市川よみうり連載企画

元市川市教育長最首 輝夫

トップの人間性が組織の質を決める

 どんな組織も、そのトップの人間以上、にはなれないといわれる。理由はトップの人生観、宇宙観など哲学と理念、そして何よりもその人間性が組織の質を決定付けることになるからだという。
 トップに理念や哲学が無ければ組織は方向性を見失い、人間性に欠ける者がトップに就くと組織は専横的で独善的な烏合(うごう)の衆と化し、組織としてのまとまりはおろかモラ-ルの低下は避けられない。

 また、組織内人事を見れば、組織の質やその行き着くところが予見できる。通常、力の無いトップは、自分より力量や人格の優れた者を幹部に登用することは少なく、むしろ擦り寄ってくる所謂(いわゆる)イエスマンを侍(はべ)らす傾向がみられる。それは、トップとしての威厳を示しプライドを保ちたいという深層心理が働くからだという。
 そして、選ばれたイエスマンは同様に、人間力がないので『下いびりの上へつらい』的な者の集まりとなり、その結果、トップの傲慢(ごうまん)さはたしなめられることもなく、必然的に裸の王様、お山の大将への道をひた走ることになる。
 心理学者の伊東明氏によれば、「聞く耳を持たず、傲慢で高慢な人間ほど馬鹿になる」という。こうした悪条件が重なり、結局、組織としてはトップを超えることができないのである。

 往々にして利害関係で結ばれた組織というものは、いずれ信頼をなくし瓦解(がかい)して行く運命にある。どんな組織といえども、人間性による結合離反が起こるものであるから、そのリ-ダとなるトップの人間性が組織のすべてを左右するというのは至極当然である。
 企業などのように業績が目に見える業種や国政や自治体に比べ、教育機関の場合、トップや組織の力量や実績が直ちに表れず評価できないという難点がある。
 通常、校長、教育長など教育関係のトップは、人間性豊かで教育者として多くの人々の信頼に支えられ優れた実績を持つ者が任命されるものであるが、逆に、人間性も信頼も実績もないが世渡りがうまく任命権者に取り入ることでトップの座に着くこともできるのが人事である。
 しかし、組織の質を決定づけるとともに、地域の教育の質やレベルを上げるも下げるもトップ次第であるから、トップ選びは慎重で適正でなければならない。

 戦後の教育は、教育基本法の精神に基づき、民主教育を謳(うた)いながらその実態は法の精神に逆行し、国家主導による画一・管理といういわば組織重視教育の道を歩んできた。その弊害が随所に噴出している今日、教育の質やレベルを高めるには教育職に拘(かかわ)らず、優れた人間性と見識を持つリーダ-を機関のトップに据えることが、組織の人を育てる機能回復には必須である。


(2008年11月1日)

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小人物ほど権力で増長 「勝ち組」決める愚かさ

 古くから言われてきた「自然に対する人類の傲慢(ごうまん)さ」は、今、その付けを環境破壊、地球危機という代償によって払わなければならない。その傲慢さ、現代に於(お)いては自然に対してのみならず「人間間での傲慢さ」が、人間関係や組織の破壊を招いている。目に余る官僚の傲慢さ、老舗企業の傲慢さから身近な役所、教委、学校まで、特にそのトップの傲慢さが社会全体に広がりつつある。

 『実るほど頭の下がる稲穂かな』。小人物ほど尊大に振舞い、優れた人物になればなるほど謙虚になるというもの。外国にも『実のなる枝ほど低く垂れる』というのがあるそうだが、子供の頃(ころ)、小人物とは人格の優れていない度量の小さい人を指し、そういう人ほどひどく偉ぶるものであると教えられた。人は地位が上がるほど謙虚になるか権力を持つと益々増長して威張り腐るかのどちらかだとも。以来、威張る人は嫌いになった。考えてみれば、傲慢になる人間ほど人間としての品格、力量がない証で、それを権力で誤魔化そうとしているだけの話である。対して、大人物は心が広く徳が高く品性があり、しかも力量があるにもかかわらず謙虚であるから、人々に敬愛される存在となる。

 日本に残る類似の諺(ことわざ)には、「自慢高慢馬鹿のうち」「自慢は知恵の行き止まり」「良賈(りょうこ)は深く蔵して虚(むな)しきが如(ごと)し」などがあるが、いずれも知ったかぶり、無い力をあるように見せるのは愚かであるという意味である。権力を持つと、人間誰しも唯我独尊に陥り易(やす)いものであるが、俗人ほどそうなりやすいといわれる。

 そういえば、最近の傲慢人間の背景となっているものは金銭欲、出世欲など欲に絡んだものが多い。いずれも、人を騙(だま)せば簡単に誰でも手に入る時代になったからかもしれない。今流行りの言葉でいえば、「勝ち組」になったと自負する人間的未熟性の表れである。以前紹介した、アメリカに渡り起業した教え子が「今、日本で盛んに言われている『勝ち組、負け組み』という言葉はおかしい、人生に勝ち負けはないのに」と言っていた。ましてや、子供時代に勝ち負けを決めてしまうのはどう考えても納得できない。

 昔から「子供は無限の可能性を秘めている」といわれてきた。子供の能力は多様で潜在能力に富む。その才能を引き出し伸ばすのが大人の努めであったはず。それを一つの尺度ではかり、早々に勝ち負けを決めてしまうのは、如何(いか)に愚かであるか。結果、勝ち組といわれた子供は傲慢となり、成長が止まる、一方、負け組みのレッテルを貼られた子供は自信をなくし、持って生まれた才能を開花する機会を失う。小人物のリードする日本社会では子供は育たない。「子供は大人の言う通りにはしないが、大人の為(な)るようにする」のだから。


(2008年11月15日)

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教育再生会議の報告は戦前・戦中への逆戻り

 今年2月に公開された教育再生会議の最終報告は、日本の教育が教育の本質に背を向け、世界の潮流に逆らうことを鮮明にした。

 この報告は教育理念も理論も哲学も何一つなく、これからの日本教育をどうするのかは曖昧(あいまい)にしたままに、当面の教育問題への対処を羅列したに過ぎない。

 ところが一方で、再生会議が拘(こだわ)っているのが「徳育の教科化」「中央集権的な教育システム」の維持・強化、及び「ダメな生徒や教師の排除」、そして「授業時数増頼みの学力向上と国際テスト上位回復」など。これらから読み取れるものは、日本教育の過去への後戻りである。残念ながら再生会議の最終報告書を読む限りにおいては、日本教育の将来は極めて暗いものとなった。

 再生とは「死にかけていたものが生きかえること」「以前経験、学習したものを再現すること」であるから、この報告は教育改革とは対極をなす再生会議の名に相応(ふさわ)しい内容なのかもしれない。一時期、会議の様子が「井戸端会議」と揶揄(やゆ)されたが、本来、井戸端会議は開放的で気楽に世間話ができるものであり、そこから暮らしの知恵や地域の文化、伝統行事などを学ぶことができ、暮らしの向上に役立つものであった。

 ところが、再生会議は最初から非公開で、予想した通り、教育の本質を掘り下げる議論は全くなく、教育問題対処の各論に終わるというお粗末なものとなった。もともと、安倍首相の肝いりでできた再生会議で、教育基本法の改正とセットの教育再生であることは明らか。戦後の民主主義教育から戦前・戦中教育への逆戻りを志向する首相の意図を受けた教育の再生である。しかも、委員は異なる分野の成功体験者の集まり。各人の成功体験に基づいたばらばらな発想での意見交換に終始した。従って、教育や教師、子どもの本質及びその実態からは全くかけ離れた議論となり、自らも体験した画一内容・一斉授業、規律重視の学校への再生である。

 もともと審議会というものは、諮問の意図に則した答申を得るためのものであるから、報告は諮問の時点で道筋がほぼ決まっていると考えてよい。それにしても、川の上流の水溜りで恵まれた環境に依存し、ぬくぬくとしていた幼魚が、遅ればせながら自立を目指し世界の潮流の仲間入りしようと下ってきた支流出口でいきなり国家権力という堰(せき)に川をせき止められたようなもの、幼魚たちは方向感を失い、右往左往している状態にある。突然の逆流に上流に押し戻されるもの、渦に身を任せるもの、溢れる流れに乗り本流に泳ぎだすものなどと、混乱状態にあることは間違いない。これが再生会議の報告に象徴される日本教育の現状である。
 ただ、人間を育てる教育という世界の潮流は変わらない。


(2008年12月6日)

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日本社会で無視される子供の成長の原理原則

 “「人育てる余裕ない」企業、心の病「増加の傾向」60%”。これは8月13日付の日経新聞社会面の見出しである。財団法人社会経済生産性本部の上場企業アンケートの結果から「人を育て、仕事の意味を考える余裕がない」会社ほど、心の病の増加を訴える傾向が強いことも確認されたという。

 この1年、「人を育てる機能を失った日本社会」というテーマで本コラムを連載してきたが、日本社会がここまで深刻な状況になっているとは正直考えていなかった。子供を育てる環境としての社会はもう少しましな状況であってほしい、と願っていたが残念である。

