花のようになっている。このような集合花で花の下の緑色の部分を「総包」という。これまでは市川で見られる花が黄色のタンポポのうち、総包の外側(総包外片という)が下に反り返っているのがセイヨウタンポポ、反り返っていないのがカントウタンポポといわれていた。

 ところが実際に調査を始めてみると、総包外片がほとんど反っておらずどちらとも判断がつかないタンポポがたくさんあることが分かってきた。カントウタンポポなど多くの在来種はめしべの先に花粉がつき「受粉」しないと種子ができないがセイヨウタンポポは三倍体といって花粉がうまく出来ない代わりに、受粉しなくても雌の要素だけで種子ができる。このため遺伝的リスクは負うが在来種に比べて多くの種子を作ることができるため短期間で広い面積に広がることができる。

 ところが、ごく希に花粉が熟すセイヨウタンポポがあり、この花粉がカントウタンポポのめしべにつくことにより雑種が生じるらしいのである。市川には雑種と思われるタンポポが実に多い。雑種の程度もいろいろで、カントウタンポポの大きな特徴の一つである総包外片先端の突起を持つものまである。カントウタンポポとセイヨウタンポポは環境的に住み分けているようだが、外環道路用地など新しくできた環境には雑種型が多いようである。カントウタンポポのような在来種には、生育環境が圧迫されるよりも雑種化が進む方が脅威かもしれない。

 市川ではこの他の在来種として、国府台など市北西部でシロバナタンポポ、大野町など市北東部でエゾタンポポが見られるが、いずれも受粉なしで実を結び、局所的に群落をつくる。
 この原稿を書き始めてからすぐに、石井先生の訃報に接した。自然環境に関する課題が山積しているいま、石井先生の逝去は無念でならない。慎んでご冥福をお祈りしたい。
(2003年6月13日)  

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東浜人工海浜の植物市川市自然環境研究グループでは毎月第三日曜日に、市内の様々な場所で自然観察会を行っている。亡くなられた石井信義先生を中心に、約三十年間続いてきた。原則として偶数月は大町自然観察園で、奇数月はその他の地域で行っている。その三十年の歴史の中で、六月の観察会は初めて海で行った。

 市川が面する東京湾は昭和三十年代の終りから次々に埋め立てられ、工業用地として日本の経済成長を支えてきた。その結果、我々は生活の物質的向上を得たが、代償として豊かな自然の海に接するチャンスを失った。

 経済の発展と首都の膨張が一段落した今、新たな土地需要がなくなり、市川二期、京葉港二期埋め立て計画が白紙に戻された。その副産物の一つとして市川・船橋の地さきには不要となった古い航路が、昭和五十年代終りに埋め戻された状態で残された。

 この部分は埋め立て地ながらやや自然に近い形の海岸となり、干潮時には広大な干潟ができるため、テレビなどではよく「三番瀬の干潟」として紹介される。船橋側は船橋海浜公園の潮干狩場になっており、多くの人が訪れるが、市川側はほとんど利用者がいないため徐々に海岸特有の植生が復活してきている。

 海岸は常に潮風や砂が吹きつけ、時には波を被るなど、植物にとっては決して住みやすい場所ではなく、塩に対する耐性の発達した植物だけが生育できる。砂浜に生育する海浜植物、塩分を含んだ水に浸っても耐性のある塩沼地植物がそうである。

 東浜の場合は、自然の海岸に比べると面積が狭く傾斜も急で塩沼地もない。このため、海浜植物帯の幅も狭く、ハママツナなどの典型的な塩沼地植生もない。それでもハマヒルガオやコウボウシバ、テンキグサ、オカヒジキ、ツルナ、ホソバノハマアカザ、ハチジョウナなどの独特の植物が見られる。

 しかも面白いことにウスベニツメクサの代わりにウシオハナツメクサ、ウラギクの代わりにオオホウキギクなど一部の種が同じような環境に生育する帰化種に置き換わっている。東浜海岸は三番瀬の再生を考える上で大変興味深い場所である。

 次回の観察会は七月二十日、江戸川放水路で干潟の生物の観察(午後一時半、東西線妙典駅改札集合。雨天中止)。
(2003年6月27日)

