市川よみうり連載企画
教育の理想と現実 元市川市教育長・最首 輝夫
ようやく改革一歩
教育委員会制度の抜本的な改革をめざすとした政府方針が、遅まきながら示された。世界でも珍しいといわれる全自治体への「教育委員会設置義務」(地方自治法一八〇条の五)に風穴を開けるため、構造改革特区を使い「教育委員会の設置任意化」を実験的に実現しようという試みである。政府の、いわゆる骨太の方針では「教育委員会制度については、十分機能を果たしていない等の指摘を踏まえ、教育の政治的中立性の担保に留意しつつ、当面、市町村教育委員会の権限(例えば学校施設の整備・管理権限、文化・スポーツに関する事務の権限など)を首長へ移譲する特区の実験的な取り組みを進めると共に、教育行政の仕組み、教育委員会制度について、抜本的な改革を行うこととし、早急に結論を得る」とされた。
トフラーの言う「革命的な教育制度の確立」には程遠いものがあるが、一歩を踏み出した意義は大きい。トフラーは付け加える、日本のあらゆる制度改革、その最大の障壁となるのが官僚制度だと。教育も御多分に漏れず官僚制度に組み込まれている為、抜本的な改革は殆ど進んでいない。むしろ一時期より後退しているとも言える。中央教育審議会答申「二十一世紀を展望したわが国の教育の在り方について」(一九九六―一九九七)に続いて「今後の地方行政の在り方」(一九九八)が発表された頃は、日本の教育が変わるという希望と期待を持ったがそれも束の間、文科省の「確かな学力の向上のためのアピール―学びのすすめ」発表で一気に暗転した。
国依存の教委は何も考えずに従ったため、子供・保護者と教員は混乱した。しかも新しい教育課程の完全実施の年、実施と検証はこれからという時期に、である。これが無責任体質の官僚制度の現実で、責任を取らされるのは学校(教員)となる。そのような中においても分権改革(二〇〇〇)による国の様々な基準の大綱化、弾力化が自治体の主体的で多様な取り組みを可能にし、全国各地に新時代の改革の胎動が感じられる。
先に紹介した志木市・京都市・犬山市などがその例である。いずれも教育の本質を理解し、教育重視の政策理念とビジョンをもつ首長のリーダーシップと、教育長との連携が根底にある。首長は地域の教育に責任を持ち教育長、教育委員人事及び改革に伴う教育予算増額への全面的な支援などを積極的に行うが、施策の立案・実施など具体的な取り組みには介入せず教委の独立性、自立性を尊重している。今回の政府方針が官僚主導から地方自治体の責任において行われる教育政策への転換を加速することになればよいのだが。
(2006年9月1日)
失われた礼儀・作法
二学期が始まると、元気に登校する子供たちの姿がテレビなどで毎年報道される。しかし、皆、元気とは限らない。教員時代、夏休み明けは何時も期待と不安の中で子供たちを迎えていた。確かに明るく元気に登校する子供たちが多いが、どうしたのかなと気にかかる子供も必ずいた。子供の成長にとって夏休みは極めて重要な時間で、空間であることは論を待つまでも無い。それだけにどう過ごしてきたかが重要であり、それが登校してくる子供たちの姿に反映されてくるものである。
親しい友人と久しぶりに会い、子供の教育について話し合った。彼は今、孫の成長に強い関心を寄せ、積極的に爺として関わっているという。昔から優れた直観力と豊かな感性を持ち、彼独特の哲学が質の高い教育論にしている。話題は「エントロピー増大の法則と生命や生命活動」、近頃、若い女性に日常生活の中で「片付けられない症候群」が急増している。子供たちはといえば部活後の片付けが苦手で乱雑状態になる。また生徒の礼儀作法は皆無ともいう。
学校だけではない。電車の中、公園や広場、街中にそれらの低落は見られる。基本は小さい時の環境、両親の躾、特に父親が家庭に現存し三度の食事時にきちっと躾がなされたかどうかが決め手になる。食欲と性欲は動物の本能。食べるだけでは一般の動物と変わらない。作法があり規律があるのが人間の生活である。箸の上げ下げ、茶碗の持ち方、音を立てないで食べるなどの教えがあるかどうか。同時にお百姓さんに感謝して食べる謙虚さなど、食事時に学ぶ教材があふれている。ここに父親の出番がある。
今、若者はフードショップを利用する。箸や茶碗を使わずお腹を満たす。通常の飲み物はペットボトル。コップに移さず口をつけてのむ。これでは誰かが無くなった時に分けて飲むことはできない。これは我儘という意識の芽生えになり慈しみの欠如にも繋がっていく。原因は子供時における食事環境にある。例えば食事時の父親不在や、孤食の影響が強く出る。その他に子供の好きなものを準備するか買い与え、後片付けは親がする。親子で一緒につくり、食べ、片付けをするという経験をしないで大人になることも多くなっている。
子供の食事から家庭、特に父親の人生観が見えるものである。食事は人としての品格を育てるというがこれでは何も育たない。最近、食事は子供の脳の発達に大きな影響があるとも言われている。医学博士の帯津良一氏は「エントロピー増大の法則に逆らって存在しているのが私たちの生命である」という。子供たちの夏休みは家族揃っての食事ができたのだろうか。
(2006年9月15日)
問われる父親の在り方
少年が親を殺すという衝撃的な事件が続いている。『警察庁犯罪統計書』によれば未成年の尊属殺検挙人数が一九六九年の二十人をピ―クに、一九九五年までは一桁台だったものがここに来て急増している。最近ではマス・メデアに「親殺し」の言葉が目立つ。いろいろと言われてはいるが、親の育て方に原因があることを疑う余地は無い。「親が親殺しを生む」というような過激な見出しさえある。
最近、父親が原因で母親と兄弟が殺されるという事件が起きたことで、父親の在り方、役割が改めて問われ始めた。父親像は大きく変わった。戦前の父親は一家の長として絶対的な権力と責任を持つ「家父長型」であったが、社会の変化に伴い家族形態が崩れ、戦後は「父親不在型」になったといわれる。現代の父親像を「お任せ型」とか「友達型」と表現するようだが、これらは家族に責任を持つ父親としての機能を失っていることを意味する。
一方で、子供の受験やスポーツなどに熱し過ぎる父親が増えているという。東大病の父を持った川又直さん(『はぐれ雲』を主宰)は「心は育っているのかと心配になる」と警鐘を鳴らす。父親の間違った子供への関わりは危険を伴うこともある。子供と一緒に過ごす時間が多ければよいというものでもない。父親との接触時間と子供の人間的成長が正比例するものではないことは、仕事で長期間父親が留守をするとか単身赴任の家庭であっても子供が立派に育つことからも証明される。
望まれる父親像とはどういうものなのか。それは昔も今も変わらず「父性」の有る父親であろう。今回は『父親の起源』と題する興味深い論文(京都大学院・山極寿一教授)の一部を紹介したい。
「父親は不思議な存在である。母親は哺乳類の出現とともに誕生したが、サルの社会にも父親はいない」。人間特有のもののようだがその原型はゴリラの父性行動にあるという。ボスゴリラは「乳児には殆ど関心を示さず、世話をすることも無い」が離乳期を境に乳児は母親から離れボスに依存していく。ボスは母親を失った孤児に対しても優しく保護し、平等に扱うことで子供たちに「対等な社会交渉を学ばせる役割を果たしている」。
人間社会で言う社会化を促しているのである。「初期人類が持っていた父性とは、母親の育児の負担を減らす行動ではなく、子供たちを長期的に保護し、離乳期にある子供を母親の影響から引き離し、他の子供と対等な付き合いをさせ、社会化することだったのではないだろうか」という。ボスゴリラの行動が父親の在り方を示唆しているように思う。
(2006年10月6日)
子供が学ぶべき場所は
ロ−レンツは著書「人間性の解体」(1985年思索社刊行)の中で、現代が人類滅亡の危機にあるとし次のように述べている。「目下、人類の未来への展望はひどく暗い。人類が核兵器によってすばやく、しかもはなはだしい苦痛をもって自殺を犯す公算は、すこぶる大である。そういうことが起こらないとしても、人類が住んで恩恵を受け生活しているその環境の汚染やその他の破壊行為によるゆっくりとした死が、人類を脅かしている。たとえ人類がそういう盲目的で信じがたいほど愚かな行為に、時機を得たストップをかけたとしても、人間性を形成しているいろいろな特性や機能の全てが、しだいに崩壊しようとしている」。この崩壊を「人間性の解体」といいそれによって現れるものを社会的精神病と名付けている。