 社会は子供にとっては家庭に次いで重要な教育環境であり、そこから学び、その影響を受けながら成長するものであって、いずれはその社会で生きていく運命にある。まだ希望が持てるという段階に社会が踏みとどまっていれば、そこから正常な社会へと反転していくことが可能であり、子供たちも大人になっての夢や希望が持てるが、そうでないとしたら、社会への絶望感にさいなまされることになる。当然のことながら、学習意欲も生きる意欲もなえてくるのは明らかである。

 低年齢の子供たちにとっては身近な家庭が人間及び人間社会のモデルとなるが、年齢が上がるにつれて地域社会、日本社会そして世界へと視点を移していくものであり、次第に広い世間から学び、批判し、自らの生き方を模索していく。従って、どの教育環境も全てが健全であることが望ましい。誕生してから成人するまでの二十年間は少なくとも人が育つ環境にあって欲しいものであるが、今の日本社会からはそれは望めない。

 これまでに書いてきたように、現代の日本社会は家庭も地域社会も学校や教育委員会も、子供の成長を第一とは考えてはいない。むしろ、大人のエゴのために子供をだしにするというような、大人中心の世の中である。子供が育つ、子供が成長するということはそこに原理原則があるが、それがいまは全く無視されているといってもよい。

 子供は生まれてからじっくり時間をかけて徐々に人間形成をしていく。その過程には飛び越えられない発達段階というものがある。しかも、その時を逃すと成長発達が停滞し(臨界説)発達障害を起こすので、適時的確な教育環境が不可欠となる。

 このように考えたとき、人間発達のルールや条件を無視して大人の都合で勉強や進路を強いるならば、そのひずみが出ないのがむしろ不思議とさえいえる。現代の子供たちの抱える社会問題の全ては、こうしてできた歪(ゆがみ)のあらわれとみてよい。今、多くの人に信頼され、尊敬され、輝いている大人達の子供時代がどうであったかを知ることから、子供への本物の教育が始まる。


(2008年12月20日)

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難しい指導力不足認定環境変える方法も必要

 これまで新年号は夢のある内容にしたいと心掛けてきたが、今年ほど夢や希望の見えない年はなかった。日本は政治、経済をはじめ社会の多くの分野に、希望はおろか夢すら抱けないのが現状である。こういう時は、せめて教育くらいは夢や希望を持ちたいものであるが、それすらできない。それどころか、いまの教育に絶望感を抱く人々のなんと多いことか。定年退職をした大学時代の友人からも「最近の教育はおかしい。どうしてだろうか」と問われることもしばしばである。話し合っているうちに、学校はもう本来の教育の場ではなくなったとさえ思えてくる。このような教育現場を、教育に責任を持つ国や地方教委の関係者たちはどう見ているのであろうか。まさか教師がダメだからだとは考えていないだろうが、学校を含めてそれぞれのトップの危機感が伝わってこないのはなぜか。

 そんな心境でいた折、参議院議員のY氏から、松本まで行くから是非会いたいとの連絡が入った。当日は、随行の参議院行政監視委員会次席調査員A氏を交えて、三人で数時間ほど日本の教育について意見交換をした。教育の本質と教育行政、学校・教員の在り方、そして世界の教育と日本の教育などに話は及んだ。

 両氏が第一に指摘したのは、日本は古い教育からの脱却が出来ていないこと。まずは、国依存を改め教育の地方分権化を行い学校の運営は地域に任せる、運営費は公費の他に京都市のように地域の篤志家や企業の寄付を集められるようなシステムにする。勿論、カリキュラム編成権など権限の殆(ほとん)どを学校に移譲し、学校の自立、教育の自立を確立する。国、教委はそれを支援する。

 一方で、教育をするのは教師であるという認識を社会が共有し、教師は広い視野を持ち、己を練磨することにより、フィンランドの教師のように信頼される存在となり、プロとしての自覚を持ちたい。

 A氏は教育に競争を持ち込むのは間違いであると言い切る。同感である。では、どうしたらこうした改革が実現できるのか。話は各組織のトップの在り方へと進んだ。結論は、組織のトップはリーダーのなかから選ぶ。そうすれば、どんなに困難な改革も必ずできるというのだ。希望が湧いてきた。

 そういえば、必ずしもリーダーがトップになっているとは言いきれない。折しも、苦境にある米国の大統領にオバマ氏が就任する。超大国の威信が地に落ちたいま、米国民は不安の時代に希望を求め、オバマ氏の可能性に託したのである。キング牧師の歴史に残る名演説「私には夢がある」が現実のものとなる。いま、日本も多くの不安を抱えているが、こういう時こそ、優れたリーダーが現れるという史実もある。

 夜明け前が一番暗いという。夜明けに希望を持ちたい。


(2009年1月3日)

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子供が希望をもてる教育環境づくりを

 人間は一人では生きて行けないし、夢や希望なしでは生きられないもの。現代はその両方とも無いという人が増えている。その中に勿論多くの子供達や若者達が含まれる。

 人間は物心のつく頃ともなれば子供といえどもそれぞれに夢を描き、やがて小さな希望から大きな志へと育てていくものである。教育はその実現のために行うものだから子供達が夢や希望を持てないとしたら教育は意味をなさない。仮に夢や希望を持てても日本の画一教育のもとでは親・家族の理解と強い後押しがない限り、それが潰されることはあっても実現させることには無理がある。何故かといえば、戦後教育が目指した「教育の個性化、平等化、画一性の排除」が平等化を除いていまだに実現できないままで居ることと、「人間づくり」という教育の本質を見失ったままで居るという日本の教育が、残念ながら国民の常識となってしまっているからである。これは「みんな同じに」という日本人の国民性によるものかもしれないが、個人的には日本人が過去の成功体験を捨てきれないでいることに加えて時代や世界を読めない、教育の本質がわかっていない人達による教育制度運用の弊害ととらえている。

 しかし、今更ダメなことを並べ連ねても仕方がない。希望の日の出を遅らせるばかり。そこで子供たちが夢を抱き希望の光を見出せるようにするにはどうしたら良いかを今年のテーマとして、キーワードを教育環境を「つくる・選ぶ」と「責任」としてみた。子供を育て子供の教育に責任を持つのは誰なのか、教育環境を選ぶのは誰なのか、そしてより良い教育環境をつくるのは誰なのか。まずは喫緊の課題として人間づくりのための教育環境をつくるには政治・行政のトップに人間性が豊かで見識のあるリーダーを「選ぶ」ことから始めなければならない。世界に目を転じれば政治、経済、環境など全てがグローバル化する中で、いずれの国も極めて困難な状況に陥っている。こんな時、日本は世界に向けてリーダーシップを発揮するべきと思うが、それどころか内政すらおぼつかないでいるのは国にリーダーがいないからである。地方政治も住民のことより行政の懐具合が先であり国と似たようなものだ。このような閉塞社会から抜け出すにはやはり人間性豊かな思いやりのあるリーダーが不可欠である。

 いずれにしても子供達が夢や希望を持て、それを限りなく膨らませていける社会で子供達を育てていかなくてはならない。そんな社会・教育環境を誰がどうつくり、どう選んでいったら良いかを、筆者の経験と教育の本質が凝縮されている先人達の言葉や格言をもとに考えていきたい。


(2009年1月17日)

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よきリーダーの前提は思いやる心があること

 リーダーにはどのような資質・能力が備わっている必要があるのか。リーダーは管理者ではなく指導者である。優れた先見性と洞察力を持ち、集団・組織の方針、政策などを決定し、成員のやる気を引き起こし、その能力を最大限発揮させることにより、目標に到達させることのできる能力・資質を持っていなければならない。換言すればリーダーシップのとれる者がリ-ダ-である。

 リーダーシップは豊かな人間性と高潔な人格を持ち、信頼され尊敬されることが前提となる。肩書、立場を利用し高圧的に部下職員・社員に指示、命令することではない。孫子はリーダーシップの資質として智、信、仁、勇、厳の五つを挙げている。

 また、多くの人たちが共通して挙げているのは、理念、ビジョン、構想など考えを示す、常に先を見ている、創造性が豊かで皆がわくわくする未来を語り夢を与えられる、誰でも平等に聞く耳を持つ、部下を批判せず結果より熱意を評価する、差別しない、率先垂範する、自分の責任を引き受け部下に責任をかぶせない、仕事を任せる、自分ではなく人をヒ-ロ-にする、自分より優秀な人材を育てられるなどである。

 これらの行動はその人に備わっている品性と徳から発せられるものであるから意識してできるものではない。従って、努力すれば誰でも優れたリーダーになれるとは言えないのである。

 よきリーダーであるかどうかは、一にその人間性と人徳によって判断できる。人間性でもっとも重要なのは、他を思いやる心である。この思いやる心があれば、私心を捨てることも他のために自己犠牲をもいとわない振る舞いができる。そのため、何をやるにも人のことを第一に考えるから皆が喜びを分かち合える。

