一般に千葉街道と呼ばれる国道14号線の高石神辺りの鬼越三差路から北へ入る道は、県道市川印西線(県道59号線)で通称・木下(きおろし)街道と呼ばれている。市川印西線とほぼ同じ道筋にあたる江戸時代の木下道は、本行徳河岸から八幡宿・鎌ヶ谷宿・白井宿・大森宿を経て木下に至る重要な道で「鹿島道」「銚子道」「木下道」などと呼ばれていた。もっとも、当時は道の名を呼ぶに当って行き先の名前をつけたので、木下方面から江戸へ向かう人にとっては、この道が「江戸道」「行徳道」であった。
「木下」という地名の由来については、付近の台地の雑木を伐り、この河岸まで下して河船で江戸方面へ運び出したことから、その名がついたとのいわれがあるが、まさに木下は利根川水系の主要な川岸であった。そして、木下と行徳を結ぶ木下街道は、当時利根川水系と江戸川水系とをつなぐ陸路として、貴重な役割を荷っていた。
すなわち、江戸と陸奥・下総を結ぶ最短路である木下街道は、江戸への物資輸送路として盛んに利用され、特に銚子から江戸への鮮魚輸送に役立ったため「鮮魚(なま)」とも俗称された。
夕方、銚子を出発した鮮魚は、翌未明に木下河岸で陸揚げされ、木下から行徳まで馬の背で運ばれた後、再び船で江戸へ送られ、三日目の朝に日本橋の魚市で売られた。
承応三年(1654)、それまで江戸湾に注いでいた利根川が大工事の末、現在のように銚子から太平洋へと流れるように付け替えられた後は、銚子から利根川を遡り関宿をまわって、江戸川に入ることができたはずだが、川の水量の多い夏場は可能だったものの、ほかの時期は水量が少なく浅瀬となるので陸送でつながざるを得なかったのである。
しかし、この木下街道での鮮魚輸送には難点があった。途中の宿での馬の荷を積み替えるため時間がかかり、常に鮮度への影響が懸念されたのである。
そのため、鮮魚街道としては脇道であった松戸経由の輸送路の方が陸送の距離が短く、且つ荷の積み替えをしないで済む所謂「通し馬」であったことから、その優位性ゆえに段々と利用度が増した。木下街道では陸路約九里(約36キロ)、行徳から江戸まで船輸送距離三里なのに対して、一方の松戸みちは船輸送距離こそ約七里と少々長いが、陸送部分は布佐−発作−亀成−浦部−平塚−藤ヶ谷−佐津間−金ヶ作−松戸と約七里で有利であったため、ついに鮮魚輸送路の主力は松戸みちに取って代わられたのである。 (つづく)
(2003年4月4日)
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■∈木下街道を通った人<1>∋■ 案内人・森 亘男
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前回は鮮魚輸送で紙面を大きく使用してしまったが、木下街道は江戸時代から大勢の人が行き交う道であったので、今回は木下街道を通った人々について触れてみることにする。
まず大名の通行では、いずれも一万石程度の小藩である常陸の麻生藩新庄氏、下総の高岡藩井上氏、同じく小見川藩内田氏が、参勤交代で利用している。
また有名人では、俳人の松尾芭蕉(1644−1694)や『東海道膝栗毛』などの作者十返舎一九(1789−1858)、幕末の尊皇攘夷運動家で詩人の梁川星巌(1789−1858)、三河田原藩の家老格で絵画にも優れた渡辺崋山(1793−1841)、農村改革に尽くした大原幽学(1797−1841)などが挙げられる。
大原幽学が天保九年(1838)九月に江戸に向かったときの行程を見ると、十八日木下に宿泊し、十九日に鎌ヶ谷で泊まり、二十日行徳の山田屋で昼食を摂って江戸に入っており、木下−行徳間で一泊している。
十返舎一九は、その作『金草鞋』において、三人連れの旅人が香取・鹿島神宮に参詣する道中を記しているが、本所の扇橋から舟に乗り、行徳で舟をおりてから、八幡・鎌ヶ谷・白井・大森を経て木下に着き、食事をして支度を整えすぐに、鹿島へ行く船を借切にして夜舟で出掛けたとある。この文中から察すると、江戸へ出て木下に着くまで途中で宿泊した気配がないが、当時の人なら江戸を朝早く立って、夕暮れ時に木下に到着することができたのであろう。
江戸も後期に入ると、各地に物見遊山に出掛ける者が増えて来るが、ここに出てくる香取・鹿島詣は、この二社に息栖神社を加えた三社を巡る「三社参詣」としても盛んに行われたもので、江戸から近い風光明媚な「水郷めぐり」と「調子の磯めぐり」は、当時の庶民にとって格好な行楽地として、人気が高かったようである。
安政五年(1858)に刊行された『利根川図誌』には「…いにしえこの地わずかに十軒ばかりなりしが、寛文のころに(1661−1673)旅客の行舟(世に木下茶舟)を設けたるによりて、はなはだ繁栄の地となれり。そは鹿島・香取・息栖の三社に詣し、および銚子浦に遊覧する人多かればなり」とあり、当時の観光ブームが偲ばれる。昔、人家わずか十軒ほどしかなかった木下河岸が、客の往来で賑わい繁栄していった状況がよくわかる。
このように木下街道は、文人墨客や物見遊山の旅人にも大いに利用されたのである。(つづく)
(2003年4月18日)
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■∈木下街道を通った人<2>∋■ 案内人・森 亘男
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木下街道沿いに在る市川市立中山小学校の正門を入り、坂を上がったところの左手に、以前、北方三丁目の十字路にあった「道しるべ」が移されて立っている。
この道しるべには、よく読めない箇所もあるが正面に南中山道、背面に北北方、千足妙正□、右側に東かまかや道、左側に西やはたミ□と刻まれている(□は読めない字。しかしそれぞれ「寺」、「チ」と推量される)。
この道しるべに関しては次のような面白い民話がある。「昔、二人の旅人が疲れた足取りで歩いてきて、この道しるべの前にさしかかり、読もうとしたが二人とも字がよく読めません。
『なんと書いてあるのかな。ふうん、南中山道(なんぢゅうやまみち)と書いてあるぞ』。
『なに。難渋山道だって。それじゃとても歩いてはいけないだろうな』。
『そっちはなんてかいてある』。『なになに。北北方道(ぼくぼくかたみち)』。
『なに。そんな道じゃ、とても草鞋じゃ歩いていけないのじゃないのか。もどろうや』。
といって、二人はもと来た道を帰ってしまったということです」。
この道標があった北方三丁目の十字路とは、中山法華経寺の龍王池から坂を上り、市立四中の前を通って木下街道と交差する場所であり、木下街道を横切ってさらに進めば、法見寺を経て千足の妙正寺に至ることができる。
さて、ここまで木下街道を通った有名・無名いろいろな人々について見てきたが、ここでちょっと脇へそれて(遊び心?)、木下街道を通ったかもしれない有名人として宮本武蔵(1584−1645)と高野長英(1804−50)の二人を取り上げてみたい。 一六45
先ず宮本武蔵についてであるが、彼は本行徳の徳願寺に逗留したといわれ、現在も徳願寺の本堂脇には武蔵の供養塔が建てらているし、木下街道沿いの船橋市藤原にある観音堂が、武蔵の隠れ家の跡との言い伝えがあるので、武蔵は木下街道を歩いたかもしれないである。
もう一人の高野長英の方は、脱獄囚でお尋ね者であった関係上、全くその痕跡がないのであるが、状況として木下街道を通った可能性がある。高野長英は、江戸時代後期の優れた蘭学者で医者であり、前回登場した渡辺華山と親密な関係があった。
長英は天保十年(1839)幕府の政策を批判した罪で牢に入れられたが脱獄。その後各地を転々としながら逃避行を続け、嘉永三年(1850)に下総香取郡萬歳村に住む門人の花香恭法を頼って潜んだ。
この萬歳村行きの時の足取りを考えると、当然のことながら比較的取調べの緩やかなルートを選んだに違いなく、恐らく江戸から船で行徳に至り、木下街道を経て木下に着き、再び船で小見川辺りまで行き、萬歳村へ向かったものと思われている。 (つづく)
(2003年5月2日)
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■∈木下街道を通った人<3>∋■ 案内人・森 亘男