部族紛争、民族対立、宗教戦争そしてテロ、日本で社会問題化している、いじめや不登校、学級崩壊、家庭内・校内暴力、更には引きこもり、幼児虐待、肉親や友人間の殺人などもこの病気の症候群といえる。人間性解体を進行させている原因は「仲間を凌いで高い地位を得ようとする衝動や金銭を獲得しようとかいういわゆる競争に勝とうというような、病的なものと化した衝動が一つの悪循環を作り上げている」からだという。
このような人間の精神変化のなかでは愛国心などという「人類史のつい最近までは美徳であった様々の遺伝的にプログラムされた行動規範がこのような事情のもとでは破滅をもたらしている」という。いずれも都市化による人口の増加と「生の自然」との断絶が引き起こしているものであるがその自然もまた環境破壊、地球温暖化などの進行で生きとし生けるものが存亡の危機に陥っている。ローレンツはこのような状況から人類を救うには「できる限り幼い時期に、生きた自然とできるだけ親密に接触する機会を与えることである」と断言する。新首相は「近年、子供のモラルや学ぶ意欲が低下している。そこで豊かな人間性と創造性を備えた規律ある人間の育成に向け教育再生に取り組む」というが「教育基本法の改正」と「公教育再生」でそれができるのだろうか。
子供は大人社会を映す鏡、大人社会を学んでいるものである。その社会の一部でしかない学校、しかも公教育の再生だけで子供のモラルや学習意欲が高まるとは思えない。規範意識を高めるというからには子供の手本となる社会が必要である。豊かな人間性、創造性を備え規律ある人間の育成をめざすならば人間性の解体した社会よりは子供時代を「生きた自然」に浸らせ自然の摂理から学ばせる方がよいのではないか。自然には「父性」もある。
(2006年10月20日)
急ぎ過ぎの教育環境
最近つくづく思う。子供がこの世に生を受け、時間をかけて人間形成をするには、成長・教育の環境が余りにも悪すぎるのではないかと。何かとスピードと結果が求められ、他と比較され競争を強いられる。個性尊重といいながら評価は画一的にされ、自主性の発達に必要な「いたずら」「反抗」が許されない。人間形成に不可欠な子供世界と集団外遊びが奪われる。全てが大人の論理や価値観を押し付けられ、管理され、与えられたレールの上を直走るように仕向けられる。これでは子供に主体性や自立心は育たず、人間形成はできない。
この人間的未熟性が原因となって各種の問題行動が現れる。一例を挙げれば、「キレる」という心の状態は三歳前後の幼児に現れるもので、自己中心的な思考行動も幼児段階における特徴的な「幼児的性格」といわれる。いずれも、人間的成長の初期過程において見られるものであって、思春期、あるいは成人後も顕著に現れるということはどう考えても、人間性が育てられていないとしかいいようが無い。
教育(広義の)が幼形状態で生まれた「ヒト」を、時間をかけて「人間」にしていくものであるとするならば、現代においてはその機能を果たしているとはいえない。言いかえるなら、教育がその機能を果たせる環境に無いということである。ところが教育という言葉だけは一人歩きをし、子供の問題行動とか事件が起こると必ず、その背景に教育問題があるとして取り上げられるが、その殆どが、学校・教員の問題に摩り替えられ、教育環境を抜本的に変えるところまでは至らない〈子供の教育=学校=学力〉の考えから、未だに抜け出せないでいる。
一方、行政はといえば場当たり的対処で、直接責任を逃れるというシステム。これでは本来の教育はできない。近年、次々と起こってきた数々の子供の問題が、未だに解消されないでいることがそれを裏付けている。文部科学省はそれぞれの問題が社会問題化した時点で緊急アピールや通知・通達を行い、現場の対応を求める。あるいは対処療法的政策を決め、従属的な教育委員会はそれを現場に伝える、現場は黙ってそれに従い、問題が起これば校長が謝る。この構図は一向に変わっていない。
いずれもが責任を取らないシステムの中で子供だけが喘いでいる。この繰り返しでは問題解決できないのは当然であり、これからも新しい問題が生まれてきてもおかしくない。子供とは、教育とは、成長とは、そしてヒトはどのようにして人間形成をしていくかなどの原点からみた教育環境、その見直しと根本的な改善が求められる。
(2006年11月3日)
自らマイナスへの道に走る
いじめによる自殺、高校の未履修問題とその責任を取っての校長自殺、教員の管理職選考受験断念を怒った校長によるパワハラ自殺と、教育の現場を揺るがす出来事が立て続けに起きている。対応をめぐり二転三転する校長の発言、事実とは異なるいじめゼロ報告、子供の遺書を遺書と認めない、写しを紛失する、未履修を黙認するなどの教育委員会、数合わせによる政治決着に持ち込んだ文科省など、いずれも責任の所在の曖昧さを露呈したものとなった。
長年続いてきた教育制度の欠陥が今回、一気に噴出し白日の下にさらされたといえる。全国的な広がりを見せている高校の未履修、一部中学校でも受験対策のため操作をしているという。受験の実情と学習指導要領との間に生じているずれに原因があるようだ。高校教育としての質を高めるのか(学校教育法四十一、四十二条)、それとも受験校として高校を位置づけるのかが問われている。
それにつけても未履修を知りながら長いこと放置しておき、生徒の受験期を前にして突然卒業が危ぶまれ未履修分は補習で補うなどと、それで無くても不安な受験生の心理に追い討ちをかける大人たちの無神経さを、子供たちはどう見ているのだろうか。単に校長や教員を非難し、その責任を追及するだけで済むのだろうか。
最も責任を感じなければならない教育委員会は子供の不安、現場の混乱を避けるため直ちに行動を起こすべきはずが保身に走り、右往左往する姿は余りにも情けない。政府は今回の騒動で教育委員会が明確な解決策を打ち出せなかったことを受け形骸化を指摘、教育委員会の監督機能を強化する方向で制度改正の検討に入ったと伝えられる。
しかし、管理強化を軸とする改正ならば、これまで以上に教育現場にはマイナスの影響が出てくる。「管理は教育の自殺行為である」といわれるように子供を含めて学校現場は今以上に萎縮することは間違いない。それよりも校長に実質的な経営権、教育内容・授業時間・予算・人事など殆どの権限を与えると共に、その責任を明確にすることの方が子供たちにより良い教育を提供することになる。学校間格差を心配する向きもあるが、誰でも校長になれる現行制度とは異なり資質が厳しく問われ、責任の重い役職ともなれば人材が淘汰され教育の質を高めることにつながる。今回の一連の出来事はいずれも尊い「命を副えて」(遺書から)社会、とりわけ責任の曖昧な教育制度への抗議であり余りにも悲しく切ない。思いやりや責任感、正義感などのある人間性豊かな人たちが命を捨てることの無い世の中にしなければならない。
(2006年11月17日)
教育委員会とは何
形骸化した教育委員会制度の改革がやっとまな板に載った。本制度は一九五八年、教育の集権化の必要から制定されたもので分権型社会を迎えた今、時代に合わなくなっている。これまでにも幾度となく批判され、その都度一部手直しはされてきたが、基本的には四十八年間変わっていない。教育委員会が思考停止、無能といわれるようになったのはこの制度に起因する。文部省の下部組織として位置づけられていた当時の意識が、未だに教育関係者に残存しているからである。
実際には地方分権法成立によって、教育委員会は文科省に縛られることの無い独立した教育行政機関となり、地域の教育に責任を持ち、主体的に教育行政を行わなければならない。ところが実態は、文科省依存、文科省の方針・政策待ちの教育委員会が多い。ちょうど親から自立しないでいる子供のようなもので、何かあれば親(文科省)のせいにしていればいいとの甘えがある。自立できない無力な組織が権力的になり、一旦ことが起これば保身に走るというのは世の常、とはいえ教育委員会がこのような存在であるならば、地域教育のリーダーとしては信頼されることは無い。教育の基本は信頼であり、信頼の無いところに教育は成立しないのである。
今回、表面化した学校の隠蔽体質は、このような教育委員会によって作られたものであるが、その自覚が当事者には全く無いようだ。校長の側にも依存・甘えの問題はある。子供の方をみないで教育委員会の方ばかり向いている校長が最近多くなっていると聞く。これでは教職員のやる気やモラルは低下するばかり。子供の教育に直接携わる教職員が思う存分教育活動のできない学校になってしまっては、テストの点数は上げられても子供の人間的成長までを望むことはできない。こうした学校社会の風潮を変えるには教育委員会制度の抜本改革が必要である。