 対して、この思いやりが欠けた人間は、利己的で非情であるから、全てを自己中心的に考え行動する。国政では首相や党・会派などの都合を、自治体では首長の選挙や利害関係を、公務員は既得権益を、企業は収益だけを優先する姿勢がそれである。人間性の優れた人物であれば、私心を慎み、無私の姿勢を貫き、人々のために尽くすことができる。こういう人が尊敬される本当のリ-ダ-である。選挙は人気投票ではなく、人間性の評価と考えなければ、国の発展も国民の幸せもない。

 このように見てくると、現在の日本はまさにリーダー不在の状況にある。百年に一度の不況とか、恐慌に匹敵するという去年から続く急激な社会の変化への対応を見ていると企業も同様で、リ-ダ-が少なくなったとの感を否めない。これを日本人が感性と人間性を失った結果だという人もいるが、もしそうだとしたら、日本の衰退につながりかねない。今こそ子供への人間教育が必要である。

(2009年2月7日)

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人柄は就学前に形成 親や家庭の重い責任

 リーダーは教育によってつくられる。この場合の教育とは広い意味での教育で、人間教育をさす。その基盤となるのは、家庭であることは改めて言うまでもない。  人は乳幼児期の教育環境の良し悪しによって成長発達が左右される。どんな教育環境が望ましいかについてはこれまでに概略を述べてきたが、これからは具体的な事例をもとに、少し詳しく書いてみたい。

 性格や人間性の基礎は就学前に形成されるということは周知の通りであるが、この時代の家庭環境、とりわけ親の愛情はもとより親の人間観、人生観や世界観などに強い影響を受ける。また、家族や近隣の人々の影響も無視できない。特に親の影響は絶対的なものであり、人の性格や人柄は幼児期の親子の触れ合い如何(いかん)で決まる。

 子どもが親に似るというのは遺伝は勿論(もちろん)のこと、親の話し方や立ち居振る舞いから考え方までの全てをこの時期に学び、それを積み重ねているからであって、「親の背中を見て育つ」とはまさにこのことを言うのである。

 思いやりのある親は他を思いやる子供を育て、非情な親からは非情な子供が育つといわれるのも、また真理である。どこでどのように育ったか、「生い立ち」が人間性を決める。更(さら)に、親や家族の他に地域の人間関係や自然、文化などが人間形成に影響することも忘れてはならない。

 このように、子供の頃(ころ)、特に幼児期を誰と、どう過ごし、どう育ったかによって人間性や人格が決定づけられるものであるから、親や家庭の責任は重い。

 戦後、特に高度成長期を境に、子供の教育を学校に依存したことによる負の部分を背負って生きていかなければならない日本人が増えたのは事実であり、そういう人々の苦悩はこれからも続くと思われる。

 今、これまでの教育を振り返り、その反省に立って本来の教育とは何かを問い直す動きが始まってはいるが、残念ながら国民のコンセンサスは得られてはいない。その理由は教育制度の根幹は昔と変わっていないが、その運用に携わる人達の人間的な質が大きく変わっていることによる。所謂(いわゆる)行政のリーダー不在によるリーダーシップのなさである。

 しかし、全国にはリーダーがトップになっている地域も数多くある。これら地域の共通点は、国依存からいち早く脱却し、独自の教育行政を貫き、著しい成果を上げていることにある。いずれの地域も、教育行政トップの質の高い人間性と高潔な人格に惹かれ、そのリーダーシップのもと、地域の人々が高い目標に向かい、一体となって努力している姿がある。

 ただ、教育行政の場合、そのトップを選ぶのは首長であるから、地域が優れた教育を実現するには、まず人間性豊かで人格高潔のリーダーを首長に選ぶことから始めなければならない。

(2009年2月21日)

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人事結果から見える トップの人格・見識

 間も無く、人事結果が公表される。「人事は人事権者そのものを映しだす」といわれるが、それは正しい。人事の結果に、人事権者の人間性や人格、識見などが反映されるからである。人事権者に思いやりがあれば思いやりの、非情なら非情な、自己中心なら自己都合の人事となる。また、本当のリーダーかどうかも見えてくる。優れたリーダーなら、組織の質的向上を第一とし、メンバーの一体感とビジョンなり、目標に向かって懸命に努力する情熱や可能性を重視した人事をやるものである。孔子の「巧(こう)言(げん)令(れい)色(しょく)鮮(すくな)し仁(じん)」即(すなわ)ちイエスマンには、真情のある人間は少ないということをわきまえた人事ができ、史記の「忠言耳に逆らい良薬は口に苦し」を、どれだけ受け入れられるか、その度量が試される。

 本物のリーダーは人間性が豊かである。つまり、自分より人、自分の都合より組織やメンバーというように常に他者のことを優先して考えられる人である。例えば、隠れた能力を見出し活躍の場を与え持てる能力が十分に発揮できるよう配慮する。一方で自分がヒーローになるようなことはせず、人の手柄を自分の手柄にしたり自分より優れていることを妬ねたんだりするようなことはしない。また、一個人の能力には限界があることが分かっているから人の意見をよく聞こうとする。一般にはトップに不満を持つ者の方がイエスマンより力のある事を知っているからそういう人を重要ポストに登用する。一方、リーダーでない者が人事をすればまずは自らの保身を考え、その地位と影響力を維持しようとするのが常である。従って、どうしても組織やそのビジョンよりは自分の延命とか権限維持を意識したものとならざるを得ない。

 このように人事はされる側だけでなく、する側の評価も同時に行われるものであるから人事はトップを評価する尺度にもなる。また、人も組織も人事によって生きも死にもする。いい人事をすれば人はやりがいを感じ生き生きと活動するもので、組織も活性化し、目標達成に向かって着々と成果を上げていくが、そうでなければ人はやる気をなくし組織も沈滞する。

 いい人事とは公正・公平で客観的に見て誰もが納得する人事であるが、人間には理性をも支配する欲望や妬みという感情があるからそう簡単ではない。しかし、人事権者があくまでも私心を捨て人事を人と組織のために行うという信念があれば多くの納得は得られる。その場合重要なのは一人一人の人間性と見識や信頼度を見極める力であるが、これがなかなか難しい。なかでも栄達狙いの媚こび接近は厄介である。人事をする者は豊かな人間性と利他の精神、そして人間洞察力が欠かせない。

(2009年3月21日)

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教育重視の地域は子供達の目が輝く

 「目は心の鏡」という。英語でも「目は心の窓」と言う諺(ことわざ)があるそうだ。いずれも、「目はその人の心を映し出す鏡のようなものだの意」(孟子)から出たものだと言う。つまり、目を見るとその人の心のほどがよく分かるというもの。「目は口ほどにものをいう」「目で殺す(悩殺)」などは、大人になってしばしば経験したことがあるが、近頃(ごろ)、目を合わせない大人が多くなってきたことが気がかりである。自分を見せたくないという無意識の反応なのか、見抜かれるのが怖くて目を合わせないのかわからないが、以前より増加していることは間違いない。

 子供の頃、目を見て話さない人には気をつけろと教えられた。この教えは大人になって役に立った。人物写真は目から読み取った心を写す。話は言葉でなく目で聞くなどである。特に教員になってからは、子供の目を見てその心を見出そうと努めてきた。目を見ることで子供の心を洞察し、その背景を探りだすことによって、その子供への対応が決まる。一人の目にも澱(よど)みがなく、クラス全員の目が澄んでいるときは、不思議とクラスの雰囲気も明るく生き生きする。

 学校から離れて何年経った頃だったか、或る写真家の撮ったアジアの子供達の目の輝きを見て衝撃を受けたことがある。それは忘れかけていた子供の目であった。その姿から決して暮らしは恵まれているとは思えないが、目は輝き澄んでいて満面笑顔でカメラに向かう子供達の叫ぶ声が聞こえるような写真であった。思わず昔撮った子供たちの写真を出して比べてみた。全く同じである。

 いま、日本の子供たちからこのようなつぶらな瞳や目の輝きが失われてはいないか、急に心配になった。しかし、こんな時代でも全国には希望に目を輝かせ学ぶ子供たちが数多くいることを見逃してはならない。どういう地域かといえば、かつての市川がそうであったように、それは行政や学校が教育を何よりも重要視している地域である。教育を最重視するということは、子供を大事にすることであり、地域を大事にすることでもある。

 では、何が子供達の目を輝かせるのか。それは自分が大事にされているという実感を子供達が持てるかどうかである。そして、子供の目が輝くとき、不思議と親や教師の目も希望に輝いている。その背景には、必ず地域住民の教育重視の考えがある。教育重視か否かは特に行政の施策で教育予算の割合とその内容、それも施設設備費より少人数学級など人件費に予算を多く割いているかを見るのが最も分かりやすい。よく聞く「次代を担う子供達のために」という言葉だけでは、子供達の実感は得られない。子供達の目の輝きを取り戻すには、教育重視の首長が必要である。

(2009年4月4日)

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首長の交代で蘇る自治体 共通理念「教育は人なり」

 「組織は頭から腐る」という。
 最近の世の中の出来事を見ていると、この言葉が真理を表していると確信できる。裏を返せば「組織は頭から蘇る」ともいえる。つまり、組織は頭次第で生きも死にもするということである。