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柴又帝釈天の本堂と帝釈堂をつなぐ廊下の彫刻に、人車鉄道が描かれているのをご存知であろうか。ちょっと見過ごしてしまいがちであるが、それには、何人かの乗客が乗っている車両を二人の男が押している図が彫られていて、左隅に「明治三十年頃人車之図、帝釈天行」と記されている。これは明治三十二年から明治四十五年まで約十二年間、金町−柴又間を運行していた帝釈人車鉄道の様子を描いたものである。
人車鉄道とは耳慣れないものだが、文字通り、人が車を押した鉄道であって、実は嘗て市川にも同じような人車鉄道が走っていたのである。そこで今回は、木下街道を走っていた人車鉄道、すなわち「東葛人車鉄道」を取り上げてみることとする。
東葛人車鉄道は、明治四十年四月軌道敷設が許可され、明治四十二年九月、中山−鎌ヶ谷間のトロッコによる貨物営業を開始した。トロッコとは屋根のない台車だけの車のことであり、これでも分かるように当初、東葛人車鉄道は北総台地の農作物や薪などを都会へ運び出す一方で、都会から肥料などを運び入れることを目的とした鉄道だった。
当時の木下街道は大変な悪路であったらしく、東葛人車鉄道の会社設立時に作られた鉄道開設の目的を示す趣意書には「…中山村ヨリ木下ニ至ルノ間、道路ノ濘悪ナルコト関東第一ト称シテ可ナルベク…」とあり、少々大げさであるが日本一の悪い道と言ってよい位だと書き、こんな環境で交通の便が悪いため、人車鉄道敷設したいとしている。
こうして発足した東葛人車鉄道は、明治四十四年一月には客車の運行も開始するとともに、大正二年には行徳の河原まで鉄道を延ばし、河原−鎌ヶ谷間約十二・五キロメートルの区間での営業へと規模を拡大させていった。
客車の運行を始めたといっても大正五年当時、客車六両、貨車七十両あったといわれるように、この鉄道の主力はあくまでも貨物輸送であって、その貨物の内訳は、甘薯・穀物が約三分一、薪炭・燃料と肥料がそれぞれ約六分の一、あとは木材・野菜・果実・塩・酒・醤油類などであった。
客車は八人乗りで、二人の人夫が押したといわれており、帝釈天の彫刻にあるものと似た規模と思われる。客車のつくりはトロッッコに屋根をつけただけといったものらしく、あまり乗り心地はよくなかったようだが、好きなところで乗り降りすることができた点が便利だったと伝えられている。
東京万世橋の交通博物館には、宮城県「松山人車鉄道」の客車が展示されているが、東葛人車鉄道の客車は、残されている話から推測してみると、これほど立派なものではなかったのではないのかと思われる。
この東葛人車鉄道も、大正三年の江戸川放水路工事着工や、大正四年に京成電鉄が中山まで伸びたこともあり、時代の流れのなかその存続が困難になり、ついに大正七年廃業した。
(2003年5月16日)
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市川浦安線(県道6号線。バイパス線)は、国道14号線(千葉街道)の八幡一丁目を起点に、ニッケコルトンプラザ、京葉道路の市川インター横を通り抜け、稲荷木(とうかぎ)に入って左折、新行徳橋をわたり、河原からまっすぐ地下鉄東西線浦安駅近くまで進路をとり、県道242号線の所(当代島)で終点となる。八幡一丁目から稲荷木までは内匠堀(たくみぼり)を暗渠にして、河原から当代島(浦安市)までは千葉用水路を埋め立てて造られている(昭和四十年代完成)。今回は、この蓋をされてしまった二つの水路の歴史に触れてみる。
内匠堀は「元和六年(1620)、狩野浄天と田中内匠の両人が公に訴訟し、免許を蒙って、八幡圦樋から当代島村まで開削して造った農業用水路」(『葛飾誌略』文化八年)である。圦樋(堰)を国道14号線のすぐ下に設け、鎌ヶ谷の囃子水(はやしみず)の池を水源にして水系を整え、寛永年間(1624−44)に内匠堀を完成させたと考えられる。同時期、田中正成も市川新田を開発しており、正保年間(1644−48)中につくられた『葛飾郡全図』で八幡南の沖積平野・行徳低地に水田が広がっていることなどから、市川市域は隣の葛西領(現江戸川区)と同様、江戸の食料生産の一翼を担っていたのであろう。時を経て大正八年、八幡町外九ヶ町村耕地整理組合の土地改良事業が八年の歳月をかけて完工、総武線より南の地域は千葉県でも有数な穀倉地帯となっていた。
しかし戦後になり、復興にかけた市川市は、この地域の都市計画を推し進めていく。京葉道路が開通した昭和三十五年ころから、水田はどんどん埋め立てられ、同四十年には内匠堀も暗渠にされて、京葉道路につながる都市道路に整備されてしまう。
一方、江戸川では大正九年に放水路(現江戸川)が完成、内匠堀は分断される。
昭和十一年、建設省は江戸川の水閘門(すいこうもん)建設に(同十八年完成)に着手する。渇水時に水閘門を閉めると農地に用水が確保できなくなるため、補償措置として千葉用水路の建設(同十五年着手)も合わせて行っている(昭和三十一年完成)。
江戸川に面した行徳や当代島などの農家は、満潮時に合わせ、村で管理する水門を開けて、内匠堀から田んぼに水を引いていた(内匠堀は当代島の船圦川=現船圦緑道まで)。満潮になると海水は海嘯を起こして川の流れを食い止め、自然に川の水が取水口に集まってくる。それを利用して一斉に水を引いた。
東京湾の河口に近い浦安の猫実や堀江の場合、海水がすぐに揚がってくるため、田んぼの水引きは、満潮に向かうわずかな間に作業を終えてしまわなければならなかった。少し海水が入るのは仕方がなかった。しかし、江戸川の水位が下がればそれもならず、雨が降るのをじっと待つしか方法がなかった。千葉用水路は、そんな浦安のためにた造られた水路であった。
喜びもつかの間であった。地下鉄東西線の開業(昭和四十四年)に向けて、昭和四十一年から大規模な土地区画整理事業が始まり、水田やハス田がどんどん埋め立てられていったのである。千葉用水路も埋められて市川浦安線のバイパス(昭和四十七年)にされてしまった。 (つづく)
(2003年6月6日)
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前回、市川浦安線(県道6号線、バイパス線)は、内匠堀と千葉用水路の上を通っていることをお話したが、この二つの水路に関することは、市川博物館友の会が纏めた『内匠堀の昔と今』から引用している。
掲載した絵図は前書付録「大正の頃の市川、川と水田のある風景」の一シーンであるが、市川市役所そばで米屋を営む川上勝雄さん(明治四十年生まれ)のご協力を得て再現したものである。昔は、川上家も農業をされており、川上さんにとって内匠堀は身近な存在であった。
堰は国道14号線(千葉街道)と総武線の間に作られていて、「パナマ運河のような仕掛け」があった。地元では、この堰から南の川を内匠堀、北の川を八幡川と呼んでいたという。前書の『内匠堀を語る』に、堰について詳しく書かれている。
川上さんの話。「タカンボリ(内匠堀)は農家の用水路でしたからね。川幅は二間ほどで、水深は常時三〇−五〇センチくらいでしたよ。舟も通れたんです。私も実際に江戸川の水門(現大和田取水場)まで行って下肥を運んできたのです。国道14号線の所は掘削して石の橋が架けられていました。橋の下は子供が立って通れました。国道の所は水量が多いとつかえちゃいますから、タカンボリの堰で水の調整をしていました。また堰は、勾配のある川の舟の上りをたやすくするパナマ運河のような仕掛けになっていました。国道の辺りは市川砂洲の上で勾配が急なんですね。そこで二重堰(間が舟だまり)にして、舟だまりの水位を揚げて、八幡川のほうに舟を通したわけです。水嵩が揚がるまで昼飯を食べたりして待っていたんですよ」。
この堰は、八幡町や中山村(鬼高)の農家が利用する重要な堰で、めいめいが堰を操作して田んぼに水を引いていた。舟だまりは子供にとって泳いだり、魚釣りをする遊び場であった。
昭和三十七年の地図では、一部は暗渠にされているものの、内匠堀の流路はまだ残っていた。
一方、千葉用水路は、昭和三十一年に完成した浦安専用の農業用水路で取水口は河原の水門(圦)の所にあった。行徳方面の川とは交わらないように交差する所は川を二段にして、千葉用水路の方が下を流れるようになっていた。しかしせっかくの水路も、昭和四十七年には市川浦安線バイパスに造りかえられてしまった。
西脇いねさんは『べか舟の町 浦安』(自刊)の中で、当時のことを「建築の作業車が何台も置かれるようになり、ウチの田圃の周辺はだんだんゴミ捨場のようになっていったのです」と述べている。
昭和三十年代後半から四十年代の市川市・浦安町は、農地の流動化と開発が激しく入り交じった、そんな時代であった。