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街路樹のヤマモモ街の中でもいろいろな所で季節を感じることができる。その一つに街路樹がある。街路樹についてはどういう訳か「葉が落ちない常緑樹にして欲しい」という要望が多く市川市内の街路樹も常緑樹が圧倒的に多い。「常緑樹は葉が落ちない」は誤解で、常緑樹であっても必ず葉は落ちる。ただ落葉樹に比べて一般的に葉の寿命が二〜三年と長いため、全量が一度に落葉しないだけである。

 街路樹の中でもクスノキは、落葉樹の新緑が一段落した五月中ごろ、芽吹きと同時に一斉に古い葉を落す。常緑樹の中では最も新緑が美しく、季節感のある木である。
 クスノキが春を演出する街路樹なら、初夏を演出する街路樹にヤマモモがある。花は目立たないが、六月中旬から下旬に直径二 ほどの真紅の実をたくさんつける。実は少し松ヤニ臭があるが生食でき、ジャムや果実酒にもする。市川でヤマモモが街路樹として植えられるようになったころはほとんど顧みられることはなかったが、最近では実を拾い集めている人も多い。実の表面の細かい凹凸に汚れが付きやすいので、食用にするときは注意が必要だ。実の中に大きなタネがあることから「モモ」に例えられたが、桃の食用部分が中果皮であるのに対してヤマモモでは外果皮(ミカンでいうと外側のオレンジ色の皮の部分)である。雄の木と雌の木があるのですべての木が実をつける訳ではない。

 市内では南大野のこざと公園周辺、行徳駅前通りに植えられている。また、行徳の野鳥観察舎前の緑地に大きな木がある。自然界では千葉県以西の海に近い照葉樹林に生育しており、特に四国では多く見られるようである。
 根に窒素を固定する菌が共生しており、江戸時代には痩せ地に肥料木として植えられた。江戸後期には盛んに品種改良が行われ、現在では多くの品種がある。今の時期実が見られるのは小粒の晩熟型の品種で、ヒヨドリやムクドリなどの野鳥が食べるのには都合がよいようである。皆さんも一度試してみてはいかがだろうか?
(2003年7月11日)