責任の所在が曖昧な合議制をやめ教育長を最高責任者と位置づけた上で教育委員、教育長を市民及び教育関係者など幅広い人々によって選出できるような制度に改める。同時に人事の基本でもある選ぶ側の責任を明確にしておきたい。教育の政治的中立性といいながら政治家である首長が一存で選任できる、しかし責任は取らないで済む矛盾した現行制度では必ずしも信頼される者が選ばれるとは限らない。ただ組織が信頼されるか否かはそのトップ次第であることは疑う余地は無い。校長や教職員が教育委員会を気にすることなく、子供たちの教育に専念できる学校にするためには、教育長の責任の明確化と権限縮小の他に選任制度の改革が重要と考える。
(2006年12月1日)
人間関係の希薄な現代社会
一九九四年十一月二十七日、大河内清輝君がいじめに耐えかね遺書を残して死んだいじめ自殺事件から今年で十二年が経つ。当時、私は教育長二年目、教育行政を預かる身には余りにも衝撃的な出来事であった。翌年一月十七日の阪神淡路大震災に背中を押され、もともと教育の課題としていた地域教育力の回復を何とか実現させたいと思い、小学校に「ゆとろぎ相談員」、中学校に「心理療法士」をその四月から配置した。相談員等のいる部屋は地域の広場的機能を持たせ、誰でも自由に出入りできるようにした。学校の中にある「小さな地域社会」である。
其処でできた異年齢の子供や、地域の大人との人間関係が地域に出て行く。その人間関係の輪が広がることで連帯感のある本来の地域社会を取り戻したい。教育も犯罪防止も福祉も地域社会がカギを握っていると考え、後に起こしたナーチャリングコミュニティ事業への布石でもあった。役所では通常、前年の十二月までには次年度事業及び予算が確定しているが、本事業は市長の英断によりその年度から実施できた。いじめの根底にあるものは人間関係の希薄さであり、その背景には人間性の欠如とそれに伴うコミュニケーション力の未熟さがある。これらを育てるには幼い時期からできるだけ多くの人間との交流や体験が必要である。それも縦・横の関係よりはむしろ斜めの人間関係が多いほど良い。その場は地域でしかない。
今回のいじめ自殺事件の対応が十二年前と同じというのも気になる。いじめについてのアピールや提言は八五年以来二十回にも及び、前回も十二月九日「いじめ対策緊急会議」緊急アピールのあと、翌年三月まで立て続けに通知や提言が出されている。対応が同じならば結果も同じというのは道理であり、このままでは先が危ぶまれる。そもそも教育の現場から最も遠い国会や文科省で対策を議論するのは何故なのか。反省することは人間性にとって本質的な活動だというが、日本の教育制度はその人間性をも失ってしまったようだ。
一方、現場でもある教育委員会・学校はどうだったか。さすがに今回は取り組みの速さが目立つ。堺市のように国のアピ−ルを待たず十一月八日には独自に「緊急アピール」を全保護者等に配布、教委と学校の決意を伝えている。また、学校や地域、ボランテア等の素早い対応も前回よりはるかに多い。十年前、市川の或る中学校で「子どもカンセラー」が成果を挙げ注目された。このように学校や地域・家庭が主体的に子供たちと真正面から向き合うならば必ずや子供たちは変わる。「家庭で躾、学校で教え、地域で育てる」は教育の原理、責任を押し付けあう社会に子供の成長はない。
(2006年12月15日)
大人はコントロールできない
『自然は、子供が大人になる前に子供であることを望んでいる』(ルソー)これは、小説形式で著された『エミール』の一節であり「子供の発見」という近代教育思想の原点とされている。ここでいう「子供」とは大人によって作られた「子供」ではなく自然が望むのは『あるがままの子供』である。
あるがままの子供とはどんな子供だろうか。日本のローレンツといわれる養老猛氏は著書の中で「子供は自然である」との見解を述べている。「自然とはもともと、どうなるか分からないもの」「根本的には正体不明なもの」で無意識な存在だという。子供も意識の産物ではないから「ああすればこうなる」とはいかない。まして将来どうなるかは本人にも分からない予測不能なものである。 このように自然と同様、「あるがままの子供」は大人が脳で考えるようにはいかないものであり、コントロールできるものではないというのである(「逆さメガネ」=PHP新書)。
では、K・ローレンツはどういっているか。「直ちに衝動を満足させようとする性急な要求や個人のあらゆる責任の欠如、他人の感情に対するあらゆる配慮の無さは、小さな子供の特徴であり、彼らには十分許されることである」(文明化した人間の八つの大罪=新思索社)として、これを幼児性と名付けている。
また、ニールも「子供は自己中心的なエネルギ−の塊である」といっている。本来、子供は自己中心的で残虐性を秘めているものである。子供には「子供特有のものの見方、考え方、感じ方」がありそれが日常の言動となって表れる。これが子供の本質であり「あるがままの子供」の姿で「自然」なのである。
ところが子供の本質を分かっていない大人はこれを「未熟さ」とみて、早くその考え方や見方を変えてやろうと余計なおせっかいをする。このような行為の背景には大人の価値観で子供を支配できるとの思い込みがあるように思う。「子供は子供として完成しているのであって大人の模型ではない」(寺山修司)といわれるように子供は子供としての価値があるということを大人は認識しなければならない。現代の子供たちはあるがままの自分を発露できているだろうか、物事をあるがままに見ることができているのだろうか。
昔、子供は無垢なもの(養老氏はこれを子供の本質的価値の一つとしている)とされ大人たちからは叱られることは多々あったが「子供だから」と基本的には殆どのことが許されていた。好奇心にあふれる子供時代は子供特有の感性を駆使して思い切り仲間と遊び戯れ、時には喧嘩や子供らしい悪さもしていた。喧嘩は仲直りで結ぶ心の絆が友情を育て、悪さは秘密という約束の共有が、それぞれ人間信頼をもたらしていた。また、遊びを通して子供主体の「子供の文化」も創造されていた。
このような子供の世界というものは、子供のものであって大人はできるだけ立ち入らず黙って見守り、任せるべきものである。乳幼児には無条件の愛を、幼児期以降外で遊ぶようになったら子供の世界を尊重する。人の一生のほんの短い子供時代を子ども本来の見方・考え方・感じ方で自らが主体となって生きる貴重な時間と場と自由を、我々大人は奪ってはならない。自然の子供はこの時間・空間・自由があれば子供の命といわれる遊びに熱中するはずであり、遊びのなかで人間性を豊かにしていく。ニーチェは「本来の人間には遊びたがる子供が隠れている」といい、フリードリッヒ・シラーは「人間は遊んでいる時だけ本当の人間である」というように、遊びは人間の本質である。故に遊びの種類も本質も知らない子供は人間として大きな欠陥を持つといえる。子供を「あるがまま」に受け入れることから育児も養育も教育も始まるのである。
(2006年12月28日)
豊かな感性失った大人も初めは子供
『おとなは、だれも、はじめは子どもだった。しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない』。「星の王子さま(サン=テグジュペリ)の冒頭にあるあの有名な言葉である。人は子供を持ち親になったときこの言葉の深い意味を知ることになるという。そういう一人、イタリアの世界的心理学者ピエーロ・フェルリッチが著した「子どもという哲学者」(草思社)から子供の本質を探ってみよう。
この本は数年前「読んでみて」と教え子から渡されたものであるが、子育てに限らず大人になって忘れている子供とその世界を知る上で貴重なエッセイである。父親となったピエーロが二人のわが子と触れ合いながら発見する子供の偉大さ、豊かな世界に感動していく様子がユーモアを交えて綴られている。
子供は旺盛な好奇心、活発な想像力、注意力や集中力などが抜群であり感じやすく正直で、独創的で何にでもごく自然に熱中する。思考は分散的で決められた道筋は通らず、好き勝手な方向をとるが、一方で哲学的思考ができるなど柔軟な頭の働きには感嘆する。感じやすいという点では澄んだ素直な心によって、隠したい親の気持ちを敏感に感じ、暴いてしまう。感じるだけではなくその感情を行動に移す。