(2003年6月20日)
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■∈八幡新道とその周辺<1>∋■ 案内人・山口栄三郎
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徳川幕府は、当初より軍事上・経済上の必要から、街道の整備に意を用いたが、特に力を注いだのが東海道・中山道・日光道中・奧州道中・甲州道中のいわゆる五街道だったといわれる。そしてこれらの主要街道が整備されてくるにつれて、それを補完する道が開けてくる。
道には、時の為政者により無理に作らせたものもあれば、取り潰されたものもあり、また人の生活に密着した道もあるなど、実に様々である。善きにつけ悪しきにつけ、道は人と共存して四方八方に広がっていく。
今回は、行徳から八幡に至る「八幡新道」と呼ばれる道を取り上げ、その周辺のことについて述べてみたい。
国道14号線を千葉方面から東京に向かい、JR本八幡駅北側を通過すると現われる道路標識板には、直進「東京」、左折方向に「浦安」「京葉道路」と書かれている。すなわち、この十字路を左に曲がって、文化会館の前を通る道が本題の「八幡新道」であり、行徳・浦安へ行く道である。
この道は、今でこそ拡張され道幅が広くなっているが、昔は狭い道だった。現在でも逆に北に向かい、京成線の踏切を越えると、狭いままである。
道の呼称は、行き先の名をとって付けられるので、「八幡新道」とは行徳から八幡へ向かう視点からの呼び名であって、八幡の人から見れば行徳街道となるわけだが、今回は「八幡新道」と称することとした。
少し長くなるが、現在の八幡新道の姿と昔の景観とを比較するのも面白いと考え、文化七年(1810)に書かれた『葛飾誌略』の記述を引用してみよう。
「一、新道。行徳より八幡迄の街道也。昔、神君東金御成りの節、此道を新たに開く。故に新道の名あり。此左右一圓曠々たる耕地にて、萬石ばかり一眼の中に入る。(中略)五月になりぬれば、早乙女群がり、植ゑ渡す風情、わけて青田の頃は、吹き渡る風の涼しさいはん方なし。」と、家康が東金へ行くために造った道であるとし、風景の描写も加えている。
今この「新道」の両側はどうであろう。高層のビルが建ち、車が激しく通り、人の歩くゆとりも無い道になっている。また、早乙女の姿など想像することさえ難しく、五月の爽やかな風どころか、砂塵と排気ガスを吸わされている。
八幡から行徳に向かって進むと、高速道路をくぐる手前右側に神社が一つある。甲(かぶと)大神社である。『葛飾誌略』では(この著者は行徳から八幡に向かっていることに留意)、「一、兜八幡、兜宮といふ。大和田村の鎮守して新道の左の森也。祭所の神霊を治る也。平将門の兜を祭るともいふ。又、源義家の兜を祭るともいふ。當社の前にて、武士たる人乗打すれば必ず落馬すといふ。この辺大和田の舊地也」と紹介されている。 (つづく)
(2003年7月4日)
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■∈八幡新道とその周辺<2>∋■ 案内人・山口栄三郎
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前回の最後で触れた甲大神社について、もう少し筆を進めてみよう。
この神社の「一の鳥居」は、明神系の鳥居で笠木と島木が反っている。見た感じもこの反りのある方が見栄えがいい。鳥居の形式には二つの基本形があるといわれるが、もう一つの形は神明系と呼ばれ、直線的で素朴である。
この神社には「二の鳥居」もあり狛犬、燈篭、御輿庫等々揃っており、合祀の天満宮、稲荷社、山王様や庚申様、さらに参道左の北向道祖神と、さほど広くはない境内ながら、趣のあるこじんまりとした社である。
甲大神社の近く、京葉道路のすぐ南に「一本松」がある。初代の一本松は枯れて、切り株しか残っておらず、今あるのは新しく植えたのである。 この一本松は『葛飾誌略』には載っていないが、市川市教育委員会の案内板では、「むかし行徳から市川に向かうには、今日の行徳橋あたりから稲荷木の雙林寺前を通り稲荷神社からこの地に出て、江戸川沿いの大和田、大洲、市川南を経て国道14号線(時代によっては上総道、佐倉道、千葉街道とも呼ばれた)に出て、市川に至ったのです。
伝えによると、慶長年間(1596−1615)伊奈備前守忠次が徳川家康の命によって、上総道の改修にあたった際、新たに八幡と行徳を結ぶ八幡新道をつくって、その分岐点に松を植えたのが、この一本松の由来ということです。この松も京葉道路ができると、排ガスの影響などによって枯死を早め、昭和四十八年に伐採されました。伐採時の樹齢約百八十年。」と由来が述べられています。
一本松の傍には延命地蔵や道標を刻んだ庚申塔などが安置されている。この延命地蔵についても由来が伝えられている。昭和六十年に移設建立した子孫の記した碑文を読むと「この地蔵尊は亨保十二年(1727)、祖先椎名茂右衛門が千葉街道(国道14号線)と行徳街道の交わる八幡の四ツ角に道標として、また通行の安全と辻斬り追い剥ぎなどの災難にあわれた人達の供養のため建立したものという。昭和六年国道拡張工事のため心ある地元の方々により、道向こうの南側に移し、爾来人々の諸願の守護地蔵として信仰され、今日に至ったが、このた都営地下鉄十号線のの千葉県乗り入れに伴い、駅入口の予定地となったので、やむなく奉納者の地元稲荷木に移転することとなり、此所の一本松の地に安置するに至ったものである。」と刻まれており、その昔、町道筋に辻斬り・追剥ぎが出没したということが実感として伝わってくる。
以上、二回にわたって八幡新道とその周辺の歴史を辿ってみたが、家康は他にも道を作っているのではないか。古老に聞いたり、書物を見たり、歩いたりして古い道をたずねるのは真に楽しく、好奇心の夢を膨らませてくれる。
(2003年7月18日)
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天正八年(1580)江戸に入った家康は行徳塩に注目し、軍事上から江戸に近いこの行徳塩の育成に力を入れた。そして塩焼百姓をわざわざ、船橋御殿に招いてその製塩状況を聞き、金子三千両を貸し与えている。
また、秀忠もその方針を引き継ぎ、塩焼百姓が製塩に精出しているとして、同じく金子三千両を貸与している。
家光の頃(1623−51)になると、瀬戸内海岸の十州塩(長門・周防・安芸・備後・備中・備前・播磨・阿波・讃岐・伊予)が下り塩として関東・東北方面に入ってきたが、家光も引き続き行徳塩保護策をとり、船橋御殿で塩焼百姓に金二千両を貸し与えている。 十州塩は技術的に優れ生産力も高かったので、行徳塩は劣性に立たされたが、こうした幕府の保護政策により維持発展していった。
行徳塩の販路を見ると、その中心は利根川筋をはじめ鬼怒川・那珂川筋などで、船で河川を遡り更に馬の背で奥地へと運ばれ、武州・常州・野州など関東一円はもとより、遠くは信州まで届けられたという。
なお、塩焼用材は下総北部から船便、または木下街道を駄馬で運搬したようである。
吉宗時代、新田開発に貢献した関東代官・小宮山杢之進は、行徳塩業に注目し、幕府からの問い合わせに対して、行徳塩業について明和六年(1767)八月、次のような報告をしている。
「六月七月は暑気厳しく作業には第一であるが、八月から十月は稲作の取収で手隙がなく、十一月から翌年三月までは製産量が少なく、四月五月は例年雨天が続き、男女共に手空きとなる。一方製塩は一日雨が降ると三、四日は作業が出来ず塩稼が出来ない。それは降雨で提で囲った塩田に塩水を掛け塩水をたらして、その水を塩釜に入れ、焼き立てる作業が出来ない。」(抜粋)などと製塩作業の苦渋を述べ、上申している。
これより以前の享保十一年(1726年)、杢之進は吉宗に行徳塩増築計画を上申した。吉宗はこれを大いに喜び「行徳塩は神君(家康)の殖産農政のあとであり、江戸にとって重要な地である」として、朱印状を出して塩浜提を幕府の定式御普請にすべきと命じている。
しかし、安永年間(1772−81)になり、幕府はこの吉宗の朱印状を引き上げてしまったので、台風・高潮などによる塩提・塩田の破壊に対して復旧資金に苦しむことになり、行徳塩業は次第に衰徴し、その傾向は止めることが出来なかった。