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北方調節池の近況北方町四丁目に建設が進んでいる大柏川第一調節池は、故石井信義先生が最後まで行く末を案じておられた場所である。人口四十六万人、面積わずか五六三九ヘクタールの市川市にあって街の中に約一六ヘクタールの自然的空間が誕生することは奇跡に近い。
 この調節池は当初、平常時の利用として野球場やサッカー場が計画されていた。水田だった計画地は、用地買収が進む間に休耕田が増え、特に冬鳥にとっては格好の渡来地になっていた。
 そのような自然の状況を石井先生が長い年月をかけて克明に調査し、詳細なデータを示して事業者である千葉県や市川市を説得し、自然環境を極力復元する多自然型の調節池として建設されることになったものである。
 さらに、どのような自然を復元するか、出来上がった施設をどう利用し、どう管理していくか、を市民が主体となって考えようということで、自治会や環境関係の市民団体、自然愛好家など様々な立場の市民が参加して計画を立案してきた。会の名称も正式に「北方(ぼっけ)遊水池の会」と決まり、いよいよ具体的な活動に入る段階である。
 調節池自体も一部が完成したので、五月からその区域を使い、会の啓発分科会のメンバーを中心に筆者もお手伝いして植生の変化を追跡する調査や植物の標本作りを始めた。完成した二つの三日月形の池には常時水が溜まり、なかなかの水辺環境になっている。調節池の外周には遮水壁が設けられているので周囲からの地下水は遮断され、水質調査の結果からは池に溜まっている水はほぼ百%が雨水と思われた。
 五月にはコチドリが営巣し産卵していたが、雛が巣立ったかどうかまでは確認できなかった。
 植物はコウキヤガラやヒメガマ、ミコシガヤなどの他、カワジシャといった希少な植物や、なぜか海岸地域に多いウラジロアカザも見られた。除去すべきということで皆の意見が一致している帰化植物もたくさん見られる。会議室での議論だけではなく、これからは生物たちが実際にどのようにあの環境を利用しているのかを現場で確かめていくことが大切である。 すべてが完成するのは二年後の予定である。
(2003年7月25日)  
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里見公園の照葉樹林里見公園は太田道灌が築いたといわれる国府台城の城址で、北条軍と里見軍の戦いが度々行われた古戦場でもある。城址といっても館跡なので、当時の名残は土塁や空堀に見られるのみで、公園の奥の方に見られる石垣は、公園整備の中で新たに作られたものである。
 里見公園の正面入り口部分は西洋式庭園になっている。園内には胸高幹周が三 以上の巨木が八本あり、中には市内で最も太いシラカシや、スダジイとタブノキが密着して一本の巨木のようになったものもある。
 公園奥の城址の部分はスダジイやタブノキの鬱蒼とした照葉樹林になっている。特に江戸川に面した急斜面は市川を代表する照葉樹林である。照葉樹林とは常緑広葉樹で構成される林で、市川のような温暖で多湿な環境のなかで最終的にたどり着く林の姿(極相林)といわれる。ユーラシア大陸東部沿岸からヒマラヤ南部に分布しており、日本の照葉樹林は世界の分布北限といわれている。また、農耕文明は照葉樹林で発祥したともいわれており「照葉樹林文化」という言葉を聞いたことのある人も多いのではないだろうか。
 このように、市川に住む我々にとってはごく普通に見られる照葉樹林であるが、世界の森林面積に占める割合はわずかに二.五%に過ぎない。
 里見公園の照葉樹林がこれだけ発達したのはどうもここ二百年くらいのことのようで、江戸時代後期に描かれた「江戸名所図会」を見ると当時はほとんどマツ林であったことが分かる。最近まで「物見のマツ」など名のついたマツの巨木が照葉樹林の上に突き出していたが、松枯れの影響もありほとんど枯れてしまった。
 斜面林の木が大きくなって眺望が得られなくなったため、木を切った方がよいという声もあるようだが、せっかく二百年かけてできた環境は大切にし、眺望の確保は展望台の設置などの方法で解決すべきではないだろうか。
 さらに、里見公園の隣接地で現在宅地造成が行われているが、ここに住む人はぜひ自然に接して生活することを自覚して選択して欲しい。また、販売業者は購入者に自然に接して生活することのリスクをきちっと説明し、住宅の構造にも配慮して欲しい。数百年を経た自然はそれ自体が文化財である。
(2003年8月8日)
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迷蝶アサギマダラ七月に開催された国府台街回遊展で里見公園の散策を行った際に、一緒に講師を務めた高野史郎さんと直前にコースの下見をしていたときのこと、スダジイの樹冠の上をスーッと滑空するように飛ぶ大型の白い蝶を目撃した。市川でアサギマダラを見たのは約二十年ぶりで、その優雅な姿に二人とも大変感激した。
 アサギマダラは羽を広げると十a以上になる大型の蝶である。鱗粉が退化した羽は青白く半透明で茶色の斑模様があり、大変美しい。長距離の渡りをする蝶として有名で、南西諸島などの暖かい地方で誕生した蝶は、夏の暑い時期を北の涼しい地方や高い山で過ごすため北上し、秋には南下して戻って来る。一度捕まえた蝶にマーキングをして放し、どこで再捕獲されたかによって飛行の距離と方向を知ろうというマーキング調査が一九八〇年頃から組織的に行われているが、なぜこのような長距離の移動が行われるのかはまだ分かっていない。中には千数百`飛んだ記録もあり、台湾と日本の間を行き来していることも分かっている。市川にはこの渡りの途中で希に立ち寄ることがあり、ごく限られた一時期だけ目撃される。 