 この考え方によれば、地方分権の時代を迎えた今、自治体の頭としての首長がその地域の運命をも決めることになる。事実、全国にはこの数年間で首長の交代による画期的な改革が行われ、教育に対する住民の意識が劇的に変わった自治体が多くみられる。
 古くは福島県三春町、十数年前までの市川市、二十一世紀に入ってからは埼玉県志木市、愛知県犬山市(前市長)などで、いずれも首長が優れた人材(リーダー)を教育長に選び、首長と教育長の二人三脚で教育行政を改革している。

 このほか、埼玉県鶴ヶ島市や京都市、宮城県宮古市なども、教育に造詣の深い首長の存在がある。前出の市町村とやや違う点は、前者群が首長・教育長のリーダーシップによる改革であるが、後者群は市民による改革、つまりボトムアップによる改革である。しかし、共通しているのは首長が教育委員会を信頼し、所管事務や権限への口出し、具体的取り組みに対する政治的介入を一切せず、教育委員会の自主自立を促し、一方では、財政事情が苦しい中でも議会とともに教育予算確保というバックアップを惜しみなくしていることである。

 具体的には、人件費の思い切った増加である。全ての自治体が教職員を市町村単独予算で大幅に増やすなど、「教育は人なり」という教育の基本理念がこれらの自治体では貫かれている。少人数学級は勿論(もちろん)のこと、不登校対策に臨床心理士を大幅に採用するとか、研修のための指導者を増やすなどで、それぞれの自治体で抱える教育問題解決のために、人・物・金の面で積極的な支援をしている。学校を教育・子育ての核と位置付け、特別に予算措置をしている宮古市はそのよい例である。明らかに人気取り、選挙目当ての見せかけと分かる単年度、または数年度の施設設備費を僅(わず)かばかり増額する自治体とはわけが違う。住民は騙(だま)されてはならない。

 住民と言えば、行政出身の町長が、町政は行政と議会が決めるものではなく町民が決めるものだとして、仕組みを変えることで町政を一変させた熊本県御船町がある。結果、町民たちは町づくりに参加できるのでワクワクするといい、議員内では議員不要論まで起こり、危機感から議員の意識も変わったという。ある町民は「トップ一人が変わればこんなに街が変わるとは驚きだ」と語っていた。誰がやっても同じだと諦(あきら)めるのは早い。必ずリーダーはいる。

(2009年4月18日)

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子供と教師が学び合う 明るい教育現場の実現を

 南寄りの薫風(くんぷう)に舞う今年の鯉(こい)のぼりは、心なしか、いつもより勢いを増して見える。遠く離れていても伝わる人の心、その心が鯉のぼりを元気づけているのかもしれない。

 「市川にとっての朗報を真っ先に知らせたいと思って」と、筆者の尊敬する大先輩から教育長交代の電話が入ったのは、暖かい南からの強風が吹き荒れる三月彼岸明けの日だった。

 そして数週間後、今度は「子供のための教育行政、教育委員会を目指す」という新教育長のメッセージが聞こえてきた。教育委員会の方向性としては至極当然であるが、なぜか新鮮に感じる。このメッセージを聞いた人たちも「子供」という言葉の重さを改めて実感するとともに、新教育長が力強く映ったという。このことは、この八年間、「子供の為(ため)の行政」という意識が封印され、子供という言葉に皆が飢えていたことの裏返しでもある。つまり「大人の都合、行政の都合」が優先され、「子供」が常に後付けとなる行政だったということである。

 人事についても同様なことがいえる。先人たちの努力で築きあげられた、文教都市・市川市が誇る、子供を育てるための四大施策
 「コミュニティスクール」
 「ナーチャリングコミュニティ」
 「市民図書館」
 「ライフカンセラー」
 は、いずれも地域と家庭、学校が一体となって、子供の健全な成長発達を支えるという遠大な理念のもとに長年にわたって取り組まれ、著しい実績をあげてきたものである。後に四大事業の全てが各方面から注目を浴び、国の施策となって全国に広められることになる。それは子供の教育が学校教育だけでは立ち行かなくなった一九八〇年、市が、地域が人を育てる核であることに着目し、「地域の教育力」を子供の教育に取り入れたことに始まる。

 ところが、この八年間にこれらの事業は教育委員会によって次々と廃止や変質を余儀なくされたのである。新しい理念や施策の創造もなく。しかもナーチャリングコミュニティ事業の改名に代表されるように、いずれの改変も理が無い。

 普通、施策の存続、廃止、改変は実績の検証と変える理由がはっきりしていることが必要であり、更(さら)にそれに代わる施策の創造が不可欠である。改革・変革というなら、古い価値観の崩壊―混乱―新しい価値観の創造という順序を踏むものであり、行政のスクラップ・アンド・ビルドというなら、これまた壊しっ放しではなく、新しい施策の創造がなければならない。

 幸いにも新教育長が誕生したこの機に、何としてでも自立した本来の市川教育を取り戻したい。それは子供中心の人間教育であり、先見、先進、創造の教育である。

 目指すは子供と教師が共に学び合い、育ち合う、明るい教育現場の実現である。


(2009年5月2日)

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日本の教育は混迷状態 認識すべき親の責任

 日本の教育はその本質や方向を見失い混迷状態にある。

 原因は戦後、特に一九六〇年代後半から、教育とは何か、誰のために誰が何を目的として行われるべきかという理念と、子供の教育に責任を負うのは誰かという根本的な問題を曖昧(あいまい) にしたまま、対処療法的な対策だけで凌(しの) いできた結果である。

 まずは第一にはっきりしておかなければならないのが「責任」。現代社会の風潮がそうであるように、教育に於(お) いても「責任転嫁の考え方が常識化している。

 さかのぼって、戦中から戦後間もない昭和三十年代までは、子供の教育に親が全責任を担っていた。従って保護者は教師に全幅の信頼を寄せることが出来たのである。たとえ新米教員であっても。

 人間、信頼されると信頼を失わないように、或(ある)いは一層信頼を得ようと一生懸命努力するものである。教師が努力すれば子供は必ず変わる。子供が成長すれば保護者に感謝される。だからますます努力をするという良い循環が起こる。

 また、子供というものは親の期待に応えようとするものであるから、親の考え方や態度に強く感化される。

 このことから親が学校や教師を信頼すれば、子供も信頼するのは当然である。

 当時の親は「先生の言うことは何でも聞くのだよ」と子供に教え諭し、教師に対しては「子供は先生のことを信頼していますのでよろしくお願いします」と頭を下げ、子供と教師の信頼の架け橋になっていた。

 これが子供と共に教師も成長するという本来の教育の在り方である。

 潮目が変わったのが昭和四十年代の高度成長期。一転して、子育ても子供の教育も他人任せとなった。

 任せるといえば聞こえが良いが、責任まで他人に押し付けるという、これまでには考えられないことが起きたのである。

 同時に、核家族化が進み、人間形成の原点である家庭教育に不可欠な祖父母などの同居がなくなり、追い打ちをかけるように、兄弟姉妹数の減少という悪条件が重なり、教育環境は悪化の道をたどることになった。

 その流れは、現在に至っても変わっていない。

 このところ、社会問題となっている理不尽な要求をするモンスターペアレンツなどは、その極端な事例と言える。

 これでは、保育園や学校としても対応のしようがない。

 理不尽だといえば怒るだろうし謝れば理不尽を認めることになる。

 どちらかと言えばできるだけ穏便に対処しようとする。

 結局、どんなに教育的に努力をしても認められないとしたら、子供の教育に情熱を傾ける気にはなれないだろう。

 これは教育の死を意味する。

 教育を生かすも殺すも親次第。学校の責任を責める前に、自分の子供への責任を親がしっかり認識することから教育は始まると思うのだが。
(2009年5月16日)

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教育の原点は家庭 学校が担うのは一部

 教育とは一体何なのだろうか。子供達が学校で勉強することだと考えてはいないだろうか。もしそうだとしたら、間違いとは言わないまでも、正答ではない。

 教師から知識や技術を教わるだけを教育とは言わないし、教育を受けることは学校へ行くことではない。ただし、学校教育という場合に於(お)いてはこの限りではない。

 では、本来の教育とは何なのか。いろいろと言い方はあるが、大ざっぱに言うならば、人間形成のために行う営みとでもいえるだろうか。だとすれば、教育の場は限りなく広がる。

 余りにも有名な言葉「生活が陶冶(とうや)する」(ペスタロッチ)は、思考力、心情、技術の三つの陶冶されるべき力を、調和的に発達させるのが教育であるとする。しかも、抽象的な知識や道徳ではなく、具体場面や人間関係、事物などによってこれらの力を伸ばすことが必要で、子供の直感力を重視する。

 子供の人間形成は教育の原点である家庭から始まり、社会性や社会力が身につく地域社会、そして知育を受け持つ学校へとその場は広がり、それぞれの教育環境(人、文化、行事、自然など)によって人間的に成長していくのである。つまり学校は子供の教育の一部を担うだけのものである。

 本来の学校は、子供の教育の知的分野の、しかも、基礎的な知育を分担するものであるから、躾(しつけ)や生活習慣までを教える所では勿論(もちろん)ない。物事の善悪の判断を含めて、それらは親・家庭がしっかり教えるべきで、人間としての基礎知識や生活行動の基本を身につけたうえで学校に入学するのが当たり前である。