行徳地区での塩業が衰退してゆく一方で、幕末期には町人請や村請新田として、船橋寄りの田尻・原木・二俣方面で塩田開発が活発化し、生産地は東へ東へと移っていったのである。
(2003年8月1日)
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■∈奥之院から桜の霊場妙正寺へ∋■ 案内人・森 亘男
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鎌倉時代、千葉氏に仕えていた富木常忍は、日蓮上人の教えに心服して熱心な信者となり、若宮にあった自分の邸にお堂を建て法華堂と称した。現在、中山法華経寺の北数百メートルのところにある奥之院は、この富木常忍の館跡である。
日蓮は、鎌倉から屡々この若宮館を訪れては、ここで教えを説いたという。この奥之院から北方四丁目の妙正寺に至る道が、今回取り上げる「妙正寺道」である。
富木常忍は日蓮没後に出家して日常と号したが、この日常上人の御廟の建つ角には、「妙正寺へ十四丁」と刻まれた道標があり、妙正寺への道を指している。
妙正寺道は、昔の姿がそのまま残っている訳ではないが、北の方角を目指して行くと、不確かながら繋ぎ繋ぎして辿ることができる。道は、北方十字路を過ぎる辺りから、ほぼ並行して走る県道松戸原木線(旧市川松戸有料道路)を左に見てしばらく進み、最後に少し坂を下ると妙正寺に突き当たる。
妙正寺は、龍径山妙正寺といい、文応元年(1260)の創建だが、この創建に関しては、次のような言い伝えがある。 日蓮が若宮館に身を寄せ、近隣の人々に百日間にわたる説法をしていた時、一日も欠かさず聴聞に通ってきた見知らぬ女性がいた。そして最後の日、この女性は日蓮に対し、日蓮手書きの本尊と自分の法号並びに法華経八軸を戴きたいと願い出た。日蓮はその願いを受入れ、曼茶羅とお経を与えると共に「妙正」という法号を授けた。
女性は喜んでそれを抱えて帰っていったが、怪しんだ人々が跡をつけて行くと、千足池のところで忽然と姿が消え、傍らの桜の木の枝に曼茶羅が掛けられていた。また、八軸の法華経は七軸が道の途中に安置され、残る一軸が池のほとりに安置されていた。
村の人々は、そこで初めて、この女性が千足池の霊であることを知り、池辺に妙正大明神として祀ったという。
この法華経七軸を安置したというところは中山競馬場近くとされ、七経塚と呼ばれて長らく石碑が建っていたが、二十年ほど前に移設され、現在その石碑は妙正寺境内にある。
また、曼茶羅を掛けた桜の樹の皮は、疱瘡の解熱に霊験あると伝えられ、妙正寺は「桜之霊場」としても名高い。往時、近郷近住から疱瘡の護符を頂きに来る人は夥しい数に上ったと言われており、まさに「妙正寺道」は、鎌倉時代以来、信仰と深く結びついた道であったといえよう。
(2003年8月15日)
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■∈関所興廃記・入鉄砲と出女∋■ 案内人・南條信義
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慶長五年(1600)関ヶ原の戦いで天下の覇権を握った徳川家康は箱根、碓氷、小仏等に関所を設け、江戸防衛に注意を怠らなかった。特に大阪夏の陣直後の元和二年(1616)八月には利根川水系河川の街道重要地点を定船場に指定し、定船場以外での渡河を禁止する布告を出した。
その大要は
一、定船場以外はみだりにわたってならない
一、女人、不傷者その外不傷者については留置いて江戸に連絡すること 一、河向の耕作に通う者は所々の舟渡を渡る可きこと(以下略)。
この布告により旅行者は、必ずその地を支配する地頭か代官の発行した通行手形を携行しなければならなくなり、所謂「入鉄砲と出女」といって地方から江戸に入る武器弾薬類の監視と江戸住まいの大名家族の江戸からの脱出を監視した。このように番所には、反乱防止と江戸防衛のための重要な任務が課せられていた。
指定された十五の定船場は水戸街道に金町松戸の関所が、水戸街道かの新宿(にいじゅく)から房総方面に向かう佐倉街道には小岩市川の関所があり、関所の通行は明け六つから暮六つ(季節によって変化するがおおよそ現在の午前六時ころから午後六時)までであった。しかし、河向に耕地のある者はその都度定船場を通る不便さを生じたので、寛永八年(1631)九月に「利根川に面した近郷の樵夫、草苅、耕作人以外は一切、河向に渡ることはできない」という覚書が幕府から出され河向への耕作は関所を通らなくてもよくなった。
その後、このことが利用されて江戸に出向いたり、伊勢参宮の際までも関所をさけて渡河するようになった。
しかし、関所の警備も社会情勢には大きく影響し、慶安四年(1651)由井正雪、丸橋忠弥等による幕政批判、改革の陰謀が露見し、忠弥は江戸で捕縛、正雪は駿河で自刃した。この「慶安事件」以来、関所警備は一段と厳重になった。
一方、北国分三丁目と四丁目の境地にある、文化四年(1800)の庚申塔には「西江戸 下りおおはし」とあり、また松戸市矢切神社前の庚申塔には「南いちかわ 北松戸 西江戸」と記されている。さらに西進すると「矢切の渡し場」があり、これでこの時代には旅人も関所を通らずに耕作人渡しを通っていたことが分かる。
このような種々な歴史を含んだ関所も新政府成立によって明治二年(1869)一月に廃止され徳川幕府滅亡とともにその役目を終えた。
(2003年9月5日)
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■∈分間延絵図にみる市川・立札と一里塚∋■ 案内人・南條信義
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江戸幕府は文化三年(1806)道中奉行を介し、その直轄の五街道、脇往還についての分間延絵図を作成した。この絵図の一部に水戸佐倉道がある。これは江戸から千住を通り、武州葛飾郡新宿(にいじゅく)街を過ぎ、金町松戸関所を通って水戸方面に向かう「水戸街道」と新宿から分かれ南進し、小岩市川関所を通り東進、佐倉方面に向かう「佐倉道」とである。
延絵図の新宿町には「松戸宿江一里五丁余」「八幡町江二里六丁」と距離を表示している。新宿からの佐倉道は曲金村、鎌倉新田(以上葛飾区)、小岩田村、伊與田村(以上江戸川区)を通って江戸川の小岩市川関所に至るである。関所へ曲がる角に「元佐倉通り、逆井道、江戸両国橋江道法三里」とあり、この元佐倉通りは房総方面の大名が江戸へ行くとき「大名の代替」以外の参勤交代で、幕府の認許を得て往来した道である。
その角を東に曲がると小岩市川関所。この渡船場の河幅について延絵図は「河原幅百間余、常川幅八拾間余」とある。
関所を通り、川を渡れば市川村。ここでは先ず「高札」が目に入る。高札とは板に法度、禁令、犯罪人の罪状などを書き人目の引く所に高く掲げて一般に告示した。市川村を上町・中町・下町と通り、現・千葉街道に出ると、中町左側奥に安国寺、さらに左側奥に玄授院、右側に観音寺、少し進んで左側に極楽寺。さらに進んで左側の庚申と題目石の表示のある場所が弘法寺の入り口。両側の長い松林の参道奥に弘法寺があり、境内には釈迦堂やその他の堂塔が多数建立されている。
市川新田に入ると左奥に地蔵が祀られ、その先の左側の題目石の奥に長栄寺、さらにその先の左側には高札がある。第六天、庚申の表示を左に見て進むと左側に地蔵が祀られ、その奥に諏訪明神とある。平田村にも高札と題目石があり、菅野村入り口に一里塚がある。 一里塚は、家康が五街道や主要道路に一里毎の標識として築造したもので、その様式は街道の両側に五間四方、高さ約一丈の塚に榎を植えた。これで旅人の歩いた里程と基準にもなり、絶好の休憩所にもなった。
八幡町に入ると左奥の八幡宮には「御朱印地八幡宮」と記してある。これは弘法寺と同様、江戸時代、将軍からの朱印状により、その寺社は一定の石高、門前、境内の山林、竹林などに対しての年貢が免除されるのが通例であった。
八幡宿は上宿、中宿、下宿と分かれ、中宿には問屋場があり、その前に高札があった。その位置は市役所前の郵便局東側の道の東角が問屋場にあたり、その前に高札がたっていたものと考えられる。佐倉道の道中奉行の管轄は、八幡宿までである。
(2003年9月19日)
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■∈八幡宿における助郷制度(農村の負担と苦悩)∋■ 案内人・南條信義