この蝶はアルカロイドの一種の有毒成分を含んでいるため、鳥に食べられないといわれているが、一方でこの成分を吸蜜などによって体内に取り入れないと成熟することができない。このため、アサギマダラはこの有毒成分を多く含むヒヨドリバナによく集まる。ところが最近、ミズヒマワリという南米原産のキク科の帰化植物によく集まることが観察されている。この日ももしやと思い、散策会終了後に二人で江戸川へ出てみると、川辺にたくさん生育しているミズヒマワリの花で二頭のアサギマダラが盛んに吸蜜していた。ミズヒマワリは水槽栽培用の水草として日本に持ち込まれたが、繁殖力が旺盛なため各地の水辺で野生化し大きな群落を作っている。帰化植物であるミズヒマワリの繁茂が神秘的なアサギマダラの渡りに影響を与えなければよいがと危惧している。
 その後少し間をおいて江戸川を訪ねたが、再びアサギマダラを見ることはできなかった。市川では、運がよければ八月の終りにもう一度見られるチャンスがある。
(2003年8月22日)
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自然の喪失と人の心最近、青少年による凶悪犯罪の多発が社会問題になっている。先日も一つの凶悪事件に判決が下されたが、短絡的な凶悪事件や、執拗なまでの暴力事件に接するとき、その背景と重なる都会人の自然に対する意識に思い当たることがある。
 市には動植物にまつわる様々な苦情が寄せられる。最近多いのは不快害虫に対する苦情である。不快害虫とは、病気を媒介するなど人に深刻な影響を与える衛生害虫と違い、姿形が気持ち悪いとかたくさんいて嫌だという昆虫類のことである。
例えば梅雨時に蚊柱をつくるユスリカやハチ、ダンゴムシ、ハアリなどで、ヘビや一部の鳥類も含めて不快動物といった方がよいかもしれない。
 繁殖期のほんの一時期我慢するとか洗濯物を取り込むときちょっと払うといった、少しの気配りで解決できることが多いのだが、このような昆虫等に対する苦情は一様にヒステリックでとにかく駆除してくれの一点張りであることが多く、ムカつき、キレる少年達と共通している。家の中にアリが入って来るので付近一帯を消毒してくれという例まであった。
 苦情に対してはなるべく説得するようにしているが、市が動かないとなると自分で過剰対応してしまう人も多い。日本在来の野生ミツバチであるニホンミツバチは樹木の空洞に巣を作るが、市内に数か所しかない巣のうち小塚山市民の森にあった巣は大量のスプレー式殺虫剤で全滅させられてしまった。他ではバーナーで焼かれた巣もある。ニホンミツバチは直接巣に危害を加えない限り、人を刺すことはない。
 このような、自分の価値観とは違うもの、理解できないものの存在を一切許容しようとせず、完膚無きまで殲滅しないと気が済まない、あるいは安心できないという風潮が特に、都会人の中には強くあるのではないだろうか。そのような社会で育った少年達が、人間関係にまで同様の考え方を当てはめたとしても不思議ではない。
 事業所内に落ち葉が落ちて商品につくからと、数百年を経た巨木を伐れと要求する人もある。大規模な開発が一段落した都市で、いま自然を喪失する最大の要因は、個人レベルの市民の自然に対する無理解である。そして、自分の意に沿わない存在を認めないというこのような風潮が社会の歪みを生み出している一因にもなっているのではないだろうか。
(2003年9月12日)
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野に咲く火焔・ヒガンバナ九月に入ってから打って変わった猛暑が続いていたが、彼岸とともに一段落したようである。そして、市川市内でも其処此処で真っ赤なヒガンバナの花が見られる。
 ヒガンバナは、梵語で「天上界の赤い花」を意味する曼珠沙華(マンジュシャゲ)の別名もある。九月中頃に地中から細い筆のような花茎がするすると伸びてきたかと思うと、あっという間に四十センチ程になり、燃えるような真っ赤な花を咲かせる。墓地に多いことから死人花(シビトバナ)、花の形からチョウチンバナやオミコシバナなど、方言も含めると千近くの呼び名がある。かつては田圃の畦や鎮守の参道などでよく見られたが、最近の市川では古い共同墓地以外では目にする機会が少なくなってしまった。
 原産地は中国の揚子江付近といわれ、日本には古い時代に伝来したと考えられている。日本に自生しているヒガンバナは三倍体と呼ばれるタネなしスイカのようなタイプで、花が咲いても種子ができず、球根(鱗茎)の分裂によってのみ増える。このため、ヒガンバナは一か所に大群落を作るが、分布域を大きく拡大するためには人の手によって植えられることが不可欠であるとされている。
 田の畦や寺社境内、共同墓地などのいわゆる共有地に多く見られるのは、凶作のときのための救荒作物として植えた名残ではないかとも考えられている。球根にはリコリンという水溶性の有毒成分が含まれており、そのまま食べると下痢をするが、水で晒し、取ったデンプンを餅状にして食用にしたようである。また、畦や共同墓地に多いのは有毒成分を利用してネズミやモグラの被害を防ぐ目的で植えたためという説もある。ヒガンバナを家に持ち帰ると家が火事になるともいわれるが、大切な救荒作物を荒らさないようにという戒めかもしれない。それでもかつては一センチ位の間隔で皮一枚残して茎を交互に折り、首飾りにしたりして子供の遊びに使われた。最近ではショウキズイセンとの雑種である白花種をはじめ、多くの園芸品種が作り出されている。
 葉は花が終わった晩秋に伸び始め、冬の間太陽光線を独り占めして養分を蓄え、早春には溶けるように消えてしまう。他の植物が繁茂する夏の間は地中でじっと休眠している。
(2003年9月26日)  
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市川名産の梨あれほど鳴き競っていいたセミの声が十月に入るとともにパッタリと聞かれなくなった。市川で最も普通に見られるセミはアブラゼミであるが、特にたくさんいた梨畑では今年の収穫が終わりを迎えようとしている。