家族の憂鬱な空気を感じれば、その理由を尋ねる代わりに食欲をなくしたりおねしょをしたりする。全身で夫婦関係を感じ取り、自分のなかでそれを生きる。関係が不安定で暗ければ子供の将来は安定しない。また、何事にも興味を持ち、その持つ意味をも探ろうとする。子供は哲学者で科学者で芸術家でもある。子供にとって反復は大事なことで、反復によって消化し自分のものにしていくのであるから「もっと!」というように何回も同じことを要求する。
また、子供の時間はゆっくりとしているから「早く!」とせかすことは小さな暴力となる。『今』がかけがえの無い全てなのである。子供の生き方は自然な生き方である。周囲を自然なままに見る、偏見を持たず正義感を持ち、どんな相手からも学べる精神を持つ。どんな命も大切にする。皆が勝者で皆が楽しみ、皆が幸せであるように願うのが子供世界。もともと「人と競う」とか「人をだます」とかの概念など無いのである。
大人は子供を不完全な存在とみる傾向があるが、「子ども達は、大人である私達が長い年月の間に落としたり忘れたり無くしたりしてしまった様々な貴重なものをそっくり有り余るほど持っている事に気付いたピエーロは、不完全なのは大人である自分の方だと改めてわが身を振り返る」(訳者あとがき)のである。
(2007年1月19日)
基本を学べる環境が子供の能力を伸ばす
『誕生が人間の頂点である。その日ほど人間が素晴らしいことはない。その後は凋落しかない』(ロシュフォール)―。この言葉は最近の著しい脳科学の発達によっても裏付けられた。零〜一歳のシナプス(神経細胞間の接合部)は成人の一・五倍もあり、誕生直後に歩行行動をするなど赤ちゃんは生きていくうえでのあらゆる能力を持って生まれてくる。どんな環境にも適応できるように多くの能力を備えているのだという。
一歳を過ぎると、赤ちゃんをとりまく環境によって発達に役立つシナプスは残り、不要なものを消していく。そして、必要な脳細胞の組織化は生後二、三年のうちに急速に進められ、脳全体の重さも四歳で成人期の八〇%にもなる。それだけに生後数年間の成長環境がその後の発達を大きく左右する。
このように子供は誕生時が最も能力が高く、一歳頃から全体としては能力が次第に低下していくことが分かってきた。ロシュフォールはこのことを数十年も前に見抜いていたことになる。では、今の日本は子供がもって生まれた多くの能力を伸ばす環境にあるといえるだろうか。答えはNO。身体機能を発達させる環境では、暑さ寒さに適応する調節機能を働きにくくする定温の産室、体力や運動能力の発達に欠かせない自然の野山や原っぱとは異なり段差の無い建物の中や人工的な遊具だけでの遊び、危険予知や危険回避能力などを発達させない安全な生活。
一方、心の発達を支える家庭はどうか。家庭は子供にとって最初の社会であり人格の基本が形成される重要な場である。幼児期は親の無償の愛に包まれることで情緒が発達し、精神的な安定がもたらされ人間性の本質である『思いやり』の情の発達を促す。その思いやりが土台となり自発性と自主性が発達する。子供が自主性を身に付けていく過程で『いたずら』(探索行動)や『反抗』『喧嘩』という現象が起こるが、これらを無理やり抑え『良い子』にしてしまうと自主性は育たずその反動は思春期以降に出る。
用便、清潔感、着脱衣、睡眠、食事マナーなどの『躾』、約束や決まりを守るために自分の欲望を抑える『自己抑制力』や『社会性』、基本的な『善悪の判断力』などいずれも人格形成に影響するこれらの発達環境を奪ってはいないか。コミュニケーションなど精神的諸能力の発達にマイナスとなる少子・核家族化。情操や自主性などが十分発達して初めて必要となる知識だが、知識を先行させ情の発達をおろそかにしてはいないか。どの子も無限の可能性を持って生まれてくるがそれを可能にするかどうかはその子の育つ環境によって決まる。
(2007年2月2日)
あまりにも短絡的な「愛する」より「愛せ」の強制
改正教育基本法に「伝統と文化を尊重し…」という条文が入った。『伝統』とはある民族、社会、集団において長い年月をかけて伝わってきた風習や様式。『文化』とは人間的な営みの所産であり、学問、信仰、芸術、道徳、法律、制度、習慣など人間が社会によって獲得した能力や習性の複合体だという。これを、誰がどう教育するのか。 「日本人は文化に対する自覚が乏しく、且つ、外からの力を容易に受け入れる国民性を備えている。従って、伝統を踏まえて新しい文化を育てる素地の養成は教育に頼らなければならない」(山口昌男『文化人類学への招待』岩波新書)と言われるように、我が国では学校教育がその一翼を担わなければならないようだ。
だからといって「それらをはぐくんできたわが国と郷土を愛すると共に他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」など全てを、学校教育への丸投げでいいのだろうか。そもそも『愛する』という心情は愛せる対象があってはじめて湧いてくるもの、法律で『愛せ』と押し付けられるものではないと思うのだが。
更に驚くのは文科省の説明では「態度」は「評価」できるというが、人の心を態度で正しく評価できる大人がどれほどいるというのだろうか。ましてや評定などできるものではない。それに、知識として学校で教えれば愛する心が育ち、等しく態度に表れると考えるのは余りにも短絡的過ぎる。もともと子供は家庭の伝統や文化を生活体験から学び、その学習範囲を徐々に地域に広げながら社会化していくものであるが、学びの場となる家や地域の伝統・文化が受け継がれてきているだろうか。また、これらの多くは親ではなく祖父母世代から受け継がれるものであるから、核家族での伝承は難しいのである。
まだ地方には地域の伝統行事への参加や郷土を題材にした総合的学習があり、それに大家族も残るのでかろうじて子供たちに受け継がれているが都会ではどうだろうか。アイルランドでは伝統や文化を昔話で伝承しているという。一家揃っての食事時、祖父母が語り伝え、地域には民話を教える場があり、子供も大人も其処で学ぶことができる。このように伝統や文化は学校より家庭や地域・社会が受け継ぎ、子供たちに伝承していくものであるが、日本ではそのことが全く考えられていない。子供というものは社会の現実とかけ離れたものを受け入れることは無いし、必然性の無いものは決して納得しないものである。法律で『愛』や『態度』の強制をすることより、子供たちが自ずと愛着や誇りを持てる郷土や国にすることの方が先ではないか。
(2007年2月16日)
数値価できない人間性・教育の成果主義を危なぶ
教育に経済や市場の原理をとり入れるべきである、いや、とり入れるべきではないとの論議が教育現場から遠いところで盛んに行われている。どちらかといえば前者の方が優勢な状況にあるようだ。学力テスト、偏差値、成績評定、進学率、合格率などは教育の成果を数値で見ようとするものであるが、近頃では教育の現場に市場調査やコスト意識、費用対効果などと経済用語が尤もらしく飛び交っている。現役時、教育の諸施策に数値目標を立て、その達成度を報告せよとの指示が首長部局から出たのにはビックリした。教育を数値化し費用対効果による予算配分をしようというものであった。
去年、東京都足立区では都と区の学力テストの結果を以って学校配分予算を決めるという方針が出された。小中ともAからDまでの四段階にランク付けをして予算を配当するというものである。因みに中学校A五百万円、小学校A四百万円、Dは小中とも二百万円。学力テストの順位を上げるためというのであるから空恐ろしい。これは何も足立区だけではない、教育の結果を短期的にはかろうとする自治体ほど数値信仰が強い。「信じられない!」と叫びたくなるような足立区の例であるが今後、安易に真似る自治体が増えてくるのではないかと危惧する。
ここまであからさまではないものの、教育効果を数値化し、それによって予算を上乗せするという手法で競争を促す自治体もあると聞く。いずれもが経済の競争原理による成果主義を、そのまま教育に導入しようとの風潮と見て取れる。こういう考えをする人たちは本当の教育を数値で表すことができるとでも思っているのだろうか。アチーブメントテストや偏差値という数値万能の受験競争に巻き込まれ、多くの子供たちが追い詰められたという過去の苦い経験を忘れてはならない。当時、反省の骨格を成していたのは「点数だけでその人間の価値は決められない」ということであったはずである。