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前回、分間延絵図のなかの八幡宿の問屋場と高札について報告したので、今回は問屋場の役割と活動状況について報告する。そのなかで特にその地域の農民に関係の深い「助郷制度」を説明しよう。
問屋場の成立は、一般的には徳川幕府の参勤交代実施の寛永十二年(1635)頃とみられており、五街道と脇往還にある問屋場は道中奉行の支配で、八幡宿もそのなかにあった。
近世宿駅の「問屋」は「徳川幕府県治要略」(安藤博編)によると『宿駅の公私旅行者に対し、人馬伝送、宿泊等の駅勢を総理するの役人』といわれるように宿内の最高責任者とされている。
問屋場には、問屋の補佐役である年寄と事務を担当する帳付と馬指がおり、帳付はその宿の助郷馬の出入りや駄賃など全てを記録し、馬指は馬士や人足に荷物を振り当てる役目であった。
宿駅は常時、業務のため継立人馬を用意しており、その数は東海道各駅は百人百頭、中山道は五十人五十頭、新宿は二十五人二十五頭であった。八幡宿には特に指定されていなかったので、その都度、村に夫役を命じ人馬を集めていた。この人馬夫役を助郷と言い、その村を助郷村といった。 しかし、公用通行が多くなり、助郷村だけでは充分な継立ができなくなると加助郷といって、さらに助郷村を増加し人馬を供給した。
八幡宿の助郷村の定めについては明らかではないが、弘化四年(1847)の「助郷高取調帳」によれば下妙典、上妙典、稲荷木、大和田、河原、田尻、高谷の各村が助郷村となっている。
八幡宿だけでないが、助郷が特に繁多になったのは幕末。安政元年(1854)にペリーの率いる米国艦隊が再来し、房総警備の諸大名軍勢の往来も繁多を極めた。
また、この情勢に対する幕臣の勤務地への移動や文久二年(1862)八月には、参勤交代制度が変革され、大名の妻子が国許への帰還が許されるなど江戸詰めの家族の帰国やその荷物の輸送などで各宿場は夥しい人馬を必要とした。この時、八幡宿を通った大名家族は、佐倉の堀田家をはじめ、下総、上総、安房の十二大名家の家族で定助郷、加助郷の全村からの人馬を総出動させても、充分な対応はできなかった。加えて須和田村など八か村が松戸宿の加助郷に指定されており、これらの村々でもこの制度のため大混乱を起こしていた。
助郷は農作業が繁多の時期でも命じられるので農民の苦衷は計りしれないものがあった。例えば千住宿の加助郷では前日に人馬共に出発し、その晩は宿屋に泊まり翌日に仕事をして帰るのだが、仕事が遅くなるとその晩も泊まることになり、結局一日の仕事に三日を要し、助郷賃金では足りず小遣い銭まで必要となり時間的にも経済的にも農作業に影響することが度々であった。
この助郷制度も新政府の発足で明治五年に廃止された。
(2003年10月3日)
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■∈千葉街道(佐倉道)を西へ∋■ 案内人・川崎市雄
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「市川の道」について道や道の歴史そのもののことばかりでなく、歩いて思ったこととか調べたときの方法論や考え方など、ときには古老のような心境で、ときには自称研究家としての意気込みで、なんでもかんでも書いてみたい。
千葉街道から市川一丁目と新田五丁目の境を京成電鉄市川真間駅に入る道の入り口に「青面金剛」と書かれた(彫られた)道標がある。
『市川の古道を歩く』(2002年、市川博物館友の会編集・発行)に中野喜一氏の「市川市内の道標」の報告がある。その中に「市川一−二五−一(1−25−1)□…□天明元年□庚申塔」とあるのがそれである。左側面に「西□西市川八丁」と、右側面には「東□八はた十六丁」と書いてある。
一丁は約一〇〇メートルで八丁は約九〇〇メートルとなる。今の市川駅付近まではここから二、三丁であるが、当時は鉄道などなく人影まばらな地であった。ここから八丁の、今の市川広小路から京成国府台駅にかけての一帯が市川市の中心地で、京成バスの「本町通り」という停留所名がそれを示している。
それにしても、「西市川」などという地名は他の史料には見当らず、現在そういう呼び方をする人もいない。むしろそちらが「市川」で、道標のある場所は「東市川」であろうが、この付近の人々の対抗意識のようなものも窺われる。
さて、この「八丁」の間を歩いてみよう。表通り(千葉街道と県道市川松戸線)を行き、裏通りを戻るような書き方で紹介しておく。
裏通りはどの道と選び難いが、市川砂嘴(市川付近が海だった頃砂が積もってできたという、市川から中山にかけての微高地のこと。市川砂州ともいう)の上や、その付近にとぎれとぎれ存在する道など、気ままにそぞろ歩きをして行きたい。 いずれにしても、紹介する範囲は、今の市川市と市川と住居表示施行前の市川市市川町に共通して含まれる一帯である。 千葉街道は江戸時代には「佐倉道」といわれ、江戸幕府作成の『水戸佐倉道分間延絵図』、『水戸佐倉道宿村大概帳』などの史料がある。前者は東京美術から複製が出版されており、後者は『市川市史第七巻』に収められている。歩く前に、図書館などで閲覧しておくとよい。
「青面金剛」の道標から千葉街道を西へと歩き始める。半世紀ほど前まで名勝「三本松」や市川警察署などもあったが枯れたり移転してしまったりで今はない。
市川広小路までは、昔の市川の「はずれ」から「中心街」に向かっているのだと思いながら黙々と歩くとよい。 (つづく)
(2003年10月17日)
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前回書いたが、『水戸佐倉道分間延絵図』を見ておいていただけたならば、ここの話は分かりやすい。『市川の古道を歩く』にも載っている。カラーではないが、それでも十分である。ここには解説用に描き直した図を示しておく。
市川広小路付近は『水戸佐倉道分間延絵図』では「四丁目」になっている。江戸時代にも何丁目などという呼び方はあって、江戸時代末の市川から行徳にかけてのことがよく書かれている『葛飾誌略』という書物の「本行徳」の項には、一丁目から四丁目まですべて現われる。
同書の「市川村」の項には、「上中下と三丁に分る」とある。「町」と「丁」の違いはあるものの、『水戸佐倉道分間延絵図』にもある通り、この「三丁」に続く「四町目」なのである。これらの間がほぼ一丁おきになっている。
「四町目」付近はその後、明治から昭和にかけて市川町役場があったから、一時はここも中心地だったことになる。
ちょうど「下町」と書かれた位置で今のバス通りは東へと曲るが、この道は江戸時代にはなかった。後になって市川−小岩の渡しの下流に現在の市川橋が架けられたが、これを渡った後市街地をバイパスして菅野方面へ抜けるように作られた道路である。現在では、広小路まで出て折れて来ないと入れない。
「中町」の位置、本町通りのバス停付近に「市川の電信電話創業の地」の案内板がある。時代も下り大正年間のことであるが、そのおかげでこの付近には古い地名が電柱に表示されて残っている。 ここでひとつ歴史散歩で役立つノウハウを披露するが、電柱の中ほどの高さの位置に電話線名と柱番号を表す封筒位の大きさの表示板がつけられていて、歴史を物語る地名が残っていることがある。
この付近には「寒室」(ひんむろ)という字(あざ)名をつけた「寒室支線」がある。他にも「小向」、「大六天」、「下出口」、「大門」等市内には多い。「寒室」は一部にカタカナ表示のものがあり「ヘイムロ」となっているが、これも地元での呼び方を示唆する立派な史料である。
「上町」の位置が市川村の中心的な場所で、ここに関所があった。江戸川堤への上がり口に史跡の表示がある。
明治時代に測量された『迅速測図』という地形図(これも『市川の古道を歩く』に載っている)で予習しておくと、次回の話はわかりやすい。
(つづく)
(2003年10月31日)
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市川を離れて十年程になるが、時折戻って今の状況を確かめるほかに、古い地図でもっと昔の様子を想像したりする。
『迅速測図』は明治期の日本の軍国化の中で作られたものであるが、百年以上も前の様子がよくわかるという点では文化的価値は高い。その『市川駅』あるいは『東京近傍東部』という一枚を見ておくと、このコースもさらに興味深く歩ける。