 それが今では、善悪の判断すらできないまま入学してくる子供が増えているという。これでは学校生活などできるわけがない。学級崩壊が教師のせいにされているようだが、教師だけの問題とは言い切れない。

 筆者が子供の頃(ころ)、殆(ほとんど)の家庭で「人のものは盗むな、嘘(うそ)をつくな、人のせいにするな、弱い者いじめ(人間として卑怯(ひきょう)な行い)をするな、人は助け合え、人に迷惑をかけるな」と教えられた。人間としての生き方は何よりも厳しく、繰り返し叩き込まれてきた。特に、恥とか卑怯、強欲などは強く戒められて育ったから、この歳になってもしっかりと身についている。これが家庭での「躾」であり、真の「道徳・倫理」教育である。

 学校での道徳教育は理屈に過ぎない。それに親から「勉強しろ」とは一度も言われたことはない。むしろ「勉強する暇があったら手伝いをしろ」とはよく言われた。これが家庭教育の本質ではないかと今にして思う。

 現代社会を騒がす無差別殺人、肉親間殺人や各種の詐欺、偽装事件などは人間性欠如に起因するものであり、家庭教育の投影と読み取ることができる。
(2009年6月6日)

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社会問題として現れた 教育の学校依存の影響

今、教育とは何かと問えば、どんな答えが返ってくるだろうか。

 「知識・技術を教えることだ」、それとも「人間形成であり、人づくりである」というのだろうか。国が進める教育と広く国民の間で認識されている教育は前者ではないかと思うが、どうだろうか。同じことを子供達に聞いたら、百%、前者を選ぶのではないか。少なくとも、教育の学校依存社会になった一九六〇年代後半からは、この考えが顕著である。

 以前紹介した「幻の46答申」が出されたのもこの頃(ころ)。知識中心の教育に危機感をもっての答申だったが、高度成長の波に飲み込まれ、実現することなく、まさに幻となったのである。人々は経済成長という幻想を追いかけ、子供の教育は他者に任せ、ひたすらに働き、総中流家庭などと現(うつつ)を抜かしていた。この時代を子供として過ごした人々には、その影響が強く及んでいる。その影響とは、子供達の自殺、校内・家庭内・生徒間暴力、いじめ、不登校、薬物依存など、次々と現れることになった社会問題である。

 これに対し、国及び教育委員会は、教育の本質に向き合うことなく、場当たり的対処療法でしのぐという、お粗末な対応しかできなかった。勿論(もちろん)、心ある人々から教育革新をすべしとの声があがってはいたが、経済第一主義に突き進んでいた日本では、大きな声になることはなかった。

 その声というのは言うまでもなく、教育は人間形成の営みで、その目的は人間性を育てることであり、人格の完成だということ。人間形成の原点は家庭であり、人間性の基本は家庭教育、しかも乳幼児期における親の教育、言いかえれば躾(しつけ)にある。

 元来、行政や学校が家庭教育まで口出しをすることはタブーとされていたので、無理もないことではあるが、人間性の基礎作りがなされないまま、いきなり学校教育に移行して、知的教育をすることは、子供の人間的発達にとって決してプラスにはならず、むしろ障害となる。

 このようにして育った人間は知的には優れるが、人間性には欠ける。

 非情、冷酷で自己中心的な人間であるから、人に好かれ敬愛されることはない。人を信頼できないから信頼されない。人を愛せないから人から愛されない。人を思いやれないから人から思いやられない。人間関係がうまくとれないから孤立する。認められないから目立つことで、その存在感を示そうとする。

 今、こういう人間が多くなっているのは、幼児期の育ちに由来する。人は乳幼児期、遅くても小学校に上がる前、五歳くらいまでには人間性の基礎はできあがる。従って、その時期にどのような人間教育がなされるかによって、どんな人間になるかが決まってくる。

 それだけに、学校教育以上に重視しなくてはならないのが、家庭教育である。

(2009年6月20日)

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「自由な遊び」は人間性を育てる

 人間性とは何か。辞書によれば「人間の本性。人間らしさ。」(広辞苑)とある。また、日常的によく使われる言葉でありながら、使われ方も使われる意味も多様である。現役時、ある会議で昇任試験制度を導入するに当たって何を最も重視すべきかを話し合っていた時、行き成り「それは人間性だよ」という幹部の発言に唖あ然ぜんとしたことがある。というのも、人間性に乏しく自己中心的で非情と評されていた人物から出た言葉だけに当惑したからである。そこで今回は「人間性」について改めて整理をして本欄ではどのような意味で使うかをはっきりさせておきたい。

 まずは何を「人間性」としているかその代表的なものを紹介してみよう。その殆ほとんどが他の動物とは異なる人間独自の性質という位置づけをしていることと、本性、つまり先天的に備わっているものにプラスして後天、即ち育った環境によって形成されるものであること。具体的には、「他を思いやる心」がベースとなり他人を自分と同じように尊厳あるものとして尊重する心であり、その心から発する尊敬、礼儀、感謝などがある。動物行動学者でノーベル賞医学生理学賞受賞のコンラート・ローレンツは著書「人間性の解体」の中で「思いやる心」の他に「好奇心」「反省心」「万物への愛」を挙げている。また、犬や馬などの家畜にも見られる「忠誠」「勇気」「大胆さと従順さ」なども。筆者が信頼と共に重視している教育成立の条件としての「好奇心」については「遊び」(NC事業の基本理念)と不離一体のもので好奇心行動を遊びから分離することはできないとしている。更さらに探求と遊びの近縁性についても言及している。また、遊びはそれなしには真の人間性が存続しえない創造的活動性の化身であるともいう。芸術と遊び、知識の発達と探索行動、若もしくは好奇心行動と遊びが密接に関係しているというのである。このように人間にとって遊びの重要さと共にその遊びは「自由」でなければならず、「遊びの自由さ」は研究する人間の創造性にとっても同じように不可欠であるとも述べている。

 このことは昨年ノーベル物理学賞を受賞した小林、益川両氏の母校名古屋大学の研究理念に重なる。両博士が語ったところによると、名古屋大学では当時から他の大学では見られない自由があり、先輩後輩、教授・講師など肩書を超えた意見交換が可能だったということが今回のノーベル賞につながったというのである。「人間は遊んでいる時だけ完全に人間である」というフリードリッヒ・シラーの言葉からも分かるように自由に遊ぶことも人間性の一つなのである。この人間性を育てる「遊び」の宝庫が地域である。

(2009年7月4日)

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教育でもっとも大切なのは知識や能力より人間性

 人間にとって最も価値のあるもの、それは「人間性」である。

 人間は幸せを求める動物と言われるが、その幸せは人間性によってのみ得られる。

 その人間性を育てることを教育という。

 日本社会はこのことを忘れてしまったようだ。

 もしかしたら知的(知識) 教育だけが教育だと考え違いをしているのかもしれない。

 だとしたら、子供達にとっても国にとっても、こんな不幸はない。

 人間性の基礎が身につく子供時代にただ勉強だけが強要され、人間や自然相手に遊び戯れながら学ぶ経験が乏しく、人間性を育ててもらえなかった子供は、人と共感する、自然に感動するといった感情体験が少なく、孤立した狭い世界に安住してしまう傾向があり、自己中心的な人間になりやすい。

 このため、感性や共感性、社会性などが育たない。

 結果、大人になっても人間関係が苦手で、深い心の関わりの必要な友情・恋愛関係にはなりにくく、また、自分が傷つきたくないから、深い関わりを避け、自分を守る自己愛的な傾向が現れる。

 このような自己中心性の病理を「自己愛性や回避性の人格障害」といい、若い世代を中心に増加しているという。

 この現代病理には、対人関係能力低下、共感性の欠落、自分の衝動を制御できないセルフコントロール能力の低下、リアリティの希薄さなどが特徴的に表れるという。

 キレる、暴力をふるう、人を殺す等は、コントロール能力低下が原因といわれる。

 子供達が次々と起こす問題行動も、大人の起こす凶悪事件や理不尽な出来事も、人間性の欠如が背景にある。

 このことから考えてみれば、人間性を豊かに育てておくことが、子供の将来にとって如何(いか)に大事か分かる。

 どんな職業に就き、どのような立場に立とうが、人間性ほど大切なものはない。

 人間はその生涯にわたって極めて多くの人々との出会いと関わりの中で仕事し、生活していく。

 何時(いつ)の時代も、人は習得した知識や能力より、人間性なり人柄で人を判断することの方が遥(はる)かに多い。

 特に、生涯続く親しい関係や信頼する関係は、その人の才能より人柄での結びつきが普通である。

 教育が幸せに生きるためにあるとするならば、人間性を豊かに育て、優れた人格の完成を目指して行われなければならない。

 良寛は「修行で得たものは『愛語』という一つの言葉」だといい、作曲家・バーンスタインは、戦後のものの豊かな時代に疑問を感じ、物より心の方が大事なのではと考えて、『不安の時代』という曲を社会へのメッセージとして送り出したという。