人間にとって大切な「自らを律しつつ他人と共に協調し、他人を思いやる心や感動する心など豊かな人間性」を数値に表すことはできない。また、近年育っていないとされる自然や命に対する畏怖の念やコミュニケーション能力に至るまで全てを数値化できるだろうか。仮にしたとして、信ずるに耐えられるか。数というものは条件付きで正しいが、真理ではない。最近問題となった未履修教科問題、いじめによる自殺件数や不登校人数、そして粉飾決算や脱税、偽装など数値は操作することで嘘ごまかしにも使える。数値で表せないものを育てるのが教育ではなかったか。
(2007年3月2日)
教育の自由・自主・個性失う
この半年の首相主導による教育改革に危うさを感じる。元来、教育は政治と切り離され自由、自主、個性の三原則が貫かれるものであるが、時折政府による教育改革がある。戦後は教育刷新会議に続いて一九八四年、総理の諮問機関としての「臨時教育審議会」は教育基本法の精神に則り、二十一世紀に向けての基本的な考え方を「個性重視の原則」「生涯学習体系への移行」「国際化、情報化等変化への対応」と四つの答申をまとめた。地方分権、民営化推進を指向する中で教育の画一主義、学校中心主義からの脱却及び、行政が変化に柔軟に対応することを要請するものとなった。
その後、二〇〇〇年の「教育改革国民会議」は「教育を変える十七の提案」を会議報告としてまとめている。いずれも、時代の要請を背景に人間性、個性を重視した教育をめざし、それに相応しい家庭・学校・行政・地域、いわゆる教育環境作りを提言しているが、今回の改革は教育権を持つ国民よりも国家権力を重視した改革であり、首相個人の思惑が強く働いているとしか思えない。阿部首相は「美しい国へ」の中でサッチャー元英国首相の教育改革を褒めちぎっている。それは学力を取り戻すための全国学力テストの実施と公表、国の監査官による学校監査と評価、子供の数に応じた予算配分など競争原理の取り入れ、全国共通カリキュラムの規定、学校理事会制度等である。
サッチャーは、日本の中央集権的教育制度から学んだといわれる。その英国が現在、テスト主義の弊害に悩まされている。在英のジャーナリスト・阿部菜穂子氏は「所得格差、貧富の格差に伴う学校間格差が広がり、家族がテスト上位学校の近所に引っ越すことで土地価格が上昇、結果として生じる地域間格差、それがまた貧富の格差を助長するという悪循環をもたらす。また、点数至上主義は詰め込み教育やテストと無関係な教科が極端に減るなど授業もゆがめる。また、一部の子供をテスト日に欠席させるなどして平均点を下げる要因を排除するなど、成績を上げる作為による不正事件に発展することなどの問題が起こっている。もはや教育の場とはいえなくなった学校現場は教員の意欲減退、早期退職などで深刻な教員不足や校長の欠員(千三百人)状態にある。イングランドの校長会はテストの公表廃止を決議、北アイルランドやウェルズではテスト廃止を決めている」(『世界』十一月号)。
見直し期に入っている英国の教育制度を何故、いま日本に取り入れなくてはならないのか。少子化で少ない子供を落ちこぼさず、排除せず、差別無く大事にする教育制度にしたいものだ。
(2007年3月16日)
曇りはないか新学期・教育再生の未来に不安
真新しい服とかばん姿で目を輝かせて入学してくる子供たちを在校生と共に笑顔で迎える教職員。毎年繰り返される感動的な学校の情景である。今年はどうだろうか。桜が満開か葉桜かは季節要因で仕方ないが、輝くべき皆の表情に曇りは無いか気掛かりである。
このところ子供や現場抜きの矛盾多き教育改革が政治によって強引且(か)つ急進的に進められていく現状において、学校としては方向を定められず、とりわけ教員は不安と混乱の極みにある。この二十年余、国の改革を錦の御旗(みはた)にした答申・提言・報告に学校現場はかく乱され続けてきた。「新しい学力観」「生きる力」「個性重視」「ゆとり教育」などの言葉が飛び交い、「エイズと性教育」から「福祉教育」「奉仕活動」「小学校英語教育」、更(さら)には「開かれた学校」「いじめ・不登校対策」「総合的学習」など際限なく学校教育に強要してきた。しかし、政府が『教育危機』の根拠としているいじめや不登校などの問題は未(いま)だに改善されていない。
ということはこれまでの改革は失敗の連続だったといえるが、その責任を誰も取ろうとしていない。それどころか失敗の原因を全て学校・教員や教育制度に転嫁してきたのである。一方で、保護者が責任を持つべき「しつけ」や「善悪の判断・人を思いやる心・命を大切にする」など人間形成の基礎までを学校が受け持たざるを得ない状況に追い込まれ、教員の頑張りも限界に来ている。
七〇年代後半「どらえもん」漫画に登場するほどの「落ちこぼれ」問題を初め、「努力・まじめ」など価値観の崩壊、「無気力・無関心・無感動・無責任」などの「四無主義」や八〇年前後からの校内暴力、子供の自殺など社会問題を学校問題に摩(す)り替えてきた。いずれも未解決のままであることから考えれば、これまでの教育改革、学校改革が無意味なものであったと結論付けられる。子供は学校から学ぶより親やマスメディアなどを含めて大人の有り様や社会から学ぶことの方が多い。
大人社会には無い規範意識を子供に育てろというが、子供の姿は学校教育の在り方より家庭や社会の在り方に起因するものである。むしろこの二十数年間教員が理不尽な要請をも黙って受け入れ限界まで努力してきたからこそ、悪条件にもかかわらず日本の教育水準の維持ができたと考えるべきで、それを今度は子供も教員も競争させてダメなものは排除だという。これでは日本の教育も社会も益々(ますます)ダメになる。子供と教員が信頼で結ばれ日々感動の学校生活を送ることで豊かな人間形成はできるもの。『教育再生』というのは、こうした本来の学校に再生することではないのか。
(2007年4月6日)
切捨て・排除の教育で格差是認の勝組み社会に
「学力低下は予測しうる不安というか、覚悟しながら教課審をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることばかり注いできた労力を、できるものを限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でもいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。(中略)国際比較をすれば,アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、凄いリーダーも出てくる。日本もそういう先進国型になっていかなければいけません。それが“ゆとり教育”本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから回りくどくいっただけの話だ」(文芸春秋二〇〇〇年七月)当時、教育課程審議会長だった三浦朱門氏が斎藤貴男氏の取材に対して答えたものである。
また、江崎玲於奈氏は「ある種の能力の備わっていない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子供の遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ」(同書)と発言し、どちらも物議をかもすまでには至らなかったが、今になって考えれば国の教育方針の転換点だったといえ、その方針は前述二氏の発言に凝縮されていたのである。
戦後、日本の教育は、まず欧米諸国に追いつけ追い越せの掛け声の下、義務教育の充実を図ろうと国民に教育を受けさせる義務を課し、画一的・一斉指導による底上げ教育に全力を傾注した。理念は平等・機会均等(経済的地位等によって差別されない―教基法第三条)の教育であった。その後、急速な経済成長と共に高学歴志向による受験競争が激化し「落ちこぼし・落ちこぼれ」現象が顕著になり、「切り捨て教育」という言葉が生まれた。そして今、国の進める教育はダメなものはダメという「排除の教育」の様相がはっきりと見えてきた。
この背景にあるのが一九八〇年代に登場したF・ハイエクの新自由主義論(一九八六)で、これまでの国家による富の再配分を主張する自由主義とは対立するもので小さな政府、民営化と大幅な規制緩和、市場原理主義の重視などを特徴とする経済思想であり、サッチャリズムがその代表で当然のことながら競争による格差是認の勝ち組(強者)社会をめざすもの。
この思想をそのまま教育に持ち込んできたのが現在政府の進める教育改革であり、国が目指す教育の本音の部分を露呈したのが両氏の言葉である。このような状況の中で地域の教育に責任を持つ教育委員会がどう舵をきるのか、リーダーの力量が問われる。