 市川は千葉県第一位の梨の産地である。大町、大野、柏井を中心に年間約七千五百トンが生産され、栽培面積は約二八〇ヘクタールに及ぶ。かつては梨といえば長十郎と二十世紀が代表だったが、今の市川では主として早生の幸水、中生の豊水、晩生の新高が生産されている。中でも一個一キロを超える大玉もある新高は贈答用としても喜ばれる市川を代表する梨で、この時期は出荷の追い込みを迎えている。
 よく果物の味と形は関係ないと言われるが、梨の場合は必ずしも無関係ではない。梨は通常五個、ときに六個のタネができるが、すべてのタネが順調に成熟すると果実はきれいな球形になる。タネの発育が悪い部分は果肉の発達もよくないのでその部分は味も若干劣る。

写真の新高は右下の二つのタネの発達が若干劣るのでその部分の果肉の発達がやや劣り、果実の中心と芯(子房)の中心がずれている。このため撰果の段階ではじかれたものである。市川梨は味の良さに定評があり、各種のコンクールでも常に上位を占めるだけに撰果の基準も厳しい。市場での評価も高く、なかなかスーパー等には出回らない。ぜひ農協の撰果場や農家の直売所で地元産の品質のよい梨を味わっていただきたい。十月中旬過ぎまでは新高が味わえる。
 ところで、今年の四月に大野町の梨農家鳥海一郎さんから「今年は地震が多いかもしれない」という話を聞いた。理由を尋ねると「梨畑で作業をしていると昼なのにヘビやモグラが出てくることが多い。」とのことだった。その後たて続けに地震があり、そして先頃の宮城県や十勝沖の地震が起きた。動物に予知能力があるかどうかについてはいろいろと議論のあるところだが、少なくとも人間よりは何かを察知していることは確かである。そして、自然を相手に自然の変化に気を配りながら生活している人々の自然に対する感覚の鋭さにも驚かされる。自然の動きとかけ離れた都会生活にどっぷりと浸かってしまうと、僅かな自然の変化のシグナルを捉えることが出来なくなってしまう。そうならないように普段から身近な自然に目を向けていきたい。
(2003年10月10日)
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ドングリの話秋にはたくさんのドングリが落ちる。ドングリを見つけると何となく拾ってしまう人も多いのではないだろうか。
 市川市内で見られるドングリがなる木はコナラ、クヌギ、シラカシ、アカガシ、マテバシイ、スダジイの六種がほとんどで、ごく稀にアラカシが見られる他、焼き鳥でお馴染みの備長炭の原料となるウバメガシが公園などに植えられている。