 また、湯川秀樹博士は「人間性は豊かなものでなければならない」と言い、脳科学者の茂木健一郎氏はディズニーの音楽を例えて「音楽は人格そのものである」という。

…次回に続く…

(2009年7月18日)

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先人たちの言葉から人間形成を考える①

 人間形成はどのようにされるのだろうか。子供は成長の過程で、まず親や家族集団の影響を受け、更(さら)に地域の教育環境の影響を受けながら、人間性や人格などを形成していく。従って、家庭を中心とした教育環境を整えることが最も重要である。それに、地域の人々と豊かな自然、文化が欠かせない。今回は、黎明書房刊「教育の名言」を一部引用して、先人達の残した言葉から人間づくりを考えてみた。

 初めに、親子の触れ合いに関連した言葉、『愛は裁かず』(伊藤重平)。
 子供は叱(しか)られて育つと決められているが、褒めることの方が教育的で、人間づくりに効果的である。子供を正しく叱る分には良いが、少しでも大人の期待や基準から外れると叱られ非難され責められるのでは、子供は心を閉ざしていく。時には褒めることも必要。人は褒められた時、許され認められたことを実感し、深い愛を体験する。愛は愛を育てるというように、愛を感じることで他人を愛せる人間になっていく。どんな子供でも、過去の行為を許し全面的に受容するという愛が必要なのである。

 次に『愛は愛を育て、憎しみは憎しみを育てる』(ニイル)。
 ニイルは盗癖(とうへき)のある子供に、盗みを働くたび小遣いを与える奇策で盗癖を直したといわれる。子供が求めているのは物やお金ではなく、大人からの愛と受容であり、盗みは愛の代用品を求める行為だという。ニイルが子供に与えた褒美(ほうび)は、子供にとっては愛と受容だったのだ。実際は、愛の足りない子供ほど、愛ではなく憎しみを与えられていることが多い。ニイルは『愛の反対は憎しみではない。愛の反対は無関心である』という言葉も残している。子供にとって、無関心ほど耐えられないものはない。愛も関心も注いでもらえない子供は、悪い事をしてでも関心を引こうとするもので、本当は悪い事をする子供ほど愛されなくてはならないのだ。非行など問題行動に走る子供達が求めているのも、まさしく愛である。

 『過剰な虚偽の愛よりは不足した真の愛の方が子供にとってずっと辛抱できる』。
 現代オランダ精神学者・ベルクの一九四五年発表の論文「ホスピタリズム」は、生後一年以内の乳児に母性愛が注がれなかった場合、その子は取り返しのつかない「非社交性」「犯罪行為」「精神薄弱」「狂気」「神経症」に導かれると述べ、親達を恐怖に陥れた。それから、育児不安を持つ母親が増加したという。母親から十分な愛情を受けなかった乳児は、正常な発達が妨げられるというのは正しいが、不安から生じるわざとらしい優しさや虚偽の愛より、時々間違いを起こしても、堂々とした母親の子を思う真の愛の方が、子供には良いというのである。〈続く〉


(2009年8月1日)

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先人たちの言葉から人間形成を考える②

 前回に続き、人間形成の基盤である家庭と子供の人間性の育成について黎明書房刊「教育の名言」を引用して、二人の先人の言葉から考えてみたい。

 よく知られるニイルの言葉『問題のある子供というものは決していない。あるのは問題の親ばかりである』。

 盗癖(とうへき)のある子供は、父母間に争いが絶えない。その不安から逃れようと子供は盗みの快感に溺(おぼ)れる。
 神経症の子供がいる。その親も神経症である。
 登校拒否(不登校)の子供がいる。それは、親に登校を強要された子供である。
 勉強嫌いの子供がいる。それは、勉強を強要する親への反抗である。

 こうした親達は皆、何らかのコンプレックスを持っている。

 更(さら)に、「子供の将来に対してひどく心配する親というのは多くは自分自身、世の中に成功しなかったと感じている親達である」「親は自分の成功しなかったことを、子供によって遂げさせようとする」「問題の子供は問題の親の無意識である」とニイルは書いている。

 「私はねぇ、いつもお前に良いようにとばかり考えているのですよ」という親は、言葉とは反対に自分を愛しているのだともいう。この偽善が、親の言う方向とは反対方向に、子供を導いていく。子供は直感力に優れているというが、まさに言葉のウソを見抜いているのである。

 次にニイルの業績の紹介につとめた霜田静志の言葉、『問題は、叱しかることが良いかではなくて、叱らずにいられる人と叱らずにはいられぬ人との相違である』。

 教育相談などで我が子の短所や欠点を滔々(とうとう)と述べる人や、生徒の悪口に花を咲かせる教師がいるとして、こういう人達は子供を叱ったり厳しく管理したりする。理由を、本人達は愛の鞭(むち)とか子供のためとか理屈を付けるが、実は殆(ほと)んどの場合、その人達の性格的特性から生じていると言い切る。つまり、自分自身の性格が攻撃的だったりするのだが、当人は気づいていないか、気づくのを拒否しているのだという。

 ニイルも、本人も気づかない深い無意識的な原因があると指摘している。それは自己嫌悪の念だという。成長過程で「おまえは良くない子だ」などと言われ続けた結果、自分でもそう思い込んでしまっているとか、到達不可能な高い理想を押し付けられて挫折し、「自分はダメな人間だ」と自信をなくしている場合もある。

 いずれにしても、自分を愛し、受け入れることができない人には、子供を受け入れ、愛することはできないという。
 子供を持ったら、この連鎖を断ち切らねばならない。人間にとっての最高価値は豊かな人間性だが、その基礎が子供の、しかも乳幼児期に出来上がってしまうことを考えたとき、如何(いか)に家庭の教育環境が大事であるかを改めて思い知らされる。

(2009年8月15日)

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思いやりが失われたのは家庭崩壊が最大の原因

 「違った生き方、ものの考え方に対する思いやりがこれほど乏しい国民は珍しいのではないか」(東大名誉教授・木村尚三郎氏)や「世界一〝思いやり〟のない国民だという非難(あるいは自己批判)」(ごま書房、井深大の心の教育から)という欧米の日本人についての見方をどれだけの日本人が自覚しているだろうか。

 かつては勤勉・誠実と共に「他を思いやる」は日本人の国民性を代表する貴重な言葉だった。

 古くは江戸時代、家庭と寺子屋が一体となって人間性を育てていた。戦後間もない頃までは僅(わず)かにその名残をとどめていたが、高度成長期を境に他より自分、自己中心の考え方に変わってきた。

 日本人から思いやりが失われた原因は幾(いく)つか考えられる。一つには人間性豊かな思いやりの情を持つ日本人が少なくなったこと、二つには核家族化が進みお年寄りが子供の教育の場から遠ざけられてしまったこと、第三には社会の基本的な行動様式・態度や基本的な生活習慣を身につけるといういわゆる躾(しつけ)がなおざりにされたこと、父性の欠如などであるが、最大の原因は人間形成の基盤である家庭の崩壊がその背景にある。

 西欧(米も)では幼児期から宗教教育によって人間性が形成されるため、家庭の崩壊は日本ほどその影響は大きくないといわれるが、日本では家庭での人間性教育の欠落は致命的となる。

 子供が生涯幸せに生きてほしいと願うのが親の素直な気持ちではないかと思うが、そうならば子供が成人し社会に出てどのような職業に就き、どんな困難に遭遇しようともそれを自分の力で乗り切り、道を切り開いていける力を身につけてやるのが親の務めではないだろうか。その力の代表的なものが挫折を自ら乗り越える力であり、成功した時に有頂天にならず気を引き締め反省する自制心である。また、こういうとき力を貸してくれるのが人間性豊かな友であり、先輩であり地域の人々であり自然である。

 よく「あの人は人柄がいい」とか「優れた人格の持ち主だ」とかいうが、その土台になるのが人間性であり人間性こそが人間の最高の能力ともいえるのであって、知識や技術でもなく学歴や地位でもない。日本の教育が教育の本質である人間性教育から目をそらし、学力という目に見える数値で子供を評価し競争させるという誤った教育を指向する大人たちが多くいる限り、これからも日本人の思いやりは育たないだろうし世界から信頼を取り戻すことはできない。勿論(もちろん)、幸せな人生は望めない。真の人間性を備えた日本人をつくるためには教育の原点である人間形成に立ち返り、まず家庭から人間教育を始める必要がありはしないか。


(2009年9月5日)

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人の結びつき決める人間性 家庭教育が基礎を作る

 人間形成の原点が家庭であること、人間にとって最も重要なものが人間性であることは、繰り返し述べてきた。

 理論より経験、理屈(知識)より実践(行動)を重視する筆者として自分の経験に裏付けられた理論を信念としてきたが、その実践・経験をもとに人間性の本質を考えたい。

 七十余年の人生において子供時代の友人や地域の人々、仕事上の人間関係など数えきれない多くの人々との出会いを通して学んだことは、人生と人間性の関係である。
 出会いが人生を変えるとはよく言われるが、関連して、人間性が人と人とを結びつけ、また切り離していくように、両者は不可分な関係にあることも分かった。
 諺(ことわざ)にも「類は友を呼ぶ」というものがあるが、これは善悪を問わず同種、同族、性格など互いに引き合う素質によるものと言われる。
 小学校以来の親友やガキ大将をしていた時のメンバー、いとこなど子供時代の人間的な繋(つな)がりは今でも続くが、その後に出会った人々の中で現在も続いている関係は、その全(すべ)てが人間性豊かで人柄の優れた人たちに淘汰(とうた)されていることに気づく。