(2007年4月20日)
重要施策・教育再生も
今年、初節句を迎えた前の家の空が、急に賑(にぎ)やかになった。勢いよく泳ぐ鯉(こい)のぼり。「いらかの波と雲の波…」と子供たちの歌う声が聞こえてくるようだ。滝を上るコイのように、男の子が健やかに成長することを願って家族があげる鯉のぼりである。この子が大人になり、世界で活躍する二十数年後はどんな社会になっているのだろうか。
子供を大事に育てようとする、大人たちの温かい思いが込められていた桃・端午(たんご)の節句。視点を現実に移すと、子供たちはどれほど大事にされているのだろうかと考えこんでしまう。本稿のテーマである『教育の理想と現実』の乖離(かいり)がこのところ急速に進み、子供の育つ環境や学ぶ環境が年々悪化していることが気がかりである。結果として起こる子供虐待は後を絶たず、いじめ・不登校など多くの問題は一向に収まらない。
物事の結果には必ず原因があるというが、子供の問題の原因はすべて家庭や学校にあるとして、国はその対策で擦(す)り抜けてきた。ところがなぜか安倍内閣は『教育改革』を最優先の重点政策にすえて『教育再生会議』を発足させた。『揺れる文科省型教育』、『工場生産型教育』と揶揄(やゆ)されてきた日本の教育の二十一世紀ビジョンを示すべき本質的な議論、答申を期待したが、報告は委員の狭い成功体験の寄せ集めと、首相の意向を無理やりすり合わせた最悪なものとなった。
しかも、その後に三十二日間という異例の早さで審議を強要され「強引にまとめた答申はガラス細工のように壊れ易い」(全国知事会代表委員)という中教審答申。委員を務める教育行政学の権威である小川正人・東京大学教授も「政治の要請で窮屈な日程を決められては冷静な議論はできない。中教審は専門性を必ずしも発揮できなかったと否定的に総括した」と日経新聞にあった。これが安倍総理の言う「最重要課題・教育改革」の姿で、教育に政治が関与するとこうなるという見本のようなものである。
教育の本質に関する議論が殆(ほとん)ど無いまま、政府の決めたシナリオ、日程に従って進められ、法案を通すための隠れ蓑にされたに過ぎない。その過程は当然のことながら決める側、教える側の論理ばかりで、教育を受ける側、子供の姿は無い。これでは子供が大事にされているとはとても思えない。教育の成果が現れるのは少なくても十年以上先のこと、その頃のよりグローバルな社会で活躍するに必要な力をつけていくのが子供の教育である。大国の経済は脱競争に振れ始め、韓国では詰め込み教育の反省から『人間教育』重視の学校が増えているという。日本の将来が心配になる。
(2007年5月4日)
43年ぶりの全国学力テスト
四月、全国学力テストが四十三年ぶりに実施された。出題は国際学力調査の傾向を意識した問題になっている。小・中学生共にA問題(知識編)B問題(活用編)の二部構成から成り、B問題では考えを書くとか情報を取り出して考えるなど、表現力や思考力を見る問題が多い。また、記述問題が小学校で一六%、中学校で一一%を占めるというのはこれまでに無い特徴といえる。
実施の背景には二〇〇四年末に相次いで公表されたIEA、OECDによる国際学力比較調査の結果がある。なかでもOECDによるPISA二〇〇三で日本は科学で二位だったが数学は前回一位から六位へ下がり、読解力に至っては八位から十四位に急落したことから国は学力重視への転換を余儀なくされたといわれる。ともあれ学力テストの結果をどう生かすかがこれからの問題で、その活用をめぐっての議論と地元教育委員会や学校の対応に期待したい。
文科省がト実施当日に公表した文書によると、調査の目的は「O全国的な義務教育の機会均等と水準向上のため、児童生徒の学力や学習状況を把握・分析し、その結果を検証し、改善を図るO各教育委員会、学校等が全国的な状況との関係において自らの教育の結果を把握し、改善を図る」としている。テスト結果(点数)に一喜一憂するのではなく、同時に行われた学習実態の背景調査の分析との関連において指導法の検証・改善に効果的、具体的に反映することが重要である。
この春、ある出版社から発売された『学力調査テスト予想問題集』が異例の売れ行きをみせ、まとめ買いをする教育委員会もあったと聞く。また一部の学校では手作りの予想問題を解かせるなど明らかに行き過ぎた対応があった。このまま放置すれば旧文部省が実施した全国学力調査廃止の原因である地域・学校の競争激化などの弊害再発となりかねない。保護者にとっても重大関心事となることは必至。いずれにしても点数至上主義になることだけは避けたい。
テスト結果を子供の教育のためにどう活用していくかは国の指示を待つのではなく、教育委員会・学校、そのリーダーの主体的な判断が必要且つ重要となる。文科省が市町村・学校・個人別データーの公表を市町村の判断に委ねていることからも、本来はテスト実施前に決定されていて然るべきもの、早いうちにそれぞれが確りと説明責任を果たす必要があろう。ただ少なくとも、予算や人事と結びつけた安易で短絡的な改善策では、例えテストの点数や順位が上がったとしても教育にはならない。教育委員会・学校の力量が試されている。
(2007年5月18日)
フィンランドの教育に学ぶ
「イギリスの教育でなければ何処の国の教育がいいのか」。読者からこんな声が届いた。一概には言えないが教育の本質、グローバル時代の教育という観点からは、フィンランドの教育を挙げることができる。昨年暮、参議員法務委員長Y議員と「これからの教育を含めて教育制度をどうしていったらいいか」というテーマで意見交換をした。古山明男氏からの情報と国際基督教大学教授・藤田英典氏の著書「義務教育を問いなおす」(ちくま新書)及び、あるテレビ番組の特集などからその概要を紹介する。
フィンランドはOECDの国際学力調査PISA2000で読解力がダントツの一位。更にPISA2003で読解力・科学が一位、数学二位、問題解決能力三位と、軒並み上位にランクされて日本の政治家・政策担当者や研究者の視察・調査が盛んになったといわれる。教育の機会均等重視のシステムは日本と同じであるが、権限の国集約型の日本に対して学校分権、校長集約型である。義務教育は九年間。カリキュラム編成権は地方自治体にあるが、九四年の改革で各学校の編成権が大幅に拡大し、教師の自律性・専門性が一層重視・尊重されるようになった。
教師の社会的な信頼も厚い。教育に競争を持ち込まない、落ちこぼれを出さないを目標に、教師は中低位の子供に手厚く遅れた子には補習授業を担任、または選任教師がする。学習形態はグループ・少人数・個別学習などのウエートが高く、子供の自主性や共同性が重視され、子供の福祉への配慮・支援も含めて、きめ細かな指導とケアが徹底している。学級人数は二十五人程度、習熟度別学級編成は無い。学校の授業時数は調査国では最低で、塾というものも無い。教科書検定制度も査察制度も無く学校評価は自己評価である。
中島博氏によればPISA調査での好成績についてフィンランド教育省は、選別・差別の無い「総合性教育の勝利」であるとし、その特徴として教育の機会均等、構成主義的学習理論とそれに基づく相関的・共同的な学習、学習に対する個別的支援と子供の福祉面のケア、柔軟な支援行政と地方・現場の自主性の尊重などを挙げている。古山氏は学力が高いのはフィンランド独特の学校文化・学校共同体があるからだと言い、藤田氏は「フィンランドでは義務教育段階の総合性教育と高校段階以上の教育の在り方や経済社会との間に整合性・連続性がある」という。国として確たる教育の理念及びビジョンを示し、現場の自主性を最大限重んじる教育の成果が表れたのであり、場当たり個別問題対処の日本の教育改革とは全く異なる。
(2007年6月1日)
オランダの個別教育
今回は、平凡社から恵贈されたリヒテルズ直子著『オランダの個別教育はなぜ成功したか』の内容と、友人から見聞したことを合わせて、オランダの教育事情を書いてみる。オランダ教育は教育の理想を追求するものであり、何よりも子供の発達を信頼し、その発達・成長を支えることを基本理念としている。『個別教育』を柱に共同学習・自立学習・個別指導がそれを支える。子供の能力や発達のテンポは一人一人異なり、適性、性格、コミュニケーション力、表現力、得意・苦手分野なども絡み、年齢による学級編成では人間として調和のとれた発達を保障することは不可能に近い。