江戸時代末に出版された『成田参詣記』『江戸名所図会』(『市川市史第六巻下』)に収められている)も参考になる。
国府台駅前の道路は県道市川松戸線の旧道である。大正通りなど東に向かう道は下り坂になっているが、『迅速測図』によればこれが江戸川堤であったことがわかる。
市川三丁目は京成の線路で分断されていて、県道とその東のガードと真間二丁目境の踏切が両地域を結ぶのみである。北側が真間小と二中、南側が市川小と一中と町内で学区が分かれていることは、他の地域と比べたときの大きな特徴である。
著名な街道ばかりでなく、このような地域内の生活道にも目を向けて調べていくことは必要であろう。
さて、県道の一つ東側の道を今の一万分の一地形図でたどってみると、国府台の台地の下から市川砂觜の微高地まで続いており、古い道らしく読み取れる。また、『江戸名所図会』の「市川渡口根本橋利根川」の図版にもそれらしい細道が描かれている。真間川や駅高架下のスーパーマーケットなどは迂回しなければならないが、ともかくも歩き通せそうである。
真間山下のバス停あたりから道を探しながら歩いてくると面白そうであるが、国府台駅のやや南で左の坂道を下り、東へ少し進んだ所でこの道筋に合流できるので、そこから記して行こう。
この付近は字「小向」であるが、南に進むと字「寒室」と「寒室出口」の一帯となる。
『成田参詣記』には、「マヽの内 ヒヘムロ」と書かれている。『市川市史第二巻』付録の「市川市大字小字地図」からも「寒室」が真間村の飛地になっていることがわかる。
前回も引用した『葛飾誌略』には「寒室 大例裏通りをいふ」と書かれているが、これがまた謎である。「大例」というのは「ふつうは」、「一般に」などの意味であろうか。それにしては「寒室」などという言葉は、地名にせよ一般名詞にせよほかでは全然聞いたことがない。
『葛飾誌略』の写本を見たという研究家によると「大洲」が正しいらしいので、「大洲への裏通り」と思って歩いて行こう。 (つづく)
(2003年11月14日)
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この道沿いには、安国院、玄授院、龍泉院と真間山弘法寺末の寺院が続く。真間村の飛地だったというのも、寺院が移って来たことによるものであろう。
安国院前を県道の方に少し出ると春日神社がある。境内に町会事務所があって、春日神社にちなむという「若草会」は、前回ふれたが線路で学区が分断された二校の子供達の交流の場になっていることである。
『水戸佐倉道分間延絵図』の春日神社境内の位置に、「諸天善神」という記載がある。「もろもろの善い神様」ということであろうが、現在春日神社境内を探してもどの場所にあたるのかはわからず、謎である。ちなみに、上越国境の谷川岳天神平の一角にも「諸天善神岳」という名の小さな頂がある。
元の通り安国院前の道に戻って南へ進むと、大きく左へカーブするようになり玄授院前に出る。 玄授院と龍泉院とは、バス通りをはさんで向かい合う位置にあるが、かつて玄授院は西側のちょうど左カーブが始まる位置から入るようになっていた。
この位置まで戻り、左カーブをあまり進まずすぐに右へ入って、あくまでも南へということにこだわろう。バス通りを横断してその先に南に入る小道を見つけるあたり、「ああ、つながっているんだ」と歴史散歩のいちばんの面白さを覚える。 標高が少しばかり上がったかと感じられると、市川砂嘴の末端である。 ここで推理を働かせるならば、「大洲」とは今の市川南の先の大洲のことではなく市川砂嘴のことではないだろうか。市川南方面へ行くのだとするといずれは佐倉道を横断しなければならないことになり、『葛飾誌略』のいう「裏通り」にならないからである。
ここからは市川砂嘴上となり、方角も東西に変わる。左側の墓地がこの付近の最高地点になる。墓地の地面は砂地で、市川砂嘴のかつての様子を想像することができる。 この先は市川小学校になってしまって道がないが、ずっと起伏が続いていた頃もあったのだろうと思いながら、砂嘴北麓にあたる道を迂回する。 実は、この先市川砂嘴上を東西に歩ける道はまったくない。大門通りなどから、それらしい道を見つけて入り引き返すというだけになる。それでも、電柱の名前に残る古い字名を見つけて、大発見をした気分を味わうのは楽しい。
地蔵山がこの付近で市川砂嘴の面影を最も残すが、ここも南側の千葉街道から入ることになる。 地蔵山の墓地入口前を東に出て南に進むと、コースの起点「青面金剛」に戻る。 (おわり)
(2003年12月5日)
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■∈市川の「みち」あれこれ<1>∋■ 案内人・斎藤喜一
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古い時代の道の話が続いたので、今回は現在、市川市を通る道路について述べたい。
市川市の道路は高速道路の湾岸道路と東関東道路、国道の14号と357号、464号。さらに県道の十一路線と市道なであるが、意外に知られていないこともある。
高速道路について、日本道路公団の東関東自動車道(水戸線)と首都高速道路公団の湾岸線が開通したのは市川市通過分でそれぞれ、昭和五十七年四月二十七日。
国道について、14号は道幅などこそ違え、江戸時代以前からの古い街道であり「水戸佐倉道分間延絵図」(1806年)で推定すれば、道幅は三・五−四・五メートル程度であったといわれる。国道路線の始まりである明治十八年当時、千葉県にたった二路線しかなかったうちの一つである。もう一つは松戸市を通る現在の六号線であった。
そこで国道14号の経過について触れてみる。明治十八年には国道13号と認可され、大正九年には国道七号となり、昭和二十七年には一級国道14号となっている。(現在は一級と二級の区分はない)。
昭和三十九年の一般国道14号は東京・日本橋から千葉市中央区登戸に至る三九・五キロの路線である。ちなみに国道357号は湾岸道路と併行しており、千葉市美浜区稲毛海岸から、横須賀市夏嶋町に至る五二・七キロである。国道464号は成田市から市川市大町を通り松戸市に至る四六・九キロの路線である。
「京成電鉄五十五年史」のなかから、路線バスについてみてみると、トラック業をやっていた島根喜右衛門が、王子バスから中古バス二台の払下げを受け、昭和二年国府台−船橋駅前間に初めてバスを走らせた。三十−六十分に一回の運行でありほとんどがワンマンカーであった−というのも興味深い。砂利道をのんびりと走る中古バス、松林が豊富にあった風景を想像するのも楽しい。
鉄道省「全国乗合自動車総覧」によれば「県道一号線の松戸−市川間のバス開通は大正十二年」とさらに古い時代のことであり、軍都国府台を控え、乗客もかなり多かったのでは−と想像する。 (つづく)
(2003年12月19日)
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■∈市川の「みち」あれこれ<2>∋■ 案内人・斎藤喜一
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県道について記すと十一路線の一覧は別表の通りである。
有料道路として昭和四十六年十月二十九日に開通した「市川松戸有料道路」は、平成十二年十月一日から無料となった。
一方、県道1号線は、国府台に軍隊が置かれた当時から、大変重要な道路で、真間山下から北は旅団坂といわれていた。また、江戸川よりの新道ができる昭和五十二年までは、現京成国府台駅前のせまい道が県道であった。
202号線は、停車場線とは大変古めかしい路線名であるが、まだほかにも下総中山・船橋などにこの種の名称を見かける。
JR本八幡駅前から国道14号までの一二四メートルであるが、年配者には懐かしい名称である。
舗装道路になったのはいつかといえば、我が国の道路の本格的なアスファルト舗装は、品川区北品川から横浜市神奈川区青木町までの約一七キロが、大正十五年に完成している(道路整備促進期成同盟会全国協議会発行冊子による)。
国道14号(当時は7号)については昭和六年、小岩−中山間で瀝青(アスファルト)コンクリート舗装工事を行ったとの記録(註)がある。
(註)
「建設省関東地方建設局千葉国道事務所」昭和五十八年十月発行の『千葉国道二十年史』のなかに引用されている当時の内務省が記録した工事概要の記録のなかから、興味のある事項を拾ってみる。