 最も長いお付き合いは今から五十年以上も前、新任教員として赴任(ふにん)した学校の当時校長・教頭だった九十歳を超える大先輩である。
 未(いま)だに何かにつけ励ましや心配を頂いている。
 長いことその関係を保てる力の源泉は思いやり、信頼、愛など人間性であり人柄である。
 逆に人間性に乏しく人柄の優れない人は、人との結びつきが自己中心的であり打算や感情や欲望など利害関係によるものであるから、関係は短期で終わり関係解消も一方的となる。
 又(また)、人間性の貧しさは日常的な言動にも現れる。
 特徴としては人間性未熟による人間的なゆとりの無さに起因する、怒る、妬(ねた)む、嫉(そね)む、恨むなどの感情露出や自分が一番といったお山の大将的な傲慢(ごうまん)さなどが随所に出るものである。
 言うまでもなくこの場合の人間関係は脆弱(ぜいじゃく)である。

 このように人間性が人と人の結びつきを決めることから、友人はもとより夫婦・親子、兄弟・親戚、近隣・地域、職場などありとあらゆるものに影響は及ぶ。
 一人の人間の人間性の豊かさは多くの人々を幸せにし、逆にその貧しさは人々を不幸にする。
 更(さら)に言えば、人間性の豊かさは家族や地域、日本社会、果ては世界の人々の幸せや平和にも貢献できる偉大な力となりうる。
 この偉大な人間性の基礎を作るのは家庭である。
 以前も紹介した高橋前市川市長の母親の教育「お風呂の会話」(著書より)は、人への思いやりを育てる人間性教育そのものであって、これが家庭教育の神髄といえよう。
 家庭教育は人間教育でなければならない。

(2009年9月19日)

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幼児期に甘く反抗期に厳しいしつけ 家庭教育構造のチェンジを

 人間性を育てる家庭教育とはどういうものか。
 それは乳幼児教育、即(すなわ)ち「躾(しつけ)」である。
 挨拶(あいさつ)をする(礼儀)や
 人に迷惑をかけない(正義)
 人のものを盗まない(同)
 我慢する(忍耐)
 感謝する
 年齢が上がるにつれて人間にはいろいろな人がいる(個性)
 違ったものや人もその存在や価値を認める(個性尊重やものを大事にする)
 命を大切にする(命の尊厳)
 人には優しく思いやりの心をもつ(いずれは万物への愛にまで育てたい)
 そして、相手を理解し受け入れ意思の伝達ができる人間関係をつくる(コミュニケーション能力)
 更(さら)には決まりを守る
 善悪が判断できるなど
 社会の基本的な行動様式・態度や基本的生活習慣などを子供に身につけさせる営みが「躾」である。
 家庭での躾は性格をはじめ人間性や人格・人柄の土台になるものであって、この土台次第でその人間の一生が左右されるという極めて重要なものである。

 心の教育が叫ばれたのは二十年余り前。
 当時の文部省も教委・学校も「心の教育」の必要を声高に強調していたが、現在では、その声は全(まった)く聞かれず、世論に押され再び「学力向上」を叫び始めるという迷走状態。
 これが日本の教育の現状である。
 「人づくり」という教育の本道を踏み外し教育の目的とは異なる道へと迷い込んでしまったのだ。

 諸外国が躾をどうしているのかを紹介すると、西欧では「宗教教育」、米国では「家庭教育」と「宗教教育」、中国・韓国は「儒教教育」で確(しっか)り人間形成をされてから学校教育に進むのである。
 筆者が駆け出し教員時代には、「欧米の教育」は幼児期には厳しく躾をして社会生活の基礎を叩き込み、年齢が高くなるにつれ子供の主体性を尊重する自由度を広げて十八歳まで幅広く経験を積ませ、人間や社会を見つめさせ自立させてから社会に送り出すと学んだ。

 日本でも昔は元服に代表される成人の表示が男女ともに十代の半ばまでにあったことは周知のとおりである。
 筆者世代も躾や教育は低年齢ほど厳しかったが、中学卒業後の親の干渉は殆(ほとん)ど無かった。
 しかし、現代の日本はこれとは全くの逆で、幼児期は甘く育て反抗期を迎える頃(ころ)になって急に厳しい統制をする。
 これでは子供が混乱するのは当たり前のこと。
 泳ぎ方を教えられないまま大海に放り出されたのも同然である。
 これは躾をしないで道徳教育を、自然体験がないまま理科教育をやるようなものである。
 その結果として生まれたものは、親離れしないままのパラサイト化現象などであり依存型人間の増加である。

 選挙権十八歳が現実味を帯びてきた今、まずは家庭教育構造のチェンジが急がれる。

(2009年10月3日)

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“お話を聞いて心が育つ 道徳教育の土台は家庭

 乳幼児期から学童期前半までの人間教育が人生を決める。そう断言できるのは自分の生い立ちと教職経験から得た結論であるが、勿論(もちろん)教育論の裏付けもある。子供の頃(ころ)聞いた話で今でもはっきりと記憶しているのが『お釈迦(しゃか)様の話』と芥川龍之介作『蜘蛛(くも)の糸』である。

 お釈迦様の話というのはこうである。人間というものは一生のうちに善・悪ともに沢山やるものだ。お釈迦様でさえそうだった。そこでお釈迦様は良い事をした時は白い毛糸を白玉に、悪い事をした時は黒い毛糸を黒玉に一回巻いた。ところがいつの間にか黒玉の方が白玉よりどうしても大きくなってしまう。これは大変と、一生懸命善い行いをしようと努力した結果、ようやく白玉を大きくできたという話。

 この話の後で祖母は必ずこう続ける。「お釈迦様でさえそうなんだから人間はよほど努力しないと黒玉はどんどん大きくなってしまう。人のため世の中のためになる善いことをいっぱいしていこうね」と。更(さら)に続ける。「お祖父(じい)ちゃんもそうだったし、ご先祖さんは皆そのように生きてきたんだよ」と。繰り返し聞いているうちに、子供ながらにこの話は心の奥底に沁しみていったように思う。

 もう一つが一九一八(大正七)年創刊の『赤い鳥』に発表された芥川龍之介の児童文学『蜘蛛の糸』で、日本で生まれ育った人なら知らない人はいないほど有名な作品である。生前、人を殺したり家に火をつけたり様々な悪事を働いた大泥棒カンダタという罪人がある時、小さい命でも殺すのは可哀(かわいそう)だと蜘蛛を助けた。その生前唯一の善行に対するお釈迦様の慈悲の心と、自分だけ地獄から抜け出そうとするカンダタの無慈悲な心が対比的に描かれていて子供にも分かりやすい。

 外国にも似たような民話がある。イタリアやスペインには、天国にいるシエナのカタリナが聖母マリアにお願いして地獄にいる母親を天国に連れて行こうとするが、母親は自分にしがみついた魂に悪態をついたため地獄に戻され、カタリナも母のいる地獄へと移っていったという話である。日本にはもう一つ、虐(いじ)められていた亀を助けた少年・太郎がお礼に竜宮城に連れて行ってもらった話『浦島太郎』もある。

 少年時代にこのような作品を読んだり民話を聞いたりして育つことで、悪事を行えば地獄に落ち、良い行いをすれば極楽や天国に行けるのだと子供心に深く刻みこみ、同時に慈悲の心の大切さも学ぶのである。こういう心が育っていれば、学校での道徳教育はお説教道徳にならずに済む。 道徳教育の土台は家庭の教育にある。「家庭よ、汝なんじは道徳上の学校なり」(ペスタロッチ)。  


(2009年10月17日)

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政治家に必要な 人間性の豊かさ

 今、鳩山首相の人間性が話題である。筆者も教育行政に身を置いたときから政治と人間性の関係に強い関心を持つようになり、今回の政権交代を人間性の面から注目していた一人である。勿論(もちろん)、首相と直接かかわっていないからあくまでも推測の域を出ないが、これまでの経験とメディアを通しての首相の言行から人間性の豊かさを感じ取ることはできる。

 選挙活動中に出会った人々への心ある対応、例えば、移動中の列車の中で学習障害の子供を持つ親の話を聞いて、多忙な日程をこなす中で僅(わず)かな時間を割いて自ら返事を書いたという誠実な行為や、車上から街頭演説をするだけでなく集まった一人ひとりの話に耳を傾ける姿が多くあった。なかでも、不況で息子が職に就けず自殺したことを伝え、こういう犠牲者を出さないで済む世の中にしてほしい―と握った手を離さず切々と訴える年老いた母親に対面し、涙を流さんばかりに沈痛な面持ちで聞いている報道映像は印象深かった。

 また、自宅を出て車に乗る前の僅かな時間での記者の質問に対しても丁寧に答える。ある時、記者の質問に「ない」と一言答えた後で「これだけでは余りにも冷たいね」と言い、立ち止まって説明を加えることも。ぶら下がり会見然(しか)りである。