 しかし、球形のドングリがなるクヌギのような特徴的な種類を除けば、ドングリの形や大きさだけで種類を判別するのは難しい。ドングリの種類を見分けるのに役立つのは一般に「帽子」と言われる穀斗(こくと、かくと)の部分である。シラカシやアカガシなど常緑のカシ類の穀斗は横縞模様で、アカガシの穀斗にはビロード状の毛がある。落葉樹のコナラの穀斗は鱗状の模様になっている。街路樹にも多く使われている常緑のマテバシイはコナラとよく似た鱗模様だがドングリが果枝に列状にかたまって付くことや穀斗に柄がないことがコナラと異なる。スダジイの穀斗は他の種類に比べて大分変わっている。帽子状ではなくドングリ全体を包み込むような袋状の形をしている。ドングリを拾うときには帽子も数個一緒に拾っておくとよい。
 ドングリの「ドン」には食べられないとか役に立たないという意味があると言われているが、スダジイやマテバシイなどのシイ類のドングリはシブがないので晒さなくても炒るなどして食べられる。このため、昔は救荒作物として農家の裏山に植えたという説もあり、縄文時代の遺跡からも他の種とは分けて貯蔵していた跡が見つかっている。スダジイの実は象牙色をした白色で、万葉の昔には健康な歯の代名詞として使われ、美女を表すかけことばにもなった。 拾ってきたドングリを家の中に置いておくと体長7〜8 の幼虫が出てきて驚くことがあるが、多くはゾウムシの仲間の幼虫である。ドングリが落ちて数日すると穴を開けて出てきて地中に潜りサナギになる。その上に落ち葉が落ちて暖かく冬越しができる。
 ところで、今年は例年になく秋の花粉症がひどいようだが、先日あるFM放送で秋の花粉症の原因としてセイタカアワダチソウをあげていた。セイタカアワダチソウは蜜源植物として導入された虫媒花で花粉には粘性があり飛散しない。いまだにこのような誤解がまかり通っているのは残念である。
(2003年10月24日)
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ケヤキのタネ前回のドングリの話について読者の方から「スダジイというのはシイとは違うのか」という質問を受けた。関東地方で単にシイというとスダジイを指すことが多い。これに対して西日本にいくとツブラジイが多くなる。スダジイよりも葉やドングリが丸く小ぶりなのでコジイともいう。市内でも葉がスダジイよりも小さく一見スダジイともコジイとも判別がつかないものが時折見られる。スダジイ同様渋抜きしなくても実が食べられ、京都あたりでは炒って売っている店もあると聞く。
 さて、今回も樹木のタネの話を一つ。十一月に入りいよいよ市内も紅葉本番を迎える。真っ先に色づいたサクラが散り始め、ケヤキが色づいてきた。そのケヤキの周辺に、小さな葉が数枚ついた小枝がたくさん落ちている事がある。その小枝をよく見ると直径三 ほどの小さなタネが数個ついている。「これがあの巨木になるケヤキのタネ?」と思うほど小さい。

 樹木が生育範囲を広げるためにはタネを遠くに飛ばす必要がある。飛ばし方には、ドングリなどの「自然落下型」、果実を食べた鳥の体内を通して運ばれる「鳥散布型」、風で飛ばされる「風散布型」がある。ケヤキは風散布型であるが、他にはマツ類やスギなどの多くの針葉樹やカエデ類がある。市川の雑木林に多いイヌシデも風散布型で、穂状に下がっていたが熟すと一つ一つのタネがクルクルと回りながら風にとばされていく。マツ類は天気がよい日にマツボックリが開き、中から薄い羽根を持ったタネがこぼれ出て風に飛ばされる。そして、湿った土の上に落ちるとタネと羽根の間が開いて羽根がれるが、乾いた所に落ちたタネは羽根が外れずにまた飛ばされていく。
 マツ類やカエデ類、イヌシデなどはいずれも一個のタネに一枚の羽根がついているが、ケヤキの場合はタネがついた小枝ごと飛ばされる。この小枝にはタネを飛ばす為に特化した小さな葉が数枚、それぞれの角度が微妙にねじれてついていて、風を受けるとクルクルまわり小枝全体が羽根の役割をするようになっている。 冬鳥も本番で、こざと公園や池にはハシビロガモ、北方調節池にはコガモ、シギ類が渡ってきており、大柏川ではユリカモメの姿も見られるようになった。第七回で渡りをする蝶アサギマダラについて書いた際、運がよければ八月末にもう一度見られると書いたが、少し遅れて十月四日に大町の動植物園入り口上空で一頭目撃した。
(2003年11月7日)
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小塚山の変化と今後小塚山は昭和五十一年に北総地方の自然林の面影をとどめる雑木林を残そうと市民の森として開設された公園である。昭和三十年代までは国府台から堀之内にかけて深い森が続いていたと聞く。昭和四十年代に急速に進んだ宅地化により森は分断され消失の危機を迎えたが、この状況を憂慮した市民の行動とそれを理解した当時の行政の判断によって、かろうじて連続が保たれた形で残されたことは英断であった。 開設された当時の小塚山はアカマツが優占し、その下に薪炭材とするためのコナラやクヌギ、イヌシデが生育する明るい林であった。一部には、市川では珍しいヤマハンノキが優占する林もあった。
 手元に昭和五十二年に市川市自然環境研究グループが行った動植物の調査報告書がある。その冒頭に次のようにある。「ここの植生を最も効果的に管理するにはどうすればよいかは現在緊急を要する課題となっている。そのためにも植生・動物など全般にわたっての基礎資料が必要とされ、とりあえず今回の調査となった」。その後今日まで二十五年間一度も公的な総合調査は行われていない。