▽軟弱地盤対策
この区間は、概ね平坦にして線形良好なれども幅員狭隘砂利道なるをもって、路面の損傷著しく軟弱地盤には、一二センチのコンクリートの上に六センチのアスファルト舗装を施行した−とある。
市川・中山地域は車道八メートル、両側一・五メートルを歩道として、ほかは概ね幅員一一メートルに施工した。
なお、現在の計画幅員は一六メートルだが、まだ部分的にはこの幅員となっていない区間が多い。
▽失業対策事業
昭和初期の世界的不況の波のなかで、失業対策として道路事業が重視され、併せて産業振興を図る目的で、道路改良事業が実施された。
労務者は職業雑多な失業者で、まったく土木工事の就労に耐えられない者もいたので、多数の人員を要し、工期・予算面で悩まされた。
次に県道の本格舗装は、概ね昭和三十年代から同四十年代にかけてのようであるが、詳細は不明とのことであった(葛南土木事務所談)。
最後に付け加えたい。人・物が移動する「みち」は、古代から人間にとって生活そのものといってもよい。これらを巡るさまざまな歴史を調べてみるのも、大いに興味のあるところである。 (おわり)
(2004年1月1日)
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市川市の北西に位置する柏井三丁目あたりに、かつて「浜道」という名の字があった。またこの付近には浜道橋と称する橋が大柏川に架かっており、県道船橋・松戸線(9号)がその上を走っている。
浜道とは浜へ行く道との意であり、「浜道」という字名のあるこの場所は浜へ至る道の重要な地点であったのであろう。それでは「浜」とはどこを指すのかということになるが、恐らく、法典・西夏見を通って至る船橋か、若宮を経ての中山二子浦あたりかと思われる。
市川市教育委員会編『市川−市民読本−』では、『更級日記』の著者である菅原孝標の女は、上総から都へ帰る順路として下総「まっさと」(松戸)へ至るのに、船橋から鎌ヶ谷を経てこの「浜道」を通ったものと推測している。
また、浜道には平将門や源頼朝が通ったとの伝説も残されている由であるが、浜道橋の袂、南大野にお住まいの板橋徳治氏から伺った話によれば、日蓮上人が通ったとの言い伝えもあるとのことである。
安政五年(1858)刊行の『成田参詣記』にある「日蓮上人土岐常忍が船へ便船を乞ひて鎌倉より中山に到りり給う図」(下図参照)からは中山に船着場があったことが知れ、文化七年(1810)に書かれた『葛飾誌略』の「勝間田の池」の項には「一、下り所の池。此溜をいふ也。是は昔、日蓮上人房州より佛法のために来たり、此池より船に乗りたりといふ。昔は此所より堀江村迄渡し有り。又鎌倉迄出勤の武士の舟路なりといへり」とあり、現在の船橋市西船五丁目の勝間田公園辺りにあったという「勝間田の池」も、かつては東京湾内の船着場であったことを伝えている。 こうしてみると、中山二子浦あるいは船橋の港と鎌倉との間を行き来しつつ、この地で布教に努めた日蓮が、この浜道を通り、大野方面にまで教えを広めていったであろうことが想像される。
大野の台地上には、武士であり日蓮の信者であった曽谷教信が、建治三年(1277)安国寺から移って建てたという法華経寺があり、またこの近くの奉免には、日蓮上人の加持祈祷のお陰で病が治った後深草天皇の皇女常盤姫が、建長七年(1255)に開創したといわれる安楽寺があり、曽谷には、曽谷教信が文応元年(1260)、日蓮に帰依して自らの館の傍らに建てたという安国寺がある。更に少し離れて柏井には、日蓮の許しを得て、はじめて太鼓を用いて題目を唱えたという伝えのある、建長六年(一二五四)創建の唱行寺が存在するなど、この辺りには日蓮ゆかりの寺院が広がっており、まさに日蓮上人が熱っぽく教えを説き歩いたところと思われてくるのである。
(2004年1月16日)
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■∈庶民の道・成田道を見て歩く<1>∋■ 案内人・白鳥章
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江戸時代において、「成田道(街道)」は、本来、佐倉道(千住―新宿―小岩―市川関所―八幡宿―船橋宿―大和田宿―臼井宿―佐倉―酒々井宿―成田山)のことであったが、文化文政期のころから盛んになった成田参詣にともない、成田道が通称となった。現在の国道14号と296号である。
今回は、そのバイパス(裏街道)となるもう一つの成田道を見て歩きたい。この道は、江戸(日本橋小網町)から船に乗って本行徳の河岸で陸に上がり、妙典、田尻、原木、二俣を経由して、海神で本来の佐倉道に合流するルートである。これは、江戸からの近道で、一般庶民の道であった。
まず、地図を片手に、本行徳からスタートしてみよう。
旧行徳街道を北上し、徳願寺前の寺町通りを東に直進すると市川浦安線と交差し、行徳小学校の北側に出る。さらに左折し直進すると江戸川放水路(大正九年完成)に突き当たる。残念ながら、この放水路の完成により、成田道はここで分断され、現在は、行徳橋と新行徳橋が代わりをつとめている。
今回は、行徳橋を渡り、T字路を右折して、川沿いに県道船橋行徳線を歩く。さらに、新行徳橋の橋脚の下をくぐり、しばらくすると右に枝分かれする細道にさしかかる。この細道の最初の十字路に「橋楽橋」というりっぱな石碑が建っている。実は放水路で分断された成田道は、ここで妙典とつながっていたのである。
この「橋楽橋」の表面には次のように刻まれている。
「常州信太郎江戸崎瀬尾権六三男 橋楽橋 九十六箇(か)所之内 江戸浅草花川戸町伊勢屋宇兵衛掛之 世話人 田尻村 名主 善右衛門」
さて、橋を架けた伊勢屋宇兵衛は、いかなる人物なのか。鈴木善二男氏の調べによると安永七年(1788年)に常陸国江戸崎で生まれ、浅草花川戸で醤油(しょうゆ)問屋を営んでいたらしい。安政四年(1857年)に没するまで、関東一円に百の橋を私費で架けたと言われており、「橋楽橋」は、九十六番目の作となる。
このあたりから二俣にかけて、旧道の面影が色濃く残っており、旧家や神社・寺が実に多い。成田道を少し南にそれた所(東西線・原木中山駅の南方)に「高谷」という地名がある。地名のとおり、周囲より小高い砂丘地帯となっている。ところで、この地から幕末に力士が誕生していることをご存じだろうか。増位山大四郎(後の横綱六代目境川浪右衛門)である。生家の前に市川市教育委員会の設置した案内板があるので立ち寄ってみよう。
次回は、原木中山駅から二俣を経由し、海神まで見て歩きたい。
(2004年2月6日)
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■∈庶民の道・成田道を見て歩く<2>∋■ 案内人・白鳥章
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高谷から原木中山駅に戻り、成田道を東に進むと、右側に信篤公民館が見えてくる。ここはかつて、市川市立信篤小学校があった地である。昭和五十三年に数百b南に移転し、今に至っている。
公立学校は、普通、地名から学校名を決めるが、本校は事情が異なる。明治二十九年、原木と高谷の村境に尋常小学校を建てる際、校名をどうするかでなかなか決着がつかなかった。そこで初代校長大畑サ(つとむ)先生が、論語の中にある「篤信向学 死守善道」から二字をとり、「信篤」に落ち着いたという経緯がある。
公民館を後にし、数分歩くと、左に日枝神社がある。さらに進むと、同じく左手に原木山妙行寺が見えてくる。日蓮宗の寺で、天文七年(1538)に円僧院日進上人によって開山された。
宝暦十二年(1762)に、中山法華経寺の安世院が火災にあった際、火中から取り出した「日蓮大菩薩板御影」が本寺に納められ、後の寛政三年(1791)の高潮でも難を免れ、今も「火伏せの御影」として信仰を集めている。 なお、本寺は明治六年(1873)に信篤小学校の前身である行徳小学校原木分校が置かれていたことが知られている。
再び成田道に戻り、二俣に向かう途中、真間川を渡る三戸前橋に出る。
この真間川は、大正時代に開削整備された放水路で、「新川」(国道14号の北側では、「境川」)と呼ばれていた時期があった。