戦後オランダは小中学生の留年(日本でいう落ちこぼれ)に悩んでいた。哲学者ペーター・ペーターセンが著書『小さなイエナプラン』で学年クラスによる画一・一斉指導が多くの留年を生んでいると指摘、そこで学校は学年制を撤廃、異年齢混合グループとした。異なる面を持つ子供たちを同一グループに入れることで子供同士が学びあい、教え合い、理解しあう機会を提供する。この中で社会性やコミュニケーション力も身につく、これが「共同学習」である。
個人差にあった多様な教材を多く用意して、自分で学習が進められるようにし、能力・進度に応じて自主学習をする(自立学習)。知識や技能という側面からだけで見るのではなく、社会情緒や運動能力などの発達も考慮に入れながら、一人一人に合わせた支援・励ましをする(個別指導)。入試というものが無く、私塾も無いが学力は高い。多様な学校があり、自由に選択ができる。
文科省の公式ページには『教育は、若い人々が非常に厳しい変化の只中にある社会の中に一つの道を探し出すことを助けるものである。その目標は、若い人々がこの社会の中に意味ある場を得ると共に、それに対する準備、即ちそれによって社会の発展のために共に働くことができるような準備を整えることである。若い人々は、批判的なものの見方をし、自分の頭で考え相互交渉のできる成人として形成されなければならない。以下略』とある。また、ペーターセンは『罰や怖れ,強制によって生み出される「良い行動」というものは、一人の人間である子供の個人的な生にとっては何の意味も無いことであり、社会にとっても意味の無いことである』と。
日本にはこのような考えが無い。これまで紹介した国はいずれも「教育の自由」が確立されていて、教育論に基づく改革案を長期にわたり専門家や教員などが参加して国民的議論を行い、その実施に向けた予算を惜しまず、教員サポート体制づくりなど万全である。
(2007年6月15日)
最重要な教育の場は家庭
六月十五日、教育改革関連三法案審議の為の参議院文教科学委員会公聴会に公述人として出席したので、その模様をシリーズで報告したい。公述人は五人、公述時間は一人十五分。質疑は四人の委員で八十分、開会午後一時、閉会は三時四十三分。公述順に、弁護士で帝京大学法学部教授・佐々木知子氏の公述内容を紹介する。教育三法に賛成の立場でと断り、次のような意見を述べた。
人をつくるのは教育であり、社会も国家も人によって成り立っている。自分は職業柄、非行少年や犯罪少年を通して教育について向き合うことになったが、考えさせられたのは「この親にしてこの子あり」ということで、子供は例外なく身近な大人をモデル(親)にし「親の背中を見て育つ」ものである。従って、少年法で子供だけを処罰してもダメ、家庭こそが最重要な教育の場である。今般、教育基本法で家庭を取り上げたのは喜ばしいことである。かつての大家族が衰退し、祖父母、おじ・おばなどが存在しなくなった現在、それだけに学校や地域の存在が大きな比重を持たざるを得なくなった。
学校教育は初等中等教育で、後の高等教育を実りあるものにするため、基礎教育をきちんとやってもらいたい。なかでも読み書きそろばん。特に国語力は頭と心を形成する人間の基本をつくる。ゆとり教育の理念は誤りとは思わないが、基礎教育もないがしろにして、ただ自由時間を増やせというのは断じて誤りである。人は教えられ、しつけられて初めて一人前になるのであって、基本が身についてこそ応用があり個性がある。昔から「鉄は熱いうちに打て」という。心も体も柔らかいときに良い型を身につけておくことが大事である。中身の詰まった美しい文章がたくさん載った、できる子供には更に知識欲も駆り立てられるいい教科書を使って欲しい。
もう一つ、教育現場の改善についての要望は、意欲のある教師が働き易い環境にして欲しい。教師の仕事は本来、子供に教え、子供に直接向き合うこと。今回の改正によって副校長、主幹教諭等の職を設けることになったので、その的確な運用をして欲しい。人に向き合うにはエネルギーを必要とする。自分自身、心身ともに健康であって初めて他人を思いやれるので、是非、教師にはゆとりを持たせたい。
良い人材を登用するためには待遇を良くすることが必須である。責任だけ重くて心労はかさみ待遇が悪いときては、崇高な使命だけで人は教員になりそれを続けられるものではない。人をつくる教育に国は最もお金を掛けるべき、出し惜しみをするべきではない(会議録、記録映像から)。
(2007年7月6日)
専門組織の判断・行動に官僚的システムは不適当
二人目の公述は、鳴門教育大学学校教育学部教授・佐竹勝利氏で専門は教職論。現職教員との接触を通した体験的教職論ともいうべき視点から、教育改革について意見を述べる。一つは、学校組織の在り方について。学校教育法の一部改正法案に対する意見である。現在の学校は、管理職である校長・教頭と職位に差がない教諭が大多数を占める所謂なべぶた型の組織である。この構造は学校運営上、問題が多いとは思うが、さりとて、教職員間の命令関係を明確にして管理上の円滑さを狙うことには反対する。
自分の知る限り、多くの先生方は管理されずとも組織体として動いている。にもかかわらず、新しい職として副校長、主幹などを設置し、ライン組織にしないと教員が動かないと考えているようだが、そのような学校では管理権を持たせた職を設けても、十分なリーダーシップのない指揮命令となり、それでは効果がなく意思決定はできないだろうし、教師のモラールが低下することも明らかである。そもそも学校は官僚組織ではなく専門組織である。そこには専門的な判断や行動が伴うものであり、先生方をライン組織において管理することは不適当である。
二点目は免許更新制。最近の変化の激しい社会の中で教師はこれまで以上に絶えず研鑽に努め、自らの力量を向上させなければ、起こってくる事態に対応できなることは必然である。幸いにも日本の教師は地道に研鑽に努めてきた長い歴史を持ち、教員相互によって力量を高めてきたという海外からも注目されるほどの校内研修・研究の伝統を持っている。勿論、一部には研修に消極的な教員がいることも否定はできない。だから更新制導入なのだろうが、制度となるとある一定の基準や枠に従って、ある種の強制力を伴って行われる恐れがあり、その効果は疑わしいものとなる。
今回の法案では十年を期限として一定の講習を受け、認定されなければならないとしているが、講習の内容と方法、講習担当者、指導力不足教員排除など多くの問題が指摘されている。更に、たった三十時間程度では高い効果を期待するには無理がある。しかも、認定の判定にはかなり高度の評価力が求められる。
三点目は、子供と保護者を家庭に帰すべきで、その為には保護者が子供と過ごせる時間を十分取れるよう、勤務条件整備や地域社会も良い教育的環境を用意する。更に大人の規範意識を高めなければならない。子供は学校で規範意識を身につけても、家庭や地域に帰れば、それを否定されるような大人の行為や出来事が多々ある。学校や教師にだけ責任を押し付けないで欲しい。
(2007年7月20日)
管理会社で教員は多忙化・息苦しく指示待ちの現実
三番目に公述したのは筆者。教育現場の視点から教育改革について以下のように公述した。今年、現場からの便りで特に多かったのが、保護者対策に苦慮しているというものである。本来、学校は子供の教育を担うところであり、校長は教職員と力を合わせ保護者や地域の人たちの協力を得て、子供の成長発達を支えていくために夫々のもつ教育力を結集していくというのが正しい在り方である。子供以外、保護者の問題等を抱えていて、子供に対する教育が疎かになることを恐れる。
では、教育委員会や文科省は学校の問題にどう対処しているか。役所化した教育委員会は法律に則り指示、助言・指導は行うが、責任を取らせられるのは学校・教員である。責任を取らない教育委員会の最大の関心事は栄進となり、その踏み台と化した。更に首長・首長部局はどうか。教委・学校を全面的に信頼し一切を委ねる首長と、自らの選挙公約や施策にこだわり、思い通りに行かないと不快感を露にするという首長がいることも事実。なぜこのような教育現場の実態が生じてきたか、その背景は何かを考えてみたい。
戦後、教育の中央集権化が進む中で学校はその末端機関と位置づけられ、管理されることになり、教職員は上からの指示・命令に従わざるを得ないという、国支配の状態が長いこと続いてきた。そのため学校や教育委員会は、指示待ち・思考停止の教育機関となり、自由で独創的な教育や施策はしない方が得策という雰囲気によって支配され、常に上を気にするというのが体質となった。また管理社会というのは多忙化もする。