 小塚山はマツ枯れの進行によりほとんどのアカマツが枯死し、イヌシデ、コナラなどの落葉広葉樹が優占する二次林になった。さらに枯死したマツを除き管理を目的とした樹木の伐採は木の大小を問わず行わなかったため、土地の境界木として植えられていたシラカシの幼樹が増え、一部で常緑樹林への遷移が進んでいる。また、北総開発鉄道のトンネルが地下を通ったため林の土壌全体が急速に乾燥し、乾燥に弱いヤマハンノキがほとんど枯れた。林床に生育していたラン類やヤマユリは盗掘され姿を消した。 その一方で、樹林全体が生長したことで、野鳥の種数は開設当初よりずっと増え、小型猛禽類のツミが繁殖したり、大型のキツツキであるアオゲラが見られるようになった。昆虫類も貴重種も含め、市内で最も多くの種が見られる。ある意味では自然度が向上したともいえる。下刈りをしない事でコゴメウツギやサワフタギなどの低木も残っている。
 今、小塚山は外環道路の建設で大きな転機を迎えようとしている。開設以来、明確に出来ないまま来てしまった管理方針を真剣に考えるときが来た。
(2003年11月21日)
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堀之内のゴマギの老大木前回紹介した小塚山の北側に道めき谷津という細い谷津を隔てて堀之内貝塚の林がある。縄文時代後期から晩期にかけての貝塚の上に発達した落葉広葉樹の林である。この貝塚の丘の北面の端、歴史博物館に面するあたりに一本のゴマギの大木がある。

 ゴマギは葉を揉むとゴマ油の香りがすることから名付けられた。暖帯から温帯にかけて分布する落葉低木で、四月から五月にかけてガマズミに似た白い小さな花が集まった花序をつける。樹高は普通五〜六メートル程度である。堀之内貝塚のゴマギの現在の樹高は約七メートルだが、最も樹勢が旺盛だった頃には約九メートルあった。胸高幹周は約一・二メートルある。千葉大学の教授をされていた植物学者の故亘理俊次博士が千葉県内では最大のゴマギではないかとして、ぜひ残して欲しいと言われた木である。
 ゴマギはやや湿った所に生育する木で、自然界では山地や丘陵の谷間や川沿いの低地に生育する。堀之内のゴマギが面している歴史博物館や民家が建っている場所は今でこそ住宅が立ち並んでいるが、かつては「千艘ヶ谷津」と呼ばれる幅三〇メートルほどの大変細い谷津だった。清水が湧いていた上に良質の粘土を産したことが縄文時代に集落が形成された理由と言われている。したがって、千艘ヶ谷津が埋め立てられる前は本来ゴマギが生育するような湿った環境だったことが伺える。
 ところがこのゴマギは昭和六十年頃から樹勢が衰え始め、近年では大分枯れ枝が目立つようになってきていた。この木の行く末については亡くなられた石井信義先生も大変危惧されていたので、平成十四年春に市の公園緑地課が枯れた部分を取り除くとともに、上部に覆いかぶさって日照を遮っていた周囲のエノキやムクノキの枝を伐採し、日照を確保する措置を施した。その効果もあってか、今年の四月には数年ぶりに小さな白い花が見られた。さらに先月には樹木医の診断を受けたが、担当した樹木医からもこれだけ大きなゴマギは珍しいと聞いた。現在う処方箋を検討中である。ゴマギは市内では非常に少ないので何とか保全したいと考えているが、この木の遺伝子を残すためには挿し木も検討しなければならない時期にきているのかもしれない。見納めにならないことを祈るが、来年の四月にはぜひ花をご覧いただきたい。
(2003年12月12日)
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ichiyomi@jona.or.jp 市川よみうり