歩くこと数分で京葉道路の陸橋(原木IC)を渡り、国道14号に直進する道と右に分岐する交差点に出る。右折すると成田道である。すぐに、二俣の庚申塔(寛文六年・1666)と青面(しょうめん)金剛文字塔(文政六年・1823)の道標が目にとまる。後者の石塔の右側面には、「左舟はしミち」とある。
道なりに進むとJR西船駅の南口を通過する。この周辺は区画整理のため、旧道の面影はすっかり消えている。しかし、近世から明治期まで、このあたり一帯の沿岸は、製塩業が盛んな地であった。「二俣や いそわの真砂 つきるとも 塩焼く煙 たゆる日ぞなし」(『三峰山道中記図絵』
明治四年)という歌が往時の風景を彷彿とさせてくれる。
成田道と佐倉道の合流地点は、船橋市海神である。成田道は現在、国道14号の陸橋下をくぐり、出た所に、念仏堂がある。
堂の入り口に元禄七年(1694)建立の道標がある。元々近くの三叉路にあったのをここに移設したという。また、堂外の木戸には、地蔵堂(享保五年・1720)と庚申塔(寛延二年・1749)がひっそりと建ち並ぶ。成田道を往来した旅人らが、道中の安全を祈願した姿が目に浮かぶ。
なお、堂内の墓地には、幕末に起こった戊辰戦争(市川船橋戦争)の戦死者を葬った墓がある。
(2004年2月20日)
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■∈水戸佐倉道分間延絵図から・松戸街道<1>∋■ 案内人・松岡博子
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松戸街道(県道1号線)は、千葉街道(国道14号線)の市川広小路を起点に、国府台、矢切を経て、小山の松戸二中前の水戸街道(国道6号線)のところで終わる、市川の重要な足となっている道である。
江戸時代「松戸道」といわれたこの道は、本街道ではないが、幕府に重要視されていたのではないかと窺(うかが)える事実がいくつか見える。今回は、江戸時代の松戸街道の様子を、道中奉行が纏(まと)めた『水戸佐倉道分間延絵図』から推察してみよう。
道中奉行所は、五街道とそれに付随する街道の支配・管理を掌(つかさど)ったが、脇往還であった水戸道と佐倉道からなる水戸佐倉道の新宿(現葛飾区)・松戸宿・八幡宿も道中奉行所の管轄下にあった。文化三年(一八〇六)に『水戸佐倉道分間延絵図』が完成しているが、絵図には松戸宿、八幡宿を結ぶ松戸道筋も描かれており、市川関所の高札場や周辺に民家が多く立ち並ぶ様子、弘法寺の台地下には今は現存しない「坊」も数多く見える。朱印地であった総寧寺や弘法寺、国分寺の境内の中も詳しく、当時の繁栄ぶりを伝えている。
水戸道は、千住宿(現足立区)、新宿、金町松戸関所、松戸宿を経て水戸に至る道で、奥州や常陸、下総などの藩が参勤交代に利用した。佐倉道は、新宿で水戸道と分かれ、小岩市川関所を通り、現千葉街道の道筋を八幡宿、船橋宿を経て佐倉に至る房総の参勤の道でもあった。
市川番所(一六一六年設置)が市川関所に昇格したのは、佐倉道の八幡宿に至る道が官道となった元禄十年(一六九七)頃(ころ)とされており、金町松戸関所、行徳街道の今井の渡しと同様、「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まった。
徳川家康は、江戸へ入府した翌年天正十九年(一五九一)に行徳の塩浜新田開発奨励のために三千両(又は一千両)を下付しているが、同年、弘法寺に三十石の朱印状を与えた。以来、弘法寺は歴代将軍家から寺領を安堵(あんど)されている。将軍吉宗や水戸光圀も訪れたという伝承話もあり、家康の次男で結城秀康の五男・松平直基と側室、並びに母の墓標も建てられており、徳川家とは縁の深い寺である。紅葉の名所でもあった。
総寧寺は、将軍家綱が寛文三年(一六六三年)に関宿から国府台に移転させたもので、栃木県の大中寺、埼玉県の龍穏寺とともに禅宗曹洞派の関東僧(総)録三ヶ寺の一つにあたり、歴代の住職は十万石相当の格式をもっていた。総寧寺が江戸参勤の通路上に配置されたことについて、『市川の歴史を尋ねて』(市川市教育委員会)は「明らかに大名監視の目的があった」と述べている。
市川市域は早くから江戸庶民の行楽地として知れ渡り、様々な人が訪れ、社寺や遺跡巡りの紀行文などを数多く残している。安政五年(一八五八)に『成田参詣記』を著した中路定俊・定得は、この書の「真間国府台略図」に、鴻王明神(現国府神社)の脇の道、これは今の真間下バス停そばの弘法寺の裏門へ向かう切り通しを指しているのだと思うが、この道を途中でカギ型に北へ折れ松戸道へ繋がる、現在とは違った道を描いている。 実は、松戸街道は明治初年に道筋を大きく造り替えているのである。次回は、この道に何が起こったかをお話する。 (つづく)
(2004年3月12日)
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■∈囚人が山を切り開いて造った道・松戸街道<2>∋■ 案内人・松岡博子
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幕府の直轄領として栄華を誇った総寧寺は、明治維新によって広大な寺領を失い、小岩市川関所も明治二年に廃止されるのであるが、明治新政府の行った政策や文明開化の波は国府台の住民にも大きな変化をもたらした。今回テーマにする、松戸街道の道筋が明治に入って大きく造り替えられたという話も、やはり政策の一環として行われたものであった。
明治七年に文部省は、国府台に大学校の設立を決め、台地の半分以上の土地二十四町歩を取得した。これにより、法皇塚古墳(現東京歯科大内)の上に祀られていた国府台村の鎮守天満宮は総寧寺の北側(現在地)へ移転。村の農家三十四戸のうち十七戸が居宅移転料として普段手にしたこともない大金を得たのである。しかしこの計画は、高台のため水の便が悪い、鉄道もなく交通の便が悪いという理由で断ち消えとなった。
その後陸軍省は、東京・有楽町周辺に散在していた教導団の各隊が編成を増やしたため手狭になり、日比谷での演習も不便を感じるようになっていたことから、この土地への集結を決定した。教導団は「陸軍諸兵ノ下士ニ任ス可キ者ヲ教育培養スル兵団ニシテ、其兵種ヲ区別シ左(砲兵、工兵、歩兵、騎兵、輜重兵、本楽及喇叭)ノ六科トスル」(概則)学校であった。
明治初年の頃の松戸街道は、『成田参詣記』の「真間国府台略図」に描かれているように、市川四丁目の坂を北へあがって、弘法寺の裏門へ向かう切り通し道を途中カギ型に北へ折れ、和洋女子大の正門辺りで街道筋と繋がっていたと思われるのである(自説)。急坂で道幅も狭く大型車の通行には困難であったのだろう。政府は教導団移転にあたり、千葉監獄所に服役していた囚人を連れて来て、山を切り開かせ、現在のような道筋を造る工事につかせたのである(伝承)。その時総寧寺は牢屋と化し、寺の北側にも獄舎が建てられた(監獄山)。軽犯罪人には青い着物を、重犯罪人には赤い着物を着せて、足は鎖でつないで、麦と米が半々のむすび一個の食事で、一日中苛酷な労働を強いた。今と違って全てが人力の作業であった。死人も多く続出、引き取り手のない死体は駒形墓地(現堀之内二丁目)へ葬ったという。松戸街道の、市川四丁目の坂から和洋女子大の正門辺りの数百メートルほどは、囚人が命懸けで山を切り開いて造った道である。
明治十八年五月、各兵営の工事が進められる中、歩兵大隊がまずやって来た。教導団病室も真間山弘法寺内に仮設された。同じ年、教導団病院が現在の里見公園内に建設されるが、ここは少し前まで総寧寺の伽藍が並ぶ境内の中だった。遡る明治十三年の新聞記事に、寺領を失った総寧寺が荒れるにまかせていたこと、存続措置が講ぜられていたことが記されている。本堂はこの後、後ろ(現在地)へ引っ張って行かれた。
明治十九年に入ると相次いで兵営が完成、砲兵大隊、工兵中隊、騎兵中隊、教導団本部の順で移って来たが、これら兵営は現在の和洋女子大や東京歯科大など学校群の中に建てられ、スポーツセンター(この中に祀られていた六所神社は須和田の現在地へ移転)と、国立国府台病院を合わせた場所には練兵場が造られた。
教導団は明治三十二年十一月に閉鎖するが、この間、優秀な下士官を数多く輩出した。引き続き野砲連隊の第二旅団司令部が置かれるが、その後も変遷を繰り返しながら昭和二十年の敗戦になるまで、松戸街道沿いは「軍隊の町」として栄えていた。(終わり) (2004年3月19日)
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