管理される学校も同様に多忙で、教員が子供に接する時間は極度に少なくなっている。このように学校は、本来の教育現場とは程遠く息苦しい、教育の場とは言いかねる状況にある。最近、頓に教育関係者の責任が問われるが、「自由と責任・権利と責任」というように自由には責任が、権利には義務が伴うものである。自由が保障されないのに責任だけが問われるという、理不尽がまかり通る世の中、学校も教員も自由は与えられていないのに、責任だけが問われるという現実がある。
こういう中で教員は萎縮し自信をなくし、学校現場は責任と競争に押しつぶされようとしている。日本社会で教育環境としては、かろうじて崩壊を免れていると思われるのは唯一学校だけであるが、子供の視点に立った教育、学校現場の視点に立った教育システム作りを急がないと、その学校さえも崩壊してしまうのは明らかである。次に改革の在り方について二つの観点から考えて見たい。(以下次回へ)
(2007年8月3日)
管理教育システムを改め基本である信頼の回復を
改革の在り方について分権型社会、教育の本質という観点から考える。今審議中(当時)の地教行法等三法案はいずれも集権・管理のためにできた法律である。従って、本当に日本の教育を再生したいと願うのであればこれらの法律を抜本的に作り直す必要がある。そして、すでに限界に来ている行政主導体制からの脱却をめざし学校に教育の自由と権限を持たせることが不可欠である。
「管理は教育の自殺行為である」という名言がある。「管理教育は生徒・教師双方にとって最も甘い教育だ。上から与えられた枠組みに無批判に従う主体性のない人間を作るに過ぎないからだ。これは到底教育の名に値しない。管理によってまず何よりも想像力と活力を奪い、更には主体性を奪い自分で考え自分で判断する力と自信を根こそぎにする。管理の下では無用だからである。また、自己主張は管理への反逆とみなされるから管理の命ずるままに従うのが一番だと考える。常に周囲に気を配り回りと同質となることで安心しようとする。結果、自分を捨て他力に従って危険なく、損無く、そつ無く、何事も擦り抜けて安易な生き方に堕するのである。管理教育はこんな人間を育てている」(『教育の名言』より)。
教育とは、自由を与え責任を持たせ、主体性や創造性を養うことが何よりも大切である。アルビン・トフラー氏は、「日本のあらゆる制度改革の最大の障壁となっているのが官僚制度だ。教育については、新しい人間を育てるには新しい、しかも革命的な教育制度が必要だが日本はそれには程遠い状況だ」という。謙虚に耳を傾け、日本の遅れを取り戻したい。
教育の現場を預かったものの一人として是非言っておきたいことは、現場、特に学校や殆どの教職員は集権・管理の下で、自由も裁量権もない中、国が定めた指導要領の内容を、与えられた教科書と一律に編成される教育課程に従い、国の言うがまま、しかも必死に努力していることを忘れないでもらいたい。教育の基本は信頼であり信頼なくして教育は成り立たないものであるが、今その信頼が現場には無い。現場が生き生きと、信頼を取り戻すには管理教育システムを変えることが絶対条件、国は教育予算の大幅増額、理念・ビジョンなど大綱だけを決めればよい。競争主義で教育が再生できるとも思わない。現場は知恵を出し合い、責任を持って子供の人間形成を支える。地方行政は教育環境整備に徹する。これが世界に誇れる日本教育への唯一の道ではないのか。改革は共感と理解を得るため国民的な議論と情報の公開が必要であり、現場からの改革で無ければ再生は難しい。
(2007年8月17日)
キーワード「競争と選択」
四人目は、元立教大学教授・藤田昌士氏。道徳教育研究者の一人として学校教育法改正案を中心に、概略次のように述べた。まず、第二十一条に注意を向けたい。これが教育基本法第二条を受け、道徳教育に関する目標を著しく強調していることは言うまでもない。十項目中、少なくとも三項目は道徳教育の目標と見るべきである。
ある論者は現行法に比べて学校教育目標が道徳基準化、或いは徳目基準化したという。特に第一号から三号の要をなすものは、我が国を愛する態度にあるということは明らかである。戦前戦中に君臨した教育勅語の価値体系、ヒエラルキーが、国を愛する態度として組織立てられようとしているのではないか、と考える。一体何を愛国心と言うのか。一九五〇年代以降の政府の道徳教育政策を振り返ってみると、第一に自衛のための自発的精神、現在の防衛白書で言うならば国を守る気概としての愛国心。二番目は期待される人間像を一例として天皇への敬愛の念と不可分なものとする愛国心。三番目は、一九八〇年代の臨教審以降強調されている日本の伝統、文化の理解と尊重、それに基づく日本人の自覚としての愛国心。
このような三つの流れを受けたものとして教基法二条、学校教育法二十一条でいわれる我が国を愛する態度があると考えるのが当然ではないか。その愛国心が子供、国民に強制される危険が一層増大したと言わざるを得ない。人権及び基本的自由の尊重という教育目的との整合性はどうなるのか。また二十一条は各教科、領域の教育活動を不当に拘束することによって教育活動の「道徳教育」化を促進するおそれがあると憂慮する。
次に三法案、とりわけ学校教育法等、教職員免許法等の改正案に感じられることは、学校教育の内容、方法の統制と教員に対する管理統制のセットとも言うべき政策の構造を持っているのではないか。学教法改正案三十七条に見る副校長・主幹教諭等の導入に表れているが、これらは教育という学問的な実践、創造的な実践の世界にはなじまぬことではないか。ILO勧告の「教職者は学問上自由を享受するものとする」という条文を想起し、それに相応しい教師の在り方というものを考えたい。
最後に学校評価と情報提供について。「経済財政運営と構造改革に関する基本方針二〇〇五」で今後の教育改革の方向として「競争と選択」という言葉がうたわれている。言うなれば、教育改革のキーワードと言えるが、もしこの評価と情報提供が競争論理の中に位置づけられた場合は一体どうなるのだろうか、慎重な検討が必要と考える。
(2007年8月31日)
地方分権に逆行する問題多い改正法案を危ぐ
最後は日本弁護士連合会副会長・氏家和男氏。法律家から見た法案の問題点を大きく三つに分けて意見を述べた。第一点は、国家による教育内容統制をもたらすという問題。学校教育法改正案二十一条には義務教育目標規定が設けられ、この目標を達成するように行われるものとするとされている。しかし、この目標規定に掲げられた具体的事項は内容が多義的であり、国や地方公共団体が権力をもって一義的に決定することのできないものが含まれている。これは旭川学力テスト事件の最高裁大法廷判決の基準に照らして鑑みるとき、教育の政治的中立性、不偏不党性、自主性、自律性、公正、適正を害するばかりでなく、子供や保護者の思想、信条の自由を侵害することが危惧されるものである。
とりわけこの法案は、教育課程に法的拘束力を与えるものとして規定され、文科大臣に教育課程の内容を具体的に定める権限を明確に付与されることも相まって、多義的な義務教育目標の内容を国が権力で一義的に決していくことにより、国家の教育内容統制を制度的に可能とするものとなっている。他方で、法四十二条、四十三条に教育水準向上義務と学校の情報提供義務が規定されているが、教育水準は地域や学校の実情に応じて異なり得る。こうした問題は文科大臣が一律に定める問題ではない。
第二点は国、都道府県教育委員会による市区町村教育委員会と私立学校への監督・統制強化の問題。地方教育行政法の改正では、国、都道府県教育委員会による市区町村教委への研修などに関する指導・助言制度が設けられ、また法令違反、懈怠による生徒の教育を受ける権利を侵害した場合の措置内容を示す是正要求と、緊急に生徒の生命、身体保護が必要な場合に従う義務を伴った支持の制度が、文科大臣の権限として新たに設けられている。
これらは実質的に国の地方行政への影響を強化するものであり、教育の地方自治原則に照らし不適切であり、また教育の地方分権化の流れに逆行するものである。これらの改正は未履修問題が是正要求制度の、いじめ自殺問題が指示制度のそれぞれ契機になっているものと考えるが、原因は別にあり国の地方行政への介入強化によって解決される問題ではない。また、地方教育行政組織法の改正案では都道府県知事が私立学校に関する事務を執行するに当たり都道府県教委に助言、援助を求めることができる制度が新設されているが、これは知事が実質的な介入をなしうる権限を付与するものであり、私立学校の独自性、自主性、自律性を制約する懸念がある。(以下次回)
(2007年9月14日)