 これらの言行はこれまでの首相や大臣から見ることは決してなかった。この違いは人間性の豊かさの違いを表すもので、人間性豊かで篤実(とくじつ)な人柄は他への思いやりの情は勿論、人としての品性をも感じさせるのである。

 人は、数字の読める本格的理系の首相、東大きっての秀才首相という。真実を追究する理系人間は実証・検証を重視し、合理的・科学的思考に優れていることは確かであるが、それだけでは人間一人ひとりを大事にする発想は生まれてこない。理系人間や秀才人間は世の中に数多くいるものの人間性の豊かさが兼ね備わることがなければ人としては非情であり、自己中心的な発想の域を出ることはない。

 これまで多くの政治家とかかわり、国や地方の政治を見聞きしてきた経験から言えることは、議員であれ首長であれ人間性を尺度としてみるのが最も分かりやすい。人間性に欠けるトップが仮に「国民・市民目線」と言ったところで、それは自分から見える国民・市民であり「自分目線」に他ならない。

 数十年ぶりに人間性豊かなトップを得た政府、国民主権の政治に転換しようと日々努力している首相や各大臣の姿に感動すら覚える。大臣の人間性と知見にもよるがこれからの教育政策に期待したい。後れを取った日本の教育が世界に再び肩を並べる日が待ち遠しい。

(2009年11月7日)

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欠かせない 人間性の教育

 新首相及び各大臣の人間性が国会での論戦を通して次第に明らかになってきた。人間のための経済、命を守り国民生活を第一とした温かい政治、温かみのある社会、人間が人間を大事にする世の中・政治、支え合って生きていく日本、信頼される日本など、豊かな人間性の持ち主ならではの言葉が並ぶ。久し振りに人間本来の社会が実現されそうな気がする。

 昔から「人間は社会的な動物である」といわれている。アリストテレスが提唱した人間の定義である。人間は社会を構築し、その中で生きていく動物であることは確かであり、その為には社会性の発達は欠かせない。「社会性とは心理学的には、人間が社会的存在として自分の所属する社会で能動的・適応的に行動できることを指す概念である。ここには、基本的生活習慣の確立、言葉の獲得、集団規範の習得、仲間と交わる能力の発達などが含まれる」(学校教育辞典)。また、子供の成長過程で重視される「社会化」は社会に適応するための行動様式を身につけることである。

 いずれにしても、人間は常に他者とともに生きていかなくてはならない生き物である。「人は一人では生きられない」のであって「人や自然に生かされている」というのが正しい人間観といえよう。しかも人間社会は複雑多岐に及ぶ。一人の人間が家庭、地域コミュニティ、学校、職場など様々な社会に属し、多様な役割を担い果たしていかなければならない。その為に教育が必要となる。

 幼少期の躾で人間性や社会性の基礎を教え学ばせ初等教育や中等教育でそれらを育てるとともに、様々な社会で求められる役割に必要な知識を学ばせ能力を育てる。高等教育では専門分野や高度な知識、技術を学ぶ。現代日本の教育は、このような人間の成長発達の段階を踏まえたシステムになっているだろうか。人間性や社会性などを育てないままに知識を積み上げようとしてはいないか。人間性という土台の無い人間は物事を頭でしか考えられず、自己中心的になりやすく非情で、相手を思いやる、万物への愛、他者を敬い感謝するなどの心に欠ける。一方、金銭欲や出世欲、権力欲などは人一倍強い。このような人間がリード或いは支配する社会は、本来人間に備わっている温かい心、所謂「人間味」などが失われた社会になりやすい。従って、互いに助け合う、協力し合うことがなく、人々は孤独で落ち着かず、常に何かに不満を持ち苛々する。これが今の社会である。

 当然のこと、これまで政治も行政も余りにも人間性に欠けていた。望ましい日本社会を考えるとき、どうしても人間性教育は欠かせない。


(2009年11月21日)

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優れたリーダーは 人の心に生き続ける

 十月の連休に思いも寄らぬ訪問者があった。およそ四十年前、ある学校で出会い一緒に過ごした教員仲間六人である。何せ一部の人との年賀状交換はあったものの全く声すら聞くこともなかった人達だ。駅で会うなり「おー」と言ってしばし絶句。しかし四十年前にタイムスリップするのに時間は掛からなかった。我が家はまるで同窓会。思い出話に花が咲き、仮眠を挟んで翌日の昼ごろまで話し込んでしまう始末。

 話題の核はその時期の故O校長で、筆者が教員として十年間を過ごした学校での話である。初めの五年間は教職員がばらばらでまとまりのない集団でしかなかった。朝の打ち合わせ以外全職員が互いに顔を合わせることもなく、退勤時刻を過ぎると何いつ時の間にか学校が空になっているという日々が続いていた。それまで、休憩時間や放課後には職員室が教員と生徒で賑にぎわい、退勤は互いに誘い合い途中で道草を食い、そこでは教育談義が交わされ生徒指導など悩み相談もできるという中学校から転任してきた筆者は、耐え難い寂しさを感じていた。そんな学校の雰囲気を一変させたのがO校長の着任である。

 まず教職員同士の会話が増え、人間関係が深まるに従い教育活動にも活気がみなぎり、組織としての協力関係も構築され、結果として一人一人の持てる力が最大限に発揮され皆が生き生きとしてきた。学校全体がよい方向に向かって歩み始めたと誰もが感じていた。こういう時は人間の持つエネルギーが高まっているものであるから、どんな困難をも克服できるものである。思い出すのは校内研究会。通常はお仕着せになりやすいが、その時は皆が意欲的、自主的に取り組み、互いに達成を心から喜び合った。

 このような教職員の姿は子供達には勿もちろん論、保護者や地域の人々にまで反映されていった。学校には毎日多くの保護者や地域の人々が出入りし、学年会議には決まって保護者の飛び入りがあったほどだ。今で言う開かれた学校である。「校長が変われば学校が変わる」ということを実感した時でもあった。

 その時期、二十代の若手として学校に活力を与えたのが今回の訪問者達である。O校長退職後、三十年以上も続いている「O校長の会」がある。現在も当時のPTA役員、教職員が三十名ほど集まる。O校長の十三回忌を機に今年の会をファイナルとしたが、若手七名が継続することを決めたという。人間性豊かなリーダーとはO校長のような人を言うのである。

 人は忘れられた時が本当の死であるともいわれるが、優れたリーダーは人間性豊かな人々の心の中に永遠に生き続けるものである。


(2009年12月5日)

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利他行動こそ人間性 最近目立つ「自利」行動

 見返りがなくても他者の要求に応じて手助けをするチンパンジーの行動特性が、霊長類研究所と野生動物研究センターの共同チームの研究で明らかにされた(米国科学雑誌「プロスワン」オンラインで公開)。この研究で注目されるのは、『利他(思いやり、優しさ)行動』は人間性そのものであると考えられていたが、その進化的起源がチンパンジーの行動様式として確認されたことと、この利他行動が母子間ではその他の六〇㌫を大きく上回り九〇㌫の高率で行われたということである。研究チームは「ヒトに最も近縁なチンパンジーで利他行動の生起メカニズムを実証的に調べた点で先駆的である。ヒトがどのように協力的な社会を築き上げてきたかについて新たな可能性を提示した」としている。

 ヒトは他人が困っているのを見ると頼まれなくても自発的に助けることがあるというところまで進化をさせてきてはいるが、最近の世の中ではどうだろうか。頼まれても自分に利益の無いことは進んではしない、自己利益になることを優先して行うという『自利行動』が目立ってきてはいないだろうか。

 企業人の中で筆者が尊敬する一人、稲盛和夫氏は著書『新しい哲学を語る』で、人には利他を説けても自分は利他を貫けない日本の経営者が多い、古い政治家は自己犠牲を伴ういわゆる〝井戸塀〟の精神で政治を行ってきたが今の政治家はどうか、元副総理だった後藤田正晴氏に聞いたところ、自分と同世代の政治家まではその精神があったが、今では「みんな自利自利ばかりですよ」との返事が返ってきた―と書いている。真のリーダーは『利他の精神』がなければならないとも。

 同じ本の中で哲学者の梅原猛氏は「道徳の基本は、親心にあると私は考えています。特に母が子供を育てる気持ちです。つまりは利他の心で、これはすべての動物のなかに、すでにあるものです。この利他の心を育てることが重要なのです」と『私心のない母心』を説いている。そして「人間は特に欲望の強い動物ですから、利他という点では他の動物より、かえって劣っているところがあります。その欲望を抑えて、ちゃんと利他の心が発揮できる道徳をつくりたいのです」と付け加える。

 稲盛氏は「人生の目的は人間性を高めることであり生涯を通じて常に人間性を高める努力をしていかなければ、人間は堕落してしまう。義務教育の段階で子供たちにこのことを教え、生涯を通じて人間性を高めることに関心を持つようにしなければならない」という。

 人間性を高め続けることを怠れば、ヒトはチンパンジーに見下されないとも限らない。


(2009年12月19日)

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center@ichiyomi.co.jp 市川よみうり